著者
井原 今朝男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.139, pp.157-185, 2008-03-31

鎌倉前期の諏訪神社史料群は、『吾妻鏡』や『金沢文庫文書』などが中核になっており、鎌倉後期には『陬波御記文』『陬波私注』『隆弁私記』『仲範朝臣記』『諏訪効験』『広疑瑞決集』など諏訪信仰に関する史料群が数多くつくられた。これらは、いずれも鎌倉諏訪氏と金澤称名寺の関係僧侶の結合によって集積されたものを基礎資料にしてつくられたものという点で共通している。鎌倉期には、中央の国史や諸記録には知りえない知の体系として諏訪縁起が編纂され、関東で仰信される信仰圏が成立していた。鎌倉期においては、神の誓願・口筆を御記文とし、その聴聞を神の神託として重視する思想が流布した。その中で、諏訪大祝の現人神説や祝の神壇居所説、諏訪明神は「生替之儀」があるとする再生信仰など諏訪信仰独自の神道思想が形成されていた。仏教における念仏思想が諏訪神官層にも浸透して、仏道における神職は死後蛇道におちるという社会通念の存在する中で、仏道との葛藤の中から、諏訪神道という独自の思想が形つくられた。諏訪「神道」思想が、伊勢神道や吉田神道が成立する以前のものとして言説化していたこと、などを主張した。
著者
井原 今朝男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.148, pp.249-268, 2008-12-25

近年、神社史研究が活発化しつつあるが、その分析対象となる多くの神社史料がもつ歴史的特徴や問題点について留意されることが少ない。そこで神社史料についての資料学的検討を行った。第一は、現存する神社や現任の神官層の保管下にある神社史料群はむしろ限定された文書群にすぎず、むしろより多くの関係史料群が社家文書として個人所蔵に帰しており散逸の危機に直面し、史料群の全体像はなお不明の状態のものが多いといわなければならない。社家文書の群としての全体的構造を理解することは、神社資料に対する史料批判を厳密にするうえで必要不可欠な作業である。第二に、個別神社史料群は、明治の廃仏毀釈によって仏事関係史料群が流出し、史料群の構成は大改変を受けている。そのため、現存史料群から描く神社史像は歴史実態から乖離してしまうという問題に直面することになる。改めて、廃仏毀釈の実態解明や旧聖教類の所在についての史料調査が重要な課題になっている。第三は、現存する神社史料群は、とくに近世・近代の神官層による神道書や縁起の編纂・改変という諸問題を抱えている。しかし、それらの解明は今後の課題であり、史料学的な問題点として論じられていない。神道史というものが近世国学や近代国家神道によって、「近代日本的な偏見」を受けていることが指摘されてきた。近世・近代の国家神道の下で神道書や神社史料がどのようなイデオロギー的変容を遂げたのかをあきらかにすることは、神社史料研究の一研究分野としなければならない。こうした神社史料ももつ諸問題や特質をトータルとして論じる多面的な資料学的研究が必要になっている。
著者
井原 今朝男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.121, pp.1-42, 2005-03-25

本稿は、あらたに発見された長野市の守田神社所蔵の新史料『鉄炮之大事』とセットで伝来した『南蛮流秘伝一流』の史料を翻刻・紹介するとともに、中世における技術と呪術の相関関係を考察したものである。第一に、『鉄炮之大事』は、天正十九年から、文禄三年、文禄五年、慶長十年、元和元年までの合計十五点の文書群である。これまで最古とされる永禄・天正期の火薬調合次第とほぼ同時代のものから、文禄・慶長・元和という江戸初期への移行期までの変遷を示す史料としては、稀有な史料群である。しかも、これまで知られている大名家と契約をとりかわした炮術師の炮術秘伝書よりも古い史料群であり、民間の地方寺社に相伝された修験者の鉄炮技術書としては、最古ではじめての文書群である。第二に、『南蛮流秘伝一流』は『鉄炮之大事』とセットで相伝されたもので、その内容は南蛮流炮術の伝書ではなく、戦傷者などの治療技術を記載した医書である。鉄炮の技術と医術とがセットで相伝・普及されたことが判明した。傷の治療法として縫合術や外科手術法が相伝されており、内容的にポルトガル医学だけではなく、室町期に日本で独自に発達した金瘡医学の要素が強く、両者の混在を指摘した。第三に、『鉄炮之大事』『南蛮流秘伝一流』には、火薬調合や膏薬製造など技術的薬学的知識が、呪法や作法によって神秘化・儀礼化され、呪術的性格をあわせもっていた。実践的戦闘法として活用された戦国期に近い天正・文禄年間ほど、技術的要素が濃厚であり、慶長・元和年間の近世社会になるほど、呪術的性格を強化しているという逆転現象を指摘した。
著者
井原 今朝男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.178, pp.305-329, 2013-03

戦国・織豊期の天皇像について、公家衆が地方に下向するものが多く、天皇は公家 社会に対する統括権を喪失し「太政官も廷臣も必要としない天皇制」になったとする 歴史像が通説になっている。本稿では、明応五年(一四九六)前関白九条政基が家礼唐橋在数を殺害した事件で、 後土御門天皇が九条家に対して勅勘の処分にした裁判事例をとりあげ検討した。その 結果、天皇は被害者の一門菅原氏に勅使を派遣して菅氏輩訴状を出させ、論人の九条 家にも勅使を派遣して准后申状を提出させて、裁判をはじめた。近臣や伝奏経験者に 勅問を発して意見具申をもとめ、二月五日に天皇自ら妻戸間に出御して、伝奏・職事 らと合議を行い、両局輩から勘文を出させて、御前沙汰と呼ぶべき裁判審議を行った。 武家に申して御沙汰するか否かについては、重科の罪ではないとして、九条尚経解官 の処分案について検討することで二月五日の御前定を終えた。この天皇裁判事件は、 天皇が官人と結ぶ官位制(国家官僚制)と、権門が家礼と結ぶ主従制(家産官僚制) という二つの官僚制のうち、どちらを優先させるか、という難問であった。摂籙家や 九条家と姻戚関係にあった三条西実隆や甘露寺親長ら近臣は、家礼在数の罪科は明瞭 であるとして、家長による家礼・臣への処罰権を軽視するものとして摂家解官の処分 案に反対した。