著者
室井 康成
出版者
専修大学人間科学学会
雑誌
専修人間科学論集. 社会学篇 (ISSN:21863156)
巻号頁・発行日
no.8, pp.65-105, 2018-03

2000年以降、いわゆる「荒れる成人式」問題が顕在化している。一般に成人式は、多くの日本人が加齢の過程で経験する重要な人生儀礼の一種として理解されているため、その荒廃ぶりは現代の若者の未熟さを示すものとして、しばしば睥睨の対象となっている。それは成人式が、近代まで日本各地において、15歳前後の若者に対して行なわれてきた成人儀礼「元服」の現代版として捉えられることも一因だと思うが、実は両者に連続性はない。これまで現行の成人式は、敗戦直後に埼玉県蕨市で行なわれたものが全国に普及したとする説が有力であったが、本稿の調査を通じて、それがすでに戦前の名古屋市で行なわれていたことが明らかとなり、その開催趣旨や運営方式から、そこに元服的要素はなく、あくまでイベントとして開催されていたことを確認した。翻って成人式定着以前の類例を、各地の民俗事象を手掛かりに見てゆくと、何歳を成人と見なすかという基準は、ほぼ集落単位で取り決められており、全国一律の基準などなく、またその認定時期も個人の成熟度に応じて、かなりの柔軟性を持っていたことが明らかになった。この場合の成熟度とは、男子は「親の仕事を手伝う能力」、女子の場合は「結婚可能性」であり、いずれも個人差を前提としていた。だが、そうした柔軟性を駆逐したのが、明治期の徴兵制に起源をもつ「成人=20歳」という新基準であったが、これも全国民の間で共有されたと政府が認めたのは、戦後10年を経た頃であった。逆説的だが、「成人=20歳」という認識も、戦後の官製成人式の普及によって国民の間に浸透したのである。しかし、現在では新成人の約半数は就学者であり、しかもその段階で既婚である者も少ないであろう。前代に比べて現代の若者が幼く見えたとしても、それは仕方のないことである。法の規定とは別に、成人と見なす基準は時代や個人の境遇によって変わるということは、近代の民俗史が語るところだが、そうした様々な差異を無化して、無作為に人を一堂に集めるから荒れるのであり、そこに官製成人式の限界がある。とはいえ、多くの人が経験し、しかも70年以上の歴史をもつ行事であれば、それは十分に民俗学の対象である。通常、民俗学はその対象を「保護・顕彰」すべきものとして捉えるが、本稿では、現行の成人式が民俗的根拠を欠いた意義なきものであることを論じ、その廃止を提言する。
著者
室井 康成
出版者
専修大学人間科学学会
雑誌
専修人間科学論集. 社会学篇 (ISSN:21863156)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.65-105, 2018-03-23

2000年以降、いわゆる「荒れる成人式」問題が顕在化している。一般に成人式は、多くの日本人が加齢の過程で経験する重要な人生儀礼の一種として理解されているため、その荒廃ぶりは現代の若者の未熟さを示すものとして、しばしば睥睨の対象となっている。それは成人式が、近代まで日本各地において、15歳前後の若者に対して行なわれてきた成人儀礼「元服」の現代版として捉えられることも一因だと思うが、実は両者に連続性はない。これまで現行の成人式は、敗戦直後に埼玉県蕨市で行なわれたものが全国に普及したとする説が有力であったが、本稿の調査を通じて、それがすでに戦前の名古屋市で行なわれていたことが明らかとなり、その開催趣旨や運営方式から、そこに元服的要素はなく、あくまでイベントとして開催されていたことを確認した。翻って成人式定着以前の類例を、各地の民俗事象を手掛かりに見てゆくと、何歳を成人と見なすかという基準は、ほぼ集落単位で取り決められており、全国一律の基準などなく、またその認定時期も個人の成熟度に応じて、かなりの柔軟性を持っていたことが明らかになった。この場合の成熟度とは、男子は「親の仕事を手伝う能力」、女子の場合は「結婚可能性」であり、いずれも個人差を前提としていた。だが、そうした柔軟性を駆逐したのが、明治期の徴兵制に起源をもつ「成人=20歳」という新基準であったが、これも全国民の間で共有されたと政府が認めたのは、戦後10年を経た頃であった。逆説的だが、「成人=20歳」という認識も、戦後の官製成人式の普及によって国民の間に浸透したのである。しかし、現在では新成人の約半数は就学者であり、しかもその段階で既婚である者も少ないであろう。前代に比べて現代の若者が幼く見えたとしても、それは仕方のないことである。法の規定とは別に、成人と見なす基準は時代や個人の境遇によって変わるということは、近代の民俗史が語るところだが、そうした様々な差異を無化して、無作為に人を一堂に集めるから荒れるのであり、そこに官製成人式の限界がある。とはいえ、多くの人が経験し、しかも70年以上の歴史をもつ行事であれば、それは十分に民俗学の対象である。通常、民俗学はその対象を「保護・顕彰」すべきものとして捉えるが、本稿では、現行の成人式が民俗的根拠を欠いた意義なきものであることを論じ、その廃止を提言する。
著者
室井 康成
出版者
専修大学人間科学学会
雑誌
専修人間科学論集. 社会学篇 (ISSN:21863156)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.65-105, 2018-03-23 (Released:2018-07-16)

