著者
新垣 公弥子
出版者
千葉大学
雑誌
千葉大学社会文化科学研究 (ISSN:13428403)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.33-43, 2001-02-01

論考では沖縄県石垣市白保(しらほ)方言の動詞と形容詞について記述する。当地は明和8年(1771)の大津波で村が半壊したため琉球政府により波照間島からの入植政策が取られた。そのため現在でも石垣島市内の方言とは違いが見られると指摘されている。調査資料は宮良松氏(1903年生まれ)を話者とし1998年から1999年にかけて行なったものである。
著者
光延 忠彦
出版者
千葉大学大学院社会文化科学研究科
雑誌
千葉大学社会文化科学研究 (ISSN:13428403)
巻号頁・発行日
no.12, pp.24-37, 2006-03

1990年代初頭、国政上の利害から都政を擁護するという点で、鈴木都政は、有権者に支持され、それが現状の継続に帰結した。しかし、80年代の政策志向を変更する世論は都政内外に強く、そうした声に促され、鈴木都政は臨海計画の見直しと住宅政策の充実に90年代前半期には踏み出す。こうした政策変更は、都議会公明党の主張でもあったため、90年代前半期には、同会派の政治態度を変更させる要因となった。背景には、多党化と多数党の欠如という政党配置の構造が、政策形成に際しては少数会派の主張を過大代表するという点があったのである。しかし、以上の政策決定は、議会内多数派の主張には沿っても、政党の党派的動員力の限定性がゆえ、多くの有権者には理解されなかった。その結果、有権者は、むしろ新しい勢力に都政の転換を託した。都政における構造性に党派的動員の低下という政治的条件が加わって都政の政党政治は弱化していたのである。
著者
光延 忠彦
出版者
千葉大学大学院社会文化科学研究科
雑誌
千葉大学社会文化科学研究 (ISSN:13428403)
巻号頁・発行日
no.11, pp.1-15, 2005

今日、政党政治は支配的な統治理念として広範に流通しているにも拘わらず、「勝利」したはずの政党政治は、都政において諸問題に直面し、閉塞感に覆われている。都知事選挙は1947年の選挙以来、政党候補が勝利して政権を担うという状態の継続にも拘わらず、こうした状態は90年代に入って変容した。91年選挙では主要政党の候補が無所属候補に敗退し、95年選挙では無党派候補が勝利して、政党候補の勝利は80年代で終焉した。また、都議会議員選挙でも投票率の低下、政党支持なし層の増大、政党による絶対得票率の減少等々、いくつかの指標において政党支持は流動化し、政党政治は魅力に欠けた存在になりつつある。これらは政党機能の衰退すら印象付ける現象である。本稿は、政策形成を通して80年代中期以降90年代前半期にかけての都政に接近し、政党配置における構造に政治的条件が加算されて、以上の事情がもたらされるという興味深い結論を導く。
著者
服部 龍二
出版者
千葉大学
雑誌
千葉大学社会文化科学研究 (ISSN:13428403)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.3-25, 1999-02-28

かつて筆者は、在華権益拡張策と新4国借款団の関連性を論じた際、原内閣が対米英協調に終始することなく独自に国益を拡充せんとしていたことを明らかにした。加えて原内閣は、時としてウィルソン政権(Woodrow Wilson)の新外交に強い違和感を示し、国益拡充のためには対英協調を基本方針とした。原内閣期最大の国際会議である パリ講和会議への対応は、まさにそのことを示している。このパリ会議に関する研究は少なからず存在するものの、日英協調や日米摩擦を原外交の中に位置づける視点は十分に確立されてこなかったように思われる。この点に加えて本稿では、中国外交文書を交えて中国側が調印拒否に至る過程を跡づけるとともに、米英の動向が後のワシントン体制成立との関係でいかに位置づけられるのかを探っていきたい。
著者
服部 龍二
出版者
千葉大学
雑誌
千葉大学社会文化科学研究 (ISSN:13428403)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.7-32, 1998-02-28

