著者
松村 昌家 Masaie MATSUMURA
出版者
大手前大学・大手前短期大学
雑誌
大手前大学人文科学部論集 = Otemae journal of humanities (ISSN:13462105)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.103-120, 2003

幕末にヨーロッパ諸国に向けての使節団派遣のお膳立てをした駐日英国公使オールコックは、その準備の過程で、外交問題とは直接に関係のない二つのプランを練っていた。一つは、一八六二年五月一日に行われる第二回ロンドン万国博覧会の開会式典に、使節団の代表数名を送りこむこと。そして万博会場に日本製品を展示することによって、日本に対するイギリス側の関心を引きつけること。二つとも日英交流史における画期的な出来事であったにもかかわらず、従来あまり注目された形跡がない。本稿では、六二年万博開会式典に臨んだ七名の使節団代表者たちの、文字どおりの異国体験に注目するとともに、この日のパフォーマンスとして仕組まれた「ピクチャー・ギャラリーズへの大行進」が、いかなるものであったかを解き明かす。特に「ピクチャー・ギャラリーズ」は、イギリスにおける万博文化史のなかで、きわめて重要な意味をもっているのだ。日本から送られた展示品は、大部分がオールコックの蒐集になるものであったとはいえ、万博における日本の初参加であったことに変わりはない。これを使節自身はどう見たのか、そしてイギリス側からの評価はどうであったのか。やはり見逃してはならない興味深い日英交流史のひとこまであったのである。
著者
小田桐 弘子
出版者
大手前大学・大手前短期大学
雑誌
大手前大学人文科学部論集 (ISSN:13462105)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.1-16, 2005

もし、「ミニヨンの歌」が「レモンの木は花咲き…」ではなく原詩の通りKennst du das Landの直訳ではじまっていたらどうであったろうか。「レモン」の訳語によって日本近代詩史が始まったことは既に先学により、実証されているところである。小論は、このレモンからの連想である梶井基次郎の「檸檬」をつないで、私観を述べたものである。
著者
平川 祐弘 Sukehiro HIRAKAWA
出版者
大手前大学・大手前短期大学
雑誌
大手前大学人文科学部論集 = Otemae journal of humanities (ISSN:13462105)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.107-126, 2004

平川はかねて「盆踊りの系譜-ロティ・ハーン・柳田国男」と題して文学的な連鎖反応としての盆踊りの記述をたどった (平川『オリエンタルな夢』所収) 。ロティのバンバラ族の輪舞記述に感心したハーンは、それを英訳し、さらにはロティのような目付きで山陰の盆踊りも見、記録したのである。そのような文学史的な系譜には筆者の主観的な思い入れがまぎれこむ可能性がある。ハーンに刺戟された柳田国男が陸中小子内で書きとめた盆踊りの解釈も、川田順造の調査によれば、柳田の思い入れがあるようだ。またハーンの盆踊り記述を読み、自分も盆踊りを見て書いたモラエスの「徳島の盆踊り」解釈にも観念的な先入主が混じっているのではないか。日本人が死者たちと親しい関係にあるとモラエスは信じた。ハーンもモラエスも盆祭りを festival of the dead として見た。ところでロティやフランシス・キングが盆祭りを自分の物語のセッティングとして用いた異国趣味の作家であったのに対し、モラエスにとって盆踊りは自分がその輪の中にはいることを得なかった「死者の祭り」であった。その意味ではモラエスの『徳島の盆踊り』はアンチ・クライマックスで終る作品である。その拍子抜けした読後感をハーンの作物の読後感と対比すると、ハーンの特色が逆に浮び上がる。ハーンには自分は日本人の心の世界へ入り得たという喜びがあった。ハーンの文章を文学たらしめているのは、そのようなハーンの自信と喜びの中にひそんでいるのではあるまいか。
著者
田中 紀子
出版者
大手前大学・大手前短期大学
雑誌
大手前大学人文科学部論集 (ISSN:13462105)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.A81-A92, 2003

