著者
小野 智恵
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.57-65, 2014-12-20

1960年代後半から1970 年代初頭は, アメリカ商業映画にとって空前のズーム隆盛期であったといえる. しかし, TV を中心に用いられる新しい手法であり低コストであるズーム・ショットは, 当時も現在も, 映画のための歴史ある手法であり膨大なコストを費やしてなされるドリー・ショットの代役としての扱いに甘んじてきた. 本稿は, 旧来のドリー・ショット(とその代役としてのズーム・ショット) を媒介とした観客とアメリカ商業映画との間にある「約束事」に着目し, ロバート・アルトマン監督の『ギャンブラー』に見られるあるズーム・ショットがドリー・ショットにはない独自性を持つことを明らかにする. それは, 伝統的なアメリカ主流映画がその実現を希求してやまなかった「奥行き」という概念を, 平面上の外面描写において無効にするだけでなく, 主人公の内面描写においても無効にしてしまうものである.
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人環フォーラム (ISSN:13423622)
巻号頁・発行日
vol.21, 2007-11-20

<巻頭言>環境問題と熱力学教育の必要性 / 冨田博之
著者
勝浦 眞仁
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.25-33, 2010-12-20

発達障碍を抱える生徒独自の捉え方や感じ方をどのように受け止めるのか,という特別支援 教育における重要な問題に対して,定型発達者の「見立て」による,評価的観点からのアプローチ が広く受け入れられているしかし当事者の著書や自伝,また支援員であった筆者の体験からは, 現行のアプローチに対する非定型発達者の強い反発が窺え,彼らの体験に十分迫り切れていない面 があった. そこで本稿では,非定型発達と恩われるある一男児の事例を通して,その生徒を学校において 「異文化」に生きる人として位置付け, その枠組みを支援に活かすことの意義と教育実践上の難し さについて,特別支援教育支援員の立場から,エピソード記述法を用いて検討した. その結果, I異文化」を生きる生徒たちを, その人らしい「我が」ままを生きる人として受け止 めていく枠組みが有効であることを示す一方で,学校という場では共に生きるがゆえに,学校文化 との「同調性」を求めてしまうところが少なからずあり,その両面にどう折り合いをつけるかが教 育実践を行う上での難しさであることを明らかにした.
著者
武田 宙也
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.51-64, 2009-12-20

本稿は,鏡という形象について,それがミシェル・フーコー(1926-1984)の思想のなかで持っ意味を明らかにしたものである.彼は,その生涯に著した数々の論考において,ことあるごとにこのモチーフに言及している.さらにそれらは,単なる周縁的な言及というよりも,より彼の思想の本質にかかわる形でなされているように思われる.したがって本稿では,フーコーの諸言説の中で鏡が見せる多様な形象をつぶさに見ていくことによってその本質にせまろうとした.ところで,一方で鏡は,西洋の歴史の中で古くからさまざまな意味を付与されてきた,それ自体多義的な存在である.したがって考察のなかでは,こうした鏡自体のもつ多義性とそれがうつしだす彼の思想の多義性とに同時に光を当てることにより,その歴史のなかに「フーコーの鏡」を位置づけることを試みた.以上のような試みを通じてわれわれは最終的に,この形象が彼の統治および現代性をめぐる考察と内在的な連関を持つものであることを明らかにした.
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人環フォーラム (ISSN:13423622)
巻号頁・発行日
vol.30, 2012-03-24

<巻頭言>「総合人間」とは / 吉田忠
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人環フォーラム (ISSN:13423622)
巻号頁・発行日
vol.27, 2010-09-30

