著者
森山 達矢
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.50-62, 2012 (Released:2020-03-09)

本稿は、身体という対象を社会学的に理解するための、認識論と方法論について検討するものである。このテーマについて、ローイック・ヴァカンの身体社会学の根幹をなしている「肉体の社会学」(carnal sociology)を検討する。彼の肉体の社会学は、師であるピエール・ブルデューの反省的社会学を実践するものであり、認識論と方法論とを反省的に問い直す過程において提出されたものである。肉体の社会学の特徴は、「身体の社会学」と同時に「身体からの社会学」となっているということである。「身体からの社会学」が意味していることは、社会学者の身体を、対象を理解する手段とするということである。しかし、ヴァカンは、フィールド・ワークにおける身体性と反省性について十分に検討していない。この点にかんして、本稿は、リチャード・シュスターマンのsomaesthetics(1)の議論を検討する。シュスターマンは、反省-前反省的領域という図式には含みこまれない、感性的な反省の存在を指摘し、この感性的な反省の学術的可能性を論じている。こうした議論から、筆者は、社会学者には、方法論として「感性社会学的反省」が必要であることを主張する。
著者
鈴木 弥香子
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.55-67, 2014 (Released:2020-03-09)

現在、グローバリゼーションの進展によって様々な変容が社会に対して迫られ、多方面で弊害が生じており、それに対してどう対応するかという新たな社会構想を描く必要性が増しているが、その試みはこれまで進展してこなかった。本稿では、新たな構想としてコスモポリタニズムに着目し、それがアクチュアリティを持つ考えであると同時に、実践するにあたってはある困難性を有していることを明らかにする。コスモポリタニズムは、近年グローバリゼーションの進展に呼応するようにヨーロッパ圏を中心として盛んに議論されている一方で、日本においてはその検討が不十分であるのが現状である。そこで第一に、コスモポリタニズムの中でも政治的な変革に関連する議論を、「規範的」なものと「記述的」なものに区別し、整理する中で、そのアクチュアリティを明らかにする。第二に、同概念をより具体的な実践として考えるため、政治的な変革に関わるコスモポリタニズムの議論の多くがコスモポリタンな実践の条件となるグローバルな連帯の存在を自明視、過大評価しているという問題について検討を行う。その中で、連帯を「弱い連帯」と「強い連帯」に分けて考える必要性を提起し、グローバルなレベルでは「弱い連帯」は見られるものの「強い連帯」の構築は困難であることを指摘し、コスモポリタニズムの実践における困難性を明らかにしながらも、EUにおける金融取引税という事例から新たな可能性についても素描する。
著者
馬渡 玲欧
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.68-80, 2017 (Released:2020-03-09)

本稿はH. マルクーゼ『エロスと文明』に焦点を当てながら、マルクーゼのエロス的文明論をギリシャ哲学由来の「伝統的存在論」に対する批判という観点から再構成することによって、マルクーゼがM.ハイデガーの「死へ臨む存在」論の限界を乗り越えようとしたことを示す。方法として、マルクーゼがハイデガーの弟子であり、後年まで密かにハイデガー思想が彼に影響を与えていたことを踏まえながら、両者の議論を比較する。ハイデガーとの共通点とは西欧哲学の伝統的存在論に対する批判である。ただし社会変革の主体を探求するマルクーゼはハイデガーの基礎存在論ではなく、より直接的に人間存在の本質を探求する考察に向かう。その際マルクーゼは、フロイトをプラトン哲学の延長に位置づけることで、フロイトの欲動論に人間存在の本質としてのエロスを見出す。また、ハイデガー存在論においては「時間」が考察の手がかりとなり、「通俗的時間概念」が批判された。ロゴスだけではなく、直線的時間意識も同様に人間存在の本質を規定する思考様式である。ハイデガーは「死へ臨む存在」の関心に通俗的時間概念を乗り越える視座を見出す。他方マルクーゼはこの時間意識を批判するために、「永劫回帰」の思想を取り上げる。「永劫回帰」によって、人間のエロスに対する「意志」は肯定される。人間の死を合理的に解釈する実存哲学を批判し、人間の非合理的な死ではない「生物学的な自然死」を強調するマルクーゼは、「死へ臨む存在」が人間の本質であるとみなすハイデガーを乗り越えようとした。
著者
安達 智史
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.6-18, 2020 (Released:2021-08-25)

「多文化主義は女性にとって害悪か」。この疑問は、多文化主義に投げかけられる根本問題である。多文化主義はマイノリティの文化に承認を与えるが、その結果、承認を受けたコミュニティの内部で個人の権利が制限される。そして、そうした権利を制限される個人は、多くの場合、女性なのである。だが、ムスリム女性について分析をおこなった本稿は、多文化主義をめぐるこうした支配的ディスコースと異なる知見を導きだしている。それによると、多文化主義は、女性たち自身の手による宗教的探求を促すことで「イスラームを人間化」し、その結果、市民社会の価値との両立を実現するとともに、彼女たちのより広い社会への参加を可能にしている。本稿では、イギリスの移民第二世代ムスリム女性のヒジャブ着用/未着用をめぐる態度についての分析を通じて、女性の自律と信仰の関係とともに、多文化主義、イスラーム、西洋社会への統合との間にあるより積極的な結びつきについて議論をおこなう。
著者
岡沢 亮
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.29-41, 2017 (Released:2020-03-09)
被引用文献数
1

