著者
浦井 聡
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.92, no.1, pp.79-104, 2018 (Released:2018-09-30)

田辺元(一八八五―一九六二)は、一九四四年夏の救済の体験を転機に、宗教哲学を中心とする思索を展開した。田辺は自身の宗教的救済を語る一方で、自分のことを無宗教者と表現する。本稿は、田辺が提示した「無宗教者の宗教的救済」という一見矛盾した見解に注目し、とりわけそれが「なぜ起こり得るか」について明らかにした。田辺が宗教的救済と呼ぶものは、特定の神や仏による救済ではなく、「絶対無即愛」という田辺独自の絶対者理解による救済である。その救済の内容は、個人が理性の二律背反に直面し、自身の無力を自覚することによって可能となる知と行為の性質の変化である。このような救済は、特定の神や仏に対する信仰を持っていなくとも起こり得るとされ、田辺は人から人へと「絶対無即愛」のはたらきが伝播すること(絶対媒介)によって可能となるとした。本稿では、田辺の絶対媒介についての見解が孕む問題点を指摘しつつ、「無宗教者の宗教的救済」の根本的契機を、社会における当為の二律背反に見出した。
著者
池上 良正
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.86, no.2, pp.193-217, 2012-09-30 (Released:2017-07-14)

日本語の「無縁供養」は、系譜上の祀り手を失った死者のほか、戦乱・事故・自然災害などの災禍によって非業の死をとげたと見なされた人々を追弔・慰撫する言葉として用いられている。広くは「苦しむ死者」を救済する代表的な言葉である。「死者供養」を東アジアで形成され民衆層に普及した、ユニークで動態的なひとつの「救済システム」として捉えるとき、そこには、(A)親孝行や先祖の孝養という側面と、(B)何らかの未練や怨念を残した死者(苦しむ死者)たちの救済という側面の二面性を指摘できるが、「無縁供養」に代表される(B)の「苦しむ死者の救済」は、このシステム全体を存続させる原動力を供給し続けてきたことが注目される。本稿ではこの「無縁供養」の構造と展開過程を考察する。そこに潜在していた「無遮」と「無主」との有機的な動態性は、救済システムとしての「死者供養」が広く民衆層に定着するさいの原動力になっていた、という見通しを示す。
著者
近藤 洋平
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.85, no.1, pp.51-74, 2011-06-30 (Released:2017-07-14)

本稿では、イスラームの初期東方イバード派における人間の宗教的分類と、同分類で用いられる忘恩・偽信概念の役割及び両概念の関係を、同派の学者による書簡や神学書を用いて考察した。クルアーン、ハディースにおける用法を確認した後で、東方イバード派は、二/八世紀には偽信者を多神教徒から区別する作業を行い、人間の分類に際しては一神教と多神教、また現世と来世という二重の基準が使われていたこと、偽信は大罪や義務行為の不履行という行為と関連づけられた一方、忘恩は、啓典クルアーンの解釈の誤りという知的営みを意味に含めて展開されたことを明らかにした。そしてこれらを踏まえ、一部の研究者が主張する、同概念が同義であることについて、両概念は互いに密接に関わり、重なり合う部分が多いものの、少なくとも初期の時期に、両概念が同義であったと考えられていたと断じることは難しいと結論付けた。
著者
竹下 政孝
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.78, no.2, pp.295-320, 2004

トルコの大衆紙『タクヴィーム』に毎日連載されているゼケリヤ・ベヤーズのコラム、「あなた方の質問への回答、本当のイスラーム」に、二〇〇〇年一〇月から二〇〇一年八月の期間に掲載された読者からの質問約五〇〇問の内容を分析することによって、トルコの民衆がイスラームに対してどのような意識・関心をもっているかを探った。質問が圧倒的に集中しているのは、儀礼行為に関するものである。その他に、ある事柄が、罪であるか、あるいは許されているかを問う質問も非常に多い。義務の儀礼行為は正しく履行されなければ罪となるので、質問の半分以上が罪に関するものであるといえる。罪を犯すことへの強い懼れは、死後の審判に対する確固たる信仰に由来する。また、質問の多くに、イマームの言葉が引用されることから、トルコの民衆の宗教生活に占めるイマームの役割の大きさを窺い知ることができる。
著者
鎌田 東二
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.85, no.2, pp.429-456, 2011-09-30 (Released:2017-07-14)

「ワザ(技・業・術)」とは人間が編み出し、伝承し、改変を加えてきたさまざまな技法・技術であるが、その中に呼吸法や瞑想法などを含む身体技法や各種の芸能・芸術の技法やコミュニケーション技術、また物体を用いる技法・身体を用いる技法・意識に改変を加える技法などがある。ワザは心とモノとをつなぐ媒介者であり、身体を用いた心の表現法でもある。「滝行」を含む諸種の「ボディワーク(身体技法)」は、「ある目的(解脱・霊験・法力・活力を得る・悩みの解除など)を達成するために、心身を鍛錬し有効に用いるワザ・作法・技法である」。宗教的「身体知」も、宗教的観念や宗教思想に裏打ちされながら、さまざまなワザを持っている。その宗教的ワザの一つとしての「滝行」に着目することにより、日本の宗教的身体知の独自性とそこに宿る「生態智」を掘り起こす。
著者
西村 玲
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.75, no.3, pp.643-663, 2001-12
著者
西村 玲
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.81, no.1, pp.69-91, 2007

本論は、近世の仏教思想家であった普寂の思想から、近世から近代にかけての大きな問題であった大乗非仏説の問題を考察する。普寂の大乗論を通して、近世仏教の思想的意義を示すと共に、近世から近代への思想史的水脈の一つを明らかにする。普寂の大乗論は、華厳の教相判釈にもとつく実践論である。普寂にとっての教相判釈は概念的な理論ではなく、自らが生きて実行すべき修行の道程であり、魂が何生もかけて上昇していく階梯である。普寂は、華厳の教理を理論的基盤として、教判を実践することによって、自らの内部においては大乗非仏説を大乗仏説へと転換させた。思想史的に言えぼ、富永仲基に代表されるような合理的思惟方法は、教判を生きる普寂の宗教性を生んだ。近世仏教における両者のダイナミックな連関は、思想史深部の水脈として近代仏教へと流れ込み、村上専精をはじめとする近代仏者の精神的基盤の一つとなった。
著者
西村 玲
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.84, no.3, pp.661-681, 2010

中国におけるキリスト教布教は、イエズス会によって十六世紀末に始まった。十七世紀初頭に出版されたマテオ・リッチの教理書『天主実義』において、天主は無始無終の存在であり、万物の根源とされた。これに対して、明末高僧の雲棲〓宏は、天主は万億の神々の一人に過ぎず、抽象的な理でしかない、と批判した。次世代にあたる臨済禅僧の密雲円悟は、自己内心の普遍性である大道を主張し、弟子の費隠通容は大道の世界観を論じる。通容は、大道は虚空のように万物を包含すると同時に内在しており、悟りの有無にかかわらず天地と自己は本来的に一体であるとした。〓宏から通容までの天主批判は、仏者が異質な教えであるキリスト教に出会うことによって、仏教にとっての普遍性と世界観を自覚し、表現していった過程とみることができる。それは唯一絶対の他者である天主を踏切板として、遍在する虚空の大道が普遍として定義され、天主に対置されていく思想的道筋であった。