著者
細川 武稔
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.113, no.12, pp.2004-2024, 2004-12-20 (Released:2017-12-01)

The present article focuses on prayer rituals performed by temples of the Zen Sect in order to shed light on the relationship between that Sect and the Muromachi Bakufu and on the character of the mechanism of Bakufu-designated official temples (kanji 官寺), which tied the Zen sect, especially the five great temples of Kyoto (Gozan 五山), closely to the Bakufu. The author identifies three separate systems of prayer (kito 祈祷) : one centered on the kanji organization of the Gozan-Jissatsu-Shozan temple hierarchy, one made up of Bakufu-designated "prayer temples" (kiganji 祈願寺) and one centered around the Ashikaga family temple of Shokokuji 相国寺. At the time of the founding of the Bakufu, the kanji temples of Kyoto were ordered to conduct prayer rituals, but no preparation was made at that time to have similar rituals conducted in the provinces. The shoguns issued directives recognizing temples as kiganji to supplement the kanji organization ; and later these temples were gradually absorbed into the kanji hierarchy as they spread throughout the country, being perceived as the system of prayer for the unified aristocrat-warrior Muromachi regime. However, this prayer order went through tremendous change with the building of Shokokuji by the third shogun, Yoshimitsu, as Zen priests of this Ashikaga family temple (bodaiji 菩提寺) were requested to perform prayer rituals in honor of the shogun's birthday, pray in the Kannon Room of the Shogun's residence, and conduct specially requested ceremonies. In other words, Shokokuji was preferred to such temples as Nanzenji 南禅寺 and Tenryuji 天龍寺, which were ranked above even the kanji hierarchy. Taking the leadership in the organization of the prayer system was the Inryoshiki 蔭涼職 (the shogun's major domo) in cooperation with the Rokuon-Soroku 鹿苑僧録, the registrar and supervisor of the kanji organization. Although Shokokuji developed into the nucleus of the three prayer systems, the kanji organization was indispensable due to its traditional ties to the public and state aspects of the imperial court, thus making it possible for two different systems to stand side-by-side, indicating how the Bakufu made the Zen Sect serve its purposes in both its public and private spheres.
著者
内川 勇太
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.125, no.10, pp.1-41, 2016

本稿は、主に集会で出された文書を用いて、「アングル人とサクソン人の王国」(c. 880-927)におけるマーシア人の集会を考察し、イングランドの政治的統合過程の解明を目指した。この時期のマーシアはウェセックス王権の支配下に置かれ、新たな政体の一部に統合されたと考えられているが、その統治の実態が具体的に考察されることはなかった。そこで本稿は初期中世西ヨーロッパの統治の中心である集会に着目して、当該時期のマーシアの統治実態を明らかにし、統合を促進した諸要因を探った。<br>第一章では、マーシア人の集会の、開催地、開催の時(時期・期間・頻度)、参加者、そこで扱われた事柄とその処理の過程を網羅的に調査し、当時のマーシアが集会を通じてそれ以前のマーシア王国と同様に統治されていたことを明らかにした。<br>第二章では、この時期のウェセックス王権のマーシアへの伸長を集会の文脈で捉え直した。その結果、ウェセックス王権はマーシア人の集会に選択的・部分的に関与することによって自らの利害を追求し、マーシアへ王権を浸透させていったことが明らかとなった。<br>マーシアとウェセックスで個別に開催された「アングル人とサクソン人の王国」の集会はのちの「イングランド人の王国」(927-)における王国集会とは異なって、マーシアとウェセックスの聖俗貴顕が交流し、イングランドの政治的統合を促進した場ではなかった。<br>第三章では、マーシアの聖俗貴顕が、チャータを通じてウェセックス王権を受け入れたこと、集会ではなく教会会議、軍事遠征、宮廷においてウェセックスの王と貴顕との関係を構築し、王国を越えた利害を形成したことを指摘し、それがイングランドの政治的統合のより重要な駆動力となったことを示した。<br>2つの集会を持つ「アングル人とサクソン人の王国」は、未だ統合の途上にあったウェスト=サクソン人とマーシア人という2つの民を統治するにふさわしい政体であった。
著者
井上 弘樹
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.125, no.8, pp.61-87, 2016