日本における図画のわいせつ性をめぐる裁判に関しては、その恣意性が批判されてきた。ただし、それらの批判は、わいせつ裁判が必然的・蓋然的に恣意的になることを主張するものであり、個別具体的な判決のどの部分がいかなる意味で恣意的なのかを分析・考察する方向性は開かれていなかった。そこで本稿は、図画のわいせつ性をめぐる裁判に関して、その恣意性を考察するための準拠点を析出する分析方針を提示することを目指す。 まず、裁判の恣意性を指摘する既存研究を批判的に検討する。第1に、図画をわいせつである/ないと見ることは必然的に恣意的だとする立場が、法的判断の恣意性の分析を目指すためには有益でないと論じる。第2に、法的判断が恣意的か否かという問題は、裁判官が判決を形成した際の動機を推測することによってではなく、判決の正当化の論理を分析することによって検討されるべきだと論じる。 そのうえで、法的判断の正当化の理解可能性を支える概念の論理文法を分析するという方針を提示する。同方針のもとで、具体的事例として愛のコリーダ事件一審判決を分析し、解明された概念の論理文法を参照するかたちで、当の法的判断の恣意性を考察する。結論として、図画のわいせつ性をめぐる法的判断の正当化の理解可能性を支える概念の論理文法を分析することが、その法的判断の恣意性の考察にとって有益であると主張する。
著者
三井 さよ
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.3-15, 2011 (Released:2020-03-09)

本稿は、多摩地域における知的障害当事者への支援活動に基づき、ケアや承認を論じる際にしばしば取り上げられる、「決定」「介入」と「帰属」「分配」について考察を加える。知的障害の当事者には決定が困難だとみなされがちだが、実際には、当事者による決定を周囲が理解できなかったり、決定に必要な情報を周囲が当事者に伝えられなかったりするとも言える。当事者の自己決定を尊重するというとき、その決定プロセスに支援者や周囲がすでにどう介入してしまっているのか、それ自体を相対化することが必要になる。このことは、分配や帰属という制度レベルにも影響している。その人の主体性をそれとして尊重するためには制度的分配が必要だが、制度的分配を活用するためには当事者をよく知る支援者によるきめ細やかな支援が必要である。決定と介入の割り切れなさはひとつの関係性の内部では解決不能なため、多摩地域では複数帰属という手法に取り組んでいる。
著者
萩原 優騎
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.3-15, 2013 (Released:2020-03-09)

2011年3月11日に発生した大地震と原子力発電所事故以降、これまでの社会の前提を問い直そうという動きが活発になった。その中で、地域社会の再生が今後の重要課題として提示され、現状における復興の在り方を疑問視する主張も多い。一例として、ナオミ・クラインの言う「ショック・ドクトリン」への批判がある。この批判は、災害前のコミュニティを元通りに再生することの支持に等しいのだろうか。多元性を重視し、特定の基準を一律に適用する政策を批判するからといって、以前のコミュニティが当該地域の人々にとって最適のものであったということを、必ずしも意味するわけではないはずである。 八ッ場ダム問題は、地域の多元性の在り方を考えるための事例となる。この地域では、長年の対立を通じて、住民の人間関係は悪化の一途を辿り、人々は疲弊した。その末にダムを受け入れたにもかかわらず、最近になってダム建設の中止が宣言された。それに対して、地元からは多くの反発の声が上がった。ここには、環境保護という理念と、地域の個別的事情が対立するという困難が見られる。このような場合、当事者たちの多元性を無条件に認めてよいのだろうか。意思決定過程において、人々が自らの諸前提を問い直し、現状とは異なる選択肢を創出する可能性を支えるための参照枠として、社会学をはじめとする諸理論が機能し得ることを、本稿では提示する。
著者
竹中 克久
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.107-119, 2017 (Released:2020-03-09)

本稿は、批判的経営研究(Critical Management Studies [CMS])を、組織文化研究のオルタナティブとして正当に位置づける試みである。そのために、既存の組織文化研究を4つのセルに分類し、CMSによる組織文化研究の意義と可能性を強調する。組織文化は一般的に“組織成員によって内面化され共有された価値、規範、信念のセット”と考えられてきた。そこでは、企業をはじめとした組織の競争力の源泉として、組織文化がもたらす忠誠心の強さや組織成員の一体感が強調される事が多かった。その後、E. H. シャインにより、組織文化概念の重層的なモデルが示されることによって、過度の実践性は薄れ、理論の科学化・精緻化が進んでいった。その後、このモデルは組織シンボリズムのG. モーガンや、組織美学のP. ガリアルディらによる批判を経て、組織文化は組織成員によるシンボルの多様な解釈の対象として位置づけられた。 このような組織文化に対して懐疑的なアプローチをとるのが本稿で詳述するCMSの立場である。M. アルベッソンを嚆矢とするCMSは、文化が権力者によって強制的に組織成員にすり込まれることによって、自らの組織文化を当然視し、神格化し、果てにはその組織文化に強く依存するメンバーである文化中毒者(cultural dopes)を産み出す危険性を指摘する。文化中毒者は、既存の文化を本質的で合理的かつ自明のものとみなし、ほかのオルタナティブな社会的現実を作り出すことを控える(Alvesson [2001] 2013: 153)。昨今、企業をはじめとした組織の不祥事は後を絶たない。その原因に組織文化があることが指摘される場合が多いが、CMSを除く既存の組織文化研究では組織文化の「負」の側面についてアプローチできないことを本稿において明らかにする。