著者
小林 正史 徳澤 啓一 長友 朋子 北野 博司
出版者
北陸学院短期大学
雑誌
北陸学院短期大学紀要 = Bulletin of Hokuriku Gakuin Junior College (ISSN:02882795)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.277-328, 2007-04-20

前稿では東北タイと北部タイの土器作り技術の違いを生み出した要因を検討し、自然環境の違いが強く影響していることを明らかにした。本稿ではこの結果を踏まえ、比較対象を東南アジア全体に広げて、5地域間の土器作り技術の違いを生み出した要因を検討した。その結果、稲作農耕民の土器作り技術の特徴であるタタキ成形と覆い型野焼きについて、以下の点が明らかとなった。第一に、成形手法は「円筒形の一次原形を叩きにより膨らませる」点で共通するが、円筒形の一次原形の作り方には中空円筒手法、紐積み、手びねり(+紐積み)などのバリエーションがあり、この順に上半部の形を完成品に近づけ、また器壁を締める効果が高まる。よって、その後の二次成形叩きはこの順に「叩きによる変形度」と「成形全体に占める叩き時間の比率」が小さくなる。叩き技法の重要性(形の変形度、サイクル数、成形作業に占める叩き時間の比率)に影響する要因として、(1)1日当り生産個数(叩き技法を多用する方が多め)、(2)乾燥時間(乾季のみ土器を作る場合は、叩きの重要性が高い成形手法により多数の土器を作ることができる)、(3)土器の大きさ(大きめの土器ほど叩きの重要性が高まる)、の3つがあげられた。第二に、覆い型野焼きでは「覆いの密閉度」と「薪燃料の多さ」が最も重要な要素となるが、覆いの密閉度は、(1)薪燃料の多さ(薪多用型ほど薪に着火しやすい工夫が必要)、(2)雨季にも野焼きを行うかどうか、(3)素地の砂含有量(砂が少ない素地では密閉度が高いほうが適する。密閉度の低い覆い型では急激な昇温に耐えるため、砂を多く含むか多孔質の素地が必要)、(4)樹脂コーティングや黒色化などのために熱い状態で取り出すかどうか、(5)硬質に焼き上げる必要性(窯焼き土器と競合する仏器が主体の曼斗村では高密閉の覆い型を用いる)などの多様な要因に影響されることがあきらかとなった。また、薪燃料多用型が可能になるか否か「薪の得やすさ」が大きく影響するが、薪の得やすさは「土器作りに対する男性の関与程度」と自然環境(都市近郊型か農村立地型か)という2要因に強く影響されることが示された。
著者
久世 建二 北野 博司 小林 正史
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.4, no.4, pp.41-90, 1997-10-10 (Released:2009-02-16)
参考文献数
51

野焼き技術を実証的に復元するためには,野焼き実験と考古資料の焼成痕跡(黒斑など)を突き合わせることが必要である。よって本稿では,覆い型野焼きの実験から明らかにできた「野焼き方法と黒斑の特徴の対応関係」を基にして,弥生土器の黒斑の特徴から野焼き方法を推定した。野焼き実験では条件設定の仕方が重要だが,本稿では,稲作農耕民の伝統的土器作り民族例を参考にして,野焼き方法の観察点を設定した。黒斑の特徴から推定された弥生土器の野焼き方法について,器種差や時間的変化を検討した結果,弥生時代の野焼きの方法は,以下の点で土器の作りに応じた工夫がなされていたことが示された。第一に,弥生土器の野焼き方法は,珪酸分に富む草燃料からできる灰が土器を覆うことにより,比較的少ない燃料で効率的に焼成できる「覆い型」であり,灰による覆いを作らない縄文時代の「開放型」とは大きく異なる。