本稿では、一九六〇年代から七〇年代の台湾での寄生虫症対策と、そこでの日本の医療協力に焦点を当て、医学分野において日台関係が再構築される過程を分析した。従来の研究では、一九四五年から一九五〇年代の台湾医学界の様々な場面に植民地期からの連続性が確認され、一九五〇年代から六〇年代にかけては、「米援」の下で台湾医学界の「アメリカ化」が進み、医学体系の「脱日本化」が図られたことが指摘されている。その一方で、一九五〇年代以降に日台医学界の関係の再構築が進展したことは等閑視されている。当該時期の日台の医学分野における関係の再構築をめぐる本稿の議論は、中国国民党政権と「米援」の下で台湾医学界の脱植民地化が進む中で、日本がそこにどう関わったのかという問題に通じる。<br>一九五〇年代以降、米援の下で台湾の医学制度や組織の「アメリカ化」が進展したことは確かである。ただし、それは必ずしも台湾と日本の医学界の関係断絶を意味せず、特に戦前の人的関係に支えられた学術交流という場面で、日台医学界の関係は再構築された。この関係は、一九七〇年頃に政府間の制度化された医療協力へと移行する。寄生虫症対策に限れば、当時の台湾では米援終了や国際機関からの寄生虫症対策支援の中止、及び疾病対策の変化に伴い、寄生虫症対策の技術や資金が不足していた。一方の日本は、寄生虫症対策の経験を生かした海外医療協力を推進し始めた時期にあった。<br>こうした状況下に始まる日本の医療協力は、環境衛生改善を中心とする台湾の従来の寄生虫症対策から、学校保健を基盤とする定期的な集団駆虫政策への転換を後押しした。ただし、台湾医学界でも回虫症研究や対策が着実に進められており、その成果は医療協力を含む寄生虫症対策に生かされた。他方、日本の寄生虫学界は、台湾での医療協力を通じて東アジアに再び活躍の場を見出し、その成功経験はその後の日本の寄生虫学の世界展開に繋がった。
著者
海老根 量介
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.125, no.1, pp.1-38, 2016

申は、西周期~春秋前期に河南省南陽付近にあった姜姓の諸侯国である。この申は春秋前期に楚に滅ぼされ、以後は楚の北方の大県として、楚の中原進出に大きな軍事的貢献をしたことがよく知られている。ところが『左傳』昭公十三年条や曾侯乙編鐘銘文、上博楚簡『靈王遂申』によれば、申国は楚に滅ぼされた後も存在していた。ただし申国はずっと存続していたのではなく、申県を構成する旧国人層の大部分によって、共王期後半~康王・郟敖期に復国されたと考えられる。<br>春秋後期の申の所在地については、信陽に結びつける説が近年勢いを得ている。しかし、それを支持する確かな文献・考古資料は存在せず、成り立ち難い。一方、上博楚簡『靈王遂申』・『平王與王子木』や彭氏家族墓といった新出史料によれば、申は南陽において復国され、申県と併置されていた可能性が高い。<br>申の復国は、春秋中期に中原と呉の二方面に対処しなければならなくなった楚が、軍事負担の増加した諸侯を懐柔し、楚王を中心とする国際秩序を保つために行った政策であった。申の旧国人層は復国によって心理的安定を得られるとともに、他の諸侯にも楚が小国を存続させる方針であることを知らしめる効果があった。<br>楚にとって諸侯軍は対外戦略のために必要な存在であったが、同時に潜在的な脅威でもあった。そのため楚は諸侯を懐柔するだけでなく、遷邑などの手段で諸侯を構成する国人層への介入を進め、その解体を徐々に図っていた。申国と申県の併置は、申県において国人層に頼らず民を直接支配する体制の確立を目指すとともに、申を分断して国人層を弱めるためでもあった。楚は春秋後期には諸侯を次々と滅ぼして直接支配下に置いていくが、それは民を兵役につけることが始められ、国人層の解体が進み諸侯軍の重要性が失われつつあったことが背景にある。すなわち申の復国は、春秋から戦国への過渡期という時代的特徴を極めてよく反映した施策であった。
著者
鳥羽 厚郎
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.125, no.10, pp.42-67, 2016

