著者
大貫 挙学
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.128-140, 2016 (Released:2020-03-09)

本稿の目的は、D. コーネルの法哲学における「自由」について、社会理論的な再検討を行うことにある。 コーネルの提示する「イマジナリーな領域」という概念は、自分が何者であるかを自由に再想像できる「心的空間」を意味する。彼女は、フェミニストの立場から、リベラリズムにおける自律した「主体」という想定を否定したうえで、より根源的な意味での「(性的)自由」の擁護を試みている。「イマジナリーな領域」は国家への権利ともされているが、一方で彼女の議論は「心的」な側面のみに焦点を当てているとの指摘も受けてきた。これらの批判は、コーネルがアイデンティティの「脱構築」を強調しすぎていることに向けられている。 そこで本稿では、コーネル理論の再解釈を通して、「心的」な領域でのアイデンティティ再想像が、社会構想のあり方といかなる関係にあるのかを改めて考えたい。その際、J. バトラーの「パフォーマティヴィティ」概念がひとつの手がかりとなるだろう。コーネルとバトラーの比較については、これまでも研究がなされてきたが、本稿は、それらの議論を受け継ぎつつ、「イマジナリーな領域」概念を、社会秩序の「外部」を否定したものとして位置づけ直すものである。かかる作業によって、シティズンシップをめぐる「普遍性」と「差異」の問題にも新たな視点を提供できると思われる。
著者
権 永詞
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.76-88, 2011 (Released:2020-03-09)

本稿は、多様性の保護と画一化の促進というモダンデザインの二面性についての理解を援用することで、「生活の形」の創造としてのライフデザインの現代的な意味を考察している。1960年代に普遍的価値として追求された「生活の質」は、70年代中頃からは個人による「自己実現」を意味するようになる。既存の「良い生活」を示す定型は失われ、個人は「生活の形」を自ら探し求めなければならなくなる。 そこで必要とされたのがライフデザインという概念である。ライフデザインは、一方では個人を集団規範から解放して多様性を促進するが、他方では人々の生活を社会指標によって画一化・細分化された生活の部品の構築物へと変容させる。ライフデザインのこの二面性は、前者は集団からの解放という意味で、後者は断片化された人生を操作する主体の確立という意味で、個人の「自立」を規範化する。 だが、個人を「自立」へと駆り立てる規範としてのライフデザインは、個人の責任を過剰に追及するあまり現存する社会的不平等を個人のライフデザイン能力に帰してしまう危険性がある。そこには、ライフデザイン能力自体における不平等を問題化する視線が欠けている。本稿では、以上の課題を乗り越えるために個人史に着目したライフデザインの方法論の転換を示唆する。
著者
坂井 愛理
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.111-124, 2019 (Released:2020-03-09)

ケアの目的が患者の生を支えることであるならば、老いや麻痺を抱える身体とともにある苦悩や嘆かわしさは、ケアがかかわる重要な領域の一つである。その一方で、こうした身体のままならなさは、専門家の提供する技術を通しては完全に取り除くことができないものとしてある。では、患者は、病める身体のままならなさを、自らをケアする専門家に対してどのように訴えるのだろうか。本稿は、患者が訴えのために用いることが可能な方法を、訪問マッサージの相互行為を例に考察することを目的とする。施術中に患者が身体にかかわる問題を訴えたとき、施術者は、部位の特定、問題の是認と対処を行うことによって、患者の訴えを、施術の対象としてサービスの手順の中に組み込むことができる(問題の施術化)。患者による苦悩や嘆かわしさの訴えは、こうした施術者が進行する問題の施術化から、相互行為の展開を差別化することによって行われる。患者の抱える身体のままならなさが、サービスの対象となり得ないものとして訴えを分節化することによって記述されるのならば、マッサージによって解決可能な問題と、患者の抱える苦悩や嘆かわしさといった問題とは、訪問マッサージの場面において非対称的に存在していることになる。ただしこの非対称性は患者の語りや経験を抑圧するものではない。マッサージサービスの手順的進行性は、患者がままならなさの訴えを組織する際にリソースとして利用可能なものである。
著者
津田 翔太郎
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.70-82, 2019 (Released:2020-03-09)

本論は、自己の社会適合性を強調した多元的アイデンティティ論と、不適合性に焦点を当てた統合的アイデンティティ論の分断を乗り越え、今日的なアイデンティティを包括的に捉えうる理論の構築を目指す。アイデンティティ概念は当初、統合的な近代的自己が理想とされ論じられていたものの、社会状況の変化に応じて構成性や多元性が強調されるようになっていった。その一方で近年は、流動化が進展した社会から廃棄される不安や恐れの増大や、心・脳・生物学的身体などを参照する自己観など、統合的アイデンティティを志向する心性の台頭も指摘されている。 このような、多元的でありながら統合的でもあるアイデンティティを説明しうる視座として「自己物語論」、「身体論」、「多元的循環自己概念」が挙げられ、これらを参照すると今日的なアイデンティティは、身体を源泉とした「すでに自己構成した語り手」によって存立し、社会構造の流動化への適応度合いに応じて統合的/多元的性質を獲得すると考えられる。 この文脈における統合への志向性は、単に流動化に不適合な心性というだけではなく、他者関係の中でふいに立ち現れる、主体性に基づいた〈統合的アイデンティティ〉の萌芽として捉えることができる。しかしこの〈統合的アイデンティティ〉は、理想化された行為者が前提とされているために、現実社会においていかにそのようなアイデンティティが実現可能かについて模索していく必要がある。
著者
安部 彰
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.30-42, 2011

