著者
塚本 明 Tsukamoto Akira
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.15-34, 2010-03-28

「神仏分離」の歴史的前提として、近世の伊勢神宮門前町、宇治・山田における神と仏との関係を分析した。仏教を厳しく排除する原則を取る伊勢神宮であるが、その禁忌規定において僧侶自体を嫌忌する条文は少ない。近世前期には山伏ら寺院に属する者が御師として伊勢神宮の神札を諸国に配賦したり、神官が落髪する事例があった。神宮が「寺院御師」を非難したのは山伏らの活動が御師と競合するためで、仏教思想故のことではない。だが、寺院御師も神官の出家も、幕府や朝廷によって禁止された。宇治・山田の地では、寺檀制度に基づき多くの寺院が存在し、神宮領特有の葬送制度「速懸」の執行など、触穢体系の維持に不可欠な役割を果たしていた。近世の伊勢神宮領における仏教禁忌は、その理念や実態ではなく、外観が仏教的であることが問題視された。僧侶であっても「附髪」を着けて一時的に僧形を避ければ参宮も容認され、公卿勅使参向時に石塔や寺院を隠すことが行われたのはそのためである。諸国からの旅人も、西国巡礼に赴く者たちは、伊勢参宮後に装束を替えて精進を行い、一時的に仏教信仰の装いを取った。神と仏が区別されつつ併存していた江戸時代のあり方は、明治維新後の「神仏分離」では明確に否定された。神仏分離政策は、江戸時代の本来の神社勢力から出たものではなかった。
著者
武笠 俊一 Mukasa Shunichi
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.45-58, 2010-03-28

「三輪山惜別歌」と呼ばれている、額田王の長短歌二首と井戸王の歌一首は、数多い万葉集の中でも難解な歌の代表で、長い論争の歴史がある。問題は額田王の二首よりも、それに「和した」とされる井戸王の歌の難解さにある。額田王の二首は天智天皇の歌を代作したものとされ、遷都の儀式で歌われたという理解がほぼ定説となっている。しかし、井戸王の歌は、この一首だけを取り出して見れば恋の歌以外のなにものでもなく、遷都の儀式での天皇の歌に和した歌と考えることはかなり難しい。そこで、首尾一貫した解釈をもとめて、多くの先学がさまざまな解釈を提出してきた。しかし、額田王が代作したとされる天智の歌と井戸王の歌の間の溝は極めて大きく、先学の解釈がそれを乗り越えたとは言い難い。本稿では、額田王の二首は遷都儀式における呪歌であるという通説、国神であり崇る神でもある三輪山の神に対する鎮魂と惜別の歌であるという通説を批判的に検討し、額田王の歌は「姿を見せてくれたら心をこめて奉仕をします」と神に誓った「誓約の歌」であることを示した。天皇一行の、この誓約によって、神は一度は姿を見せたと思われる。しかし最後の別れを告げて近江の国へゆくべき奈良山の峠において、三輪山は天皇の一行に姿を見せようとはしなかった。そして天皇は意のままにならない神に向かって激しい怒りの歌を投げつけた。神と人が鋭く対立し、破局が不可避と思われた時、井戸王は三輪山の神に語りかけた。井戸王は、神婚譚を前提にして三輪山の神に「わが背」と語りかけ、自分が「神の妻」となることを申し出たのである。井戸王の歌が恋の歌なのはそのためだったのである。これほど美しい女性の献身ならば、神は天智を寛恕されるに違いない・・・・こう考えて、遷都の一行は奈良山を越えて行くことができたのである。額田王と井戸王の歌によって神の心は動かされ、遷都事業の危機は激われた。二人の歌の力に、人々は強い感銘を受けたに違いない。
著者
武笠 俊一
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.31-43, 2012-03-30

日本人の民間信仰の特質の一つに、「神々を欺す風習」がある。こうした風習は、とりわけ、ウブスナ習俗や厄神防除の領域に多い。本稿では、幼児の額に印をつける「アヤツコ」の風習と戸口に護符や絵を貼る「疱瘡神防除」を取り上げ、こうした呪法がどのような論理によって行われてきたかを解明した。神を欺くことによって災厄を回避しようという呪法は、つい最近まで日本社会で広く行われていたものである。しかし、こうした呪法は、一神教の世界にはほとんど見られない。このきわめて特異な呪法がどのような論理に基づいて行われていたかを明らかにすることによって、日本人の神観念の特質が明らかになると思われる。
著者
湯浅 陽子 ユアサ ヨウコ YUASA Yoko
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.75a-89a, 2001-03-25