閏二月二日の御前定で、天皇は摂家解官の処分案を撤回し、近衛家が 提案した九条家勅勘・出仕停止の処分案を「御治定」として決裁した。このように室 町戦国期の天皇は、公家身分内部の紛争や殺害事件に対して天皇の裁判権・処罰権を 行使しており、勅使の派遣や勅問によって関係者の合意形成に努力し、勅勘・出仕停 止の処分案を天皇による最終決定として判決した。その反面、武家執奏を口実にして、 天皇の意志に反した近衛家から関白職を取り上げた。室町・戦国期にも天皇が公家間 の紛争に対して裁判権を行使し、幕府を後見として利用しつつ家父長制的権力を強化 していたことをあきらかにした。The prevailing view of the historical image of the Emperor during the Sengoku/Shokuho Period says that many Imperial Court nobles left the capital and headed to the provinces, with the Emperor losing his right to unify the Imperial Court society and the "Emperor System requiring neither a Department of State nor courtiers".This paper investigates a trial case in which Emperor Gotsuchimikado censured the Kujo family in relation to the murder of a servant called Arikazu Karahashi perpetrated in 1496 by Kujo Masamoto, former Chief Adviser to the Emperor. As a result of this, a trial commenced after the Emperor dispatch an imperial messenger to the victim's family, the Sugawara clan, who were made to submit a complaint, and an imperial messenger was also dispatched to the defendant's family, the Kujo family, who were made to submit a jugou petition. The opinions of attendants and persons with experience of delivering messages to the Emperor were requested by means of imperial questions, and trial deliberations referred to as gozen sata (direct judgments) were conducted after the Emperor himself arrived at the doors to the pavilion on February 5th and summoned both parties to consult with regards to events relating to work in delivering messages to the Emperor. As for whether or not imperial words were given to buke, the crime was not deemed to be serious, and gozen sata were completed on February 5th by considering punishment by dismissal for Hisatsune Kujo. This Emperor's trial case posed a difficult question in terms of whether to give priority to State bureaucracy connected to government officials, or to patrimonial bureaucracy connected to powerful families and their servants. Attendants Sanetaka Sanjonishi and Kanroji Chikanaga, who were connected to the Setsuroku family and Kujo family as relations by marriage, felt that the crime against Arikazu was clear, and they opposed punishment by dismissal as lightening the family heads' right to punish servants and attendants. With the imperial decision of February 2nd, the Emperor withdrew punishment by dismissal of the adviser and approved as an imperial decree punishment of the Kujo family by censure and suspension of service, as proposed by the Konoe family. In this way, the Emperor of the Muromachi/Sengoku Period exercised his right to judge and punish disputes and murder cases between Imperial Court nobles, dispatching imperial messengers and putting great effort into understanding the