著者
河村 裕樹
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.83-95, 2019

近年、精神医学的な知識や医療をめぐって大きな変化が生じている。ひとつには地域移行が、もうひとつには精神医療の参与者と精神医学的な知識とのかかわり方の変容があげられる。本稿ではこうした変容を受け、社会学は精神医療や精神医学的知識について、どのように記述することができるだろうかという問いのもと、これまでの精神医療に関する社会学的研究を跡付けながら、一つの記述のあり方としてエスノメソドロジー研究を提示する。そこで、精神医療と社会学的視座とが補い合う形で変容してきたことを次の3つの段階にわけて論じる。第一に反精神医学とそれを理論的に支えたラベリング論である。第二に、ナラティヴに着目するナラティヴ・アプローチと社会構築主義である。第三に近年精神医療の臨床において大きな影響を与える当事者研究である。当事者研究は半精神医学と呼びうる考えで、知の布置連関の転換をもたらす可能性を有する。本稿では、ラベリング論や社会構築主義とは異なる理解可能性をもたらす視座として、エスノメソドロジーのアイデアを提示することで、知の新たな布置連関を記述する、一つのあり方を示す。
著者
森 千香子
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.19-30, 2020 (Released:2021-08-25)

本稿は「ポスト多文化主義時代」のフランスにおいてマイノリティをめぐる状況にどのような変化が生じているのかを考察した。これまで多文化主義は、「共和主義」を国是とするフランスには馴染まない、あるいは反発を引き起こす、という観点から捉えられてきたが、実際には新たな動きも観察されている。「セクシュアル・デモクラシー」に見られるような新たな排除の論理が広がる一方で、反差別運動の内部から差別被害者だけのセーフ・スペースを求める「ノン・ミクシテ」という実践が展開されるようになった。それはマイノリティの権利擁護の運動に新たな地平を切り開くと同時に、従来のフランス型共和主義の発想と対立するものであることから、激しい批判や攻撃を引き起こしている。さらに「ノン・ミクシテ」運動やムスリム女性のスカーフ着用をめぐる「選択」の問題には、少数者が団結して抵抗するというコングリゲーションの論理と、社会が少数者ごとに隔離されていくというセグリゲーションの論理という、解釈をめぐる対立が浮かび上がっている。
著者
廣田 拓
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.54-66, 2015

本稿は、イギリスの社会学者A・ギデンズのモダニティ論で言及されている、専門家と非専門家の出会いの場を意味する、「アクセス・ポイント」という概念を検討する一論考である。アクセス・ポイントとは、モダニティを生きる人々が、特定のコンテクストを共有する(専門家などの)集団に所属すると同時に、そこを離れたところでは一般人として生活しているという両義性が顕在化する場でもある。本稿ではこのことを、自他の対面的/非対面的相互行為に現れる人称代名詞の観点から議論している。対面的な相互行為において、自他はともに双方の呼びかけに応答する〈あなた〉として現れると同時に、この関係性は相互了解的な〈ワレワレ〉性を帯びている。他方、各種マス・メディアなどを利用した非対面的な相互行為において、自己は他者を〈彼/彼女〉として対象化する一方で、この他者にとって、自己はその他大勢の中の一人として〈ヒトビト=大衆〉性を帯びて現れる。ギデンズのアクセス・ポイント概念は、こうした〈私〉の中に含まれる〈ワレワレ〉性と〈ヒトビト〉性を結びつける接合点としての意味をもつ。モダニティを生きる諸個人の実存的不安は、その実存の無根拠性を露わにする〈ヒトビト〉性を解消するべく〈ワレワレ〉性に人々を接近させる。ギデンズの議論は、それがモダニティを生きる現実から目を逸らす結果となることに注意を喚起し、この問題を乗り越えるための概念を提示している。
著者
山本 崇記
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.72-85, 2009 (Released:2020-03-09)

近年の社会運動とその研究の(再)活性化に比して、社会運動研究においてこそ問われるべき課題が十分に深められていない状況がある。その課題とは第一に、実践的問題意識を持ちながらも社会運動との緊張関係を通じて研究を練成する方法論とはどのようなものかという点である(課題①)。第二に、現実に生じている社会運動の背景にある具体的な歴史的文脈をどのように対象化するのかという点である(課題②)。これらの課題は、かつて日高六郎が社会運動研究の社会学的課題として指摘した点と重なっており、社会運動とその研究が活性化していた1970年代にこれらの課題に否応なく取り組まざるを得なかった研究史に遡及する必要性をも示している。本稿では、似田貝香門と中野卓による「調査者一被調査者論争」をその参照点として位置付ける。「論争」の過程で、似田貝が活動者の「総括」という行為に「調査モノグラフ」を通じて参与する「共同行為」を研究者の主体性確立の条件としたことを、課題①を深めた議論と評価する。また、中野のライフヒストリー研究を、集団ではなく個人生活史を通じて社会を捉え返すことで課題②に応じつつその先に進んだものと評価する。それ故に逆説的にも研究と運動の担い手が固定化し、理論(研究者)/実践(活動者)及び活動者(中心)/生活者(周縁)という認識枠組が再生産され、社会運動の実態から研究が議離する危険性を抱えていったのだと論じる(課題③)。
著者
鈴木 弥香子
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.32-44, 2019 (Released:2020-03-09)