Seven (1995) では現代の大都市を舞台として、残虐を極めた連続殺人事件が起きる。本稿では映画と小説の両方を取り上げ、そこに描かれた都市の諸相をおさえ、また小説のみに扱われている都市と田舎の対比に着目する。作品の主人公は、犯人捜査の任務に就いた二名の警察官の片方、生来都市で暮らしその暗黒面を知り尽くしているベテランの警部補である。彼と、彼とは対照的な人物である田舎町から移ってきたばかりの若手の刑事、その妻、そして殺人鬼の性格と生き方を明らかにし、彼らをめぐる人間関係を探ってゆく。さらに、重要な問題提起と考えられるErnest Hemingway の For Whom the Bell Tolls (1940) の中の一節、"The world is a fine place, and worth fighting for" がどのように作品に導入され、この一節が現代都市においてどのような意味を持ち、作品の結論にどのように反映されているのかを見てゆく。
著者
張 起灌 Kigwon CHANG
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学人文科学部論集 = Otemae journal of humanities (ISSN:13462105)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.A61-A76, 2006-03-31

17世紀以後の韓国社会、当時の朝鮮王朝は、都市の発達に伴って近代的な初期資本主義社会へと徐々に移行していく。朝鮮王朝において封建社会の基盤を成していた身分制度と地主制度を中心に、その崩壊の過程について考察する。また朝鮮時代後期の社会変動に伴い、伝統仮面劇「タルチュム」の世界にどのような変化が生じたかを分析する。厳格な身分制度のもと長い間抑圧されていた民衆意識は、封建社会の解体とともに目覚め、成長していく。その過程でタルチュムの世界においても、地域限定的・閉鎖的な構造を持つ農村型タルチュムから、演戯地域や参加者の面で開放的な構造を持つ都市型タルチュムへと変貌していくことになる。つまりタルチュムは農村の祭儀から民衆芸能へと変容し、現在のタルチュムとほぼ同一の形態を持つ「都市タルチュム」が成立するのである。
著者
古田 榮作
出版者
大手前大学・大手前短期大学
雑誌
大手前大学人文科学部論集 (ISSN:13462105)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.35-71, 2003

「方廣佛華嚴經」の「入法界品」は善財童子の求道の旅を描き、さまざまな善智識と出会うことによって彼の信仰の深まり、即ち修行者としての成熟を位置づけるものである。佛道を窮めようと発心した善財童子は、文殊師利菩薩と出会い、その素質と性向の良さから、この童子は普賢行を修めるべき人物とされ、善知識を訪ねて普賢行を達成するよう勧められる。最初に文殊師利菩薩から功徳雲比丘に教えを受けるよう勧告されて彼を訪ねる。功徳雲比丘から善財は「普門光明観察正念諸佛三昧」についての教えを受け、「憶念諸佛」を学び、功徳雲比丘は修行を達成するためには、海雲比丘を訪ねるよう勧められ、海雲比丘を訪ね、海雲比丘に「普眼經」を学び、思念することで事物のありのままの状態を捉えることを学び、更なる修行のために善住比丘を訪ねるよう勧められる。そこで善財は善住比丘を訪ね、「無礙法門」を教えられ、一層の修行のために良醫彌伽への法門を勧告される。良醫彌伽を訪ねた善財は彼から「菩薩所言不虚法門」を教えられ、更に信仰を深めるために解脱長者を訪ねるよう勧められ、彼を訪ね、「如來如來無礙法門」を教えられることになる。善財の修行は十地の第一段階の「信」にあるが、善智識の教えの中で「認識」の深まりがあり、信仰がより深化されていくことが明確になっていく。
著者
厳 安生
出版者
大手前大学・大手前短期大学
雑誌
大手前大学人文科学部論集 (ISSN:13462105)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.1-22, 2006