<巻頭言>色は匂へと咲きぬるを / 宮﨑興二<鼎談>京の町づくり / 中嶋節子, 髙田光雄, 間宮陽介<特集 : 虚と実>学問から見る虚と実 / 戸田剛文<特集 : 虚と実>脳はしばしば間違える―視覚における虚と実― / 船橋新太郎<特集 : 虚と実>異界の「私」― 一人称小説における虚と実 / 廣野由美子<特集 : 虚と実>運動・医科学の虚と実 / 森谷敏夫<特集 : 虚と実>源平合戦をめぐる虚実―歴史学と史料批判 / 元木泰雄<特集 : 虚と実>イマジナリーキューブ / 立木秀樹<特集 : 虚と実>レトリックと虚・実の世界 / 山梨正明<リレー連載:環境を考える>失われた「感じ方」をめぐって / 大倉得史<サイエンティストの眼>自転車を科学する / 高石鉄雄<社会を斬る>加藤被告の手紙から考えたこと / 高橋由典<フロンティア>高齢者はなぜフルマラソンを完走できるのか? その秘密に筋肉から迫る / 増田慎也<フロンティア>日本近代文学における西欧文学性の追求 / 林信蔵<世界の街角>陰翳の地、陰翳の学 / 久山雄甫<国際交流セミナーから>歴史学が人類学と出会うとき / グラヴァツカヤ<フィールド便り>ファッションと芸術 / 蘆田裕史<フィールド便り>月経前に訪れる心とからだの不協和音 / 松本珠希<書評>岡田敬司『人間形成にとって共同体とは何か』 / 佐藤公治<書評>宮崎理枝ほか『イタリアの社会保障-ユニバーサリズムを超えて』 / 松本勝明<書評>篠原資明『空うみのあいだ』 / 松井茂<書評>中森誉之『学びのための英語学習理論』 / 佐野正之<書評>加藤幹郎『表象と批評』 / 山本佳樹<人環図書>サラ・ロイ著、岡真理ほか編訳『ホロコーストからガザへ』<人環図書>新宮一成ほか著『こころの病理学』瓦版
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人環フォーラム (ISSN:13423622)
巻号頁・発行日
vol.12, 2002-03-28

<巻頭言>宙吊りにされた近代新田博衞<インタビュー>理系の知と文系の知 ― その乖離と統合有馬朗人, 聞き手 高橋義人, 稲垣直樹<特集 : ルネサンス再考>フィチーノとルネサンス伊藤博明<特集 : ルネサンス再考>ルネサンスと美術史学岡田温司<特集 : ルネサンス再考>マキアヴェリと彼のルネサンス的性格小川侃<特集 : ルネサンス再考>インド象がローマ法王を訪ねるとエンゲルベルト・ヨリッセン<フィールド便り>乳児院 ― 生後初期から集団で養育される赤ちゃん樂木章子<フィールド便り>デカン洪水玄武岩の印象金子克哉<リレー連載 : 環境を考える>日本人はホスピスの環境をどう考えるかカール・ベッカー<フロンティア>ガリレオの運動探求と時代精神松本雅美<フロンティア>ブレイン・イメージングによる大脳視覚機能の研究山本洋紀<フロンティア>電磁場の生体影響を考える矢口浩子<フロンティア>サンショウウオの研究をとおして西川完途<サイエンティストの眼>素粒子と余次元の世界松田哲<サイエンティストの眼>複素力学系とフラクタル幾何学の融合角大輝<社会を斬る>パキスタン雑感田邊玲子<社会を斬る>「狂牛病」とヨーロッパレベルでの「公共」の生成高田篤<世界の街角>差別の街、ヴィーン大川勇<京博便り>樂茶碗の成立とホウラク難波洋三<文学の周辺>「放蕩息子」をめぐる文学と絵画稲田伊久穗<書評>川合葉子ほか編著『近代日本と物理実験機器』林哲介<書評>西脇常記『唐代の思想と文化』林克<書評>鈴木雅之ほか編著『講座英米文学史2 詩Ⅱ』上島建吉<書評>廣野由美子『嵐が丘の謎を解く』佐野哲郎<書評>池田浩士編訳『ドイツ・ナチズム文学集成1 ドイツの運命』西成彦<書評>高橋義人ほか編著『グノーシス 異端と近代』小野紀明<書評>森谷敏夫『からだと心の健康づくり』小田伸午<人環図書><瓦版><コラム>屋外上映会加藤幹郎<コラム>フロンの栄光と挫折の歴史山口良平<コラム>書かれざる傑作須田千里
著者
池野 絢子
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 = Human and Environmental Studies (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.47-58, 2010-12-20