本稿は、戦間期日本における「反骨の平和主義者」として著名な海軍大佐水野広徳の「平和論」を再検討する。<br>先行研究では、水野が第一次大戦の視察を契機として、「平和主義者」へと転身し、その後の水野の思想は、日本国憲法の源流の一つであるとして高く評価する見解が主流を占めてきた。しかし、「平和主義者」への転身後における水野の思想分析をほとんど行なわないまま、水野の思想を戦後と直接的に接続させることには問題がある。また、水野の論説に現れる国家自衛権の肯定や、合理的な軍備のあり方の模索といった事例は、どのように「平和主義」へ接続しうるのか、という疑問が残る。<br>そこで、本稿では、戦間期の水野の論説を詳細に分析することで、水野が「総力戦論者」と「平和主義者」という二つの側面を持ち、両者を結合させるものとして「戦争は利益にならない」とする「合理主義」を基底とし、「国力」という概念を通して戦争と平和を見通す「合理主義的平和論者」であるということを論証した。<br>水野の「平和論」は、独自な「平和主義」と「総力戦論」の相互補完関係によって成立する論理であった。水野はこの特性を利用し、「総力戦」対応策をそのまま「平和論」に接続させた。しかし、「世界の大勢」という流動的な事象に立脚してしまったが故に、反動に対抗する力を失った。満州事変以後、国家自衛の名の下に軍拡が肯定され、水野の「平和論」は依って立つ基盤を失ったのである。<br>しかし、水野研究は決して無意味ではない。水野は、一九二〇年代を通して自らの「平和論」を、単なる国家間の問題から個人や社会の問題へと発展させ、最終的には民族自決論へ接続させていった。それは、一九二〇年代の平和思想が持つ国際協調主義と反植民地闘争の両者を統一的に把握する一助となり得るのである。
著者
佐々木 政文
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.124, no.4, pp.62-85, 2015 (Released:2017-05-16)

本稿は、1910年代奈良県下の被差別部落において、寺院や神社を媒介とする民衆教化政策がいかなる形で実施されたのかを、地域での信仰活動の変化と関連づけながら検討したものである。 奈良県下の被差別部落民は、浄土真宗を第一の信仰対象とする一方、神祇信仰や国家祭祀に対しては消極的であり、さらに他の地域から氏子組織上の差別を受けている場合が多かった。これに対し、日露戦争後に県が実施した部落改善政策は、来世信仰の改革、「真俗二諦」説の強調、氏子差別の解消、神棚の設置、国旗掲揚の普及、大神社への参拝奨励といった様々な手段を通して、彼らの国家意識を強化しようとした。本稿ではこの過程を、近代日本の民衆教化政策が、従来地域一般の信仰生活から排除されていた人々を神社祭礼の体系に取り込んでいった過程として評価した。 同時に、日常的に部落住民との関係が深かった被差別部落寺院の僧侶には、部落改善政策の担い手となることが強く期待された。しかし、彼らは部落住民からの収入に経済的に依存していたことから、貯蓄・節約の奨励という県の政策を貫徹することが難しかった。このようななかで、県下の部落内有力者によって1912年7月に結成された大和同志会も、寺院・僧侶の部落改善事業参加に期待する一方で、檀家からの収入に依存する教団組織の体制を厳しく批判した。 第一次世界大戦中の1916年以降には、県は部落住民の国家意識を高める目的から、被差別部落への神社導入を政策的に推進しはじめた。この政策の変化を受けて、部落単位でも各部落の有力者が中心的主体となって信仰改革が進められ、部落内の寺院に明治天皇遙拝所が建設されるなど、国家意識に繋がる新たな信仰形態が模索された。
著者
高橋 秀樹
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.100, no.9, pp.1568-1588,1669-, 1991