蘇軾の文学に及ぼした南宗禅の影響について,唐から五代にかけての禅語の一大集成であり,蘇軾自身が読んでいたと考えられる『景徳博燈録』の記述を踏まえた表現に注目して検討する。蘇軾の詩に見られる禅語を踏まえた表現の持つ傾向の一つに,ユーモアを含むという点があり,このような傾向を持つ表現は若年期から晩年までの作品の中に継続して現れ,各々の表現はそれぞれに戯れの気分を含みつつも,次第に作者の禅に対する知識の広がりと理解の深まりを窺わせるものに変化してゆく。またこれらの詩が総じて気軽な気分を伴っているのは,蘇軾の周囲の士大夫たちの間で禅や禅語の知識が広く共有されており,彼らが随分気軽な,あるいは日常的なものとして禅に接していたことを示している。彼らのなかには,禅により強い関心を示し,禅語の深い意味を求めようとする者もあり,そのような思潮のなかにある蘇軾は,晩年の嶺南への流謫生活の中で,禅的な思考を儒教や道家・道教的な思考と折り合わせ,複合しつつ詩に表現するに至っている。彼にとっての禅的境地は,単独で追求されるべきものではなく,儒・道の二教とともに内面の葛藤を静め,人生に対するより良い姿勢を模索するための拠り所とされていたと考えられる。
著者
相澤 康隆 AIZAWA Yasutaka
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.31, pp.1-9, 2014-03-30

正しい行為(なすべき行為)とはいかなる行為かを説明することは規範倫理学の諸理論にとって重要な役割の一つである。規範倫理学における一つの理論ないし立場である徳倫理学は、正しい行為を説明することができるのだろうか。この疑間に対して、いわゆる「適格な行為者説」は、次のような仕方で正しい行為の必要十分条件を与える。「ある行為が正しいのは、その行為が、有徳な行為者であれば当該の状況において特徴的に行いそうなことである場合であり、かつその場合に限られる」。有徳な人の行為を正しい行為の規準とするこの定式に対して、主要な反論が二つある。一つは、「有徳な人ならば決して陥らない状況に陥った行為者に対して、この定式は何をなすべきかを教えてくれない」という反論であり、もう一つは、「有徳でない行為者には、まさに有徳ではないがゆえになすべき行為があるにもかかわらず、この定式ではその事実を説明することができない」という反論である。これらの反論を踏まえて、定式に含まれる「有徳な行為者であれば行いそうなこと」を「有徳な人であれば忠告しそうなこと」に修正する試みがあるが、この修正版も固有の難点を抱えている。本稿では、「有徳な人の行為」ではなく、「徳を備えた行為」を中心に据えて定式を作り変えることを提案する。すなわち、「ある行為が正しいのは、その行為が当該の状況において求められる徳を備えた行為である場合であり、かつその場合に限られる」。このように定式化することによって、上記の二つの反論を退けっつ、徳倫理学の立場から正しい行為の説明を与えることができるのである。
著者
菅 利恵
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.93-106, 2012-03-30

断片に終わったシラーの戯曲『マルタ騎士団』では、ともに戦う騎士たちによる恋愛が描かれている。シラーによってこの愛は作品の要としての位置づけが与えられているにもかかわらず、従来の研究においてこのモチーフは軽視されてきた。シラーはこの作品以外でも男性同士の情熱的な友愛をしばしば描いている。本稿では、まずシラーの作品一般において「男同士の愛」が持った意義を探り、そのうえで、『マルタ騎士団』の中で騎士同士の恋愛がどのような機能を果たしているかを明らかにする。愛をめぐるシラーの言説は、啓蒙時代の「文芸公共圏」に見られた構造に刻印されている。すなわち、私的な「愛」のなかに「自由と平等」という市民的なイデオロギーを込め、この「愛」の言説を市民的な自己主張の基盤にする、という構造である。男同士の友情は、さまざまな愛の関係性の中でも市民的なイデオロギーをもっとも純粋に追究できるものであり、だからこそシラーはこのモチーフを繰り返し描いたのだと思われる。『マルタ騎士団』は、「普遍的人間的なもの」の理念とその内実たる「自由と平等」の観念を、「犠牲的ヒロイズム」のドラマを通して顕現させる、という矛盾に満ちた課題を試みた作品である。この試みにおいて、シラーは「犠牲」を強制や権力から完全に「自由な」行為として描こうとした。男同士の恋愛のモチーフも、結局は実らなかったこの試みに取り組む中でこそ浮上したのだと思われる。すなわちここでは男同士の愛が、集団への自発的な自己溶解をうながすための動力として機能しているのである。シラーにおける男同士の愛は、あくまでも自由な関係性であるからこそ、「自由と平等」を掲げる空間のなかに、「支配と隷属」の構造が入り込むことをゆるす契機ともなっている。シラーによる「人間的な」犠牲のドラマの試みは、理想主義的な男同士の関係性をめぐる逆説を明らかにしている。
著者
松尾 早苗
出版者
三重大学
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.33-47, 2005-03-31

