著者
武田 明子
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
no.17, pp.41-62, 1999

江戸時代末期の庶民の生活を描いた『守貞漫稿』によると、京都の髪結の記述に「毎坊、會所ト号ケテ、市民會合ノ家一戸ヲ置ク」とあり、近世の京都の町には木戸や番所と同じく、一般的に町有の施設として町会所が置かれていた。町会所は、恒常的な自治運営の場であり、町と共同体の性格を見る上で非常に重要な共有施設であるが、その実態や成立については十分に明らかにされていないのが実情である。京都の町会所についての研究は、川上貢氏と谷直樹氏による『祇園祭山鉾町会所建築の調査報告本文編』が主なものである。山鉾町の町会所を中心に述べられており、町会所は町衆自治の伝統を継承し、育んできた町の核であったとしている。そこで本論では、京都市中の町会所を対象にして、近世の京都における町会所の役割について述べたいと思う。京都の町会所は、原則的に各町に設けられたが、行政の末端組織として取り込まれていたとされている。しかし、権力者側のみの要求で存在したものではなく、町の共同体側からの必要性にも支えられて恒常的な施設として存在していたのではないだろうか。従って、町会所が町の人々にとってどのような存在であり、役割を担っていたのかを述べることによって、町共同体からの必要性を考察したい。また、会所の役割を分析することにより、京都がどのような性格をもった都市であったのかについても考察したいと思う。内容構成においては、はじめに町会所の初見や成立要因を探り、会所の成立意義について考察する。ついで会所の設立や構造、利用方法について具体的な事例を検討し、会所の実態に迫りたい。さらに、町会所の様々な機能についても事例を集め、町共同体にとって会所がどのような役割を果たしていたのか、また、その背景について述べることにする。
著者
下坂 守
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
no.33, pp.1-23, 2016
著者
丸山 幸彦
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
no.24, pp.79-104, 2006

はじめに-問題の所在天正十三年(一五八五)の蜂須賀氏入部に対する反対運動については、阿波国百姓一揆についての研究の先駆けをなした桑田美信氏がその著『阿波国百姓一揆』で[天正度仁宇・大粟・祖谷山一揆」という項目をたて、つぎのように整理しているのが研究の出発点になっている。①天正十三年八月に那賀(仁宇谷)・名西(大粟山)・美馬(祖谷山)の山間部豪族が反乱を起こした。②藩主家政は仁宇谷と祖谷山に使を派遣したが、いつれも抵抗され殺害された。③後に北(喜多)六郎三郎が祖谷山の土民を説服し、木屋平(美馬郡種野山)の松家長大夫が名西郡上山村(大粟山)の反民を鎮め、山田宗重が仁宇谷を平定した。④ただ、祖谷山のみ抵抗がつづき六年間に及んだが、天正十八年(一五九〇)には平静に帰した。この説が提出されてから八十年近くたつが、この間この説にたいする批判的な検討は管見の限りではなされておらず、定説として定着している。二〇〇〇年代に入り『大日本史料』第十一編之二十が公刊され、天正十三年九月二日「是ヨリ先、蜂須賀家政、阿波二入ル、是日、国内ノ土冠ノ平定二奔走セシ森正則・伊澤頼綱等ノ功ヲ褒ス」の項に関係史料が整理されているので、あらためてこれにもとづき桑田説をみなおしてみたい。この項におさめられた史料は基本的には二つのグループに区分される。第一のグループは仁宇谷・大粟山・種野山での反対運動にかかわる由緒書・系図類である。このうち仁宇谷(現那賀郡鷲敷町・相生町など)にかかわっては「湯浅先祖相伝次第之事」(木頭村湯浅氏蔵)、「仁宇先祖相続次第之事」(仁宇村柏木氏蔵)、などが収められており、「仁宇谷之民不服者」「仁宇谷溢者一党」が蜂須賀氏に抵抗し、それへの鎮圧行動に参加したとしている。