In differentiating the character of the term ie 家 (family; household) found in early medieval Japanese documents with the same term found in earlier records, two points should be taken into account: ie as a social entity and ie as inherited property. In the research done to date on the subject, the origin of the medieval ie has thought to have been related to such factors as the establishment of a family occupation, a permanent family plot of land, or the family name. In the present article the author approaches its, origins through an investigation of its successors. chakushi 嫡子, from the standpoint of when these inheritors first came into existence and what exactly it was that they inherited. The medieval chakushi institution, which was far different in social significance from the rules outlined in Japan's ancient ritsuryo legal codes, first came into existence among the bureaucratic classes during the 11th and early 12th centuries and was then adopted by the aristocracy in the mid-12th century. Among the aristocrats, chakushi inherited the political power, influence and privilege of their ancestors to a much greater extent that their fellow siblings. The fact that they were entitled almost exclusively to the ownership of family records, important related documents, and paraphrenalia symbolizing the family organization is proof enough that they were truly the inheritors of the ie structure. The chakushi system was adopted by locally-based land proprietors during the early 12th century and it is thought to have been brought about by the establishment of shiki 職 rights and their inheritability. The social position of these local proprietors was usually based on their shiki rights, indicating the passage of this rights from generation to generation was none other the process of ie inheritance. Furthermore, since this indivisible set of shiki rights, privileges and duties sufficiently constituted family wealth, the concept of ie among these local families took on the character of an economic enterprise that needed to be managed. The establishment of an inheritable ie and the chakushi institution for passing it on came into existence amongst such political and social changes as the ritualization of political affairs, the farming out of administrative duties, and the rigid systemization of shiki rights. Since these changes came in response to the needs of the state, the aristocracy and powerful religious institutions, the author is led to the conclusion that the medieval (inheritable) ie and the chakushi system of inheritance both were established as means for satisfying these needs in the best way possible.
著者
樋口 真魚
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.123, no.6, pp.1097-1132, 2014

This article investigates Japanese attempts to reset its political relations with the League of Nations (hereafter, the LN) after the former's withdrawal from the League, focusing on the Japanese stance at the Montreux Conference of 1936, which was held three years after Japan's withdrawal for the purpose of revising articles concerning the demilitarization of the Dardanelles and Bosporus Straits, first declared in the 1923 Treaty of Lausanne. Close examination of Japanese diplomacy during the Montreux Conference indicates that its decision makers were seeking some ideal means by which to reset the country's political relations with the League throughout the mid-1930s. They were particularly sensitive towards the LN Covenant, which in their opinion appeared to offer a legal basis for imposing sanctions on any country of the world, including Japan. Such sensitivity sharped from 1934 on after the Soviet Union joined the LN, due to the perception that the outbreak of Soviet-Japanese hostilities was highly imminent, leading to fears that the Soviets might call for the LN to impose sanctions on Japan if war did break out. These concerns are the reason why the Japanese government was very active during the Montreux Conference, in addition to regarding the Conference, which was marked by a fierce debate regarding the legal relationship between the revised treaty and the LN Covenant, as the touchstone leading to the future of Japan's diplomatic policy toward the LN. There were two constrasting opinions within the Japanese Ministry of Foreign Affairs (Gaimusho 外務省) over the stance to be taken towards the revised treaty. One line, advocated by Foreign Minister Arita Hachiro, was to attempt to block LN intervention altogether. The other, advocated by Sato Naotake, the Japanese delegate to the Montreux Conference, argued that Japan should seek means of coexisting with the LN. In more concrete terms, Arita intended to block intervention by calling for a treaty signing congress (teiyaku kokukaigi 締約国会議) as a diplomatic platform opposing the LN and asserting that the text of the revised treaty should seek to avoid LN interference by separating the new convention from the LN Covenant. In opposition to Arita's assertions, Sato was prepared to partially accept "a treaty supplementary to the LN Covenant", which European members, such as the Soviet Union and France, aspired to conclude. By doing so, Sato intended to create a legal setting which would enable LN member countries and "contracting parties" (the latter including Japan) to enjoy equal standing vis-a-vis each other. Although Sato succeeded in persuading Arita that it was necessary to reset Japan as "a state withdrawing from the LN that could coexist with the LN", the outbreak of the 2nd Sino-Japanese war about a year after the Conference resulted in sanctions being imposed on Japan by the LN, which left Japanese decision-makers with no other option but to abandon any hope of coexistence.
著者
邉見 統
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.123, no.7, pp.1307-1331, 2014

