- 著者
-
木村 正子
- 出版者
- 岐阜県立看護大学
- 雑誌
- 岐阜県立看護大学紀要 (ISSN:13462520)
- 巻号頁・発行日
- vol.17, no.1, pp.65-73, 2017-03
本稿はフロレンス・ナイチンゲールの自伝的エッセイ「カサンドラ」(1852)をフェミニズムの視座から読み解き、彼女が提示する「女性救済者」と「瀕死の女性」の二つのヴィジョンが意味するものを読み解くものである。 研究方法としては、まず「カサンドラ」における女性の苦境とその原因、そこからの救済の希求について考察し、次に彼女と同時代の作家、エリザベス・ギャスケルおよびジョージ・エリオットの作品に見られる女性の救済(者)のモデルを傍証として検証する。最後に、「女性救済者」および「瀕死の女性」のヴィジョンのゆくえを探るため、ナイチンゲールの「クリミア」以後の作品『看護覚え書』(1860)の中に「カサンドラ」の主張からの影響を吟味する。これによって、「カサンドラ」でのヴィジョンは本作品単体で完結するものではなく、以後の作品の布石となっている点が明らかになる。 『看護覚え書』でのナイチンゲールが精力的かつ能動的な姿勢を示すのに対し、「カサンドラ」での彼女は悲観的であり受身的な姿勢に甘んじている。彼女はヴィクトリア朝の社会慣習に縛られる女性たちの内なる叫びを代弁し、女性が「情熱、知性、道徳的行動」という資質を持ちながらもそれを活かせる場がないこと、そして女性を男性の支配下におく当時の社会システムを批判しつつも、他者による救済(女性救済者の登場)を希求している。だがその願いもむなしく、「カサンドラ」は唐突に「瀕死の女性」のヴィジョンを提示して作品を終えてしまう。<死>のヴィジョンの導入は救済の放棄を意味するのか、あるいはこの<死>は救済に結びつくのかという疑問が生じるが、彼女は明確な答えを示していない。そこでギャスケルとエリオットの作品から女性の救済(者)モデルを傍証として、ナイチンゲールのヴィジョンを考察すると、<死による救済>という解釈によって前述の二つのヴィジョンが繋がることがわかる。そして「カサンドラ」と『看護覚え書』との間テクスト性から、「カサンドラ」の<死>は、ナイチンゲールのクリミアでの活動の布石となるべきもの、すなわち因習に縛られた過去の自己の崩壊を表象するとも考えられ、後に彼女は『看護覚え書』に見られるような力強いボイスを得たといえる。