また仁宇谷に隣接する大粟山(現名西郡神山町)と種野山(現麻植郡美郷村・美馬郡木屋平村)については、[伊澤文三郎系図」が収められており、天正十三年八月国中の仕置きのために目付として兼松惣左衛門・久代市丘ハ衛・黒部兵蔵が仰付けられ、見分していたところ、仁宇山・大粟山の者が一揆を企て、大粟山で兼松惣左衛門が殺害された、また木屋平も大粟の者と行動をともにしたが、三木村(種野山内の村)などは一揆に同心せず、伊澤らと上山村の粟飯原源左衛門も久代・黒部に加担し一揆を追い払い両人を無事徳島に送り届けたとされている。第二のグループは『蜂須賀家政公阿波国御入国井御家繁昌之事』および『蜂須賀家記』の「瑞雲公」項である。いつれも蜂須賀家由緒書ともいうべきものであるが、仁宇谷.祖谷山の賊が服さなかったので、家政公は梶浦与四郎を仁宇谷に、兼松惣左衛門を祖谷山に遣わしたが、いつれも抵抗する賊のために殺されたので、家政は援軍を送りそれら逆徒を平定したとする。さらにこの第一・第二のグループの後に『大口本史料』は「ナホ阿波祖谷山ノ百姓抗拒シ、家政之ヲ鎮ムルコト、其年次ヲ詳ニセズ、姑ク左二掲グ」として『祖谷山善記』(以下『奮記』と略記する)の関連部分を収める。『善記』は延享元年(一七四四)年に祖谷山政所喜多源治が藩に提出した、中世にさかのぼる喜多家の由緒書であり、『大日本史料』に収められているのは、蜂須賀氏入部直後の動向についての記述、すなわち「私先祖北六郎三郎同安左衛門美馬郡一宇山に罷在、兼而祖谷山案内の儀に御座候へは、悪徒謙罰奉乞請、方便を以、過半降参仕候、…不随族は、或斬捨或搦捕罷出候、…」として蜂須賀氏入部直後、喜多家が蜂須賀氏にしたがわぬ祖谷山豪族を鎮圧し、これが喜多家が祖谷山を専制的に支配する契機なっていることを述べている部分である。『大日本史料」所収史料のあり方をふまえてみると、桑田説の①・②は第ニグループの『蜂須賀家記』の記述をそのままうけいれており、③は『蜂須賀家記』と第一グループの『伊澤文三郎系図』および『善記』を接合させておりそして④は『藷記』に天正十八年十二月北六郎三郎が定使に任命されたとあることをもって祖谷山一揆の終末としている。そしてこの桑田説については、つぎの三点が問題点として浮かびあがってくる。第一点は入部反対運動のなかで重要な位置を占めている祖谷山における動きについて、『奮記』が由緒書として書かれているにもかかわらず、その記述について史料批判をおこなわないままに、その記述に全面的に依拠してしまっている問題である。これは桑田氏以降も同様であり、上記の記述がそのまま事実として使われ続けている。第二点は入部反対運動が長宗我部元親の秀吉への降伏、それにつづく秀吉の四国国分の結果として阿波国に蜂須賀氏の入部がなされたことにたいして起こっていることを見落としている問題である。入部反対運動は阿波一国内の動きとしてのみとらえることはできないのであり、阿波・土佐・讃岐・伊予四国またがる四国山地全域での動きの一環としてとらえる必要がある。第三点は反対運動を近世の百姓一揆の初発としてとらえ、中世からの連続面についての分析がないという問題である。大粟山・種野山・祖谷山・仁宇谷などは平安時代末以来高度な展開をとげてきている中世の山所ら領であるという事実にしめされているように、反対運動は中世を通して独自な山の世界として中世村落が豊かに展開してきている場で起こっている。このような中世的な村を拠点に活動する在地豪族の存在を前提にしなければ、この運動は正当に評価できないはずである。本稿はこの三点から桑田説の見直しをおこなう。その際、第一点について、『善記』における蜂須賀氏入部に反対する天正祖谷山豪族一揆の記述については、史料批判をぬきにしてはそのままでは使えないということをふまえて、本稿では分析対象からは除外し、祖谷山については『善記』以外の史料からみるという方法をとる。
著者
水野 柳太郎
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.1-26, 1991-12