本論は, 戦後イタリアの芸術家ジュリオ・パオリーニ(1940生)の初期作品の考察を通じて, 芸 術作品における「作者」のありょうを一考するものである. パオリーニは, 1960年代のはじめに, イメージを排除する反イリュージョニズムの作風で出発するのだが, 67年以降, 彼の作品には写 真複製された過去の巨匠たちの絵画が登場し始める. このような写真複製の利用は, とはいえ, 単純に過去の作品の「引用」として片付けることはできない. というのも, その制作において問題化されているのは, 既存のイメージを新たなイメージの一部として制作に応用することではなく, むしろあるイメージを複数の作者たちに結び、つけることだと考えられるからだ. ロラン・バルトの名高い「作者の死」(1968) と相前後して発表されたパオリーニの作品にあって, しかしながら「作者」は, 完全に葬り去られたとも, 単純に回帰したとも言いがたいように思われる. 本論では, パオリーニの制作の展開を追いながら, 芸術作品における「作者」の所在を再考する端緒を探りたい.
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人環フォーラム (ISSN:13423622)
巻号頁・発行日
vol.17, 2005-09-30

<巻頭言>明治文章小史 / 渡辺実<インタビュー>学問の宗教的背景 / 上山安敏, 聞き手 高橋義人<特集 : 関西三都 ― その近代化>京都 ― 中庭を忘れた西洋館 / 伊從勉<特集 : 関西三都 ― その近代化>大阪 ― 大縮尺地図にみる大阪の近代化 / 山田誠<特集 : 関西三都 ― その近代化>神戸 ― 大震災と新空港 / 松島征<リレー連載 : 環境を考える>京都議定書遵守の意味 / 阪本浩章, 西井正弘<サイエンティストの眼>生活習慣病としての糖尿病、しかし… / 林達也<知の息吹>"青"に思う地球科学 / 大西将徳<社会を斬る>法律・CSRにより環境を守る / 小畑史子<フロンティア>はねかえり係数の起源を探る / 國仲寛人<フロンティア>捕食によって進化する餌生物の色彩多型 / 繁宮悠介<奈文研の散歩道>古建築の妙 ― 見える建築、見えない建築 / 窪寺茂<文学の周辺>「書記」を学ぶということ ― 北朝文化の一側面 / 道坂昭廣<フィールド便り>映画にみる戦前の米国日系移民 / 板倉史明<フィールド便り>吉田南構内のカスミサンショウウオの生態 / 松井正文<書評>加藤幹郎著『「ブレードランナー」論序説 映画学特別講義』 / 田代真<書評>Takako SHIKAYA, Logos und Zeit / 渡邊二郎<書評>山梨正明著『ことばの認知空間』 / 鍋島弘治朗<書評>廣野由美子著『批評理論入門 ― 「フランケンシュタイン」解剖講義』 / 福岡忠雄<書評>三原弟平著『ベンヤミンと女たち』 / 徳永恂<人環図書><瓦版><コラム>人工言語の夢と挫折 / 東郷雄二
著者
伊藤 弘了
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 = Human and Environmental Studies (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.75-90, 2017-12-20

