著者
武笠 俊一
出版者
三重大学
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.51a-57a, 2001-03-25

童謡は無名の子どもたちによって長い期間をかけて作られたものである。多くの子どもたちの関わったものだから,そこには大人の思いもよらない深い意味や謎が込められたものが少なくはない。そうした歌の中には,卑狸な意味や大人たちへのあてこすり,深淵な謎かけが込められたものもある。本稿では,子どもの遊びが必ずしも子どもらしい純真な内容をもっとは限らないという前提にたって,こうした謎の分析を試みた。その結果得られた結論は,次のようなものである。上野動物園のお猿の電車を歌った歌の歌詞はたわいないもののようだが,実は「イケナイ絵」についてのお絵かき歌だった。また,「タン,タン,タヌキの…」で始まる替え歌には「たぬきの金時計」という歌詞の別バージョンあったが,それはタヌキというあだ名をもった教員を椰楡したものであった。日本人なら知らない者のいない童謡「通りゃんせ」は,天神様に札を納めにいった母親が神社から帰ることができないという恐ろしい謎かけを含む問答歌であった。
著者
武笠 俊一 ムカサ シュンイチ MUKASA Shunichi
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.51a-57a, 2001-03-25

童謡は無名の子どもたちによって長い期間をかけて作られたものである。多くの子どもたちの関わったものだから,そこには大人の思いもよらない深い意味や謎が込められたものが少なくはない。そうした歌の中には,卑狸な意味や大人たちへのあてこすり,深淵な謎かけが込められたものもある。本稿では,子どもの遊びが必ずしも子どもらしい純真な内容をもっとは限らないという前提にたって,こうした謎の分析を試みた。その結果得られた結論は,次のようなものである。上野動物園のお猿の電車を歌った歌の歌詞はたわいないもののようだが,実は「イケナイ絵」についてのお絵かき歌だった。また,「タン,タン,タヌキの…」で始まる替え歌には「たぬきの金時計」という歌詞の別バージョンあったが,それはタヌキというあだ名をもった教員を椰楡したものであった。日本人なら知らない者のいない童謡「通りゃんせ」は,天神様に札を納めにいった母親が神社から帰ることができないという恐ろしい謎かけを含む問答歌であった。
著者
武笠 俊一 MUKASA Shunichi
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.11-26, 2011-03-30

古事記崇神条にある大物主大神と生玉依姫の神婚譚は「三輪山型神話」の一つとして知られている。これは「針と糸」によって若者の正体を探った神話であるが、古事記はこの神話によってオオタタネコが神の子の子孫であることを説明したことになる。その証明は「説話的論理」によってなされていた。すなわち、「針が刺された」という記述は、神の衣に糸目の呪紋が付けられたことを意味し、この記述は二人が正式な結婚をしていたことを示唆していた。そして「麻糸が三輪だけ残った」ことは、ヒメの住む村が三輪山からはるか遠くにあったことを示していた。つまり、神は遠路を厭わず河内の国のイクタマヨリヒメの元に通われたことになる。この神婚神話は、三輪山の神が奈良盆地のあまたの女性たちではなく、河内の国の娘をもっとも深く愛したことを示し、それによってオオタタネコの一族が三輪山の神の祭祀権を持つ正統性を「説話的論理」によって証明しようとしたものである。ところが古事記の神婚諄には始祖説話と地名起源説話の相矛盾する二つの要素が混在している。「麻糸が三輪残った」という伝承は後者固有のものだから、この混乱は古事記編纂者による神話改作の事実を示唆している。さらに「三輪の糸」のエピソードからは、ヒメの住む村が高度な製糸織布技術を持つ地域であったことが推測される。もしそうなら、この神婚諄の舞台は、本来は土器生産の先進地であった河内南部ではなく奈良盆地南部の三輪山の麓の村であったことになる。つまり、三輪山の祭祀権だけでなく、この神話もまた河内の人々によって纂奪されていたのである。
著者
武笠 俊一 Mukasa Shunichi
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.26, pp.17-27, 2009

一九七七年に刊行された『口述の生活史 - 或る女の愛と呪いの日本近代』は、中野卓の最初の生活史研究である。この本において、中野は話者の主体性を最大限に尊重するという調査法を提示しその有効性を実例をもって示そうとした。中野の提唱した新しい調査法は、若手研究者の一都に強く支持され、その後の社会学における生活史研究の興隆のきっかけとなった。しかし、この方法を採用したからといって、ただちに優れた生活史研究が生み出されるという保証はない。では、良い生活史を生み出す話者の側の条件とはどのようなものか。インタビューにおける話者の主体性の尊重がなぜ優れた生活史の前提条件となるのか。本稿では、この二つの問題を『口述の生活史』の再検討によって明らかにしたい。中野卓がこの生活史の語り手と出会う四〇年前に、彼女は一通の長い手紙を書いている。それは、中野が聞き取った口述生活史の原型ともいうべき「自伝的な手紙」であった。しかし不思議なことに、話者の内海松代は幾度か行われたインタビューの中でこの手紙についてほとんど語っていない。どのような事情によってこの手紙は書かれたのか。その内容はどんなものだったのか - 語られなかった事実に注目することによって、この生活史に秘められた「話者の強い思い」が見えてくる。語られなかったことがらに対する徹底的な再検討という作業をすることによって、中野の調査法の意義が明らかになると思われる。
著者
武笠 俊一 MUKASA Shunichi
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.11-24, 2013-03-30

