著者
坂本 道生
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.56, no.1, pp.173-176, 2007

中国仏教の儀礼研究の一端として、北宋代の遵式(九六〇-一〇三二)を取り上げる。彼の遺文を集めた『金園集』には、いくつかの施食・放生に関する資料が収められており、放生会・施食会の流行した当時の状況や遵式の思想が把握できよう。本稿では、犠牲を供物にする中国在来の祭祀を改めて、仏教的な祭祀のあり方を説いた「改祭修斎決疑頒井序」(以下「決疑頒」と略す)というテキストを中心に、遵式の「改祭」についての考えと、改祭後の具体的実践を明らかにしたい。
著者
松岡 寛子
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.61, no.3, pp.1241-1247, 2013-03-25

『タットヴァ・サングラバ』「外界対象の検討」章vv. 4-15 (TS_B 1967-78)においてシャーンタラクシタは諸極微の集合体を所縁とみなすシュバグプタの見解を全面的に否認する.ここに繰り広げられる論争の争点が「諸極微の集合体の顕現をもつ知は諸極微の集合体から生じたものではない.実在を対象としないから.二月のように」という『観所縁論』v. 2abにおけるディグナーガの主張にある点は従来の研究において看過されてきた.本稿ではこの点に着目し,シュバグプタ著『バーヒャールタ・スィッディ・カーリカー』vv. 38-40及び上記のvv. 4-15の検討を通じて,ディグナーガのその主張を,シュバグプタがいかに批判し,シャーンタラクシタがいかに擁護しているかを次のとおり明らかにした.まず,シュバグプタの極微集合所縁説の特徴は,(1)諸極微は集合することによってはじめて直接知覚をもたらすものとなることと,(2)集合した諸極微は複数であるにもかかわらず,黄等の単一体として誤認されることという二点にまとめられる.一方,シャーンタラクシタは彼の極微集合所縁説を否認するため,(1)諸極微の物体という属性と無部分という属性とが理論的に両立不可能であることを指摘して(1)諸極微が集合することを否定し,(2)「諸極微である」と知覚判断されない限り諸極微は直接知覚の対象としては確定され得ないことを指摘して(2)単一体という錯誤知の根拠が集合した複数の諸極微であることを否定する.さらに後者を補完して(3)知覚可能なものが諸極微の集合体であるとする推理を否定し,『観所縁論』v. 6に同じく,知覚可能なものは知の内部の能力にほかならないことを証明する.このようにシャーンタラクシタは『観所縁論』v. 2abの解釈の展開に積極的な役割を果たした.
著者
倉西 憲一
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:18840051)
巻号頁・発行日
vol.62, no.3, pp.1267-1271, 2014-03-25

インド後期密教の文献であるGuhyavaliはわずか25偈からなる小品である.このGuhyavaliおよび著者Daudipadaはこれまで全く研究されてこなかった.Guhyavaliは短いながらも,インド後期密教の重要な教理「自加持」をメインテーマとしている.本稿では,まずGuhyavaliを引用する文献のリストを挙げる.中でも,10世紀頃のAdvayavajraや13世紀のRatnaraksitaなど著名な学僧が著作に重要な教証として引用しており,また顕密両方にまたがる教理的アンソロジーSubhasitasamgrahaにも五偈収録されていることから,Guhyavaliの重要性はインド後期密教史の中である程度認知されていたことがわかる.それはむしろ,当時の密教者たちが25偈という小品を記憶することで「自加持」の教理を学べる事実にGuhyavaliの重要性・便利さを見出したのであろう.続いて,Daudipadaという名の意味について推論を展開する.アパブゥランシャ語の可能性もあるが,サンスクリット語のdudi(亀)が変化した形とするならば,亀人という意味になる.Guhyavaliを引用するPadminiはJadavipadaという別名やJadaというタイトルを彼の名前に付している.Jadaは「愚鈍」「動きの鈍い」という意味である.もしもJadaviがJada+vinであって,前述のdudi(亀)から派生したDaudiと同義語であるならば,daudiがサンスクリット語のdudiから派生した語と考えられていた可能性がある.
著者
郡嶋 昭示
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.55, no.1, pp.210-213, 2006-12-20