2000年以降、いわゆる「荒れる成人式」問題が顕在化している。一般に成人式は、多くの日本人が加齢の過程で経験する重要な人生儀礼の一種として理解されているため、その荒廃ぶりは現代の若者の未熟さを示すものとして、しばしば睥睨の対象となっている。それは成人式が、近代まで日本各地において、15歳前後の若者に対して行なわれてきた成人儀礼「元服」の現代版として捉えられることも一因だと思うが、実は両者に連続性はない。これまで現行の成人式は、敗戦直後に埼玉県蕨市で行なわれたものが全国に普及したとする説が有力であったが、本稿の調査を通じて、それがすでに戦前の名古屋市で行なわれていたことが明らかとなり、その開催趣旨や運営方式から、そこに元服的要素はなく、あくまでイベントとして開催されていたことを確認した。翻って成人式定着以前の類例を、各地の民俗事象を手掛かりに見てゆくと、何歳を成人と見なすかという基準は、ほぼ集落単位で取り決められており、全国一律の基準などなく、またその認定時期も個人の成熟度に応じて、かなりの柔軟性を持っていたことが明らかになった。この場合の成熟度とは、男子は「親の仕事を手伝う能力」、女子の場合は「結婚可能性」であり、いずれも個人差を前提としていた。だが、そうした柔軟性を駆逐したのが、明治期の徴兵制に起源をもつ「成人=20歳」という新基準であったが、これも全国民の間で共有されたと政府が認めたのは、戦後10年を経た頃であった。逆説的だが、「成人=20歳」という認識も、戦後の官製成人式の普及によって国民の間に浸透したのである。しかし、現在では新成人の約半数は就学者であり、しかもその段階で既婚である者も少ないであろう。前代に比べて現代の若者が幼く見えたとしても、それは仕方のないことである。法の規定とは別に、成人と見なす基準は時代や個人の境遇によって変わるということは、近代の民俗史が語るところだが、そうした様々な差異を無化して、無作為に人を一堂に集めるから荒れるのであり、そこに官製成人式の限界がある。とはいえ、多くの人が経験し、しかも70年以上の歴史をもつ行事であれば、それは十分に民俗学の対象である。通常、民俗学はその対象を「保護・顕彰」すべきものとして捉えるが、本稿では、現行の成人式が民俗的根拠を欠いた意義なきものであることを論じ、その廃止を提言する。
著者
室井 康成
出版者
専修大学人間科学学会
雑誌
専修人間科学論集. 社会学篇 (ISSN:21863156)
巻号頁・発行日
no.8, pp.65-105, 2018-03