『日本霊異記』上巻第五話「信敬三寳得現報縁」には、はじめに、 大花位大部屋栖野古連公者、紀伊國名草郡宇治大伴連 等先祖也。天年澄情、重尊三寳。案本記日。①とあって、これ以下は「本記」に依って「大部屋栖野古」と聖徳太子に関する説話を記している。この「本記」は、八世紀中ごろ以降に、屋栖野古の功績を述べ、紀伊国名草郡の宇治大伴連が改姓を願い、あるいは郡司の譜第の承認求めたときの上申文書であろう。「大部屋栖野古連公」を、大伴氏の中心人物であるとする見解がまま見受けられるが、説話の内容を過信した誤解であって、紀伊の国大伴連に関する説話であることはいうまでもない。「本記」に見える日付にはおよそ三種類があって、『日本書紀』の日付や記事と奇妙な関係がある。これは、「本記」の作成にあたり、『書紀』編纂の材料と関係があるいくつかの寺院縁起などを見て、その年月と内容、あるいは適当な年月・年月と日付の干支などを利用したことによって生じていると考えられる。「本記」の成立時期は降っても、そこに利用された寺院縁起には、『書紀』の材料となった時期の姿を遺すところもあると考えられるので、この点に注目して考察を進めたい。『霊異記』の引用は、「興福寺本」と「国会図書館本」を利用して、意味が通ずるように私見によって改めた。引用の順は、『霊異記』の段落の順ではないので、文末に『霊異記』の記載による段落の順序を示しておく。なお、「屋栖野古」は、これ以後すべて「屋栖古」になっているので、「野」を窟入と考え、「屋栖古」とする。
著者
木下 光生
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
no.29, pp.95-123, 2011

近世日本の村社会における「貧困」や「貧農」の「実在」は、今なお、教科書でも一般向けの歴史書でも、「当たり前」のように説き続けられている。だが、ここで言う村や村人の「貧しさ」とは、いったい何を基準とした「貧しさ」なのであろうか。麻や木綿の服を着たり、雑穀を主食としたり、萱葺きの「粗末」な家に住むことが、なにゆえ「貧しい」ことなのか。「自給自足」の生活が、なぜ「貧しい暮らし」といえるのか。「富の偏在」がもたらした「極度の貧窮」とは、どのような生活実態を意味しているのか。本稿は、教科書におけるこの一見もっともらしい「村の貧しさ」の説明の仕方や、一般所で「所与の前提」とされる「貧農」の規程方法について、あらためて日本近世史研究(以下、近世史研究とする)におけるその研究史的経緯を整理し、村の「貧困」と「貧農」をめぐる研究現状と、今後の課題を検討するものである。
著者
鎌田 道隆
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.1-28, 1988-12

私たちは近代社会で生活し、近代的価値観のなかにどっぷりとつかった日常を生きている。近代的価値観とは何だろう。進歩、発展、早さ、便利、合理的等々の概念もそれである。近代人なら誰でもが賛意を表する価値意識、それを近代的価値観とよんでよいだろう。もちろん、近代的価値観はもともと人間的な規模と尺度に準拠していたはずであるが、むしろ今日では非人間的な機械的価値の面が強くなってしまったように思える。そして、その人間味を失った近代的価値観を、私たちは無批判に受け入れてしまってはいないだろうか。歴史学の研究にあたって、形骸化された価値観をもってさまざまな分析や評価を行なったりしてはいないだろうか。近世都市の研究の分野でも、経済的な発展や合理的な都市運営のしくみなどに着目し、どれだけ近代都市へ近づいたかといった視点のみにとらわれてはいなかっただろうか。ひとつの便利さを手に入れるために何を失ったのか。一見非合理的に見える昔の人々の生き方のなかに、どのような智恵や工夫や願いがこめられていたのか。形骸化された近代的な物指しで歴史研究をすすめるのではなく、歴史のなかに本来の人間を発見する作業も現在の歴史学には必要なことではあるまいか。現代の大阪に関する評価は、新聞の投書や論評などをみていても決して芳しくはない。開発が産業中心に行なわれ、人間的文化的な視点が弱いということになるのかもしれないが、江戸時代の大坂についてみるならば、相当に魅力的な都市である。大坂には近世の都市としての魅力がみなぎっており、都市の個性としても充分なものをもっているかに見える。近世都市大坂について、近代大阪にどれだけ近づいたかという視点ではなく、都市大坂のなかに人間性がどのように定着しているか、大坂がいかに人間を大切にする都市であったかを追跡してみたい。しかし、これは一つの試論にすぎない。とりあえず、江戸時代の人は大坂をどのように見ていたかということから、はじめに外国人の大坂観をみる。つぎに日本国内では大坂はどのように紹介されていたか、また旅人は大坂のどこに魅力を発見していたかを考察する。さらに大坂が近郷近在との深い交流のなかで都市問題に折り合いをつけながら、「大」大坂を成立させてくる過程をみていくこととする。