In Deutschland hat der Japonismus seinen Hohepunkt um 1900 erreicht. In diesem Aufsatz wird die Rezeption der japanischen Kunst bei dem Dichter und Kunsthistoriker Ernst Schur untersucht, um zur Fprschung iiber den Japonismus in Deutschland zur Jahrhundertwende einen kleinen Beitrag leisten zu konnen. Zu diesem Ziel werden die folgenden zwei Punkte in Betracht gezogen:1) Ernst Schurs Auffassung vorn Geist und Charakter der japanischen Kunst wird aufgrund seines Buches ,,Vom Sinn und von der SchQnheit der japanischen Kunst" untersucht. Hauptsachlich werden hier die Universalitat der japanischen Kunst, die Mystik der Form der japanischen Kunst und die Weltanschauung der japanischen Kunst behandelt. 2) Es werden die Einfliisse der japanischen Kunst, vor allem der Holzschnitte von Hiroshige auf Schurs Gedichte und Skizzen durch die Hinweise auf die Ahnlichkeit der Motive, Ausdrucksweise und Stile klargemacht. Dabei wird sein ,,Buch der dreizehn Erzahlungen" als unentbehrliches Material untersucht.論説 / Article
著者
友永 輝比古
出版者
三重大学
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.127-131, 2003-03-25

今の日本で劇場に足を運ぶ人々は、「笑いと元気と斬新さ」を求めています。新劇界がもっと喜劇を採り上げ、喜劇役者がいないならば、思いきって吉本新喜劇の役者を客演に招いて芝居づくりをすれば、日本の演劇はもっと面白くなるのではないでしょうか。そんな訳で、喜劇役者が演じたと言われるモリエールの『ドン・ジュアン』と、ブレヒトの弟子たちが改作した『ドン・ジュアン』を選び、両作品を比較してみました。モリエールのドン・ジュアンもベルリーナー・アンサンブルのドン・ジュアンも、偽善者になることを宣言してから地獄に落とされるのですが、そこまでの過程において、アンサンブルの方はモリエールと違って、ドン・ジュアンの偽善者たるにふさわしい本性を鋭くしかも笑劇風に描いています。また、アンサンブルはこの喜劇の中に、1950年代のドイツの情況を忍び込ませてもいます。
著者
山崎 明日香 YAMAZAKI Asuka
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.32, pp.85-93, 2015-03-30

本稿は19世紀のなかばに活躍した演劇評論家ハインリヒ・テオドール・レッチャー(HeinrichTheodorR・tscher,1803-1871)の著書『劇的演技術(DieKunstderdramatischenDarstellung)』(1841-46)において提唱された俳優のための音声論を、18世紀以降のドイツの標準語形成運動と俳優の語り言葉についての問題に関連づけて考察するものである。レッチャーは、同時代の演劇界で広範な影響力を及ぼした著名な人物であり、1844年以降プロイセン政府の委託を受けて公的に演劇評論活動を行った。本稿で取り扱うレッチャーの『劇的演技術』は、演劇、俳優、そして演技術全般について包括的に論じた理論書であり、国民の道徳機関としての劇場機能の強化も併せて説いている。本稿の第一章は、18世紀以降のドイツの標準語形成運動と、それに並行して議論されてきた俳優の語り言葉に関する問題を取り扱った。その際に、レッチャーの音声論が、ドイツの標準語形成運動において、俳優の語り言葉の統一化と純粋言語への模範化に際して理論的な後ろ盾となったことを指摘した。そして第二章は、レッチャーの標準語と方言をめぐる考察をいくつか抜粋し、それを言語ナショナリズムに関連付けて論じた。レッチャーの音声論は、ドイツの標準語形成運動におけるナショナルかつ言語教育的な芸術言語の認知の流れを強めた一つの理論書であった。
著者
坂本 つや子
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.75-91, 2012-03-30

クリストファー・マーロウの戯曲に頻出する衣装と宝飾品の意味について、1.TheTragedyofDido,QueenofCarthageでは女王ダイドー、2.TamburlainetheGreat,PartsOneandTwoではタンバレンおよびゼノクレィティ、3.EdwardtheSecondではエドワード2世と王妃イザベル、寵臣ギャヴスタン、貴族たち、聖職者たち、4.DoctorFaustusではフォースタスについて考察する。全ての作品において、衣装と宝飾品は権力権威の表象となり、それが登場人物たちの支配への欲望、あるいは自分を中心にした秩序構築への欲望を満たすための手段として機能していることが明らかである。
著者
川口 敦子 KAWAGUCHI Atsuko
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.61-71, 2011-03-30