2000年以降、いわゆる「荒れる成人式」問題が顕在化している。一般に成人式は、多くの日本人が加齢の過程で経験する重要な人生儀礼の一種として理解されているため、その荒廃ぶりは現代の若者の未熟さを示すものとして、しばしば睥睨の対象となっている。それは成人式が、近代まで日本各地において、15歳前後の若者に対して行なわれてきた成人儀礼「元服」の現代版として捉えられることも一因だと思うが、実は両者に連続性はない。これまで現行の成人式は、敗戦直後に埼玉県蕨市で行なわれたものが全国に普及したとする説が有力であったが、本稿の調査を通じて、それがすでに戦前の名古屋市で行なわれていたことが明らかとなり、その開催趣旨や運営方式から、そこに元服的要素はなく、あくまでイベントとして開催されていたことを確認した。翻って成人式定着以前の類例を、各地の民俗事象を手掛かりに見てゆくと、何歳を成人と見なすかという基準は、ほぼ集落単位で取り決められており、全国一律の基準などなく、またその認定時期も個人の成熟度に応じて、かなりの柔軟性を持っていたことが明らかになった。この場合の成熟度とは、男子は「親の仕事を手伝う能力」、女子の場合は「結婚可能性」であり、いずれも個人差を前提としていた。だが、そうした柔軟性を駆逐したのが、明治期の徴兵制に起源をもつ「成人=20歳」という新基準であったが、これも全国民の間で共有されたと政府が認めたのは、戦後10年を経た頃であった。逆説的だが、「成人=20歳」という認識も、戦後の官製成人式の普及によって国民の間に浸透したのである。しかし、現在では新成人の約半数は就学者であり、しかもその段階で既婚である者も少ないであろう。前代に比べて現代の若者が幼く見えたとしても、それは仕方のないことである。法の規定とは別に、成人と見なす基準は時代や個人の境遇によって変わるということは、近代の民俗史が語るところだが、そうした様々な差異を無化して、無作為に人を一堂に集めるから荒れるのであり、そこに官製成人式の限界がある。とはいえ、多くの人が経験し、しかも70年以上の歴史をもつ行事であれば、それは十分に民俗学の対象である。通常、民俗学はその対象を「保護・顕彰」すべきものとして捉えるが、本稿では、現行の成人式が民俗的根拠を欠いた意義なきものであることを論じ、その廃止を提言する。
著者
矢崎 慶太郎
出版者
専修大学人間科学学会
雑誌
専修人間科学論集. 社会学篇 (ISSN:21863156)
巻号頁・発行日
no.4, pp.137-148, 2014-03

本論では、芸術についての社会学理論を概観するために、基本的なアプローチを4つに区分して考察する。まず第一に芸術を道徳や経済などの「社会の反映」として示すコント、マルクス、第二に、芸術を社会と対立する関係にあるものと見なし、「社会の外側」にあるものとして扱うアドルノおよびゲーレン。第三に、芸術は社会的な反映ではないが、政治や経済と同様に、社会制度のひとつであり、「社会の内側」に属するものとして扱うベッカー(アート・ワールド)、ブルデュー(芸術場)、ルーマン(芸術システム)。第四に、芸術そのものを社会の原型として見るジンメル、および芸術がどのように他の社会領域に影響を与えているのか、という視点から芸術と経済との関係を研究するアプローチを取り上げる。これらの4つのアプローチを取り上げながら、芸術をどのように社会的な現象として扱うことができるのか、および芸術の社会学的研究にはどのような意義があるのかについて明らかにする。
著者
中尾 暢見
出版者
専修大学人間科学学会
雑誌
専修人間科学論集. 社会学篇 (ISSN:21863156)
巻号頁・発行日
no.4, pp.101-117, 2014-03

本稿は最初に激増する高齢者犯罪の実態を示す。暴行事件は1990年から2009年までの約20年間で52.6倍と激増している。あまりの激増ぶりに驚く人も多いであろうが、これでも氷山の一角である。なぜならば、これは検挙された数であるため被害者が警察へ被害届を出さない場合も多いからである。今まで被害者と目されてきた高齢者は、いったい何時から、どうして暴力的に豹変したり加害者となってしまったのであろうか。次にその要因として4つの言説を提示した上で検討を行う。白書や主要な研究者は1つ目の言説を支持しているが、筆者はその他に3つの言説を示す。1つ目の高齢者の孤立説では高齢者が社会と家族から孤立するメカニズムを紐解く。2つ目の犯罪コーホート説では犯罪者が多い出生コーホート(世代)を示した上でデータによる検証を行う。パオロ・マッツァリーノの言説では1941年から1946年生まれの出生コーホートを提示しているが、筆者はデータから出生年を1940年から1946年生まれへと修正提示した上で犯罪者が多いコーホートを浮き彫りにして、クローズアップされ続けた少年犯罪は減少傾向にあることを示す。3つ目の認知症説では長寿化に伴い認知機能の衰えた高齢者が増加することで、病気のために犯罪者となり再犯を重ねる傾向のある高齢者像を浮き彫りにする。そして4つ目の確信犯説では窃盗や暴力事件で警察沙汰になっても泣いて謝罪すれば許されるであろう、ボケたふり病気のふりをすれば見逃してもらえる、警察でも拘留されることなく帰宅できる、送検されても起訴猶予になる程度、地位も名誉も失うものは無いからと開き直って犯罪を重ねる悪質な高齢者の存在を示す。戦後の日本社会は、速い速度で劇的に変化を遂げてきた。変化の波乗りは、とても難しい。社会的弱者ほど波乗りに失敗したり、やり直して成功しても何度目かのチャレンジでは失敗して意欲を失って沈んでしまうこともある。溺れる人々が多いのは当該社会にとっては危険なサインである。社会政策の失敗、運用の行き詰まり、変革の必要性を示すサインでもある。加害者の処罰とその対応に追われてばかりいると、次々に新たな加害者を生み出すだけで問題の根治や解決には至らない。犯罪者を生み出さない社会づくりが必要である。高齢者犯罪が激増した要因を分析することは、今日の日本社会を照らすことになる。
著者
徐 玄九
出版者
専修大学人間科学学会
雑誌
専修人間科学論集. 社会学篇 (ISSN:21863156)
巻号頁・発行日
no.8, pp.53-64, 2018-03