After pacifying the Chinese world during the 5th year of his reign (202 BCE), Former Han Dynasty Emperor Liu Bang (also referred to as Gaozu 高祖) duly rewarded his loyal followers with titles of ranked status, the highest of which was Liehou 列侯. We find items in such ancient chronicles as Shiji 史記, and Hanshu 漢書 describing the institution of such ranks at the beginning of the period, describing them as the "Liehou hierarchy"; and the research to date on the subject has shown that 1) eighteen such rankings were instituted during the Liu Bang's reign and 2) in the 2nd year of the Gaohou 高后 era (186 BCE), the Empress Dowager's Lu 呂 Family regime instituted what is known as the "Gaozu System of Leihou Rankings" (Gaozuxi Liehou Weici 高祖系列侯位次). However, as the result of an analysis of descriptions concerning ranked status in the ancient historiography, the author of the present article adds that the Gaozuxi System was revised during the reign of Emperor Wen 文. As to the political significance of the establishment of the Gaozuxi System in 186 BCE, first, there was the intention to preserve the 18 ranks set up by Liu Bang and respect his authority, in addition to recognizing the achievements of those who were so honored during his reign. It was in this way that the Lu Family regime planned to obtain the support of Liu Bang's retainers, implying that such actions as granting feudal estates to the princes of the politically powerful Lu Family was initially met with strong resistance, which needed to be appeased. As to the revisions made to the Gaozuxi System during the reign of Emperor Wen, motivation similar to the Lu Family may also be cited, in addition to political necessities specific to the Wen regime.That is to say, the Wen imperial regime was formed after the Dynasty's ministers of state overthrew the Lu Family regime and enthroned Liu Heng, the fourth son of Liu Bang and monarch of the kingdom of Dai 代; therefore, the revisions were also intended to strip members of the Lu Family of their Gaozuxi rankings, thus legitimizing the authority of Emperor Wen over the defeated Lu Family regime.
著者
藤原 翔太
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.123, no.12, pp.2149-2177, 2014

On 17 February 1800, the Consulat enacted a law concerning the districting and administration of the entire territory of France, and embarked on fundamental reforms that would lead to the encouragement and reinforcement of the centralization of local administrative institutions. However, the law also reintroduced the commune system, thus reviving local autonomy, a fact which has long been neglected. Once noticed, this fact leads to the question of why the regime of Napoleon, which has been considered to be a centralized one, needed to reorganize certain structural features of local autonomous institutions. In order to answer this question, the author of this article examines the structure of local governance under Napoleon by focusing on the town mayors who represented both the communes and central state authority in the prefectures of the Hautes-Pyrenees. The mayors of rural towns and cities who served under Napoleon have long been criticized for being "incompetent" and in league with their constituents, problems that were fully recognized by contemporary governors of prefectures and arrondissements (prefects and vice-prefects), as well as by the central government. Therefore, the prefectures proposed that any canton larger in area than a commune should have one paid mayor; however, the central government ignored this proposal and persisted in maintaining the commune system. This means that the government regarded the appointment of mayors based on the commune system as the best way to rule at the local level. Such a conclusion leads to the question of how the mayors, who were so important in terms of local rule, were actually chosen. To answer this question, the author first turns to an examination of the available mayoral prosopography and finds that there were definite differences in social status between the mayors of canton administrative centers (chef-lieu) and those of ordinary communes. Moreover, regarding the actual administration of local authorities, we find unique solutions adopted by prefecture-level bureaus to deal with problems caused by the mayors of rural towns and cities. Despite obvious regional differences, in the economic and cultural periphery of the Pyrenees, administrative affairs of the greatest import were carried on at the canton level. Rather than this fact indicating that the commune system was being treated as a mere formality, we find mayors of chef-lieu, who were selected from the ranks of local dignitaries, utilizing their political influence to guide politicians of inferior status and power in their duties as mayors of ordinary communes. In this sense, the commune system should be considered as having been introduced into a highly centralized, socially stratified political order for the purpose of integrating political power and influence at the regional level.