「覆い型」は,薪燃料が少なくてもすむ点で,低地に進出した稲作農耕民に適した野焼き方法と言える。そして,弥生時代にやや先行する韓国無文土器と弥生前期土器の黒斑が強い共通性を示すことや,弥生早期の有田七田前遺跡では弥生系の壺は覆い型,縄文系の深鉢・浅鉢は開放型というように野焼き方法が異なることから,「覆い型野焼きは水田稲作と共に朝鮮半島から日本に伝わった」ことが明らかになった。第二に,野焼き時の土器の設置角度は,各時期とも,相対的深さと頸部の括れ度に応じて調整されている。これは,(1)括れの強い器形では内面の火回りを良くするためより垂直に近い角度で設置する,(2)浅めの器形では内面に灰が溜って大きな黒斑ができないように,横倒しに設置する,という工夫を反映していると考えられる。
著者
小林 正史 久世 建二 北野 博司
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.10, no.16, pp.45-69, 2003-10-20 (Released:2009-02-16)
参考文献数
24

一連の野焼き実験と土器作り民族誌の比較研究により焼成浪跡の形成過程を解明し、それをもとに弥生土器の黒斑を観察した。その結果、野焼き方法について以下の点が明らかになった。1.弥生土器の覆い型野焼きは、(1)主熱源の薪を地面全体に敷かず、土器の周囲のみに並べる、(2)土器の内面に薪を差し入れない、(3)弥生中・後期では側面・上面・接地面付近に薪を置かない、などの点で薪燃料節約型といえる。ただし、弥生早・前期土器やそのルーツである韓国無文土器は、弥生中・後期土器よりも薪燃料を多用する。2.薪燃料節約型の覆い型野焼きでは地面側の火回りを良くするために、「横倒しにした時の接地面積が大きい土器ほど、支えなどを用いて立ち気味に置く」という工夫をしている。一方、(1)球胴に近いため横倒しに置いても下側の火回りが十分確保できる土器、(2)台付き土器(高杯を含む)、(3)側面・上面・接地面付近に多くの薪燃料が置かれる土器(弥生早・前期や箱清水式)、では支えを用いず横倒しか「やや立ち気味」に置かれる。3.弥生早・前期土器は、弥生中・後期土器に比べて、(1)側面・上面や接地面付近により多くの薪を置く点で薪燃料多用志向である、(2)接地面付近により多くの薪が置かれるため、甕では「横倒し」に置かれる頻度がより高い、(3)甕は口の開きが大きいため、口縁に薪を立て掛ける頻度が低い、という特徴を示す。これらの特徴は韓国の中期無文土器と共通することから、弥生早・前期から中・後期へと弥生土器の独自性が強まるといえる。4.弥生時代になると東北地方を除いて開放型から覆い型に野焼き方法が変化した理由として(1)集落立地の変化に伴い薪燃料が貴重になった、(2)彩色手法が「黒色(褐色)化した器面に焼成後赤彩する方法」から「均等で良好な火回りが必要なスリップ赤彩」に変化した、(3)縄文から弥生へと素地の砂含有量が少ない貯蔵用・盛りつけ用土器の比率が増加した、の3点があげられる。これら3点は各々、(1)薪燃料節約型である、(2)イネ科草燃料の覆いのため火回りが均等で良好である、(3)覆いの密閉度(イネ科草燃料の上にかける被覆材の種類と関連)を調整することにより昇温速度と焼成時間を自由にコントロールできる、という弥生土器の覆い型野焼きの特徴と対応している。
著者
小島 俊彰 小林 正史 久世 建二
出版者
金沢美術工芸大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
1997