本稿は、ウルリッヒ・ベックのコスモポリタン理論を「新しいコスモポリタニズム」と関連させながら論じることで、その特徴と意義、問題性を明らかにし、批判的継承への方途を探る。「新しいコスモポリタニズム」の議論では、コスモポリタニズムが現代的文脈に照らし合わされ、批判的/反省的に再構成されてきた。そこで重視されているのは(1)ローカル/コスモポリタン二分法批判、(2)アクチュアリティの強調、(3)ユーロセントリズム批判の三つの観点である。ベックのコスモポリタン理論にもこれらの観点は色濃く反映されており、第一の観点については「コスモポリタン化」概念の提示、第二の観点については「現実(real)」というキーワードの強調がそれぞれ対応している。第三の観点、ユーロセントリズム批判に関しては、ベックはユーロセントリズム批判を展開する側であると同時に、ユーロセントリックだと批判される側にもなっていると言える。例えば、バンブラはベックのコスモポリタニズムがユーロセントリックだと批判し、その理由として帝国主義と植民地支配の歴史の軽視を挙げるが、これはベック理論における一つの問題だと言える。また、もう一つの問題と考えられるのが、ベックは「コスモポリタンな現実」を過大評価することで規範的/倫理的な問いを回避する傾向にあることである。こうした問題に対応するためには、ポストコロニアルな思考を取り入れ、差異や歴史的な文脈に注意深く目を向けながら、他者とどう向き合うべきかという問いについて取り組んでいく必要がある。
著者
早川 洋行
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.28-40, 2015 (Released:2020-03-09)

今日、実証データを示すことは、学問の世界のみならず世間一般でも重要視されている。しかし、実証すること自体が価値を帯びたり、データが捏造される事件も起きている。本稿はそうした現状を踏まえて、社会学史における実証研究に関する議論を整理し、社会学研究(社会学者)と「実証すること」の関係について考察したものである。 コントは、社会学は形而上学的段階から実証的段階に進化すべきだと考えていた。その際、重視されるのは何より「観察」だった。J. S. ミルはコントの主張に対して、概念が客観的世界から遊離してしまう点と、眼に見えない心理的なものの観察方法が示されていない点を批判した。またドイツ実証主義論争において、アドルノは、内容に対する方法の優位、方法の多様性による社会の全体性の解体、イデオロギー化を指摘するとともに、哲学の復権を主張し、一方、ポパーは、主観による観察の構築を指摘して、批判的合理主義を主張した。 以上4人の議論を見田宗介が用いた言葉を再定義して整理すれば、「引出されたデータ」に固執する問題、「引出されたデータ」「見出されたデータ」「未知のデータ」の関係の問題、「引出されたデータ」の恣意性の問題に整理できる。結論として、社会学者は「見出されたデータ」の世界に身を置きつつ、「引出されたデータ」と「未知のデータ」に関心を保ち続けることが大切であると主張する。
著者
山本 圭
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.86-98, 2009 (Released:2020-03-09)

ラディカル・デモクラシーという現代民主主義理論のー潮流には、それ自体の内部においても多様なパースペクティブが存在しており、そのなかでも本稿が焦点を当てるのは、エルネスト・ラクラウの政治理論である。ラクラウの政治理論はこれまで、今日のアカデミズムへの甚大な影響にも関わらず、主題的に論じられることはあまりなかった。したがって本稿の目的は、ラクラウの提示した民主主義理論の可能性を検証するためにも、彼がどのように自身の政治理論を醸成させていったかを明らかにすることである。そこで手掛かりとなるのが「主体」の概念である。つまり『ヘゲモニーと社会主義戦略』において主体は、構造内部の「主体位置」と考えられていたが、後に精神分析理論からの批判を取り入れることにより、それを「欠如の主体」と捉えるようになったのである。そしてこの主体概念をめぐる転回が、ラクラウ政治理論を脱構築との接合や普遍/個別概念の再考などの新しい展開へと促したことを示すことにしたい。最後にこの「欠如の主体」の導入が、ラクラウの民主主義理論をどのように深化させたのかを議論し、ラクラウが提唱するラディカル・デモクラシーが何たるかを明らかにする。
著者
大貫 挙学
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.90-102, 2018 (Released:2020-03-09)