In treating the Hara cabinet's railroad policy in China, this paper analyzes Japanese economic expansion in China during the immediate post World War I era and reexamines Japanese foreign policy toward the New Consortium which has been regarded in general as a typical case of cooperative diplomacy with America and Britain. The Hara cabinet inherited from the former Terauchi cabinet the policy to extend the Nanchang-Jiujiang railway line in northern Kiangsi. Supported by the Hara cabinet, Toa Kogyo Company took the initiative in the negotiations with China and finalized a loan contract with Nanchang-Jiujiang Railway Company to extend the Nanchang-Jiujiang railway line. This Sino-Japanese loan contract was intended for the building of the Nanchang-Pingxiang railway line. However, this line was part of the larger Nanjing-Hunan railway line whose loan contract had already been offered to the New Consortium by British bankers. Japan, in other words, reached an agreement on the loan contract to extend the Nanchang-Jiujiang railway line without notifying the New Consortium, which had already been granted the rights to build the Nanjing-Hunan railway line. Trying to expand its economic concessions in China, Japan slighted cooperation with America, Britain, and France. The Hara cabinet, in addition, tried to extend the Siping-Zhengjiatun railway line in Manchuria and concluded the Siping-Taonan Railway loan contract, supporting the negotiations between the South Manchurian Railway Company and the Chinese government. Japan promised to offer funds to a faction in the Chinese government during the negotiations, which contradicted the basic foreign policy of the Hara cabinet that Japan, in line with America and Britain, would never offer funds to China until China was united. While knowing that the New Consortium did not permit any country to build the Zhengjiatun-Tongliao railway line, which was a branch line of the Siping-Taonan railway line, Japan went ahead and built that railway. We can therefore see that the Hara cabine
著者
吉永 明弘
出版者
千葉大学
雑誌
千葉大学社会文化科学研究 (ISSN:13428403)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.139-145, 2003-02-01

本稿の主題は、環境問題を、人間の「経験」を媒介にして考えることである。そのために、まず最初に、本稿における「環境」の範域を、人間が実感をもって経験できる「ローカル」な範域にしぼりこむ。次に、これまでの環境思想の中から、ローカルな環境について論じたものとして、「バイオリージョナリズム」という思想を取りあげ、その意義と問題点を明らかにする。そして、その間題点を乗り越えるために、「人間主義的地理学」と呼ばれる一連の論考にそって、人間の経験を媒介とした環境論を展開していく。
著者
望月 由紀
出版者
千葉大学
雑誌
千葉大学社会文化科学研究 (ISSN:13428403)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.114-119, 2002-02-01

本論分の目的は人格概念から意識主体的意味合いの排除を目的としており、トマス・ホッブズの『リヴァイアサン』における人格概念をその手がかりとする。
著者
朱 武平 シュ ブヘイ ZHU WUPING
出版者
千葉大学大学院社会文化科学研究科
雑誌
千葉大学社会文化科学研究 (ISSN:13428403)
巻号頁・発行日
no.12, pp.142-156, 2006-03

日本語のとりたて表現には主に2種類の形式があるとされている。一つは「特に、もっぱら」などのような副詞1によるとりたてで、もう一つは「だけ、ばかり、こそ、さえ」などの助辞によるものである。本稿では、後者のとりたて助辞2を対象とし、「も」をとりあげて考察をおこなう。「も」について、とくに従来あきらかにされてこなかった他の助辞との相互承接の面に重点を置き、実例から確認することができるすべてのパターンと、その出現の傾向について考察する。手元にある資料には限りがあり、充分な結果が示されるとは言えないが、「も」による格助辞、副助辞、係助辞(「も」を除き)のとりたて形式を示し、その文法的特徴をあきらかにするという目的は果たせているだろう。
著者
侯 越
出版者
千葉大学
雑誌
千葉大学社会文化科学研究 (ISSN:13428403)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.A1-A16, 1999-02-28