以下の点で「野焼き方法は土器の形、大きさ、作りに応じた工夫が施されている」ことが明らかにされた。(1) 弥生時代の甕棺の野焼き方法: 縄文・弥生時代において最も大型であり、高度な製作技術が要求される甕棺について、福岡県小郡市の津古空前遺跡(弥生中期前半)と横隈狐塚遺跡(中期中葉〜後半)の黒斑を詳細に観察し、2回の野焼き実験を行った結果、前者では丸太を芯にした粘土円柱の支え棒を用いて野焼き時に土器を斜めに立ち上げて設置していたのに対し、後者では横倒しに設置するように変化したことが明らかにされた。この変化の理由として、「円筒形に近い形の前者では内面下部まで燃焼ガスがゆき渡るように角度を付けて土器を設置したのに対し、寸胴形に変化した後者ではその必要がなくなったため、簡便な横倒しの設置になった」という仮説が提示された。(2) 弥生時代の赤塗土器の野焼き方法: 赤塗土器が最も盛行する北部九州の弥生中期土器と長野地方の弥生後期土器(松原遺跡)の黒斑を観察した結果、1)弥生時代の赤塗土器は黒斑が少ない、2)松原遺跡では、赤塗土器の盛行に伴い土器を横倒しにし、薪燃料を多用する(側面と上部に薪を立てかける、その上を草燃料で覆う)号焼き宣法に変化する、3)縄文時代の赤塗は全て焼成後なのに対し、弥生時代の赤塗は全て焼成前に施されるようになる、などの点が明らかにされた。そして、電気窯による赤塗粘土板の焼成実験により、1)薪を多用するのは赤塗の定着度を高めるためである、2)赤塗土器に黒斑が少ないのは、ベンガラのために炭素が酸化しやすいためである、3)弥生時代の焼式前赤塗は、野焼き時に黒斑を付けないで焼くことが可能な「覆い形野焼き」に対応したものである、の3点が示された。(3) 縄文土器の野焼き方法: 4回の野焼き実験と東北地方の縄文土器(前・中期の三内丸山・板留(2)・滝の沢遺跡、および縄文晩期の九年橋遺跡)の黒斑を観察し、「内面に薪を入れて直立した状態で野焼きし、底部を加熱するため後半段階で横倒しにする」という野焼き方法を明らかにした。外面黒色化(褐色化)手法が縄文時代に盛行するが弥生時代にはほぼ消失する理由として、「一度全体を明色に焼き上げた後に、有機物を掛けて炭素を吸着させる黒色土器は、上述の開放型野焼きには適するが、弥生時代の覆い型野焼きには適さない」ことを明らかにした。
著者
久世 建二 小島 俊彰 北野 博司 小林 正史
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.6, no.8, pp.19-49, 1999-10-09 (Released:2009-02-16)

縄文土器の野焼き方法を復元するためには,黒斑などの焼成痕跡が最も重要な材料となる。縄文土器の黒斑は弥生土器に比べ明瞭なパターンを見い出しにくいので,野焼き実験により黒斑の形成過程を明らかにし,実験結果と縄文土器の黒斑を突き合わせる作業を積み重ねることが重要である。本稿では,一連の開放型野焼き実験に基づいて,形成過程の違いにより黒斑を「大きな炎を出す薪からのスス付着による薪接触黒斑(逆U字形と2個1対が典型)」「棒状の薪接触黒斑」「オキ接触黒斑」「残存黒斑」などに類型化した。東日本の縄文時代前・中期の5資料の黒斑を観察した結果,かなり多くの土器においてこれらの類型が適用できたため,黒斑の形成過程から野焼き方法をある程度推定できた。その結果,以下の点が明らかになった。1.大きな炎からのススを起源とする薪接触黒斑が本稿の分析資料の多くでみられたことから,覆い型ではなく開放型で野焼きされたことが再確認された。薪接触黒斑は土器の地面側の内面,地面側の外面,上向き側の外面などに付くことから,横倒しになった土器の下側や側面に多くの薪が置かれていたことが明らかになった。一方,覆い型野焼きでは内部が窯に近い状態になり,大きな炎から出たススによる黒斑は少ない。2.5資料の大半の土器において内面に薪・オキ接触痕がみられることから,内面に薪を入れたことが明らかである。