三輪山の神と倭迹迹日百襲姫やまとととひももそひめの神婚譚は、日本書紀崇神天皇紀の崇神一〇年にある良く知られた物語である。このヒメは箸でホトを突いて死に箸墓に葬られた。この墓の主は誰か、女王卑弥呼かそれとも他の人物か、最近の論争は前にも増して激しい。しかし、箸墓はなぜ作られたかと言う議論は、それほど熱心には行われてこなかった。モモソヒメの神婚譚は、言うまでもなく箸墓の名称起源譚である。だから、この物語は箸墓造営の事情を神話的な歴史記述によって語ろうとしたものだと考えることが可能である。説話研究の視点からモモソヒメの神婚譚を見て行くと、この物語は異類婚姻譚の一つであり、婿入り婚の破局に取材した物語であることが明らかになる。すなわち、この婚姻関係が二人だけの私的了解の段階から双方の家の承認を得た正式なものに移行する時点における破局を語る物語だったのである。この前提に立てば、三輪山の神が白蛇となってその正体を示したことは、天皇家にモモソヒメの正式の婿となる承認を求めたことを意味する。しかし、ヒメは驚きの声を上げてしまい、天皇家から拒絶されたと信じた三輪山の神は永訣の言葉を残して三輪山に帰っていった。つまり、神と天皇家との対立に、モモソヒメの悲劇の真の原因があったのである。ヒメの死を自分の責任と感じた三輪山の神は、巨大な箸墓の造営を企てた。つまり「神の深き悔恨」によって箸墓が作られたのである。そしてその造営に崇神天皇が力を貸したことによって、古代国家の基盤が確立され、統一国家への飛躍が可能になった。日本書紀は崇神天皇の功績をこのように説明していたのである
著者
武笠 俊一
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.41, no.3, pp.291-304, 1990-12-31 (Released:2009-10-19)
参考文献数
8

時間論には、いろいろなアプローチがありうるが、本稿では時間計測の歴史に焦点をあてることによって、その計測技術の飛躍と近代社会の成立との関連を論じてみたい。近代以前の社会において、時計には時刻を知るためのものと時間の量を計るもの、二つのタイプがあった。ところが、ともに時間をはかる器具でありながら、この二つの時計は互換性をほとんど持っていなかった。しかし、近代の初頭において振り子が機械時計の調速部に採用されると、時間計測の精度は飛躍的に向上し、二つの時計は一つに統合されてゆく。「時計の統合」にいたってはじめて時間計測の普遍性が確立される。それは、近代科学、工業技術の発達の基礎となったばかりでなく、近代人の時間意識を作りかえ、複雑きわまりない近代的社会システムの形成を可能にしたのである.
著者
武笠 俊一 Mukasa Shunichi
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.45-58, 2010-03-28

「三輪山惜別歌」と呼ばれている、額田王の長短歌二首と井戸王の歌一首は、数多い万葉集の中でも難解な歌の代表で、長い論争の歴史がある。問題は額田王の二首よりも、それに「和した」とされる井戸王の歌の難解さにある。額田王の二首は天智天皇の歌を代作したものとされ、遷都の儀式で歌われたという理解がほぼ定説となっている。しかし、井戸王の歌は、この一首だけを取り出して見れば恋の歌以外のなにものでもなく、遷都の儀式での天皇の歌に和した歌と考えることはかなり難しい。そこで、首尾一貫した解釈をもとめて、多くの先学がさまざまな解釈を提出してきた。しかし、額田王が代作したとされる天智の歌と井戸王の歌の間の溝は極めて大きく、先学の解釈がそれを乗り越えたとは言い難い。本稿では、額田王の二首は遷都儀式における呪歌であるという通説、国神であり崇る神でもある三輪山の神に対する鎮魂と惜別の歌であるという通説を批判的に検討し、額田王の歌は「姿を見せてくれたら心をこめて奉仕をします」と神に誓った「誓約の歌」であることを示した。天皇一行の、この誓約によって、神は一度は姿を見せたと思われる。しかし最後の別れを告げて近江の国へゆくべき奈良山の峠において、三輪山は天皇の一行に姿を見せようとはしなかった。そして天皇は意のままにならない神に向かって激しい怒りの歌を投げつけた。神と人が鋭く対立し、破局が不可避と思われた時、井戸王は三輪山の神に語りかけた。井戸王は、神婚譚を前提にして三輪山の神に「わが背」と語りかけ、自分が「神の妻」となることを申し出たのである。井戸王の歌が恋の歌なのはそのためだったのである。これほど美しい女性の献身ならば、神は天智を寛恕されるに違いない・・・・こう考えて、遷都の一行は奈良山を越えて行くことができたのである。額田王と井戸王の歌によって神の心は動かされ、遷都事業の危機は激われた。二人の歌の力に、人々は強い感銘を受けたに違いない。
著者
武笠 俊一
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 : 三重大学人文学部文化学科研究紀要 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.31-43, 2012-03-30

