著者
湯浅 陽子
出版者
三重大学
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.A53-A67, 2003-03-25

北宋・王安石は若年期から唐代詩人の作品を好み、二種の詞華集と杜甫の詩集を編纂しているが、その背景には北宋中期に唐代詩文のテクストが諸人によって再発見され、整理されていった状況が存在している。王安石は特に杜詩の、森羅万象の様態を捉えその生成の機微に踏み込もうする迫力を高く評価していた。また儒教的倫理性を重視する風潮の中にある王安石ら北宋期の士大夫たちの杜詩愛好は、その詩風のみならず、杜甫の儒数的志向に注目したものであったと考えられる。また晩年の王安石の詩には、杜甫ら先行詩人の詩句を剽窃的に使用した例があり、また多くの「集句」詩も制作されているが、これは先行詩句の剽窃的使用を極限にまで進めたものと考えられる。古人の作品を味読することを通じて、詩句そのものの剽窃を超えた新しい表現を模索するこのような詩作態度は、後の江西詩派の掲げる「奪胎換骨」的手法の先駆と考えることができるのではないだろうか。
著者
廣岡 義隆 Hirooka Yoshitaka
出版者
三重大学人文学部
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.35-52, 1985-03-31

『万葉集』に八首載る但馬皇女と穂純皇子の歌を歌物語として考究したものである。従来から歌物語として見られてゐなかつたわけではないが、それらは歴史的事件を背景として詠まれたものであるとみなされてきた。本稿は、歌句表現・題詞等の考察を手がかりに、恋愛事件ともかかはらない単なる独詠が、歌物語として発展展開していく相をみたもので、それは褻の「言寄せ」の世界における文学的営為に外ならなかつたといふことを論述したものである。
著者
塚本 明
出版者
三重大学
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.A35-A50, 2004-03-25

近世の伊勢神宮門前町の宇治・山田における、死穢への意識とそれを忌避する作法の時期的変化を考察した。死穢は神社世界の触穢体系の中核を占め、これに触れた者は厳しい行動規制を強いられた。中世以来、為政者たちの死に際して、死穢が広く遍満したとして、朝廷から京都近辺と伊勢神宮を含む関係する寺院に「天下触穢令」が発令される場合があった。だがこれとは別に、伊勢神宮が独自に、宇治・山田市中に対して発令する「触穢令」が確認できる。神宮の服忌令によれば、宮地での変死体発見、「速懸」を行わずに死体を一昼夜放置した場合、火災における焼死の発生の際に、市中一体の触穢となった。だが一八世紀初頭を画期として、宇治・山田市中への触穢令は激減する。その要因は、触穢の発生を避ける作法が発達したことにあった。火災や水害で死者が出ても、それが直接の死因ではないとしたり、届け出方に工夫をこらしたりしたのである。また、死の発生地を縄や溝で囲んで、穢れが拡散しないようにする方法も一般化していった。先例を重視する神宮も、この時期には規定通りに触穢を適用することが困難であると認識していた。山田奉行も参宮客の意向を理由に、触穢適用の軽減を命じた。しかし、触穢の軽減は無限定に進められたのではない。文化年間に発生した「古骨一件」において物忌らが神宮長官の触穢の判定に激しく異議を唱えたように、神官達内部で解釈をめぐり争われることもあった。判定をめぐる紛議でしばしば問題にされたのが、世間の評判、風説である。触穢の判定、死穢を避けられるか否かは、神宮に対する外界からの認識が影響した。
著者
森 正人 モリ マサト MORI Masato
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.A65-A80, 2005-03-31

本稿は一九三七年に大阪で南海電鉄会社が行った「四国八十八ヶ所霊場出開帳」に注目し、それがどのような社会的過程で生産されたのかを詳述する。これまでの四国遍路史上、たった一度だけ成功を収めたのが一九三七年の出開帳である。この出開帳は宗数団体が主催したものでも四国内で行われたわけでもなかったため、従来の研究ではほとんど取り上げられることはなかった。またこれは、鉄道・出版資本、国家政策、仏教寺院がそれぞれの思惑を交差させながら重層的に生産されたのである。したがって、この出開帳を取り上げることにより、四国遍路自体の複雑性を示すことができる。また従来の研究における静的な巡礼空間モデルに対して、巡礼空間が社会的構築物であること、さらに、生産された空間が社会的構成を行う社会-空間弁証法が見られることを示すこともできると考える。
著者
太田 伸広
出版者
三重大学
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.69-95, 2003-03-25