related partied by means of imperial questions, with the Emperor making final decisions on punishment by censure or suspension of service. On the other hand, taking the Muromachi shogun (buke shisso) as a pretext, the Emperor reciprocated by appointing a member of the Konoe family as his chief adviser. Even in the Muromachi/Sengoku Period, the Emperor exercised jurisdiction in relation to disputes between Imperial Court nobles, and it was clarified that patriarchal authority was strengthened while utilizing the shogunate as a guardian.
著者
井原 今朝男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.139, pp.157-185, 2008-03

鎌倉前期の諏訪神社史料群は、『吾妻鏡』や『金沢文庫文書』などが中核になっており、鎌倉後期には『陬波御記文』『陬波私注』『隆弁私記』『仲範朝臣記』『諏訪効験』『広疑瑞決集』など諏訪信仰に関する史料群が数多くつくられた。これらは、いずれも鎌倉諏訪氏と金澤称名寺の関係僧侶の結合によって集積されたものを基礎資料にしてつくられたものという点で共通している。鎌倉期には、中央の国史や諸記録には知りえない知の体系として諏訪縁起が編纂され、関東で仰信される信仰圏が成立していた。鎌倉期においては、神の誓願・口筆を御記文とし、その聴聞を神の神託として重視する思想が流布した。その中で、諏訪大祝の現人神説や祝の神壇居所説、諏訪明神は「生替之儀」があるとする再生信仰など諏訪信仰独自の神道思想が形成されていた。仏教における念仏思想が諏訪神官層にも浸透して、仏道における神職は死後蛇道におちるという社会通念の存在する中で、仏道との葛藤の中から、諏訪神道という独自の思想が形つくられた。諏訪「神道」思想が、伊勢神道や吉田神道が成立する以前のものとして言説化していたこと、などを主張した。Documents such as "Azuma Kagami" and "Kanazawa Bunko Bunsho" comprise the core of archival material dating from the early Kamakura period on the history of the Suwa shrine, while numerous collections of materials were written on Suwa religious beliefs during the late Kamakura period, including "Suwa Kimon", "Suwa Shichu", "Ryuben Shiki", "Nakanori Asonki", and "Suwa Kogen, Kogisuiketu-shu". A common feature of these materials is that each constitutes a basic corpus of materials collected as a result of the union between the Kamakura Suwa clan and Buddhist priests associated with Kanezawa Shomyo-ji temple. During the Kamakura period, Suwa religious beliefs took hold in the Kanto region following the compilation of Suwa Engi to form a body of knowledge that could not be acquired from national histories and the various records of the central government. The vows, utterances, and writings of deities were recorded, and a belief setting great store in these as divine messages from deities became popular. Shinto beliefs unique to this Suwa religion were created, including beliefs that the Suwa Ohori (head priest) was a living deity and that this deity resided in the shrine altar. Another was the belief in rebirth based on the "rebirth ceremony" of the deity Suwa Myojin. Suwa priests were familiar with the nembutsu belief (in the after-life) in Buddhism and at a time when it was commonly believed that Buddhist priests would be reborn as serpents, Suwa Shinto emerged as a separate religion as a result of tension with Buddhism. This paper argues that Suwa Shinto came into being as a set of beliefs before Ise Shinto or Yoshida Shinto.