本論文はほぼ同じ頃にできた表題ニテキストに対する精読と比較を通して日中両国が開けた世界に面した当初に取った姿勢、見せた差異ならびにしばしの連動風景を考察するものである。分析例に両者の「博覧会」と「営業力」に関する記述および効果を取り上げる。英国などで万国博覧会という産業文明の新制度に開眼し「進歩」史観を刺激された岩倉一行は帰国後すぐ同制度の導入に着手、そして一世紀後の大阪万博につながっていくのだが、それと上海万博(二○一○)との四十年の隔たりは十九世紀後半以降の両国の近代化に見られる時間差にほぼ対応している。その間の、始めは同じ出発の時点に立ち同じ東洋的「先知先覚」の自負に燃えて且つお互い遜色のない見聞や見識を示していながら、郭のそれが国の開化と進歩に何ら役立つことができなかったのは何故か。一方の「営業力」に関しても岩倉使節団がそれを考察の軸にして得た諸々の啓発が後の「殖産興業」に大きな役割を果した傍に、郭による同様の考察と先見性に富む一連の建言は本国の「営業力」開発につながるどころか、建言者本人の自滅ひいて全発言の一世紀余の埋没を招くほかに効果はなかった。この事例、後世に尽きない思考を残すと同時に東アジア比較文化史を研究する上でも恰好なスタディ・ケースになろう。
著者
田中 紀子 Noriko TANAKA
出版者
大手前大学・大手前短期大学
雑誌
大手前大学人文科学部論集 = Otemae journal of humanities (ISSN:13462105)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.A81-A92, 2003

Seven (1995) では現代の大都市を舞台として、残虐を極めた連続殺人事件が起きる。本稿では映画と小説の両方を取り上げ、そこに描かれた都市の諸相をおさえ、また小説のみに扱われている都市と田舎の対比に着目する。作品の主人公は、犯人捜査の任務に就いた二名の警察官の片方、生来都市で暮らしその暗黒面を知り尽くしているベテランの警部補である。彼と、彼とは対照的な人物である田舎町から移ってきたばかりの若手の刑事、その妻、そして殺人鬼の性格と生き方を明らかにし、彼らをめぐる人間関係を探ってゆく。さらに、重要な問題提起と考えられるErnest Hemingway の For Whom the Bell Tolls (1940) の中の一節、"The world is a fine place, and worth fighting for" がどのように作品に導入され、この一節が現代都市においてどのような意味を持ち、作品の結論にどのように反映されているのかを見てゆく。
著者
木下 りか Rika KISHITA
出版者
大手前大学
雑誌
大手前大学人文科学部論集 = Otemae journal of humanities (ISSN:13462105)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.A49-A59, 2006-03-31

語基を同じくし意味的な対応を持つ名詞と形容詞は、その意味を大きく変えることなく互換可能である。形状を表す「丸のN」「丸いN」、「四角のN」「四角いN」もその例である。このような名詞と形容詞の使い分けを見ると、名詞「丸のN」「四角のN」は、「コンテクストに存在するほかの形状との対比の中で、Nの性質(形状)について述べる」場合に用いられると考えることができる。「コンテクストに存在する他の形状との対比の中で」ということは、「丸のN」や「四角のN」における「丸」や「四角」が、丸や四角のモノを指示する機能を持つことを示している。このように考えることで、「丸のN」や「四角のN」が制限的修飾として用いられるが非制限的修飾には馴染まないこと、また、非制限的修飾であっても一定の文脈が与えられれば、すなわち客観的定義機能を持つ場合であれば用いることができることなど、これらに特有のふるまいが説明可能となる。
著者
丹羽 博之
出版者
大手前大学・大手前短期大学
雑誌
大手前大学人文科学部論集 (ISSN:13462105)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.15-29, 2004

第一章では、乃木希典「金州城下作」と唐代の李華の「弔古戦場」の用語・表現の類似を指摘し、乃木は『古文真宝集』などに収められている名文を参考にして作詩したことを考察。第二章では、武島羽衣作詞「花」の二番の歌詞は『源氏物語』「源重之集」の和歌を利用したものであることを指摘。また、「見ずや〜」の表現は漢詩の楽府体の詩に多く見られる表現を応用したことを指摘。第三章では、「仰げば尊し」の歌詞も『孝経』や『論語』の文章を下敷きにしていることを指摘。
著者
大井 映史
出版者
大手前大学・大手前短期大学
雑誌
大手前大学人文科学部論集 (ISSN:13462105)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.A55-A67, 2004