グリム童話に出てくる小人たちは意外と人が善い。でも、小人たちは、神と悪魔・魔女の中間にあって、悪魔・魔女に傾いた存在か悪魔そのもので、神秘的、地下的、地獄的な所があって、不気味な感じがする。その像は、古くからの民間伝承の様々な精や神々とキリスト教が入り混ざってできたものであろうが、どこか一神教の香が漂う。これに対し、『日本の昔ばなし』の小人たちは、悪魔・魔女の要素はまったくなく、神々に近い存在か、神々、天人そのものである。にもかかわらず、小人たちは、自然宗教的、多神教的雰囲気の中で登場し、地上的、人間的で、あけっぴろげで、子供のように笑ったり喜んだりする、可愛らしい存在である。
著者
太田 伸広
出版者
三重大学
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.81-110, 2005-03-31

難題解決結婚の話を分析すると、幾つかの特徴が現われる。それを一般的に定式化すると、難題解決結婚とは、王様(女王、王女)が、地上の人間には解決することがおよそ不可能な難題を出し、それを解決したら、褒美としてお姫様(王子)をやる(嫁にする)という約束に基づく結婚である。難題解決には、異界の存在や贈物が登場し、難題解決に決定的な役割を演ずる。主人公はほとんど行動しない。褒美としての(主として)お姫様は家父長的な父王からモノ扱いされる。しかし、それにもかかわらず、お姫様には結婚に抗う強い意志や激しい感情を持つ人が多い。不思議なことに、『日本の昔ばなし』にはこの難題解決結婚は一話もない。グリム童話といえども、庶民同士の難題解決結婚はない。
著者
藤本 久司 FUJIMOTO Hisashi
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.145-155, 2011-03-30

世界の文化を類型化し対比する主要な研究から「コンテクスト」「時間感覚」「結論の位置」「視線」「対面距離」「身体接触」「あいづち」に視点をおいたものをとりあげる。また、コミュニケーションギャップの具体例をいくつか挙げ、上記研究及び他の複数の視点から考察を行うと、1つの例にも様々な文化背景の要因が関わっていることがわかる。われわれは現代社会の異文化間コミュニケーションにおける非言語の重要性を一層注視しなければならない。ネット社会の発展の中で、文化背景を軽視した言語だけのコミュニケーションが増えることで、不要な誤解や摩擦が増え、時に極端な情報が伝わっている。誤解や無理解はそのままにしておくと偏見に変わる。理由や文化背景を正しく知り、また、説明する努力が求められる。メッセージの送り手は、送る相手の文化スタイルに合わせないとメッセージの内容が正しく伝わらない、ということを再認識することが必要だ。そのため自文化を深く知り、異文化の相手に正確に説明することと、接触する相手の文化について事前の理解を深めた上でコミュニケーションすることが肝要である。
著者
藤田 伸也 Fujita Shinya
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.109-123, 2010-03-28

明治のころ、三重県の北勢地方では万古焼が四日市を中心に盛んに焼かれ、全国的にその名は知られて、商業的にも成功していた。しかし現在、万古焼は美濃や瀬戸に比べて知名度は低く、陶磁の産地としての規模も小さく、また陶芸作家の活動も卓越しているとはいい難い。この論考では明治以後現在に至る万古焼の道程を振り返り、日本近代陶芸の発展の様相を探り、芸術と産業の間で揺れ動く陶芸の可能性について万古焼を中心に考える。まず今回は明治時代から昭和時代前半期戦時下までの万古焼の歴史を振り返る。
著者
森 正人 Mori Masato
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.147-159, 2009-03-31

本稿は1934年の建武中興六百年祭と35年の大楠公六百年祭が、資本や寺院や地方自治体の関わりによってどのように演出されたのか考える。そしてそれを契機にして楠木正成に関わる事物や景観や人物などがどのように価値付けられたり発見されたりしたのかも紹介する。そうした過程は地域という地理的単位と結びついて展開した。それゆえ、地域なるものと国家なるものが関係的に立ち現れることが最後に示される。
著者
尾西 康充 岡村 洋子
出版者
三重大学
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.1a-15a, 2001-03-25