明治末期から大正期を経て昭和初期にかけて、いわゆる「第二維新」を掲げる多くの運動が展開された。日本のファシズム化の過程で結成された多くの国家主義団体は、ほとんど大衆的組織基盤をもっておらず、しかも、組織機構を整備していなかった。ごく少数の幹部が勇ましいスローガンを掲げていたに過ぎず、経済的基盤も弱かった。しかし、大本教および出口王仁三郎の思想と運動は、これまでのテロやクーデターに頼った右翼や青年将校に比べて、大衆組織力、社会への影響力という点で、群を抜いていた。そして、大本教および出口王仁三郎の運動を「天皇制ファシズム」を推し進める他の団体、青年将校らと比較した場合、決定的に違う点は、テロやクーデターのような暴力的手段に訴える盲目的な行動主義とは一線を画し、「大衆的な基盤」に基づいて、あくまでも「無血」の「第二維新」を目指したことである。出口王仁三郎が追求したのは「民衆の力を結集すること」による社会変革であったのである。
著者
中尾 暢見
出版者
専修大学人間科学学会
雑誌
専修人間科学論集. 社会学篇 (ISSN:21863156)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.101-117, 2014-03-15

本稿は最初に激増する高齢者犯罪の実態を示す。暴行事件は1990年から2009年までの約20年間で52.6倍と激増している。あまりの激増ぶりに驚く人も多いであろうが、これでも氷山の一角である。なぜならば、これは検挙された数であるため被害者が警察へ被害届を出さない場合も多いからである。今まで被害者と目されてきた高齢者は、いったい何時から、どうして暴力的に豹変したり加害者となってしまったのであろうか。次にその要因として4つの言説を提示した上で検討を行う。白書や主要な研究者は1つ目の言説を支持しているが、筆者はその他に3つの言説を示す。1つ目の高齢者の孤立説では高齢者が社会と家族から孤立するメカニズムを紐解く。2つ目の犯罪コーホート説では犯罪者が多い出生コーホート(世代)を示した上でデータによる検証を行う。パオロ・マッツァリーノの言説では1941年から1946年生まれの出生コーホートを提示しているが、筆者はデータから出生年を1940年から1946年生まれへと修正提示した上で犯罪者が多いコーホートを浮き彫りにして、クローズアップされ続けた少年犯罪は減少傾向にあることを示す。3つ目の認知症説では長寿化に伴い認知機能の衰えた高齢者が増加することで、病気のために犯罪者となり再犯を重ねる傾向のある高齢者像を浮き彫りにする。そして4つ目の確信犯説では窃盗や暴力事件で警察沙汰になっても泣いて謝罪すれば許されるであろう、ボケたふり病気のふりをすれば見逃してもらえる、警察でも拘留されることなく帰宅できる、送検されても起訴猶予になる程度、地位も名誉も失うものは無いからと開き直って犯罪を重ねる悪質な高齢者の存在を示す。戦後の日本社会は、速い速度で劇的に変化を遂げてきた。変化の波乗りは、とても難しい。社会的弱者ほど波乗りに失敗したり、やり直して成功しても何度目かのチャレンジでは失敗して意欲を失って沈んでしまうこともある。溺れる人々が多いのは当該社会にとっては危険なサインである。社会政策の失敗、運用の行き詰まり、変革の必要性を示すサインでもある。加害者の処罰とその対応に追われてばかりいると、次々に新たな加害者を生み出すだけで問題の根治や解決には至らない。犯罪者を生み出さない社会づくりが必要である。高齢者犯罪が激増した要因を分析することは、今日の日本社会を照らすことになる。
著者
小森田 龍生
出版者
専修大学人間科学学会
雑誌
専修人間科学論集. 社会学篇 (ISSN:21863156)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.93-101, 2022-03-23