著者
井原 今朝男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.96, pp.141-193, 2002-03-29

本稿は,長野盆地における大河川の氾濫原・沖積扇状地と山麓丘陵部という対照的な二つの地域における災害と開発の歴史を類型化する試みを提示するとともに,開発勢力に注目して中世社会の災害と開発力の歴史的特質を検討しようとするものである。前者,大河川の氾濫地域では開発が後れ,ほとんど近世の新田開発によると考えられていた。しかし,近年の大規模開発による考古学調査と用水や地名を中心とした荘園遺構調査など総合的地域史研究によって,10・11世紀における古代の先行した開発が確認され,大河川の洪水災害のあとも,伊勢上分米を開発資本として投資・復興させつつ御厨に編成しようとする動きと,国衙と結んで公領として再組織する動向とが拮抗していたこと。その開発勢力として伊勢平氏の平正弘一門が大きな役割を果たしたことを指摘した。他方,山麓丘陵部から扇状地一帯に古代の鐘鋳川を利用した条里水田が先行していたが,9・10世紀における土砂災害で鐘鋳川が埋没を繰り返す中で,国衙による条里水田の維持・復興が困難になり,院政期には後庁の在庁官人を指揮しうる院権力と結ぶ開発勢力が鐘鋳川を復旧・延長し,周辺部の再開発地に松尾社領や八条院領を立荘していった。さらにその縁辺部の非条里水田地域では,鎌倉~室町期に御家人平姓和田氏や国人高梨氏が六ヶ郷用水という第二次的補足的用水体系を開削して新しい開発地域を拡大していく努力を繰り返した。この開発勢力として院の北面や女院侍として活躍する一方鎌倉御家人をも輩出した越後平氏諸流の存在を「京方御家人」という概念で把握すべきことを指摘した。地域の開発景観が時代の変遷と開発主体の相違にもとづいて複合構造をなしていたといえよう。
著者
井原 今朝男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.121, pp.1-43, 2005-03

本稿は、あらたに発見された長野市の守田神社所蔵の新史料『鉄炮之大事』とセットで伝来した『南蛮流秘伝一流』の史料を翻刻・紹介するとともに、中世における技術と呪術の相関関係を考察したものである。第一に、『鉄炮之大事』は、天正十九年から、文禄三年、文禄五年、慶長十年、元和元年までの合計十五点の文書群である。これまで最古とされる永禄・天正期の火薬調合次第とほぼ同時代のものから、文禄・慶長・元和という江戸初期への移行期までの変遷を示す史料としては、稀有な史料群である。しかも、これまで知られている大名家と契約をとりかわした炮術師の炮術秘伝書よりも古い史料群であり、民間の地方寺社に相伝された修験者の鉄炮技術書としては、最古ではじめての文書群である。第二に、『南蛮流秘伝一流』は『鉄炮之大事』とセットで相伝されたもので、その内容は南蛮流炮術の伝書ではなく、戦傷者などの治療技術を記載した医書である。鉄炮の技術と医術とがセットで相伝・普及されたことが判明した。傷の治療法として縫合術や外科手術法が相伝されており、内容的にポルトガル医学だけではなく、室町期に日本で独自に発達した金瘡医学の要素が強く、両者の混在を指摘した。第三に、『鉄炮之大事』『南蛮流秘伝一流』には、火薬調合や膏薬製造など技術的薬学的知識が、呪法や作法によって神秘化・儀礼化され、呪術的性格をあわせもっていた。実践的戦闘法として活用された戦国期に近い天正・文禄年間ほど、技術的要素が濃厚であり、慶長・元和年間の近世社会になるほど、呪術的性格を強化しているという逆転現象を指摘した。This paper introduces a new historical document called the "Teppo no Daiji" ("Gun Manual") newly discovered in a collection at Morita Shrine in Nagano City together with historical documents entitled "Nanban-ryu Hiden Ichiryu" ("Nanban School Book of Secrets"). It also investigates the correlation between techniques and magic during the Middle Ages.First, "Teppo no Daiji" is a collection of a total of 15 documents dating from 1591, 1594, 1596, 1605 and 1615. It dates from virtually the same period as material on blending gunpowder dating from the late 1550s through to the early 1590s that had until now been considered the oldest of its kind. As materials that show the changes that occurred during the time leading up to the period of transition at the beginning of the Edo period (from mid 1590s to early 1620s) they are indeed rare materials. What is more, as historical materials that are older than a book of secrets on the art of guns written by a gunsmith who was contracted to a feudal lord that had been known about earlier, they are the oldest and first writings on the art of guns by practitioners who bequeathed them to a temple or shrine situated on private land.Second, "Nanban-ryu Hiden Ichiryu" was bequeathed