本論文では, 是枝裕和『海街diary』の記憶表象が持つ映画史的な意味について, 理論的な言説を参照しながら明らかにし, それが映画の観客に及ぼす作用を分析する. 『海街diary』の記憶表象を考えるにあたっては, 是枝が小津安二郎から受けた影響を踏まえることが有効である. 小津と是枝の映画における演出上の重要な共通点として, フラッシュバックの排除と視線の等方向性の強調が挙げられる. 第1節では, 是枝と小津の映画におけるカメラが非人称的な存在にとどまっている点を確認する. カメラの非中枢的な知覚と人間の中枢的な知覚は別のものであり, 両者を同一視するところに映画のごまかしが生まれる. 第2節では, 是枝と小津の映画が映画のごまかしを避けるために, フラッシュバックを伴う主観的な回想シーンを排除したことを指摘する. 第3節では, 小道具としての写真に注目する. 是枝や小津の映画では, 画面上に写真が映ることがほとんどない. その理由について, ロラン・バルトやヴァルター・ベンヤミンの議論を参照しつつ, 写真と記憶の違いについて考察し, 是枝の『海街diary』では記憶の重視が徹底されていることを論証する. 第4節では, 写真との関係から視線の等方向性を問題にする. 複数の登場人物たちが同じ対象に視線を注ぐ場合, 見られている対象が重要なのではなく, 一緒に見ているという経験自体が意味を持つ. そこでは視覚の不一致よりも記憶の共振が重視される. 第5節では, 不可視の写真をめぐる序盤と終盤のシーンの分析を通して, 視線の等方向性の綻びが, 登場人物と映画観客に悟りの経験をもたらす仕掛けを明らかにする.This paper clarifies the historical meaning of the memory representation in Kore-eda Hirokazu's Umimachi Diary with reference to the theoretical discourse, and analyzes its effect on the spectator. While considering the memory representation of Umimachi diary, it is beneficial to examine Ozu Yasujiro's influence on Kore-eda. Kore-eda inherits from Ozu the elimination of flashback and the peculiar structure of looking in which characters look at the same object, which is not revealed by the camera. In Section 1, I confirm that the cameras of Kore-eda and Ozu have an impersonal presence. The non-centered perception of the camera and the central perception of the human being are distinct from each other, and a film can cheat by identifying one with the other. I argue that this idea allows both Ozu and Kore-eda to eliminate subjective recollection scenes with flashback. In Section 2, I examine the problems involved in the use of flashback, and analyze how Kore-eda and Ozu endeavored to avoid the issue, believing that it would constitute a compromise of the artistic integrity of their films. In Section 3, I focus on the use of photographs as props. The films of Kore-eda and Ozu feature few photographs on the screen. Therefore, I not only examine the difference between photographs and memory by referring to Roland Barthes and Walter Benjamin but also demonstrate the importance of memory in Umimachi diary. In Section 4, I consider parallel looks with regard to the motif of photographs. When characters cast their eyes on the same object, the object being viewed is not important ; rather, the experience of watching them together is significant. Therefore, frequent emphasis is placed on memory resonance rather than real sight. In Section 5, I analyze the scenes at the beginning and end of the invisible photographs to clarify the mechanisms where the disorderliness of the parallel looks provides an experience of enlightenment to the characters and audiences.
著者
久保 豊
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.69-80, 2015

本稿は, 戦後日本映画を代表する映画監督木下恵介の『海の花火』(1951年)を分析対象とし, そのクィア映画的意義を明らかにすることで, 木下作品の再評価に貢献することを目指すものである. 『海の花火』は, 木下研究において長年低い評価に甘んじてきた作品であるが, 男性主人公と少年との絆に注目した映画評論家石原郁子や長部日出雄によって再発見された. しかし, 彼らの批評は, 男性同士の絆の表象を木下自身の同性愛的傾向にただちに結びつけて考える傾向があり, 映画テクストにおいて男性同士の親密さがいかに描かれているかが十分に検討されていない. 本稿は, 異性愛規範を脱構築するクィア映画理論を参照しつつ, 『海の花火』のテクストにいま一度目を向け, 男性間における切り返し編集と男女間における切り返し編集との問に見られる差異を考慮に入れた分析を行なう. 男性間の親密性表象に対するテクスト分析を通して, 作品内, ひいては日本映画史におけるその意味を解明する.The purpose of this essay is to clarify the significance of Fireworks Over the Sea (Umi no hanabi, Keisuke Kinoshita, 1951) as a queer film, and finally to contribute to the reevaluation of Kinoshita's films in Japan. This film had been almost neglected for years even among film scholars and critics interested in Kinoshita's works. Although it was given a long overdue attention through the reviews by Ikuko Ishihara and Hideo Osabe, their discussions tended to ascribe the prominence of the representation of male bonding in this film wholly to Kinoshita's homosexual leanings. We should keep it in mind that Fireworks Over the Sea is a mainstream film in the disguise of heterosexual ideology. In order to deconstruct this seemingly heteronormative text, this essay adopts queer film theory, focusing, among others, on the nuanced uses of shot-reverse-shot editing. The close analysis of the representation of male intimacy will help the general movement toward the reevaluation of Kinoshita's films.
著者
中川 萌子
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.81-93, 2014