本稿では、日本における性的少数者(ゲイ・バイセクシュアル男性)のメンタルヘルス悪化のメカニズムを、要因間の関連性と時間の経過に伴う影響力の変化に注目して明らかにすることを目的として実施した調査結果の一部を報告する。昨年度、本誌に掲載された調査報告に続く本稿では、メンタルヘルス問題と深いかかわりがある自殺念慮や自殺未遂経験(歴)、そのほか関連が予想される心理的変数およびカミングアウト経験の有無等を中心に集計結果を提示する。昨年度の調査報告と異なる視点として、本稿では異性愛男性とゲイ・バイセクシュアル男性との比較にくわえ、ゲイ男性とバイセクシュアル男性との比較を行った。その結果、ほとんどの変数に関して異性愛男性とゲイ・バイセクシュアル男性との間では異なる回答傾向が認められたが、ゲイ男性とバイセクシュアル男性との間では共通した回答傾向が確認された。たとえば自殺念慮や自殺未遂経験とも異性愛男性に比べてゲイ・バイセクシュアル男性の該当割合が高く、ゲイ男性とバイセクシュアル男性との間には目立った違いはなかった。ゲイ男性とバイセクシュアル男性との間で比較的に大きな違いがあったのはカミングアウト経験の有無であり、ゲイ男性のカミングアウト経験割合が高かった。カミングアウト経験とメンタルヘルスとの関連を調べたところ、カミングアウト経験がある場合にメンタルヘルスの状態が悪い傾向にあることが確認された。
著者
塚越 健司
出版者
専修大学人間科学学会
雑誌
専修人間科学論集. 社会学篇 (ISSN:21863156)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.89-99, 2014-03-15

フランスの哲学者・思想家のミシェル・フーコー(1926-84)は、晩年に「パレーシアπαρρησiα parrêsia」という古代ギリシア語の言葉を研究していた。本稿は、パレーシアを「真理陳述=真実語りvéridiction」の一つの形式だと述べるフーコーのパレーシア研究に沿いながら、預言者の真理陳述に着目する。パレーシアとは、古代ギリシア語で「すべてを語るtout-dire」あるいは「真実を語るdire-vrai」といった意味を持つ。さらにパレーシアは常に危険を伴う言説行為であり、また語る内容を語る本人が信じていなければならない等の条件がある。本稿では第1章として、フーコーが語った真理陳述としてのパレーシアが、古代ギリシアのアテナイ民主政社会においてその機能を健全に維持するための、一種の社会的装置であったと解釈する。第2章では、フーコーが直接語らなかった古代イスラエル社会における預言者の「真理陳述」の形式について、預言者に関する先行研究を参照することで、それが神との契約を想起させる社会的装置であったと解釈する。第3章では、預言者の言説がパレーシアとどのように異なるのかについてフーコーの主張を確認する。さらにフーコーが残した仮説から、古代イスラエルの預言者の真理陳述の形式が、現代ではパレーシアの形式と混合し、「預言的パレーシア」として名付けることができることを確認する。最後に、預言的パレーシアという真理陳述の形式が革命家の言説として、現代にも引き継がれていることを確認する。
著者
柴田 弘捷
出版者
専修大学人間科学学会
雑誌
専修人間科学論集. 社会学篇 (ISSN:21863156)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.43-64, 2020-03-23

本稿は安倍政権によって進められている「働き方改革」の下で変わりつつある日本の「雇用されない働き方」の一形態である「フリーランス的な働き方」の実態を明らかにしようとするものである。まず「働き方改革」の狙いと内容を素描し、そこで追求されている「多様で柔軟な働き方」の一つとしての「フリーランス的な働き方」をしている者の量的把握を試みたいくつかの試算を紹介した。その数は少ないもので230万人、多いもの470万人となっていた。「フリーランスの就業実態」以降で、いくつかの実態調査を基に、その類型、属性、業務内容、就業実態、収入の現実および「フリーランス」の意識(満足感、問題点、課題認識等)を明らかにした。「フリーランス的働き」をしている者は、属性、業務内容、就業時間、収入も多様でまさに千差万別であった。ただ、契約期間の短さ、就業時間の短さが特徴的に浮かび上がってきた。また働き方への満足度が強いにもかかわらず、仕事と収入が安定しないこと、「自営業主」扱いであるため、雇用者に保障されている様々な保険が適用されないことへの不満が強いことが明らかになった。最後に、現代の「フリーランス的働き方」の典型と思われるギグワーカー(gig worker)の分析も行った。それはまさに究極の不安定就労であることを指摘した。
著者
塚越 健司
出版者
専修大学人間科学学会
雑誌
専修人間科学論集. 社会学篇 (ISSN:21863156)
巻号頁・発行日
no.4, pp.89-99, 2014-03