with "Teppo no Daiji" as a set, and instead of being a record of the art of guns according to the Nanban school, it contains details of methods for treating soldiers injured in battle. It turns out that writings on gun techniques and medicine were handed down and disseminated as a set. Stitching techniques and surgical methods are given as methods for treating injuries. In addition to details of Portuguese medicine, there are strong elements of the method for treating wounds caused by swords that was developed independently in Japan during the Muromachi period, suggesting a mixing of these two types of medicine.Third, the transmission of technical and chemical knowledge on such things as blending gunpowder and making ointment from the "Teppo no Daiji" and "Nanban-ryu Hiden Ichiryu" is mysticized and ritualized by the use of magic and ritual so that it also possesses a magical dimension. There is an abundance of technical elements in the materials dating from the Tensho and Bunroku periods of the mid 1570s through the mid 1590s that are closer in time to the Sengoku period when practical fighting methods were adopted. They also reveal a reverse phenomenon in that in the documents dating from the Keicho and Genna periods at the end of the 16th century and beginning of the 17th century when early modern society was developing in Japan, there is a stronger magical element.
著者
井原 今朝男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2002

1,日本のおける債務史研究という新しい研究分野を創造することを目的に研究を積み重ねてきた。これまで、「中世借用状の成立と質券之法」(『史学雑誌』111-1)、「中世請取状と貸借関係」(『史学雑誌』113-2)、「日本中世の利息制限法と借書の時効法」(『歴史学研究』812)などによって研究成果を公表し、債務史の分析視角と分析課題を提示するとともに、前近代社会の債務債権関係の慣習法が、近代資本主義社会のそれと時代的に異質であることが明確になり、債務史という研究分野の存在を明示することができた。2,前近代社会の債務・債権関係の慣習法A 近代資本主義社会では利息制限法は利子率を制限するが、貸借期間がつづくかぎり永久に増加しつづける。しかし、前近代社会においては、利息は本銭の二倍で制限される利息一倍法と銭の場合には本銭の半倍以上には利息が増えないという挙銭半倍法が機能しており、利息制限法は総額主義であった。B 近代では、貸借契約で質流れになった場合は、売買契約と同様物権が移転し、所有権が移る。しかし、前近代の質契約では、質流れのあとでも債務者が返済の意志を示せば、質物は債務者にもどされるという質券之法が機能しており、質流れ観念が未成熟であり、質物は容易に流れないもので、質権の自立性が強かった。売買と貸借の観念が未分化であった。C 近代では自分のものと他人のものが明瞭に区別される。しかし、前近代では、神物・仏物とひとのものとが区別され、自分のものと他人のものの区別が曖昧であり、請取状も預状も返抄なども借用状として機能した。
著者
井原 今朝男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.178, pp.305-329, 2012-03-01

戦国・織豊期の天皇像について、公家衆が地方に下向するものが多く、天皇は公家 社会に対する統括権を喪失し「太政官も廷臣も必要としない天皇制」になったとする 歴史像が通説になっている。本稿では、明応五年(一四九六)前関白九条政基が家礼唐橋在数を殺害した事件で、 後土御門天皇が九条家に対して勅勘の処分にした裁判事例をとりあげ検討した。その 結果、天皇は被害者の一門菅原氏に勅使を派遣して菅氏輩訴状を出させ、論人の九条 家にも勅使を派遣して准后申状を提出させて、裁判をはじめた。近臣や伝奏経験者に 勅問を発して意見具申をもとめ、二月五日に天皇自ら妻戸間に出御して、伝奏・職事 らと合議を行い、両局輩から勘文を出させて、御前沙汰と呼ぶべき裁判審議を行った。 武家に申して御沙汰するか否かについては、重科の罪ではないとして、九条尚経解官 の処分案について検討することで二月五日の御前定を終えた。この天皇裁判事件は、 天皇が官人と結ぶ官位制(国家官僚制)と、権門が家礼と結ぶ主従制(家産官僚制) という二つの官僚制のうち、どちらを優先させるか、という難問であった。摂籙家や 九条家と姻戚関係にあった三条西実隆や甘露寺親長ら近臣は、家礼在数の罪科は明瞭 であるとして、家長による家礼・臣への処罰権を軽視するものとして摂家解官の処分 案に反対した。閏二月二日の御前定で、天皇は摂家解官の処分案を撤回し、近衛家が 提案した九条家勅勘・出仕停止の処分案を「御治定」として決裁した。このように室 町戦国期の天皇は、公家身分内部の紛争や殺害事件に対して天皇の裁判権・処罰権を 行使しており、勅使の派遣や勅問によって関係者の合意形成に努力し、勅勘・出仕停 止の処分案を天皇による最終決定として判決した。その反面、武家執奏を口実にして、 天皇の意志に反した近衛家から関白職を取り上げた。室町・戦国期にも天皇が公家間 の紛争に対して裁判権を行使し、幕府を後見として利用しつつ家父長制的権力を強化 していたことをあきらかにした。