マルティン・ハイデガーは, 形而上学を一貫して批判することを通して, 存在問題を新たに問い直すことを目指した. しかしハイデガーは, 前期において―とりわけ彼の思索の「形而上学期」と呼ばれる時期において―形而上学の基礎づけを通して形而上学を乗り越えようとした. 後に彼自身がこの時期の思索に関して自己批判を加えている. しかし, 結局のところ「形而上学期」の思索の如何なる点がまさに「形而上学的」であったのかということは, ハイデガー自身によっても先行研究によっても明確にされているとは言い難い. けれども, ハイデガーの存在問題の独自性が, 形而上学との闘いの中で, とりわけ彼自身の形而上学的傾向に対する自己批判の中でより鮮明に捉えられるであろうということを考慮するならば, 上述の問題は等閑視されてはならない. 上述の問題の解明のためには以下の論点が肝要である. それは, 「形而上学期」において捉えられた存在の非性(「脱-底」と「無」) とその内への被投性が規定不十分により軽減されてしまっているということ, それ故にここでの存在が形而上学的に了解された存在(「現前性」) と明確には区別されえないものになってしまっているということである. 言い換えれば, 存在がここでは存在者を常に現前させ続けることと見なされてしまいうるのだが, そうした存在はハイデガーの主張する「問うに-値するもの」としての存在とは全く異なるものであると言わざるをえない. 他方で, 「形而上学期」後に述べられた存在の非性(「覆蔵性」) とその内への被投性は, 現前するものを現前させ続けうるか否かに関して無規定であることを意味していると解釈しうる. つまり, 存在は存在者とは全く異なって振舞いうるため, 形而上学的に存在者から類推されるようなものではない. これが自らの形而上学的傾向に抗うハイデガーの存在了解であると言えよう.Martin Heidegger beabsichtigte mit seiner kontinuierlichen Kritik an der Metaphysik erneut die Seinsfrage zu stellen. Trotzdem hat er in seiner ersten Periode, vorzuglich in seiner sogenannten "metaphysischen Periode" versucht, die Metapysik zu uberwinden, indem er gemas seinem Denken ein solides Fundament fur die Metaphysik legt. An diesem metaphysischen Gedanken hat er spater Selbstkritik geubt. Welche Punkte jedoch letztendlich in seinem Denken "metaphysisch" waren, ist weder von Heidegger selbst noch von den bisherigen Forschungen prazisiert worden. Zieht man allerdings in Erwagung, dass die Originalitat der Heideggerschen Seinsfrage lediglich im Kontext seines Konflikts mit der Metaphysik, insbesondere der Selbstkritik an seiner eingangs erwahnten eigenen metaphysischen Tendenz verstanden werden kann, sollte dies nicht vernachlassigt werden. Hierbei ist zu beachten, dass in Heideggers "metaphysischer Periode" die Negativitat des Seins ("Abgrund" und "Nichts") und die Geworfenheit dorthinein aufgrund defizitarer Bestimmung gemindert wird und daher das hier beschriebene Sein nicht vom metaphysisch verstandenen Sein ("Anwesenheit") unterschieden werden kann. Mit anderen Worten differiert das Sein, das als etwas, das das Seiende fortwahrend sein lasst, angesehen werden konnte, durchaus vom "frag-wurdigen" Sein. Die nach dieser Periode formulierte Negativitat des Seins (" Verborgenheit ") und Geworfenheit dorthinein konnten aber auch als etwas ausgelegt werden, das unbestimmt lasst, ob das Sein das Anwesende weiter anwesend lassen kann oder nicht. Also ist metaphysisch das Sein nicht analog aus dem Seienden zu schliesen, da sich das Sein vollig anders als das Seiende verhalten kann. Dies ist Heideggers Seinsverstandnis, das im Widerspruch zu seiner metaphysischen Tendenz steht.
著者
戸田 潤也
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.65-78, 2009