本文の目的は、戦後の歴史を辿りながら、わらび座の活動の特徴、わらび座の理念における変化と一貫性を見出すものである。つまり、わらび座を取り巻く社会状況を背景に据え、わらび座の芸能創造の理念とその実現方法に焦点を当て、わらび座と白本社会との間に、どのような相互交渉の関係が存在するのかを考察することである。異なる時代において、わらび座の社会運動への関わり方と芸能創作の方法が大きく変化したため、本論文は、わらび座の歴史を大きく四段階に分け、考察を進めることにする。
著者
中村 隆文
出版者
千葉大学
雑誌
千葉大学社会文化科学研究 (ISSN:13428403)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.29-40, 2004-10-01

ヒュームは因果関係を批判し、さらに人格の同一性も虚構的なものとして批判したことから、その思想は、デカルト以来疑われることのなかった「明晰な私」さえも否定する懐疑主義としてみなされてきた。事実、彼はその著作『人間本性論』において、実体を主張する二元論が根拠のない通俗的な説であると明言し、その論駁を主な目的としている。だが、私は、そうした動機、およびその議論の方法が懐疑主義的なものであるとも、あるいは、結論としてヒュームが懐疑主義者であるとも解釈されないものであると考えている。しかし、だからといって、ヒューム思想の本質が実際には彼自身が否定した二元論に拠っているということでもない。経験論は通常、知覚の中断にも関わらず、時間的経過における主体の在り方は不変的で同一的であるような主体実在論的立場にある。ヒュームは人格の同一性を批判しているものの、ヒューム思想全般の理論的背景として、そのような主体実在論的な経験主義、あるいは彼が否定するところの、主体の実在性を認めるような二元論を採っているとする解釈も少なくない。この論文における目論見としては、人格の同一性分析におけるヒュームの反主体実在論的立場が、因果分析を可能にしているヒュームの経験論と理論的に矛盾しないことを示し、ヒューム思想というものが、二元論あるいは主体実在論とは異なる形で主体の拡がりを示していることを明らかにしてゆくことにある。ヒュームの『人間本性論』における因果分析、人格の同一性分析を通しつつこれらのことを検証し、二元論的主体をどのような意味において否定しているのか、そして、主体というものがどのような位置付けをされているのかを考察してゆきたい。
著者
菅原 憲二
出版者
千葉大学
雑誌
千葉大学社会文化科学研究 (ISSN:13428403)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.A23-A38, 2001-02-01

京都御倉町は、現在中京区に属し、三条通に面し、烏丸通と室町通で東西に区切られた両側町である。祇園祭の際には、応仁の乱以前に楊雄山を出し、近世では神輿の轅町であったように、由緒を誇る下京南艮組の古町であった。豪商千切屋惣左衛門が根拠としていた町でもある。この町に町有文書があることは『明倫誌』や秋山國三 『公同沿革史・上巻』に掲載された史料によって、早くから知られていた。しかし、町有文書自体の所在は長い間不明であった。...
著者
辛 大基
出版者
千葉大学
雑誌
千葉大学社会文化科学研究 (ISSN:13428403)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.81-94, 2005-09-30

李箱の代表作「終生記」は遺書として書かれた作品として知られている。この作品で問題視したい箇所は、序文に「十三篇の遺書」を書いてきた事実を明記していることであるが、そのため李箱の遺書は「終生記」だけではなく、他にも存在することが推測できる。ただしそれについてははっきりした資料が残っていないのが現実である。もう一つは「終生記」には芥川龍之介の遺書と自分の遺書を比較しながら、そこから離れて独自的な作品を書こうとする決心も表れているため、李箱独自のスタイルとともに芥川からの影響関係をも考えられるのである。したがって本論では、このような李箱の遺書をめぐって、作品の構造や内容を分析することによって「十三篇の遺書」を見つけ出すことを試み、また芥川の遺書と比較を試みるのと同時にそれを通じて改めて李箱の遺書の本意を考えてみたいと思う。