本論は死の間際に想起される思い、もしくは夢を描くアメリカ作家の作品を任意に三つ取り上げ、死に向かい合う主人公たちの生の最後の在り様を論じようとするものである。人間の無意識、すなわち本能世界は、差し迫る死の現実に対して、何を語り得るのか、語り得ないのか。いずれ死すべき人間は、生死の境をさ迷いながら、如何に死を準備して何を契機に死を受け容れるのか。最終的には全て捨て去り、肉体の衣を脱いで、この世を去るのが宿命である。死の間際に改めて許される生は、無論、現実的な視覚の捕捉しうるものではあり得ない。それでも、そこに最後の生が有るのであって、いずれ人は皆、その世界に入るのである。この世の生は、死を生きることの中に確かめられるものなのだ。
著者
藤井 千年
出版者
大手前大学・大手前短期大学
雑誌
大手前大学人文科学部論集 (ISSN:13462105)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.A105-A131, 2005

この小論は公共図書館におけるボランティア活動の現況を紹介し、更には図書館ボランティアを核とした図書館業務の民間への委託に関するさまざまな問題を考察しようとするものである。公教育の一端を担ってきた公立図書館が、NPOをはじめ民間の一企業に運営の全般を委託することへの危倶・反論も当然大きなものがある。図書館の本来の使命を再確認する中で、図書館の民間委託問題を考察するものである。図書館学課程における授業科目との関連としては「図書館経営論」をはじめ「図書館サービス論」「児童サービス論」「生涯学習概論」などが関係するものと思われる。
著者
吉田 暁史
出版者
大手前大学・大手前短期大学
雑誌
大手前大学人文科学部論集 (ISSN:13462105)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.A113-A134, 2006

ネットワーク環境における主題検索研究に関しては、あまり顕著な進展はない。その中で、FASTという主題検索システムが登場した。LC件名標目表の豊富な語彙をほぼそのまま借用し、統語論的結合については簡略化したシステムである。LC件名標目表は、意味論的側面、統語論的側面の両方で、大きな問題を抱えている。本論ではLC件名標目表において、名辞の形、意味論的関係性、統語論的結号の各側面について検討する。次にFASTがどのような目的で、どのような経緯で出現したかを論じる。さらに上記それぞれの側面で、LC件名標目表をどのように継承し、LC件名標目表とどのように異なるかを調べる。最後にネットワーク情報資源の検索にとってあるべき姿を論じる。結論としては、(1)もはや事前結合索引にこだわるべきではなく、事後結合索引の方向に向かうべきである、(2)件名典拠ファイルは、語彙管理の部分と統語論的結合部分とに分離し、FASTはそのうちの語彙管理部分をLC件名標目表と共有すべきである、と指摘する。
著者
平川 祐弘
出版者
大手前大学・大手前短期大学
雑誌
大手前大学人文科学部論集 (ISSN:13462105)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.163-183, 2005

ハーンの『因果話』は松林伯円の『百物語』を基に英語で再話した怪談だが、嫉妬した女の手が、死後も相手にくっついたまま離れないという恐ろしい話である。ハーンは原作者と違って平和な風景の中で話を始めることで怪談の効果的な結びをきわだたせた。アイルランドの怪談作家ルファニュもThe Handという作品で白い手という身体の一部分の神出鬼没を描いたが、その手が出没する動機が説明されておらず、そこに読者の側の不満が残る。読者は怪談の中でも合理性のある話の筋を求めているからである。超自然的な現象であろうともハーンの『因果話』には女の嫉妬という動機があった。同様にモーパッサンのLa Mainにも復讐という動機が超自然的な、切断され、鎖に繋がれた手による相手の殺害を説明している。モーパッサンの『手』を読むと、その中に用いられた蜘蛛のイメージをハーンが『百物語』を再話する際にも用いたことが知られる。ちなみにハーンはモーパッサンの『手』の英訳者でもある。