日本人の民間信仰の特質の一つに、「神々を欺す風習」がある。こうした風習は、とりわけ、ウブスナ習俗や厄神防除の領域に多い。本稿では、幼児の額に印をつける「アヤツコ」の風習と戸口に護符や絵を貼る「疱瘡神防除」を取り上げ、こうした呪法がどのような論理によって行われてきたかを解明した。神を欺くことによって災厄を回避しようという呪法は、つい最近まで日本社会で広く行われていたものである。しかし、こうした呪法は、一神教の世界にはほとんど見られない。このきわめて特異な呪法がどのような論理に基づいて行われていたかを明らかにすることによって、日本人の神観念の特質が明らかになると思われる。
著者
武笠 俊一
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.37, no.3, pp.352-368, 1986

有賀喜左衛門が若いころ白樺派の一員であったこと、その後柳田国男と出会い、民俗学をへて農村研究へと進み、日本農村社会学の創設者の一人となったことは、よく知られている。しかし西欧的な個人主義への憧憬を基調とする白樺派からその対極にある柳田民俗学への転進は、まだヨーロッパ文化への憧れの強かった大正末期には、きわめて特異な出来事であった。そのギャップの大きさを考えると、この転進は有賀の学問形成史における一つの「飛躍」であったと言ってよいであろう。学説史の第一の課題は、画期となった「飛躍」の連続面と不連続面の二つを、統一的な視点で分析することにあるといわれる。本稿では、有賀喜左衛門の日本文化研究の出発点を、この二つの側面から再検討してみたい。
著者
武笠 俊一
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.32, no.4, pp.53-67, 1982-03-31 (Released:2009-10-19)
参考文献数
20

目本農村の村落構造をさぐる場合、「同族団」と「親方子方関係」は、いまなお軽視できない基本的な概念であろう。それは、ふるい形態がそのまま残っているわけではないにしても、依然村落生活に強い規定力をもっているからである。本稿では、いわゆる「有賀・喜多野論争」をとりあげて、「系譜関係」概念の理論的再検討を行い、あわせて同族団と親方子方関係の異同.重複の問題を再考したい。
著者
武笠 俊一 MUKASA Shunichi
出版者
三重大学人文学部文化学科
雑誌
人文論叢 (ISSN:02897253)
巻号頁・発行日
no.28, pp.11-26, 2011

古事記崇神条にある大物主大神と生玉依姫の神婚譚は「三輪山型神話」の一つとして知られている。これは「針と糸」によって若者の正体を探った神話であるが、古事記はこの神話によってオオタタネコが神の子の子孫であることを説明したことになる。その証明は「説話的論理」によってなされていた。すなわち、「針が刺された」という記述は、神の衣に糸目の呪紋が付けられたことを意味し、この記述は二人が正式な結婚をしていたことを示唆していた。そして「麻糸が三輪だけ残った」ことは、ヒメの住む村が三輪山からはるか遠くにあったことを示していた。つまり、神は遠路を厭わず河内の国のイクタマヨリヒメの元に通われたことになる。この神婚神話は、三輪山の神が奈良盆地のあまたの女性たちではなく、河内の国の娘をもっとも深く愛したことを示し、それによってオオタタネコの一族が三輪山の神の祭祀権を持つ正統性を「説話的論理」によって証明しようとしたものである。ところが古事記の神婚諄には始祖説話と地名起源説話の相矛盾する二つの要素が混在している。「麻糸が三輪残った」という伝承は後者固有のものだから、この混乱は古事記編纂者による神話改作の事実を示唆している。さらに「三輪の糸」のエピソードからは、ヒメの住む村が高度な製糸織布技術を持つ地域であったことが推測される。もしそうなら、この神婚諄の舞台は、本来は土器生産の先進地であった河内南部ではなく奈良盆地南部の三輪山の麓の村であったことになる。つまり、三輪山の祭祀権だけでなく、この神話もまた河内の人々によって纂奪されていたのである。
著者
川又 俊則 武笠 俊一 板井 正斉 磯岡 哲也
出版者
鈴鹿短期大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2011

本研究の成果の概要は、以下の通りである。①過疎地域の宗教集団は一定の機能を有し、今後も地域のネットワークとして機能する可能性が十分ある。②老年期の宗教指導者は、教団等地域外とのコミュニケーションツールを持ち、地域住民に、外と内をつなぐネットワークの結節点となっていた。③老年期にUターンや初めての土地で宗教指導者となる選択をする人もいる。彼ら・彼女らの例から、老年期の多様な生き方のモデルが見出された。④過去の調査および、10年、20年を経た後の再調査の重要性を再認識した。