ケアにおける承認について考える。そのさい本稿はケアとパターナリズムの関係を軸にその考察を進める。ケアにおいて承認されるべきはケアされるひとの自己決定である、多くのひとがおそらくそう思っている。だがケアという相互行為は、いわばその構造的な必然として、パターナリズムとわかちがたくむすびついている。そしてそのパターナリズムは、ケアされるひとの「存在」を承認する場合、つまり自己決定がそのひとの「存在」の不可逆的な毀損をまねく場合には正当化されるといわれ、それは支持できるように思える。しかるに、まさにそうしたケースであるはずの「安楽死」を我々は容認することがある。とすれば、これは矛盾であるようにみえるが、「存在」理解を吟味すると、その消息があきらかになる。我々は快苦を「存在」のきわめて重要な契機と考えているのだ。だからその「存在」を承認するがゆえに「安楽死」に道をひらくことになるのだ。だが、そうしてみちびかれる帰結は、死の自己決定を認めることとおなじではある。かかる帰結の是非を本稿は問わないけれども、ケアにおける承認の問題をさらに追究するうえですくなくとも考慮にいれておくべき論点を最後に提起する。
著者
河合 恭平
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.106-118, 2010

本稿は、『人間の条件』においてアレントが展開した世界疎外に至る論理を考察し、そのうえで彼女の公共性論の再解釈を試みたものである。<br>考察された世界疎外の論理展開の要点は次の三点である。第一に、近代世界に生じたヒトの生命過程という内省的な円環は、その無世界性と必然性という性質と、両者の相補的な結びつきによって世界疎外をもたらしていたということが言える。第二に、〈仕事〉が、機械の製作によって生命過程を作り出すことを可能にしていたことが挙げられる。これにより、〈仕事〉は、自らの特徴を喪失させ、製作的世界を破壊してしまっていたのである。第三に、近代の歪曲された〈活動〉を挙げることができる。それは、コントロール不可能な過程の〈始まり〉というかたちで、〈世界〉を破壊に導くものとして〈現われ〉ていた。以上の考察によって、我々はアレントの公共性論における、公共性の困難と〈始まり〉への志向という葛藤に直面することになる。そこで本稿では、『人間の条件』で世界疎外が取り上げられた意図を〈理解〉という彼女の概念に着目して読み込むことによって、この葛藤の理由を明らかにし、それがアレントの思想に内在的なものであることを提示する。以上から、アレントの公共性論とは、公共性の困難とそれに対する〈始まり〉への志向という葛藤を含むものとして解釈することが妥当であると結論づけた。
著者
多田 光宏
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.89-100, 2011

社会を「一種独特の実在」とするエミール・デュルケムは、通常、創発主義的なマクロ社会学理論の代表的な人物と考えられている。だが彼の社会実在論的な主張の手がかりとなったのは、じつは個人心理学であった。彼は、意識の特性が脳生理学には還元できないこととの類比で、社会は個人には還元できないと考えたのだった。ただ彼の場合、類比以上の適切な裏付けは欠けていた。ニクラス・ルーマンによって展開された自己準拠的な社会システムの理論が、創発主義に理論的基礎を与えうる。コミュニケーションからコミュニケーションへの接続という社会システムの自己準拠性の指摘は、社会的水準の還元不可能性を明確にした。もともと自己準拠概念は意識哲学的な伝統を含んでおり、自己準拠的な社会システムの構想も、意識に関する知見を社会的領域に一般化した帰結だと考えられる。ただデュルケムとは違い、このシステム理論は意識哲学的な認識論までも社会システムに適用し、社会システムが固有の環境を独自に認識する主体だとしている。そのためこの理論は、デュルケムが社会を存在論的表象のもとで「モノのように」観察したのとは異なり、社会システムを自律的な観察者として観察するという認識論的課題を掲げている。社会システムとはいわば一種独特の観察者だということである。
著者
平本 毅
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.101-119, 2011

会話の中で一定のまとまりをもった話題上の話が展開し、その話題についての話が終了しうると参与者が指向している場所(話題の境界)には、「話題アイテム(名詞や名詞句で表象される話題)」が単体で、あるいは助詞を伴って置かれることがある。このような振る舞いを、本稿では「話題アイテムの掴み出し」と呼ぶ。本稿の目的は、「掴み出し」がはたす話題の管理上の仕事を会話分析により記述することである。「掴み出し」は、「呟かれた」ものとして聞くことが可能なように発される。そしてこの「呟き」が話題の境界において行われるために、「掴み出し」はそれ自体では次の発話スロットにたいして順番取得組織上の制約も、行為連鎖組織上の制約も課さない。その代わりに、実際には話題が途切れうるような箇所で、「掴み出し」に続けて①[無標な発話]を置くことにより、スムーズに話題が「継続」したかのような装いが、②[掴み出された話題アイテムの繰り返し+無標な発話]を置くことにより、スムーズに話題が「共一選択」されたかのような装いが、③[掴み出された話題アイテムの繰り返し+有標な発話]を置くことにより、先行発話に含まれていたアイテムを「接線的共一選択」したような装いが与えられる。言いかえれば「掴み出し」は、「潜在的に言及しうる話題」(Schegloff& Sacks 1973: 300)を会話にフィットさせるための足がかりを築く役割を果たしている。
著者
平本 毅
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
no.5, pp.101-119, 2011