著者
井原 今朝男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.104, pp.17-41, 2003-03

これまで室町期荘園制は荘園制解体過程として理解されてきた。本稿では、南北朝期から応安年間にかけて中世国家を代表する幕府と天皇権力が荘園制を再編成しようとする政策を推進し、在地からの下地中分の動向とリンクしたことによって再版荘園制が生まれ応永年間を中心に安定性をもって社会的に機能したことを主張した。第一に東国の南北朝期において天皇の綸旨によって棟別銭賦課が命じられ、それを将軍家と関東管領・守護が施行することによって強制徴収されていること、その中で寺社本所領と地頭堀内は免除されるという抵抗の論理が生きていた。しかも同じ時期に東国本所領という所領区分が存在し、そこでの年貢納入沙汰については武家沙汰として幕府権力によって強制的な保護が加えられていた。第二に、こうした地域編成区分がどのように登場してきたかを検討すると、室町幕府による建武四年から応安元年にいたる荘園政策立法によって、武家領・本所領という荘園所領の二大区分法が登場していた。しかも、幕府の荘園政策立法の推移を検討すると、延文二年令以後本所領内部に知行地をもっている武家被官の知行を公認するとともに、下地の半分を武家と本所で折半する法が強制執行されている。しかも「寺社一円之地」と「禁裏仙洞勅役料所」という新しい所領区分が登場しそこでは全面的に保護政策がとられ、武家被官と荘園領主層の両者の利益が両立するものとなっていた。応安の大法ではじめて諸国本所領という所領区分が登場しており、その延長線上に「東国本所領」とならんで「西国寺社本所領」が存在していたことをあきらかにした。この結果、院政期に荘園制が成立し室町期に衰退・解体するのではなく、室町幕府の荘園政策立法によって荘園制の枠組みも再編成されて新しい所領区分法が生み出され社会的に機能していたことを述べた。Until now, the view of the shoen system in the Muromachi Period has been one of the process of dismantling the shoen system. The thrust of this paper is that both the bakufu, that typifies the state in the years from the Nanbokucho Period through the Oan Period, and the imperial authorities, were promoting policies that were attempting to reconfigure the shoen system, and by having linked into the movement from the estate to the division into two halves, a revamped shoen system emerged, providing stability in the Oei period in particular, and playing a useful function in society.First of all, in the Togoku in the Nanbokucho period, it was the rinshi (order) of the emperor that commanded the payment of munabetsusen, and that was enforced through travel between the shogun's houses and Kanto kanryo / shugo. At the same time, there was still some ethic of resistance, with the honjoryo of temples and shrines and the jito horinouchi being exempted. Moreover, in the same period, there existed shoryo divisions called Togoku Honjoryo, and that was where the order to pay annual tributes was made in the form of a samurai order and protection applied unilaterally on the authority of the bakufu.Secondly, an investigation of how categories of regional configuration changed and emerged reveals that the establishment of shoen policy by the Muromachi bakufu from Kemmu 4 (1337) to Oan 1 (1368) , divided the shoen-shoryo into two major categories, bukeryo and honjoryo. Moreover, when the trends in the establishment of shoen policies by the bakufu are examined, from the ordinance in Enbun 2 (1357), in addition to recognizing the chigyo (possession) of the