著者
尾上 葉子
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
vol.7号, pp.58-81, 1989-12

中国のギルドについては、西洋ではギャムブル、バージェス両氏の研究が有名であり、わが国においては根岸倍、加藤繁、仁井田陞、今堀誠二の各氏の研究が有名である。中でも仁井田氏は、一九四二年から一九四四年に至る毎年、実際に北京でギルドの調査を行っておられる。この調査に基づいて仁井田氏は『中国の社会とギルド』(岩波書店、一九五一)を著され、また、調査された石刻の内容や、実際にギルドの人々との間で行われた質疑応答の内容は、東京大学東洋文化研究所付属東洋学文献センターから『仁井田陞博士輯北京工商ギルド資料集』(以下『資料集』と略)として出版されている。また、今堀氏は、張家口・包頭などの内蒙古の都市におけるギルドの研究が有名であるとともに、仁井田氏の一九四二年と四三年の北京でのギルド調査に同行しておられる。この論文では、第一章で、これら先行の研究を参考とさせていただきながら、清代北京に存在した「糖餅行」という菓子屋および菓子職人達のギルドについて取り上げてみたいと考える。糖餅行を特に取り上げる理由は、一っには、『資料集』にこのギルドに関して多くの資料が集められていながら、それ自体を主題とする研究がこれまでされていないことである。もう一つには、一つのギルドのなかに北京出身の菓子屋グループである「北案」(「京案」ともいう)と、南京を中心とした南方出身の菓子屋グルー。フである「南案」の二つのグループが存在したという点に興味を持ったためでもある。一つのギルドの中に二っのグループが存在したという例はあまりなく、北京の他のギルドでは、茶商、豆腐屋、刻字行、筆墨商などがあるだけである。また、第二章では、北京の菓子屋およびそこで売られていた菓子について考えることにより、清代から民国の初めに北京で生活していた人々の暮らしの一端に触れてみたいと考えている。なお、中国におけるギルドについての一般的な問題については、前述の方々の研究を参照していただくこととして、ここでは省略する。菓子屋と菓子職人が共同で加入していたのであるが、バージェス氏の調査データでは菓子製造人のギルドと菓子商のギルドが分けられ、質問に解答しているギルド員も別人である。これらの点から明代に創立された菓子製造人のギルドと糖餅行をイコールで結びつけることは甚だ疑問であり、結果として不明という以外にない。
著者
鎌田 道隆
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
vol.26号, pp.97-121, 2009-01
著者
鎌田 道隆
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
no.27, pp.32-55, 2009
著者
松川 克彦
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.79-83, 1984-12

本書の著者ヘルヴァルトは、一九三一年から第二次大戦の勃発する一九三九年までの八年間、主としてソヴェト・ロシア駐在のドイッ大使館に勤務。ディルクセン(Dirksen,H. von)、ナドルニ(Nadolny, R.)、シューレンブルグ(Schulenburg, F. von)という歴代の大使の下で書記官を勤め、次第に緊張を増していくヨーロッパの外交的中心となったモスクワにあって、劇的な展開をとげる独ソ関係の推移を身をもって体験した。しかし、開戦前の八月末には外務省をはなれて軍籍にはいり、一九四一年六月、独ソ戦開始後はケストリンク(Kostring, E.)将軍の副官として東部戦線に従軍したという経歴の持ち主である。第一章では生い立ち。第二章、外務省勤務。第三章モスクワ派遣等々、第二十三章終戦に至るまでの回想が記されている。一定のテーマに関する書物ではないので、以下では一九三九年春以後夏までの独ソ不可侵条約交渉について紹介したい。
