著者
高良 美樹 金城 亮 Takara Miki Kinjo Akira
出版者
琉球大学法文学部
雑誌
人間科学 (ISSN:13434896)
巻号頁・発行日
no.8, pp.39-57, 2001-09

本研究では、職業レディネスおよび進路選択に対する自己効力感を指標として、インターンシップ(職場実習)の前後における大学生の就業意識の変化に焦点をあてた検討をおこなった。沖縄県内の3大学に通う文系の3年次学生398名(男子217名、女子181名)を対象に調査を実施した。職業レディネス21項目および進路選択に対する自己効力感30項目の各合計得点を従属変数として、インターンシップのタイプ(実務型・専門教育型・実習なし)×調査時期(実習前・後)の2要因混合計画による分散分析をおこなった結果、両得点ともに有意な効果は認められなかった。一方、インターンシップ経験に対する全般的満足度が高い群では、低い群に比べて事後調査における両得点が有意に高くなっており、インターンシップ・プログラムへの関与や満足が、職業レディネスや進路選択に対する自己効力感に促進的な影響を与えていることが示唆された。
著者
細見 和之
出版者
大阪府立大学人間社会学部人間科学科 / 大阪府立大学大学院人間社会学研究科人間科学専攻
雑誌
人間科学 (ISSN:18808387)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.3-19, 2007-03-31

Hannah Arendt und Paul Celan haben, die eine als judische Denkerin, der andere als judischer Dichter, ein schweriges Leben im 20. Jahrhundert gefuhrt, aber sie hatten keinen personlichen Kontakt. Wir fmden in Arendts Texten keine Erwahnungen von Celan und noch in Celans Texten eine von ihr. Wenn wir aber nur den Namen Heidegger dazwischen setzen, so konnen wir die Wichtigkeit ihrer Beziehung leicht erkennen. In dieser vorliegenden Arbeit mochten wir versuchen, einige zwischen Arendt und Celan laufende "Meridiane" zu bestatigen, damit wir das noch umfangreichere Thema uber die Beziehung zwischen Arendt, Heidegger und Celan behandeln konnten. Ein Meridian, auf den wir hier hinweisen, ist die Tatsache, dass beide gesagt haben, was bleibt nach Nazis Zeit, sei die Sprache (Muttersprache). Der andere Meridian ist ihr groBes Intersse an dem russisch-jiidischen Dichter Mandelstam. Der letzte ist die Tatsache, dass sie beide den Erfolg des kunstlichen Satelliten 1957 fur ein "unheimliches Ereignis" gehalten haben.
著者
西本 裕輝 Nishimoto Hiroki
出版者
琉球大学法文学部
雑誌
人間科学 (ISSN:13434896)
巻号頁・発行日
no.2, pp.61-76, 1998-09

本研究は、家庭環境と進路選択の関連を検討することを通して、学校の持つ再生産機能を浮き彫りにすることを目的とする。沖縄の高校生を対象とした計4回にわたる調査で得られたデータを分析した結果、主に次のことが明らかになった。(1)家庭環境と進路選択は大きく関連しており、格差が存在する。(2)その格差は学校により平準化されるどころか、より広げられている上の(1)は重回帰分析の結果、家庭環境から進路選択への直接効果が見出されたことによる。また(2)は、パス解析で家庭環境から進路選択への直接効果「家庭環境→進路選択」と、家庭環境から学校を媒体として進路選択に影響を与える間接効果「家庭環境→学校→進路選択」の双方が見出されたことによる。いずれにせよ、こうした結果が見出されるのは明らかに「学校による教育の平等化」の失敗であり、近年他県、あるいは欧米において指摘されてきている問題である。さらに沖縄の場合は経済的格差とあいまって、状況はより深刻と言える。
著者
津波 高志 Tsuha Takashi
出版者
琉球大学法文学部
雑誌
人間科学 (ISSN:13434896)
巻号頁・発行日
no.23, pp.3-34, 2009-03
被引用文献数
1

本論文では、奄美・沖縄において火葬の導入に伴って葬祭業者が関与し、葬送儀礼の外部化が起きたとする説を奄美で検証するために1村落の事例を記述した。また、近代初頭あたりまで遡って見れば、奄美における葬送儀礼の外部化は2度あったことを明らかにした。その2度の外部化を1村落の事例に読み取りつつ、琉球弧の文化の研究において、こと奄美に関しては薩摩・鹿児島の影響を十分に考慮する必要があり、葬送儀礼の外部化もその例外ではないことを指摘した。
著者
鍬塚 賢太郎 Kuwatsuka Kentaro
出版者
琉球大学法文学部
雑誌
人間科学 (ISSN:13434896)
巻号頁・発行日
no.14, pp.89-119, 2004-09
被引用文献数
4