bukehikan who hold chigyo land, a law dividing half of the land between samurai and the honjo was enforced. Moreover, new shoryo divisions called "jisha ichiennochi" and "kinri sento chokuyaku ryosho" emerged, and a full-scale protective policy was taken for them. This enabled both the buke hikan and the shoen ryoshu level to gain benefits simultaneously. The shokoku honjoryo made its first appearance in the great law of Oan, and it has become clear that it was an extrapolation of this move that led to saikoku jisha honjoryo existing in parallel with the togoku honjoryo.This paper states that, as a result, it was not the case that the shoen system was established in the Insei period and declined or was dismantled in the Muromachi period. It was the establishment of the Muromachi bakufu's shoen policy that reconfigured the framework of the shoen system, producing the new shoryo category law (shoryo kubunho) , playing a role both in historical and societal terms.
著者
井原 今朝男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2008

1501年後柏原天皇即位式財政帳簿である即位下行帳をはじめて発見・公開し、中世禁裏の財政運営が朝廷の儀式伝奏と幕府の惣奉行との関係者によって共同執行されていたことをあきらかにした。その結果、衰微した天皇の代表といわれ22年間即位式を執行できなかった後柏原天皇について、即位式準備の財政帳簿である即位下行帳をはじめて発見・公開・報告・分析し、中世禁裏の財政運営が幕府と禁裏との共同財政帳簿で運営されていた史実をあきらかにした。
著者
井原今朝男著
出版者
校倉書房
巻号頁・発行日
2012
著者
井原 今朝男
出版者
信濃史学会
雑誌
信濃 [第3次] (ISSN:02886987)
巻号頁・発行日
vol.72, no.9, pp.703-730, 2020-09
著者
井原 今朝男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.157, pp.213-247, 2010-03

本稿は、前近代の触穢と精進法のあり方を通じて、前近代の呪術・信仰が生業・技術や権力の動き・さらには民衆生活をどのように規制していたのかについて検討し、これまでの通説であるケガレ観念の国家的管理論や、天皇・禁裏や伊勢神宮は神聖な空間が維持され、穢多・清目・河原者には「服忌によっても禊祓によっても払拭できない穢」が集中したとする見解を実証面から批判したものである。本稿では、室町期の内裏では禁中触穢が繰り返され、天皇は四方拝や毎日拝を神事でないことを理由に穢のときでも公事として実施していた史実を指摘した。系譜上の父母である上皇・国母が死去した際には、倚廬とよぶ粗末な庵をつくり十四日間忌みこもりを行なっており、禊ぎと祓えによって死穢をキヨメる呪術的儀礼であったことをあきらかにした。ここから中世天皇や禁中が穢れと浄の混在する世界であったことを指摘した。第二に、伊勢神宮の最初の服忌令とされる「文保記」の史料検討を行い、東海地方の神官や民衆が触穢に対処する精進法の個別事例集としての性格をもっていたことを指摘し、在地の民衆知では生業を優先的に営むために、物忌みや禁忌の期間を短縮し、「斃牛馬を掃除の人、穢の限以後、別憚り無き也」との規定を作り出し、被差別民に対しても穢れは消滅するもの・払拭できるものという社会思潮を有していたことをあきらかにした。第三に、鎌倉末から南北朝期の東海地方の下層民衆は、死人の葬儀を忌避し「触穢を遁れるため」に「野棄」や「速懸」と呼ばれた死体遺棄という独自な埋葬方法を実施した。それは中世社会において「死去の不審」があったため、生きかえることを期待した民衆の行動であり、野棄・速懸は下層民衆独自の合理的な知の体系性をもった民衆知であったことを指摘した。中世天皇や禁裏は、触穢思想の枠内において機能していたが、地方の民衆知は、触穢思想を相対化し、生き抜くための生業活動を優先させていたことを指摘した。This article looks at how magic and religion in the pre-modern age regulated occupations and technology, moves of authority, and moreover, common people's lives through the ways in which shokue, touching impurity, and shojin-ho existed during that period. Then, from a demonstrative point of view, it criticizes the generally accepted theory of government control over the impurity conception and the view whereby sacred space was maintained for emperors, the imperial palace and the Ise Shrine and eta, kiyome and