フランスの哲学者・思想家のミシェル・フーコー(1926-84)は、晩年に「パレーシアπαρρησiα parrêsia」という古代ギリシア語の言葉を研究していた。本稿は、パレーシアを「真理陳述=真実語りvéridiction」の一つの形式だと述べるフーコーのパレーシア研究に沿いながら、預言者の真理陳述に着目する。パレーシアとは、古代ギリシア語で「すべてを語るtout-dire」あるいは「真実を語るdire-vrai」といった意味を持つ。さらにパレーシアは常に危険を伴う言説行為であり、また語る内容を語る本人が信じていなければならない等の条件がある。本稿では第1章として、フーコーが語った真理陳述としてのパレーシアが、古代ギリシアのアテナイ民主政社会においてその機能を健全に維持するための、一種の社会的装置であったと解釈する。第2章では、フーコーが直接語らなかった古代イスラエル社会における預言者の「真理陳述」の形式について、預言者に関する先行研究を参照することで、それが神との契約を想起させる社会的装置であったと解釈する。第3章では、預言者の言説がパレーシアとどのように異なるのかについてフーコーの主張を確認する。さらにフーコーが残した仮説から、古代イスラエルの預言者の真理陳述の形式が、現代ではパレーシアの形式と混合し、「預言的パレーシア」として名付けることができることを確認する。最後に、預言的パレーシアという真理陳述の形式が革命家の言説として、現代にも引き継がれていることを確認する。
著者
マイ・ティ・カイン・フエン
出版者
専修大学人間科学学会
雑誌
専修人間科学論集. 社会学篇 (ISSN:21863156)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.73-88, 2017-03-15

日本の農村地域は国全体の高齢化を20年ほど先取りして既に超高齢社会になっている。したがって、21世紀の日本の高齢化社会のなかで、農村地域における高齢者の生活が維持できるかどうかは、深刻な問題となっている。こうした状況のなかで、2000年4月に介護保険制度が施行された。社会保険公式の導入、「措置」から「契約」の移行、民間事業者の参入などにより日本の高齢者福祉システムは大きく変化してきた。それは、介護サービス利用者が多様なサービスを選択し、利用できるようになったことである。このような制度のもと、山形県最上郡戸沢村と長野県小県郡旧真田町(現在の上田市真田町)での事例を通して、本稿の目的は、(1)農村・農家での要介護高齢者への家族介護について、(2)高齢者介護と農業生産との相互の関係性、(3)介護サービス利用後の高齢者生活の変化等、三つの点を明らかにすることである。さらに、その分析を踏まえたうえで、介護保険制度の導入によって発生する問題を検討するとともに、農村地域における要介護高齢者と主介護者の生活の質を高めるための課題を探ることである。
著者
斉 穎賢
出版者
専修大学人間科学学会
雑誌
専修人間科学論集. 社会学篇 (ISSN:21863156)
巻号頁・発行日
no.1, pp.107-117, 2011-03

本稿は、これまでの先行研究で明らかになった、モンゴル社会における伝統的家族・父系親族の特徴が、①父系原理によって構成された血縁関係からなる氏族的集団、②家父長的小家族が単位、③族外婚、④複数の相続があり、女子の相続も小部分あるが、主に男子相続であり、特に「末子相続」であることを整理し、「小家族」と「末子相続」に焦点を当てて、これまで先行研究が見落としてきた点、つまり、①なぜ小家族が単位なのか、②なぜモンゴル社会は末子相続なのかを再検討し、明らかにするのが目的である。研究方法として、文献・資料を検討の上で、比較的伝統的であったモンゴル社会に生まれ育った経験を生かしながら、現在の生活の中での家族・親族関係を踏まえて、内側から、モンゴル社会における家族・父系親族の現象をとらえるだけでなく、その現象の持つ主な特徴の「意味」を探った。その結果、①モンゴル小家族は、遊牧的経済だけが要因ではなく、モンゴル人が、子どもを結婚させて、「独立」させることを、親の基本的な「義務の達成」とし、それを子供の「1人前の成人」であるという概念と、「親族間の軋轢」を避けるという観念と緊密に関連している。②モンゴル相続の発生は親の死後ではなく、子の「結婚・独立」時に発生しており、「平等である」という親の「判断基準」に基づき、諸子に財産を分割しているのが実態であり、しかも、「末子相続」慣行であっても、他の民族の「長子相続」のような「1人の子どもが死者の財産を排他的に継承する一子相続のパターン」ではない。③モンゴルの「末子相続」慣行は、明らかにモンゴルの「小家族が単位」と関連しており、上の兄弟たちが、次々と独立していった結果は、末子が親の扶養をすることになる。しかし、親の扶養が問題にならなかったから、法制度的な規定がなかったことになる。④農耕化したモンゴル社会における事例から、「末子相続」の慣行は、遊牧或は農耕のような経済的形態が主因でなく、「イエ」や「家族」をどう見るかという「観念」によるいという内藤莞爾説が実証されたことになる。
著者
庄司 俊之
出版者
専修大学人間科学学会
雑誌
専修人間科学論集. 社会学篇 (ISSN:21863156)
巻号頁・発行日
no.5, pp.99-112, 2015-03

