著者
長倉 保
出版者
水利科学研究所
雑誌
水利科学 (ISSN:00394858)
巻号頁・発行日
vol.7, no.4, 1963-10
著者
松浦 茂樹
出版者
水利科学研究所
巻号頁・発行日
no.342, pp.27-56, 2015 (Released:2015-07-06)
著者
菊池 山哉
出版者
水利科学研究所
巻号頁・発行日
no.39, pp.12-19, 1964 (Released:2016-07-05)
著者
栗原 浩
出版者
水利科学研究所
巻号頁・発行日
no.42, pp.56-72, 1965 (Released:2016-07-05)
著者
河合 英二
出版者
水利科学研究所
巻号頁・発行日
no.326, pp.83-91, 2012 (Released:2013-10-08)
著者
崎尾 均
出版者
水利科学研究所
巻号頁・発行日
no.256, pp.31-54, 2000 (Released:2011-03-05)
著者
安藤 萬寿男
出版者
水利科学研究所
巻号頁・発行日
no.116, pp.69-85, 1977 (Released:2011-03-05)
著者
安藤 万寿男
出版者
水利科学研究所
雑誌
水利科学 (ISSN:00394858)
巻号頁・発行日
vol.21, no.3, pp.p69-85, 1977-08
著者
山口 晴幸 伊藤 洋輔 酒井 裕美
出版者
水利科学研究所
雑誌
水利科学 (ISSN:00394858)
巻号頁・発行日
vol.59, no.2, pp.1-25, 2015

福島第一原子力発電所事故により,大量の放射性物質が大気中に排出された。その影響は東北地方に止まらず関東地方にも及び,ホットスポットやミニホットスポットなどと称される放射線量の高い地点や地域が多数確認された。特に都市生活圏での表層土壌への放射性物質の吸着は,動態性の高い微細土粒子成分の経口摂取による健康への影響や,流失による水系(河川,地下水,下水道,海水等)への影響など,新たな問題を誘発することが懸念された。筆者らは原発事故の発生直後から,勤務地であった防衛大学校キャンパス内(神奈川県横須賀市)をはじめとして,神奈川県三浦半島一円・横浜市街区域,さらには東京都区部を中心に各種土壌の放射線量の実態調査と,サンプリング試料土に関する種々の分析・実験を試みており,その成果について論述している。本研究では,主に,(1) 原発事故地から南方約250~300km以遠の神奈川県三浦半島・横浜市街区域及び東京都区部に飛来・降下した放射性物質の雨樋下土壌や車道側片土砂等への吸着実態,(2) 放射性物質の土壌への吸着性と動態性の高い微細土粒子成分への吸着の優位性,(3) 原発事故後ほぼ3年経過時点での放射線量の減衰状況と未だに潜在するホットスポット的地点の実態,(4) 下水汚泥・汚泥焼却灰に波及的な影響を齎している要因,(5) 汚染土の除染・減容化実験と除去効果の評価などについて検討している。
著者
西沢 豊 千葉 徳爾
出版者
水利科学研究所
巻号頁・発行日
no.130, pp.11-30, 1979 (Released:2011-03-05)
著者
岩屋 隆夫 松浦 茂樹 望月 誠一
出版者
水利科学研究所
雑誌
水利科学 (ISSN:00394858)
巻号頁・発行日
vol.53, no.5, pp.44-67, 2009

扇状地河川の一つ、富士川右支川釜無川の扇頂左岸に築堤されたのが著名な信玄堤である。この信玄堤を原型とする釜無川左岸堤は、明治29年の洪水で建設以来、初めて破堤した。当該水害の問題点などは、既に岩屋が明らかにしているところであるが、この明治29年の時点で、釜無川左岸堤は、既に連続堤防となっていた。では、不連続堤また霞堤の代表格として各種論文等に記載されることが多い釜無川左岸堤は、どのような理由で連続堤防へと変貌したのか。本論は、かかる釜無川左岸堤の連続化の築造経緯を明示することによって、富士川明治改修の特徴を明らかにする。信玄堤の連続化の経緯等は、これまで明らかにされたことが無いから、この点において本論の意義がある。
著者
竹内 俊雄
出版者
水利科学研究所
雑誌
水利科学 (ISSN:00394858)
巻号頁・発行日
vol.36, no.2, pp.p14-45, 1992-06
著者
和達 清夫
出版者
水利科学研究所
雑誌
水利科学 (ISSN:00394858)
巻号頁・発行日
vol.7, no.4, 1963-10
著者
和達 清夫
出版者
水利科学研究所
巻号頁・発行日
no.33, pp.1-6, 1963 (Released:2016-05-23)
著者
松浦 茂樹
出版者
水利科学研究所
雑誌
水利科学 (ISSN:00394858)
巻号頁・発行日
vol.58, no.1, pp.143-168, 2014

明治43年(1910)8月,関東地方を中心に東日本で大水害が生じた。この対策として政府は北海道移住を呼びかけた。この呼びかけに,渡良瀬川支川思川下流部に位置する栃木県下都賀郡から66戸210名が応じた。彼らは,44年4月,現在の北海道常呂郡佐呂間町に入植し,その土地を「栃木」と命名して開墾を進めていった。明治時代,水害罹災者が北海道へ移住するのは珍しいことではなかった。明治22年の奈良県十津川災害では,十津川村から約640世帯,約2,600人が移住し,新十津川村を開いたことはよく知られているが,富山県の常願寺川水害,岐阜・愛知県の木曽川水害でも被害者は新天地を求めて移住した。また40年の富士川大水害後も,山梨県から200戸以上の移住者が北海道に向かっている。ところで栃木県下都賀郡は,明治20年頃から35年にかけて足尾銅山から排出された廃鉱(廃棄された銅分を含む土石)によって鉱毒被害が生じた地域であった。また,佐呂間町に移住した66戸の中には10数戸の元谷中村出身者がいた。このため今日,度々,この移住は足尾鉱毒事件と結び付けられて述べられている。たとえば,昭和57年(1982),開拓70周年を記念して「栃木のあゆみ」が栃木開基開校七十周年記念協賛会から刊行されたが,その冒頭に「(栃木集落は)栃木県人の皆様が足尾銅山の鉱毒に追われ,北海の新天地に永住の地を求めて移住されました」と述べている。つまり栃木集落に移住してきた人々を足尾鉱毒の被害者とし,その移住を足尾鉱毒事件の一環としてとらえている。さらに,政府による「強制移住」との主張もある。
著者
浜田 忠久
出版者
水利科学研究所
雑誌
水利科学 (ISSN:00394858)
巻号頁・発行日
vol.47, no.1, pp.92-123, 2003

水利組織の原型は、江戸時代に形成された井組、水組などと呼ばれた村々連合だといわれるている。こうした旧慣に基づく組織を、法律で定めた新しい組織制度の枠組みに組み入れていこうとすれば、当然そこには摩擦や混乱が生じることになる。そうした事例は全国各地にみることができる。ここでは、制度と実態の不一致により生じた対立・紛糾事例として、待矢場両堰地区における堰総代人問題を取り上げ、新しく導入された法律制度に対する県の考え方や地元における期待、その間に挟まれた郡の対応などを追いながら、その混乱が何故生じ、それがどようなかたちで収束していったかについてみていくこととしたい。