kawaramono built up "impurities that could not be eradicated even through bukki, mourning or misogiharae, a form of Shinto purification." In this article, I have pointed out historical evidence that shokue repeatedly occurred at the imperial palace in the Muromachi Period and that emperors carried out shiho-hai, Prayer to the Four Quarters (a Japanese imperial New Year's ceremony) and mainichi-hai, everyday prayer, as political operations even when they were impure under the excuse that these were not Shinto rituals. Whenever a joko ( a retired emperor) or kokubo ( an empress dowager) , the genealogical father or mother, passed away, a humble hermitage called Iro was made to retreat in mourning for fourteen days. I reveal that this was a magic ritual designed to lustrate the impurity of death through misogi and harae, forms of Shinto purification. As such, I have pointed out that the medieval emperors and their palace were in a world where impurity and purity co-existed.Secondly, I have examined the historical papers of "Bunpo-ki," which is regarded as the first bukki ordinance by the Ise Shrine, and point out that this was a collection of individual shojin-ho cases on how Shinto priests and common people in the Tokai area dealt with shokue. I have unfolded that through folk wisdom in the area in order to carry on occupations on a preferential basis, periods of monoimi, fasting, and kinki, taboo, were reduced, and an order that "a person who cleans dead cows and horses must not hesitate after the period of impurity" created, Additionally, social thought existed that the impurities of discriminated people could also be dissolved and eradicated.Thirdly, lower class people in the Tokai area between the end of the Kamakura Period and the Northern and Southern Courts Period recused themselves from funerals of dead people, and carried out a unique way of burying by abandoning a corpse called "nosute" and "hayagake" "in a bid to avoid shokue." This was because of "suspicion of death" in medieval society and people took this action in the hope of resurrection. I have pointed out that nosute and hayagake were folk wisdom of the lower classes based on a rational intellectual system.I have indicated that while medieval emperors and their palaces functioned within the frame of the shokue principle, regional folk wisdom made the shokue principle relative and prioritized occupations activities for survival.
著者
井原 今朝男
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2012-04-01

中世禁裏財政は幕府財政からの補助金で幕府の政所によって運営されていたという通説を批判した。新出史料の「即位下行帳」の分析から、禁裏の賦課した諸国段銭や諸国所課を幕府が徴収して共同財政の惣用下行帳で、公家の伝奏切符と幕府方の惣奉行人らの下書との複合文書で財政支出システムを運営していたことをあきらかにした。業者は必要経費を立て替え払いし、請求書を禁裏の公家と幕府奉行人に示して手形を発給してもらい公方御倉から支払を受けるという債務を前提にした請求主義の決算システムになっていたことをあきらかにした。その研究成果は『室町廷臣社会論』(塙書房2014)として公刊した。