著者
鈴木 景二
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
vol.5号, pp.11-38, 1987-12

明治初年、東大寺より多数の文書等が皇室へ献納され、それらは正倉院へ納められた。現在も伝わる東南院文書がそれであるが、それらの中に一枚の銅板があった。いわゆる「聖武天皇勅書銅板」である。表裏両面に聖武天皇の勅文を刻したこの銅銘板は、古く『東大寺要録』に見え、以後東大寺に伝えられ、江戸時代には松平定信が『集古十種』に紹介し、狩谷液斎もまたこれを『古京遺文』に収録した。その後、喜田貞吉氏は詳細な検討をおこない、そこに刻まれた詔勅が奈良時代のものとは考えられないことを明らかにされた。しかし喜田氏の見解は、その文言が奈良時代の研究の史料としては使用できないということを指摘するにとどまり、偽作の目的や、この文章の製作と刻銘の過程、重宝としての伝来といった銅板勅書そのものの検討がなされていない。偽作とはいえ銅板とそこに刻まれた文章もまた歴史の産物である以上、その検討は必ずしも無意味ではなく、何らかの新たな歴史的事実の存在を証明するであろう。それゆえ、本稿ではこの勅書銅板について基礎的な考察を試み、それがいかなる性格を持つものであるのかを考えてみたい。問題とする銅板は縦三二・七センチ、横三〇・六センチで表には天平勝宝五年(七五三)の聖武天皇の願文、裏には同元年の封戸水田勅施入文を刻んでいるが、文字の書体と刻法から裏面の方が時代が下がるとされる。
著者
久保 文武
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
vol.6号, pp.29-51, 1988-12

徳川秀忠の息女和子が元和六年(一六二〇)六月十八日、後水尾天皇の女御として入内したが、武家側よりの入内は約四百年前平清盛の女徳子(建礼門院)入内以来のことで、この件が決して円滑にはこばなかったことは周知の事実として、江戸初期の朝幕関係を物語る格好の史料とされている。そして、後水尾天皇の再三にわたる拒絶とも解せられる譲位の意志を醜意させた、最後の詰めの段階での画策、奔走は幕府側では京都所司代板倉勝重と一外様大名の藤堂高虎であった。しかも、事の紛糾後はむしろ高虎の奔走が中心的役割を果したといえる。和子入内に至る経緯については、徳川家の正史ともいえる「徳川実紀」も何らふれず、元和六年五月八日の和子江戸出発より、六月十八日の入内当日の記事のみが華々しく記述されているのみである。和子入内は家康の遠望と秀忠の政略によるものであるが、詰めの段階での紛糾の解決についてはほとんど記述された論稿がない。ことに武家側の史料を根拠にした論稿は全くなかったともいえる。昭和五一年度の京都大学文学部研究紀要16号に、朝尾直弘氏が京大国史研究室蔵の「元和六年案紙」をもとにの発表せられたのが唯一のものといえる。同論稿は元和六年案紙を武家側当事者の有力な根本史料として、公家側の日記類に匹敵する価値ある史料として、史料考証をまじえながら、従来、明らかにされていなかった重要事実を説述している。本稿ではこの朝尾教授の学恩を蒙りつつ、畿内の数ある有力な親藩・譜代の大名を差しおいて、何故、一外様大名の藤堂高虎がこの難しい交渉の任に選ばれたかの疑問を追求してみることにする。
著者
利行 榧美
出版者
奈良大学史学会
雑誌
奈良史学 (ISSN:02894874)
巻号頁・発行日
vol.24号, pp.119-144, 2006-12