インドでは経済自由化以降、ITサービス輸出が拡大しており、インド経済に少なからぬインパクトを与えている。なかでも近年急速に成長しているのが、アメリカ合衆国を最大の需要先とする情報通信技術を活用した業務受託サービスである。本稿ではインドにおける業務受託サービス輸出の動向について把握するとともに、その生産拠点として捉えることのできるコールセンターの立地の特徴についてナショナル・スケールから検討し、大都市部へ集積していること確認した。これを受け、業務受託サービスの輸出拠点となっているデリー首都圏を取り上げて、都市スケールからみた立地の特徴を把握するとともに、それが既存の都市構造に与える地域的インパクトについて、オペレーターの就業形態に着目しながら考察した。
著者
野入 直美 Noiri Naomi
出版者
琉球大学法文学部
雑誌
人間科学 (ISSN:13434896)
巻号頁・発行日
no.5, pp.141-170, 2000-03

本稿は石垣島の台湾人の生活史の事例から、石垣島における台湾人と沖縄人の民族関係の変容過程をとらえようとする試論の前編である。ここでは、戦前から復帰前までの台湾から石垣島への人の移動と、石垣島における台湾人社会の生成と変容の過程をとりあげる。台湾から石垣島への人の移動は、戦前と戦後を通じて、台湾人実業家が石垣島にもちこんだパイン産業によって形成されてきた。戦前期については、パイン産業の萌芽と台湾人移住の始まり、国家総動員体制下での沖縄人による台湾人排斥を中心に記述を行う。そして戦後期については、パイン産業が石垣島の基幹産業となるなかで台湾人が集住部落を形成し、沖縄人との民族関係が変化していく過程と、復帰前の移行期における台湾人の職業の多様化について記述する。本稿の続編では、復帰後の台湾人社会について、大量の帰化、世代の移行と家族生活の変容、職業の多様化を中心にとりあげ、それらの変化にもかかわらず相互扶助のネットワークが維持されてきた過程について検討する。
著者
野入 直美 Noiri Naomi
出版者
琉球大学法文学部
雑誌
人間科学 (ISSN:13434896)
巻号頁・発行日
no.8, pp.103-125, 2001-09

本稿では、沖縄の本土復帰以降の石垣島における台湾人社会の変容について検討を試みる。沖縄が本土復帰した1972年に、日本は中華人民共和国と国交を回復し、中華民国との国交は途絶えた。この政情不安を背景として、石垣島では台湾人による家族ぐるみの帰化が大量に行われた。ここでは、まず戦後の台湾人の法的地位について整理し、石垣島に生きるひとりひとりの台湾人にとっての帰化の意味と、帰化をめぐる意識について、聞き取りの事例に基づいて考えたい。さらに本土復帰後の台湾人社会は、集住地域の解体に直面する。前稿で述べたように、石垣島の台湾人社会は、戦前からのパイン産業を柱として形成されてきた。戦後、パイン産業は石垣島の基幹産業となった。労働力の需要があったために、疎開でいったん台湾へ戻っていた台湾人は石垣島に再移住し、新たに就業機会を求めてやってくる台湾人もいた。しかし復帰後、パイン産業は急速に斜陽化し、パイン缶詰工場で働く下層労働者の多くは石垣島を去った。定住を選んだ人びとも、かつて「台湾人村」と呼ばれたX部落、パインの生産と加工によって栄えた台湾人集住地域を離れ、石垣市の市街地に移動した。この稿では、集住地域の解体と職業生活の多様化にもかかわらず、相互扶助と文化継承のネットワークが維持されていく過程を明らかにしたい。
著者
長部 悦弘 Osabe Yoshihiro
出版者
琉球大学法文学部
雑誌
人間科学 (ISSN:13434896)
巻号頁・発行日
no.23, pp.167-190, 2009-03

北魏孝明帝代に勃発した六鎮の乱により混乱に陥った政局の中で、爾朱氏軍閥集団は山西地域(太行山脈以西)の中部に并州(晋陽)及び肆州を中核として覇府地区を建設し、これを根拠地とした上で、孝明帝の没後南下して孝荘帝を擁立した上で河陰の変を引き起こして王都洛陽を占拠し、孝荘帝代には中央政府を支配した。王都洛陽の中央政府を支配した方法は、尚書省・門下省の要職に人員を配置して行政を握るとともに、王都内外の軍事を掌管する、近衛軍をはじめとする高級武官の多くを占めて、洛陽の軍事を牛耳った。そして、首領である爾朱栄が代表する并州(晋陽)設置の覇府と連絡しながら、爾朱氏軍閥集団の下に王都洛陽の中央政府を置く、王都-覇府体制を構築した。北魏国家の領域内部の交通路線でみると、爾朱氏軍閥集団の王都-覇府体制を支えた中軸線は、覇府地区と王都洛陽を結ぶ太行山脈西麓東方線である。同路線を基軸に、太行山脈西麓西方線、太行山脈東麓線をはじめ、各地に構成員を送り、北魏国家の領域支配体制を建てようと試みた。