In Shoko's writings, there are places where he wrote attributions such as "according to me" and "according to Ben'na" Ben'na being another name for Shoko. In this paper, I examine why Shoko wrote in this manner. It is apparent that Shoko only did this for certain sections and not others, intentionally making a distinction. Examining the content of Shoko's writings, it is clear that he was distinguishing his supplementary explanations from Honen's original discourse. In other words, in order that Shoko's own explanations not be confused with Honen's, he clarified by adding attributions like "according to me" to those sections, and we can presume he was conscientiously recording Honen's thoughts.
著者
那須 円照
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.61, no.3, pp.1217-1223, 2013-03-25

本論攷では,護法(Dharmapala)の『唯識二十論』に対する注釈書である『成唯識宝生論』における唯識無境(世界は心のみであり外界の対象は存在しない)という学説を積極的に論証した箇所について検討する. この唯識無境の論証には,二つのレヴェルがあることに注意しなければならない.それは,論理的な極微論批判的背景にもとづく外界物質実在論批判と,究極の唯識は仏陀の自己認識のみであり,他者の心の実在性も認めず,一切は包括的に仏陀の心の中の認識内容であるという立場である.後者は,『唯識二十論』の末尾の記述と密接に関係する.前者は,『唯識二十論』の極微論批判の記述と密接に関係する.後者は,『唯識二十論』の法無我の論証の箇所の,主観・客観を離れた唯識性(離言の法性)のみが存在するという記述に若干仏陀の唯識との関連性が見られる.護法は外界実在論者を,外界の対象は識にもとついて構想されたものであり,識なしにはなく,構想された共相は非実有であり,外界の物質的対象は極微論批判的な内的必然性にもとついて無であるとした.また,この外界非実在論に加えて,もう一つさらに,真の唯識は,他者の物質的存在を否定するだけでなく,他者の精神的存在も仏にとっては真実には他者としてありえないということが,自己認識,清浄な自心の認識,主客を離れた真の唯識,というような表現で,示唆されている.このことは,『唯識二十論』の末尾のヴィニータデーヴァと慈恩大師・基の註釈で,真の唯識とは,仏陀の包括的自己認識であるというような文脈でまとめられている.これは独我論というよりは,絶対的包括的唯心論と名づけるべきであろう.
著者
寺石 悦章
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.40, no.2, pp.909-907, 1992
著者
松岡 寛子
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.60, no.3, pp.1242-1247, 2012-03-25

『タットヴァ・サングラハ』「外界対象の検討」章では,外界対象の存在が不合理であることと,認識が所取・能取という二相を欠いていることを根拠として唯識説が確立されることが説示される.シャーンタラクシタはv.118(TS_B 2082)において次のように述べる.能力が直前の認識にあるとき,所取分に関して〔認識〕対象が確立される(ab).〔しかしながら,所取分に関する認識対象の確立を〕我々は真実のものとしては認めない.したがって〔我々は〕それ(認識対象の確立)を支持しない(cd).認識の一部分に認識対象を設定するというab句の見解が『観所縁論』におけるディグナーガの主張に一致することは『パンジカー』に『観所縁論』を引用するカマラシーラによって指示される.両師弟はこのディグナーガ説をいかなるものとして言及しているのか.西沢史仁氏は,師弟がディグナーガの唯識説をそれとは異系統の唯識説を奉じる立場から批判しているとみなしている(「カマラシーラのディグナーガ批判」『インド哲学仏教学研究』3(1995):21).しかし,師弟は認識対象の設定を全面的には否定しておらず,ましてや唯識論師ディグナーガを批判していない.『パンジカー』,及び『観所縁論釈』等によれば,ディグナーガが『観所縁論』において認識の所取分に認識対象を設定したのは世俗的真理の観点からであって究極的真理の観点からではない.そしてこの所取分に認識対象を設定すること,認識に所取・能取という二相を設けることこそが唯識説における「垢」である.この「垢」が真実の観点から除去されることにより,最終的に唯識説は「無垢」(119b': vimala)となる.シャーンタラクシタの見解において,唯識説はこのように認識の無二性に帰着するのである.
著者
川村 悠人
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:00194344)
巻号頁・発行日
vol.61, no.1, pp.285-281, 2012-12-20
著者
上田 昇
出版者
日本印度学仏教学会
雑誌
印度學佛教學研究 (ISSN:18840051)
巻号頁・発行日
vol.60, no.2, pp.1006-999, 2012-03-20