弥生土器では内面に薪を入れないのに対し,縄文土器では内面に入れるのは,開放型の野焼き実験で示されたように,外面の薪だけでは内面まで十分に燃焼ガスが回りにくいためと考えられる。3.本稿では東日本の縄文前・中期の5資料の黒斑を観察したが,上述の共通性と共に,以下の違いもみられた。三内丸山遺跡Vb層の円筒下層b式土器(特に大型)は,薪の上に横倒しに設置し,側面・上面に薪と草燃料をかぶせている点で,野焼き途中で横倒しした可能性が高い他の4資料と異なる。このような方法をとる理由として,(1)土管のような形の円筒下層b式土器は,直立して設置すると口縁部まで十分な炎が当たりにくい,(2)土器の大量生産に伴う薪燃料の節約のため草燃料を併用した,などが考えられる。4.「器面の色調が橙色か白色か」についての資料間の違いは,内外面の黒斑の特徴や内外底面の黒斑の有無と相関を示すことから,焼成雰囲気と共に,加熱の強度の違いを反映する可能性がある。三内丸山遺跡Vb層では,5リットル未満の小型は大半が橙色なのに対し,大型は白色の方がやや多かったが,これは,薪・草燃料を土器に立てかける大型深鉢の野焼き方法の結果かもしれない。【引用文献 】阿部芳郎 1995「弥生前期土器の器体構造について」『津島岡大遺跡5』pp.89-1001995「土器焼きの火・煮炊きの火」『考古学研究』42(3):75-91青森県教育委員会 1979『板留(2)遺跡』1997『三内丸山遺跡VIII』後藤和民 1980『縄文土器を作る』中公新書。北上市教育委員会 1983『滝ノ沢遺跡』小林正史 1993「民族考古学からみた土器の用途推定」『新視点・日本の歴史1』 132-139頁。1993「カリンガ土器の制作技術」『北陸古代土器研究』3号74-103頁。1994「稲作農耕民とトウモロコシ農耕民の煮沸用土器―民族考古学による通文化比較」『北陸古代土器研究』4号 85-110頁。1995「縄文から弥生への煮沸用土器の大きさの変化」『北陸古代土器研究』5号 110-130頁。1998「野焼き方法の変化を生み出した要因―民族誌の野焼き方法の分析―」『民族考古学序説』民族考古学研究会編、pp.139-159、同成社久保田正寿 1989『土器の焼成I』クオリ久世建二・北野博司・金昌郁・藤井一範・姜興錫・南部次郎・小林正史 1994「縄文土器から弥生土器への野焼き技術の変化」『日本考古学協会第60回総会研究発表要旨』26-29頁。久世建二・北野博司・小島俊彰・小林正史 1996「縄文土器の野焼き方法」『日本考古学協会第62回総会研究発表要旨』94-97頁。宮川村教育委員会 1996『堂の前遺跡発掘調査報告書』小笠原雅行 1996「三内丸山遺跡出土土器の数量的研究」『シンポジウム考古学とコンピュータ―三内丸山をコンピュータする―』pp.29-44岡安雅彦 1994「黒斑にみる弥生土器焼成方法の可能性」『三河考古』7号 45-65頁。1996「縄文土器焼成方法復元への実験的試み」『古代学研究』133号 21-31頁。1999「野焼きから覆い焼きへ その技術と東日本への波及」『弥生の技術革新 野焼きから覆い焼きへ』pp.48-63 安城市歴史博物館
著者
中込 博 古屋 一茂 大森 征人 井上 慎吾 飯野 善一郎 依田 芳起 小林 正史 飯塚 恒
出版者
特定非営利活動法人 日本乳癌検診学会
雑誌
日本乳癌検診学会誌 (ISSN:09180729)
巻号頁・発行日
vol.21, no.2, pp.185-190, 2012-06-20 (Released:2014-12-05)
参考文献数
15
被引用文献数
3 3