『人倫の形而上学の基礎づけ』には定言命法および定言命法と見なされるものが様々な形で提示されている.それゆえ,定言命法全てを正確に数え上げ分類することは非常に困難である.こうした中,定言命法を五つの法式に大別するペイトンの解釈は,現在に至るまで多くの研究者によって踏襲されている.この解釈は同時に定言命法の「基本法式」を「道徳性の普遍的な最高原理」とするものであるが,このことは意志の自律を「唯一の」「道徳性の最高原理」とするカントの立場と相容れないように思われる.本稿では,ペイトンの解釈をテキストに定位して確認し(第一節),その解釈とは異なった角度から意志の自律の特性を明らかにし(第二節),その正当性を確保する(第三節).これによって,意志の自律の解明を行なうその後の同書の議論への道筋をつけることができる.The Categorical Imperatives and the alleged Categorical Imperatives in Kant's Grundlegung zur Metasphysik der Sitten take a variety of forms. It is almost impossible for us to classify all of them. Hence, the interpretation of Paton, who broadly divides the Categorical Imperatives into five categories, numbers each of them to definite the relation among them, and then classifies them into three types based on their contents, has been followed by many scholars. Paton insisted that the so-called Formula of Universal Law of the Categorical Imperative is "the general and supreme principle of morality." Of course, his view is based on the text. However, this view also appears to be inconsistent with Kant's assertion, according to which autonomy of the will is "the soul"- the "supreme principle of morality." How do we solve this dilemma? In this article, I (1) trace Paton's interpretation by focusing on the text, (2) clarify the special quality of autonomy of the will from a perspective different from that of Paton, and (3) verify the validity of my thoughts. Through this examination, I can obtain a unique autonomy of the will that does not damage the value of the Formula of Universal Law. Further, we can pave the way for later arguments by addressing the problems regarding the prospects of autonomy of the will.
著者
寺尾 智史
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.137-150, 2013-12-20

グローバリズムの進展にともないますます流動化する人間社会について, 従来の地域的区切りで分類・把握し, その特徴に合致した施策を展開することは困難となりつつある. このような「領域性原理」による管理・統治は限界を呈している一方で, 「非領域性原理」によるガバナンス, すなわち, 区割りによる領域を定めない普遍的な管理・統治はその方法論が確立しておらず, 実効性を持ち得ていない. 本稿は, こうした社会科学, 人文科学上のジレンマに対して新たな視角を提供するため, 河川工学や環境科学で一般的になっている「流域圏」という圏域把握を「領域性」の文脈で捉えなおすものである. 本考察をすすめるうえで, 対象としたのは加古川流域である. この水系は, 歴史的境界をはじめ従来から流域内の文化的一体性が希薄であり, 従って, 現在の多様な文化的背景を持つ, 逆に言えば帰属を把握しづらい人聞が混住する社会を鳥瞰搬する枠構造としての「自然領域」として想定するには好適だからである. この観点から本稿では, 液状化し, 流動性が高くなっている人間社会におけることばの多様性を継承する枠組みのひとつとして, 流域国という舞台を適用可能か, 「加古川流域」を対象に考察する. 本稿を通じて過疎等に起因した従来の地域コミュニティの崩壊を通じて, 「地域意識」がソフトな, もしくはヴアーチャルな繋がりに移行している中, 治水, 水資源の確保, 環境保全において鍵概念となっている「流域圏」を, これまでの領域概念を補完する, 新たな領域性として認知する意義を論じた.
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人環フォーラム (ISSN:13423622)
巻号頁・発行日
vol.26, 2010-03-03

<巻頭言>天皇と国師の問答 / 竹市明弘
著者
松山 あゆみ
出版者
京都大学大学院人間・環境学研究科
雑誌
人間・環境学 (ISSN:09182829)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.11-24, 2010-12-20

ジークムント・フロイト(1856-1939)の初期の草稿である「心理学草案J(1950 [1895]) は再評価されているが,それに対し,その他の初期の草稿には,いまだ十分な光があてられておら ず,正確な読解すらほとんどなされていない.本稿では,メランコリーというテーマに着目し,晦 渋な初期草稿のうちの一つ,草稿GIメランコリーJ(1895)を取り上げる.フロイトがメランコ リーを主題として扱ったのは,この草稿以外には,メタサイコロジー諸編のー論稿「喪とメランコ リーJ(1917 [1915J) だけである.両者には約20年もの歳月の隔たりがあるにもかかわらず, リ ビード経済論的見地から両者を比較してみれば,メランコリーに対するその基本的見解はほとんど 一致している.これを明らかにすることにより,精神分析理論に対する草稿G のリビード論的意 義を見出すことが本稿の狙いである.