本研究で取りあげる梅川文男は,戦後,三重県議会議員(一期)・松阪市長(三期)をつとめ,革新の立場から手腕をふるった人物である。一九六一(昭和三六)年の就任から死去する六八年まで在職した松阪市長の時代には,文化行政の面で,いくつもの貴重な業績を遺している。『都市部落』・『農村部落』の出版(朝日文化賞受賞),三重県解放運動無名戦士の碑の建立,松阪市戦没兵士の手紙集『ふるさとの風や』の出版,本居宣長記念館の建設(完成したのは没後)などである。戦後半世紀を経た今日から見れば,もはやありふれたものに映るかも知れないが,当時としては,どれも時代に先がけた取り組みばかりであった。彼の取り組みの特徴を一言で述べれば,松阪が担っていたそれまでの歴史的な過去を,それらが持つ正の部分も負の部分も含めて正視しようという姿勢が貫かれている点にある。そのような行政上の実績を評価するうえで,忘れてはならないのは,梅川文男が戦前,農民組合の活動に携わりながら,プロレタリア詩を創作した詩人であったという事実である。戦前に活躍した三重県ゆかりのプロレタリア詩人として,四日市の鈴木泰治と並ぶ,きわめて貴重な存在である。雑誌「詩精神」は「プロレタリア詩雑誌の〈正系〉」(伊藤信吉)をうけ継ぐものであり,そこには,「堀坂山行」というペンネームで書かれた作品が毎号のように掲載されている。三四(昭和九)年一月から翌年十二月まで続けられた「詩精神」には,新井徹・後藤郁子を中心として,小熊秀雄・田木繁・遠地輝武・大江満雄・鈴木泰治など,すぐれた詩人が集まっていた。そのなかの一人として,「農民組合運動のさ中にある詩人」(新井徹)の立場から,梅川文男は農民運動および水平運動に直接関わる詩をいくつも寄稿していたのである。そこで本稿では,まず彼の文学活動について論及しようと考える(次号では,当時の農民組合運動について,淡路時代の記録を紹介しながら,彼の軌跡を明らかにしたい)。さらに巻末には,梅川文男に関わる研究資料として,大山とし氏から閲覧の許可をいただき,翻刻した書簡を紹介する。三・一五事件によって神戸で検挙起訴されていた梅川文男の様子がうかがえる貴重なものである。治安維持法違反の容疑で官憲に拘引されたのが二二歳,それから五年間も囚われの身となるのだが,その若さにもかかわらず,彼には「悟り切った人のようなユウユウたる御心境」がうかがえたという(書簡09 : 二九年六月一八日)。河合秀夫の妻いく子夫人が梅川の父辰蔵に宛てて記した書簡十六通,二八(昭和三)年七月一九日から三〇年九月二九日に至るまでの記録を,原文に従って掲載する。
著者
森脇 由美子 Moriwaki Yumiko
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.133-146, 2009-03-31

19世紀の第二・四半世紀のアメリカでは、都市労働者たちの間で新たなヒーローたちが登場した。これは彼らが市場革命や都市化の波にさらされる中で、従来のヒーロー像とは異なる存在に自らのアイデンティティを求めたからである。市場革命の進行にともない、ニューヨークのようなヨーロッパの大都会に匹敵する都市がアメリカにも出現し、都市の中に圧倒的に労働者階級的な娯楽の場が形成された。そこではスポーツ・ヒーローとしての拳闘家や、労働者階級化した劇場の人気俳優および登場人物などが、新たなヒーローとして人々喝采を浴びた。さらに政治の領域でも、選挙権の拡大によって労働者階級まで選挙権を持つと、魅力ある人物として人々の心に訴えかける手法がこれまで以上に重要性を持つようになり、マイク・ウォルシュのような新たなタイプの政治家が登場することになる。しかし、これらの労働者階級のヒーローは階級的性格が強かったため、結局、「国民的」ヒーローとまではなりえず、人々の記憶に長くとどまることはほとんどなかった。