大阪の釜ヶ崎で日雇い労働者や路上生活者たちの支援活動を行っている修道女、大野晶子さんにライフヒストリーを聞いた。最初に現在の釜ヶ崎の状況、その変貌する様子をどのように見ているかを説明してもらい、ついで、どのような過程をへて釜ヶ崎での活動に携わるようになったのか、自身の前半生について語ってもらった。1927年生まれ。釜ヶ崎の危機的状況については原発労働者や監視カメラなど、硬質な言葉で表現した。それに対して出身地で幼少期にみた光景について聞くと、戦前の神戸がいかに国際色豊かだったかを語ってくれた。この原体験としてある多様性への感覚は、現在の危機意識と鮮やかにコントラストをなしていた。また、大正ロマンを生きたという両親からは「キリストに従うこと」や「慈善のわざ」を受け継いだ。しかし両親は、おんなは結婚して夫の家の宗教にしたがうべきとする伝統的な考えをもち、娘の入信には反対したという。これを押し切るかたちで家を出て修道院に入り、第2バチカン公会議における「現代化」の思想や労働運動に携わっていた弟から「キリストの生き方」を学ぶなどしながら、やがて定年間近の年齢になって「つぎの段階へすすむ」ために大きな修道院を出て小さな共同体を生きることを考えるようになった。そのとき短期の研修として赴いた先のフィリピンでの経験こそ、彼女が釜ヶ崎で活動するようになる大きなきっかけとなった。以上の事例研究は、たとえば福祉活動に携わるアクターの諸類型を比較研究する際の有益な材料のひとつにもなりえるし、また、福祉の思想や宗教思想を掘り下げようとする際にも有効な示唆が得られるはずである。
著者
庄司 俊之
出版者
専修大学人間科学学会
雑誌
専修人間科学論集. 社会学篇 (ISSN:21863156)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.97-104, 2020-03-23

この研究ノートは死生観の歴史的変遷と現在を考えるための視点についての覚書である。第1節では、現代の状況を考えるための視点としてバウマンの「液状化する社会」を挙げる。そして液状化にもかかわらず、あるいはそれゆえに、きわめてシンプルな死生観に収斂していく可能性について述べ、さらに今日「死生観を問う」こと自体が政治的効果を発揮しうることを言う。つぎの第2節では、2019年にオランダで議論された「認知症の安楽死」をとりあげ、これを死生観全体でいえば先端部分に位置する論争点と理解したうえで、その歴史的な経緯や行方について考える。そして第3節では、先端から底辺へ視点を移し、戦後日本における死生観の変容について、そして世界史的な転換の構図について触れる。最後の第4節では、死生観を考える際に見落とされることの多かった生の諸相について、排泄と食べることを例にとって若干の考察を行なう。
著者
小森田 龍生
出版者
専修大学人間科学学会
雑誌
専修人間科学論集. 社会学篇 (ISSN:21863156)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.99-107, 2021-03-23

本稿では、日本における性的少数者(ゲイ・バイセクシュアル男性)のメンタルヘルス悪化のメカニズムを要因間の関連性と、時間の経過に伴う影響力の変化に注目して明らかにすることを目的として実施した調査結果の一部を報告する。調査対象は、日本国内に居住する20~60歳までのゲイ・バイセクシュアル男性、および異性愛男性である(共に学生、および外国籍の者を除く)。調査の実施方法は民間調査会社に登録するアンケートモニターを対象としたインターネット調査である。回収数はゲイ・バイセクシュアル男性1,684件、異性愛男性1,854件であり、データクリーニング後のサンプルサイズはゲイ・バイセクシュアル男性1,668件、異性愛男性1,851件であった。回答者の平均年齢は、ゲイ・バイセクシュアル男性41.69歳、異性愛男性47.26歳であった。メンタルヘルスについて、K6尺度をもちいてたずねた結果、ゲイ・バイセクシュアル男性の平均値は異性愛男性に比べて高く、メンタルヘルスの状態が悪い傾向にあることが確認された。また、メンタルヘルスに影響を与える要因のひとつとして想定しているいじめ・ハラスメント被害経験についてもゲイ・バイセクシュアル男性において経験割合が高く、クロス集計の結果からも2つの変数の関連性が示唆された。
著者
藤代 将人
出版者
専修大学人間科学学会
雑誌
専修人間科学論集. 社会学篇 (ISSN:21863156)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.125-137, 2017-03-15