キリシタン資料のバレト写本(1591写)には、カラタチを意味するゲズという語が見え、これが文献上での最古の用例と考えられる。文献からは、18世紀以来、ゲズはカラタチの九州方言であったことがわかる。バレト写本以外に近世より前の用例を見出すことはできないが、現在、「枳殻」「枳」をゲズ等と読む地名や姓が九州を中心に偏って分布しており、他の地域に名残も見あたらないことから、ゲズはかなり特定の地域に偏った語であることが窺える。『日本国語大辞典』第二版ではゲズをカラタチの古名とするが、むしろバレト写本の時代から方言であったと見るのが妥当であろう。バレト写本に現れるゲズの例は、方言に対して意識的であったはずのキリシタン宣教師が、それと気付かずに使用した方言の例と考えられる。
著者
塚本 明
出版者
三重大学
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.1-19, 2000
被引用文献数
1

近世の朝廷が発令した「触穢令」が、伊勢神宮に与えた影響の時期的変化を見ながら、近世の伊勢神宮と朝廷との関係を考察した。「触穢令」は天皇・上皇・女院の死に際して朝廷から出されるものだが、前期には江戸将軍の死もその対象となった。基本的には宮中及び京都周辺の社寺に限定して出され、朝廷行事や神事等がその間中断された。さて伊勢神宮に京都の「触穢令」が伝えられるのは宝永六年を初発とするが、これは触穢伝染を予防するためのもので、天保年間に至るまでは伊勢神宮・朝廷側ともに、京都の触穢が伊勢にも及ぶという認識はなかった。だが伊勢神宮を朝廷勢力に取り込む志向が強まるなかで、弘化三年時には朝廷は伊勢神宮の抵抗を押し切り、触穢中の遷宮作時を中断させるに至る。両者の対立の背景には、触穢間の相違に加え、神宮神官らが全国からの参宮客を重視したことがあった。
著者
廣岡 義隆
出版者
三重大学
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.A39-A51, 2003-03-25

額田王の最初期の作として知られる『萬葉集』に収められた「宇治の都の借廬」詠(巻1・七番歌)の背景について考察し、ついで、この作の表現意図に迫ろうとするものである。従来、『古事記』『日本書紀』に記された歴史観に基づいて、ウヂノワキ郎子とオホサザキノ尊との皇位を譲り合う美談が展開され(空位三載)、ウヂノワキ郎子の逝去で以ってオホサザキノ尊の即位が実現し、ここに聖帝仁徳が成立するとされてきた。しかしながら、『山背国風土記』(逸文)等に見られる記述を分析すると、史実は別として、少なくとも説話としての宇治天皇の存在が明らかとなってくる。即ち、宇治の地にウヂノワキ郎子は宮室「桐原日桁宮」を持ち、そこが都と称されていた。こうした宇治大王説話を背景として、額田王の「宇治の都の借廬」詠は作られていると考えられる。このように見て初めて、額田王の歌詠における「宇治の都」という表現の意図するところが明らかとなってくる。これまで、「宇治の都」とは、単なる行旅における宇治での行宮の称であると理解されてきたが、ここに「宇治の都」とは文字通り宇治大王の皇居の存した故地の称となってくる。と共に、「宇治の都の借廬」と表現されたその表現意図も明確となる。即ち、雅としての「都」の表現と、その対極に位置する「草葺きの借廬」という表現の落差が奏でる響きをも含ませた歌であることが浮き彫りとなってくるのである。
著者
松尾 早苗
出版者
三重大学
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.153-167, 2004-03-25

In diesem Beitrag werden die folgenden Punkte behandelt, um die Freundschaft zwischen Ludwig Meidner und den expressionistischen Dichtern und deren Einflusse auf seine Zeichnung, vor allem seine Portratzeichnung klarzumachen: I. Der Neuanfang des Maler Meidner in der Groβstadt Berlin, II. Meidners Kontakt mit dem "Neuen Club" und "Neopathetischen Cabaret" in Berlin, III. Die Versuche zurn Verwirklichen seines "Neuen Pathos" bei Meidner-a) die Bildung der Malergruppe "Die Pathetiker", b) die Herausgabe der Zeitschrift "Das Neue Pathos", IV. Die Kreise im "Cafe des Westens" und die Gesprache mit den Dichtern in Jour fixe "Mittwoch=Abende", V. Die Freundschaft mit dem Dichter Ernst Wilhelm Lotz und die Portratzeichnung der Dichter.論説 / Article