はじめに国忌は前代の天皇の忌日に弔意を表し、忌口に、官で定められた寺院で追善供養の斎会を行うもので、国忌口は養老儀制令太陽麟条によって、廃朝・廃務が規定されていた。①養老儀制令太陽葛条凡太陽葛。有司預奏。皇帝不レ視レ事。百官各守本司・。不レ理レ務。過レ時乃罷。皇帝二等以上親。及外祖父母。右大臣以上。若散一位喪。皇帝不レ視レ事三日。国忌日。謂。先皇崩日。依別式・合廃務・者。三等親。百官三位以上喪。皇帝皆不レ視レ事一日。どの天皇の忌日を国忌として認定するかという点に関しては、国忌指定の記事がすべて残っているわけではない。大宝二年~延暦十年までの間で国忌指定の記事が残っているのは、天武・天智・草壁皇子・藤原宮子・光明子・施基皇子・紀橡姫の七人のみである。それは、中村一郎氏がいうように[国忌の記事がないのは先皇の崩口を国忌とするという令の制度があるので特別に記載しなかった」ためと考えられる。また令には、国忌口は先皇の崩口とあるので天皇以外の人については原則として国忌指定はされなかったと推測される。この国忌の成立に関して先ず重要な史料は二つである。②日本書紀持統二年二月十六日乙巳条詔日、自レ今以後、毎レ取国忌日・、要須レ斎也。③日本書紀持統七年九月十日丙申条為浄御原天皇一、設無遮大會於内裏一。繋囚悉原遣。史料③の日付は天武の忌日に一日遅れてはいるものの、斎が行われていたことと、持統二年の詔が守られていたことを示している。廃務こそまだ行われてはいないが、この時期天武天皇の国忌日は確実に存在していたことが確認できる。滝川政次郎氏は『京制並びに都城制の研究」の中で、国忌を制度化することは持統からはじまり(このことは各氏共通)、養老儀制令にある条文は、その条の集解に古記が引かれているので大宝令に存したことは明らかであるとし、天智の忌日を国忌日としたのは、天智天皇の皇女である持統天皇のお力であったと思う。奈良時代に最も大切にされたのは、天武天皇の国忌日と大内山陵とであって、大内陵に物を献じた記事は、続紀に畳見するが、山科陵に物が献じられたのは、天平勝宝六年三月に只一回あるのみである。と述べている。これまでの国忌研究では、国忌制度の開始時期とともに、国忌の改廃や、国忌の行事内容などが明らかにされ、国忌がその天皇に対する評価として重視されてきた。特に、桓武天皇が国忌を再編(省除)するという延暦十年の政策は、天皇の皇統の問題として注目され、「天武系から天智系へ」という皇統の交替と絡めて論じられることが多かった。しかしながら長い間、廃務それ自体の検討はなされていなかった。こうした中で、初めて廃務を取り扱った藤堂かほる氏の研究が注目される。藤堂説の特徴は、奈良時代の国忌日廃務遵守の検討から、八世紀の先帝意識を探った点にある。その要点を列挙すればa、範とされた唐では国忌廃務が高祖の忌日に際して創出され、初代皇帝高祖が至高の存在として重視されていたことを受けて、日本においての先帝は天智天皇であるとしている点、b、国忌日記事の検討から、八世紀の国忌廃務制度においては天武天皇が唯一至高の権威とされていた形跡はみられず、天智の方が名実共に最高の地位を占めていたとしている点、c、奈良時代は必ずしも天武系の時代とはいえず、光仁・桓武朝における天智系皇統意識の成立は同時に、[皇統意識」そのものの成立でもあったとしている点、である。そして、律令国家における国忌廃務という制度が、国家統治者としての近代先帝を祀る国家祭祀として位置づけられていたとし、律令国家の初代皇帝として遇されたのは天智天皇であると結論づけしている。つまり、藤堂説が成り立つならば、「天武系から天智系へ」という皇統の交替という通説の見直しがせまられるのである。果してそれは妥当なのであろうか。以下、藤堂氏の論点をとりあげ、検討を加えることとする。私は、藤堂氏が検討されたように、国忌日の記事を検討することは、各天皇の個性を明らかにする一つの手がかりになると考えている。そこで本稿においてはまず、奈良時代(称徳朝まで)の国忌の特徴と先帝意識を確認する。その上で桓武朝における国忌日記事の内容と、天武忌日における桓武天皇の姿勢に考察を加えていくことにしたい。それらの検討から、奈良時代は天智・天武の二帝が先帝として位置づけられており、天武天皇の血筋が重視されていたこと、桓武天皇は延暦元年から天武系皇統を否定しており、国忌制度を利用して官人達の「先帝11天武」という意識の変革を行っていたこと、そして、延暦十年はまさに皇統が「天武系から天智系へ」とうつったことを国忌の面から宣言した年であることを明らかにする。