著者
倉田 勇
出版者
天理大学学術研究会
雑誌
天理大学学報 (ISSN:03874311)
巻号頁・発行日
vol.24, no.2, pp.49-68, 1972-09
著者
河内 良弘
出版者
天理大学学術研究会
雑誌
天理大学学報 (ISSN:03874311)
巻号頁・発行日
vol.25, no.6, pp.1-27, 1974-03
著者
初谷 譲次
出版者
天理大学
雑誌
天理大学学報 (ISSN:03874311)
巻号頁・発行日
vol.66, no.2, pp.129-141, 2015-02

カスタ戦争(メキシコ史上最大規模の先住民反乱:1847~1901年)の末裔であるクルソーマヤは,メキシコ・キンタナロー州において,軍事的色彩は喪失しているとはいえ,今なお,反乱過程で再編成した強固なエスニック・コミュニティを形成している。十字架信仰と教会護衛制度を軸とするマヤ教会コミュニティは植民地支配によって押し付けられたカトリックの祈りを自らの文化資本として再領土化している。他方で,メキシコ国家は,1910年の革命以降一貫してきた「統合主義」的先住民政策を,サリナス政権(1988~94年)期における新自由主義路線への方向転換を契機として「多文化主義」へとシフトしてきている。本稿は,マヤ教会コミュニティが国家によるマヤ先住民の包摂を促進する受け皿となっていることを肯定的に捉えようとするものである。
著者
初谷 譲次
出版者
天理大学学術研究委員会
雑誌
天理大学学報 (ISSN:03874311)
巻号頁・発行日
vol.62, no.1, pp.1-30, 2010-10

本稿は3年計画の科研プロジェクト「日常的実践におけるマヤ言説の再領土化に関する研究」の最終年度に実施したフィールド調査の報告書であり,前2作の完結編となる。したがって,前2作で積み残していた2つの課題を中心に取り組んだ。ひとつは,トゥルム村の外部世界との接触の歴史である。そしてもうひとつはマヤ教会で日常的に実践されているミサと呼ばれる祈りのマヤ語部分の翻訳・分析である。かつてサマと呼ばれたトゥルム村はスペイン植民地支配(エンコミエンダ制度)に組み込まれ過疎化・消滅してしまう。しかし,19世紀に勃発したカスタ戦争を契機にトゥルム村は反乱拠点として復活する。そして,20世紀には遺跡の考古学的調査ブームとメキシコ国家統合によって村は条理空間にのみこまれていく。このような過酷な運命に翻弄されながらも,押し付けられたカトリックの祈りをブリコラージュによる摸倣と継承を繰り返しながら,自らの日常的実践の資産として再領土化してきた。かれらの日常的実践は,かたくなに伝統を守りながらマヤ文化の復興をはかるという本質主義的語りのなかに回収されてしまいがちである。しかし,彼らの祈りのなかには,いわゆる「マヤ的要素」は見あたらない。今回分析したマヤ語の祈りにも,カトリックを逸脱するような要素は見られなかった。マヤの人びとがときには経験知をときには科学的リテラシーを使い分けて,秩序ある条理空間と顔の見えるローカルな日常的平滑空間の両方を生きているとすれば,まごうことのない近代的自我を確立して合理的な科学的リテラシーのみを駆使して生きていると錯覚しているわれわれのやっていることとさほど変わらないのかもしれない。
著者
初谷 譲次
出版者
天理大学学術研究委員会
雑誌
天理大学学報 (ISSN:03874311)
巻号頁・発行日
vol.60, no.1, pp.123-142, 2008-10

トゥルムといえばカリブの美しい海岸に面したマヤ遺跡が有名であり,遺跡公園はつねに観光客であふれている。しかし,トゥルム遺跡のすぐそばにあるトゥルム市について,そこがクルソー・マヤと呼ばれた反乱マヤの聖地だったということはほとんど知られていない。カスタ戦争(1847―1901年)の末裔であるこの地域の人びとは,祭祀センターであり聖域である教会を輪番制で護衛するシステムを維持している。本稿は,2007年夏に実施したフィールド調査に基づいて,トゥルム市マヤ教会の護衛システムと伝統的ノベナを紹介するとともに,調査のさいに加えられた制限について考察しようとするものである。マヤ役職者たちは,研究者にメモ帳,筆記用具,録音機器,カメラおよびビデオなどの情報機器の使用を禁じる。しかし,だからと言って順路的経験をいっしょにすることを拒否することはない。むしろ積極的に参加をうながす。ただし,その順路的経験を地図的知識に整理しようとするそぶりに対しては強い拒絶の態度を示すのだ。情報操作の優劣による他者化を防いだうえで,儀礼への参加は認めることで研究者を他者化することもしないという日常的実践における近代と伝統の境界線上を生きるという戦術なのだ。
著者
倉持 史朗
出版者
天理大学
雑誌
天理大学学報 (ISSN:03874311)
巻号頁・発行日
vol.66, no.1, pp.51-77, 2014-10

監獄費国庫支弁法が成立した1900(明治33)年に感化法が成立した。その内容は不良行為や犯罪を行った児童を監獄から分離し,福祉的・教育的処遇(感化教育)によって(再)犯罪予防を企図した画期的なものであったが,実際には公立感化院の整備は大きく遅れた。そのような状況の中で同法制定を契機として犯罪・不良少年に対する処遇の改善を企図していた監獄官僚たちは,司法省管轄下にある特別幼年監(独立設置した懲治場)を主な舞台として「感化教育」を実践していくことになる。本研究はこのような司法省による懲治場改革(特別幼年監の設置)に焦点をあて,それらの改革がまさに幼少年犯罪者に対する「感化教育」の実践であったことを明らかにすることを目的にしている。そのため,従来研究では用いられてこなかった神戸監獄・洲本分監,福島監獄・中村分監,横浜監獄女子懲治場の資料を分析し,各懲治場の教育方針やその体制,学科教育及び生活指導や入所児童などの状況について検討した。
著者
鳥居 久靖
出版者
天理大学学術研究会
雑誌
天理大学学報 (ISSN:03874311)
巻号頁・発行日
vol.23, no.5, pp.375-392, 1972-03