本稿の目的は、J. バトラーの「倫理」概念を、パフォーマティヴィティ理論から導出される「他者性」に着目して考察することにある。 1990 年代のジェンダー・パフォーマティヴィティに関するバトラーの議論は、彼女をフェミニズム理論家として知らしめることになった。一方2000 年代以降、彼女は、従来以上に、エスニシティやナショナリティの問題に焦点をあて、国民国家による暴力についても直接的に論じるようになった。バトラーによれば、現代社会においては主権と統治性の共犯関係によって、私たちの「生」は不安定なものになっている。そして、「生のあやうさ」が格差をともなって配分されているという。かかる現状にあって、彼女は「生の被傷性」を指摘するとともに、「自己の倫理」を主題化する。近年のバトラーについては、ジェンダー・パフォーマティヴィティから倫理一般への「回帰/転回」が指摘されてきた。 これに対し本稿では、「倫理」をめぐる彼女の議論を、パフォーマティヴィティ概念との連続性のなかで考察したい。こうした作業によって、「他者」についての社会理論と政治的実践との関係も再考できると思われる。また、現代社会における権力批判のあり方にも言及する。すなわち本稿は、バトラーについての学説研究であると同時に、後期近代の権力論を模索するものでもある。
著者
額賀 京介
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.115-127, 2016 (Released:2020-03-09)

エーリッヒ・フロムは、フランクフルト社会研究所在籍時に、権威主義に対する批判的考察を行っている。この考察は、フロム独自の自我理論と疎外‐ 物象化論として把握可能である。この権威主義研究の際、フロムはフロイト自我理論への批判を、フロイトの概念である超自我、自我、エスという自我三層構造論を踏襲しながら行っている。自我が弱い時、彼は、「内部世界と外部世界」を生活充足の対象とする人格的課題を、超自我が担うことを認めている。しかしこの時、超自我が精神を支配し、この過程内で抑圧という心的機制が生じる。この抑圧によって自己は消耗し、自我の能動的行為編成機能と現実検証機能が低下するのである。そして、この超自我は権威との相互的な再帰的構造化過程を形成する。超自我は、自己の精神的エネルギーを権威対象へ投影する。さらに投影、備給された精神的エネルギーが、権威の命令を内化することによって、超自我に回帰していく。この諸過程によって、権威への合理的批判は抑制され、自我機能の低下が起こる。さらに、これは社会的相互作用として成立しているため、社会文化領域での物象化が生じるのである。最終的に、この超自我による物象化‐ 疎外現象は、次の四つの具体的事象へと帰結する。それは①精神的なエネルギーの譲渡=疎外、②自己関係の疎外、③自己による自己産出過程の物象化された超自我と権威への譲渡=疎外、④自己関係内部にある、権威対象以外の他者からの疎外である。
著者
栗田 宣義
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.3-13, 2015 (Released:2020-03-09)

本稿の目的は、経験科学としての計量社会学に固有かつ内在する諸視角から仮説確認の批判的検討を試み、簡明な数式と初歩的な手順のみを用いて、その陥穽について具体的に論じることである。その第一は、近似式導出の誤謬、第二は、全変動に占める僅少な割合に過ぎない説明力の低さ、第三は、木を見て森を見ずに陥る妥当性を欠いた理論モデルだ。推測統計の過信に起因する、かくのごとき陥穽の克服無しには、社会学における一般理論は成し難い。
著者
山本 圭
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.86-98, 2009

ラディカル・デモクラシーという現代民主主義理論のー潮流には、それ自体の内部においても多様なパースペクティブが存在しており、そのなかでも本稿が焦点を当てるのは、エルネスト・ラクラウの政治理論である。ラクラウの政治理論はこれまで、今日のアカデミズムへの甚大な影響にも関わらず、主題的に論じられることはあまりなかった。したがって本稿の目的は、ラクラウの提示した民主主義理論の可能性を検証するためにも、彼がどのように自身の政治理論を醸成させていったかを明らかにすることである。そこで手掛かりとなるのが「主体」の概念である。つまり『ヘゲモニーと社会主義戦略』において主体は、構造内部の「主体位置」と考えられていたが、後に精神分析理論からの批判を取り入れることにより、それを「欠如の主体」と捉えるようになったのである。そしてこの主体概念をめぐる転回が、ラクラウ政治理論を脱構築との接合や普遍/個別概念の再考などの新しい展開へと促したことを示すことにしたい。最後にこの「欠如の主体」の導入が、ラクラウの民主主義理論をどのように深化させたのかを議論し、ラクラウが提唱するラディカル・デモクラシーが何たるかを明らかにする。
著者
野尻 洋平
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.67-79, 2013 (Released:2020-03-09)