神奈川県県央地域にはエスニック関連施設が集積しているが、郊外におけるこのような地域を何と呼べばよいのか。本研究では、リ・ウェイ(Li.Wei)の概念に示唆を受け(Li 2011)、神奈川県県央地域全体を一種の「エスノサバーブ」と仮定する。エスノサバーブはいくつかのマルチエスニック・ネイバーフッドから構成されると筆者は考えるが(Alba1997:883-903)、本論では、マルチエスニック・ネイバーフッドの一つである大和市M 地区をフィールドに、「結節点」としてのエスニック施設を対象として、そこに形成されるマルチエスニックな社会的世界の一端と、その世界を支える地域のエスニシティ経験に焦点を合わせ報告する。本論ではいくつかの「結節点」の社会的世界について描くが、外国籍住民にとって、「結節点」としてのエスニック施設は母語で交流でき、必要な情報が得られ、日本でのストレスや家族の問題について相談できる場所でもあり、コミュニティセンターとしての役割を担っている。M 地区の場合の特徴は、「マルチエスニック性の高さ」である。また、マルチエスニック性と並んで「寛容性」の高さもあげられる。それはこの地区の周囲に難民定住促進センターや厚木基地の存在があったことも大きい。それが地域としてのエスニック経験を積み重ね、そのことが異質性に対する「寛容性」を生み出したと筆者は考える。
著者
柴田 弘捷
出版者
専修大学人間科学学会
雑誌
専修人間科学論集. 社会学篇 (ISSN:21863156)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.25-42, 2017-03-15

本稿はいくつかの調査データを用いて、日本の非正規雇用者のおかれている状況を、女性パートを中心に、明らかにしようとしたものである。日本の雇用状況は、非正規雇用者の増加と雇用形態の多様化(パート、派遣社員、契約社員、嘱託等)が進んでいる。2015年時点で、雇用者の1/3強の2,000万人、うち女性は1,350万人を超え、女性雇用者の半数強を占めるに至った。女性の非正規雇用者の多くはパートで主婦が多い。その主婦パートは、時給1000円程度で、1日数時間働いているものがほとんどである。年収にすると130万円以下が大半である。これには、税制(扶養家族控除規定)と年金・医療保険制度と大きく関係している。同時に、女性に大きく偏っている家事負担、家計補助程度の収入でよいとする意識、つまり家庭内地位と関係している。この低賃金と雇用の不安定性は、女性パートだけでなく他の非正規雇用者群も同様の状態に置かれている。また、やむを得ず・不本意に非正規雇用に就いている者も少なくない。彼ら/彼女らは、正規の雇用者に変わりたいと思っているが、なかなか正規の職には就けないのが現状である。いわば非正規の固定化(脱出できない)状況で「雇用身分社会」(森岡)となっている。労働世界に「格差と分断」が生じている。この背景には、人件費を節約したいとする企業の労務政策がある。
著者
徐 玄九
出版者
専修大学人間科学学会
雑誌
専修人間科学論集. 社会学篇 (ISSN:21863156)
巻号頁・発行日
no.8, pp.53-64, 2018-03

明治末期から大正期を経て昭和初期にかけて、いわゆる「第二維新」を掲げる多くの運動が展開された。日本のファシズム化の過程で結成された多くの国家主義団体は、ほとんど大衆的組織基盤をもっておらず、しかも、組織機構を整備していなかった。ごく少数の幹部が勇ましいスローガンを掲げていたに過ぎず、経済的基盤も弱かった。しかし、大本教および出口王仁三郎の思想と運動は、これまでのテロやクーデターに頼った右翼や青年将校に比べて、大衆組織力、社会への影響力という点で、群を抜いていた。そして、大本教および出口王仁三郎の運動を「天皇制ファシズム」を推し進める他の団体、青年将校らと比較した場合、決定的に違う点は、テロやクーデターのような暴力的手段に訴える盲目的な行動主義とは一線を画し、「大衆的な基盤」に基づいて、あくまでも「無血」の「第二維新」を目指したことである。出口王仁三郎が追求したのは「民衆の力を結集すること」による社会変革であったのである。