本稿の目的は、「子どもの見守り」技術としての監視技術の導入・受容をおもな題材として、後期近代における監視社会の特質を個人化論の観点から検討することである。監視社会と個人化はともに、1980 年代半ば以降に現代という時代のメルクマールとなった社会現象である。前者についてはD. ライアンが、後者についてはU. ベックやZ. バウマンが精力的に議論を展開してきた。当初これらの現象は個別に論じられてきたが、近年の日本では三上剛史が監視社会と個人化の関連性を指摘している(三上 2010)。だが、かれの指摘は抽象的もしくは断片的なものにとどまっている。現代における監視社会形成のメカニズムは、個人化の内的論理と密接に接合することによってより明瞭になると考えられるため、上記の課題を検討することが必要である。本稿では、2000 年代以降の日本社会において社会的な注目をあつめた「子どもの見守り」を題材に、監視社会が出現する社会的なメカニズムを、個人化論の諸概念をもちいて理論的に説明することを試みる。
著者
森山 達矢
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.150-162, 2009 (Released:2020-03-09)

身体化された実践をいかにとらえるのか。本稿はこの間いをめぐるものである。ピエール・ブルデューの研究が明らかにしたように、再生産においては日常の前反省的な実践が重要な役割を果たしている。しかし、そうした実践は意識しておこなわれない行為であるがゆえに、その行為主体ですら言語的な説明が困難なものとなっている。本稿では、そのような実践をいかにとらえるのかという視点から、ニック・クロスリーの身体論を検討する。ブルデューが実践やハビトゥスの前反省性を強調するのに対し、クロスリーは実践の反省性や再帰性を強調する。クロスリーは、モーリス・メルロ=ポンティ、マルセル・モース、G.H.ミードらの議論を摂取しながら、実践や身体技法における精神的側面と社会的側面の両方をとらえる「再帰的身体技法(reflexive body techniques) 」概念を提出している。クロスリーはこの概念によって、行為主体の精神的側面を強調すると同時に、ハビトゥスや実践が機械的なものではないということを主張し、そして日常的な実践や身体技法を、言説と行動のどちらにも還元しない研究のあり方を指し示そうとしている。クロスリーのこうした議論は、主観性にも客観性にも還元できない身体的生をとらえようとするものであり、身体論に関して新たな視点を提示している。
著者
河村 裕樹
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.42-54, 2017

本稿の目的は、エスノメソドロジーの創始者であるガーフィンケルのパッシングの議論を再考することで、ゲーム的な分析では捉えきれないパッシングの内実を明確化することである。すなわち、ガーフィンケルによれば、ゲーム的な分析枠組みを用いるゴフマンのパッシングの論理ではパッシングの内実について捉えられない側面があるという。その側面とは相互反映性や状況操作、継続性である。ここでゲーム的な分析が可能なパッシングとは、エピソード的性格、事前の計画、実際的な規則に対する信頼という特徴をもち、ゲーム的な分析では捉えられないパッシングとは、人びとが自明視し、背景となっているルーティンに埋め込まれた当たり前のことを達成することが課題であるような実践のことである。これらを考慮に入れることで改めて検討し直すと、ゲーム的な分析枠組みでパッシングを分析することは可能ではあるが、一方でガーフィンケルによるパッシングの論理を用いることで、自明視され背景化している「普通であること」を達成することこそが、パッシングを行う者にとっての第一の課題であるということが明らかとなる。この両者の構造上の不一致を確認したうえで、後半では一つの事例を用いて、ガーフィンケル的な分析をすることにどのような意味があるのかを例証する。そのことにより、エスノメソドロジーの立ち上げにおいて重要な役割を果たしたアグネス論文を再評価し、その意義を確認する。
著者
皆吉 淳平
出版者
日本社会学理論学会
雑誌
現代社会学理論研究 (ISSN:18817467)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.100-112, 2008 (Released:2020-03-09)

R. C. フォックスによる「生命倫理の社会学」という構想の可能性を検討することが本稿の目的である。社会学は経験科学として、価値判断を行わず経験的記述を目指すという自己規定を有している。けれども、生命倫理やバイオエシックスと呼ばれる問題群は価値判断を抱え込んでいる。経験的記述という自己規定と価値判断を抱え込んだ対象との間で、フォックスによる「生命倫理の社会学」は、バイオエシックスを社会文化的現象として捉える。その上で、3つのアプローチが示されている。歴史記述、エートスの記述、そして二重の相対化である。フォックスが目指した「生命倫理の社会学」が有する大きな可能性は、二重の相対化という方法にある。それはバイオエシックスと社会、その両者を相対化し検討する。バイオエシックスだけではなく、社会の分析であるからこそ、「生命倫理の社会学」は社会学として大きな可能性を有しているのである。