過去の受診歴より継時的に腫瘤径の比較測定が可能であった30例(腫瘤21例,石灰化病変9例)の患者を対象に,腫瘍倍加時間(DT; doubling time)を算出した。検診の検出限界を5mmと考えたとき,腫瘍径5mmの病変が発見できず2年後の検診では2cmになる乳癌の腫瘍倍加時間は120日と計算される。120日より早いDTを持つ乳癌は2年毎の検診では転移を生じる病変になる可能性が高いと考え,その特性を組織型およびホルモンレセプター(HR),Her2発現によるsubtype別に検討した。120日以下のDTを示す病変は腫瘤性病変43%(9/21),石灰化病変44%(4/9)に認められた。Subtype別には,HR陰性Her2陰性の乳癌3例においてDT 60日前後と非常に速い増殖速度を示した。化生を伴う乳癌が2例含まれていた。HR陰性Her2陽性およびHR陽性Her2陽性の乳癌で,DTは112±10日,128±48日と早いことが認められた。HR陽性Her2陰性の乳癌19例において,DT 867±679日とばらつきが認められた。120日以下の症例は5例(26%)に認められ,粘液癌が3例,通常型乳癌が2例が含まれていた。HR陽性Her2陰性の乳癌において,検診の間隔は2年が妥当であるが,HR陰性Her2陰性およびHer2陽性の乳癌においては,さらに短期間での検診が必要と思われた。
著者
小林 正史 柳瀬 昭彦
出版者
一般社団法人 日本考古学協会
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.9, no.13, pp.19-47, 2002-05-20 (Released:2009-02-16)
参考文献数
38

弥生時代の米の調理方法を明らかにすることを目的に,上東遺跡P-ト資料の炭化物を分析した。上東資料が選ばれたのは,甕の大半に炭化穀粒が付き,米の調理に使われたことが明らかなためである。炊飯方法を復元する前段階として,おおまかな使用回数と土器の置き方を検討した。暫定的使用回数は,吹きこぼれの頻度と胴上半部のススの有無を基準にして推定した。この暫定的使用回数は「累積的受熱量」を反映するといえるが,累積受熱量が最も少ない甕は「1回のみ使用」と認定できた。次に,甕の設置方法を明らかにするために胴下部~底面のコゲとスス酸化の位置を検討した結果,環状コゲは直置き状態での側面からの炎による加熱を,「環状コゲ+円形コゲ」と「円形コゲのみ」は直置き状態での「側面からの炎の加熱と底面からのオキ火の加熱の組み合わせ」を示すことが明らかにされた。このように,上東資料は全て炉に直置きされていた。米の調理方法を推定するために,稲作農耕民の各種の伝統的米調理方法について,期待される炭化物パターンのモデルを提示した。この民族誌モデルでは,吹きこぼれ程度,コゲの種類と頻度,喫水線の高さ,加熱過程などの属性が米の調理方法を推定する際に重要だった。上東資料の加熱過程については,1回のみ米調理に使われた甕の検討から,吹きこぼれをシグナルに強火加熱から弱火加熱に移行することが明らかにされた。さらに,(1)吹きこぼれや喫水線下のコゲ付きが高い頻度でみられる,(2)喫水線が比較的高めである,などの特徴も,民族誌モデルにおける「炊き干し法」や「炊きあげる湯取り法」の特徴と一致した。中在家南資料の分析でも,東北地方の弥生時代前半の日常調理において炊きあげる炊飯が普及していたことが示されていることから,(2)の炊飯方法は弥生時代にかなり普及していたと考えられる。一方,「弥生時代の米の調理は粥・雑炊状が中心だった」という仮説も一般に受け入れられている。この仮説は,具体的根拠が示されていないが,「弥生時代の米は単位あたり収量が低かったため,農民の多くは米をあまり食べられず,増量できる粥・雑炊にした」と想定していると思われる。これに対し,本稿の分析の結果,(1)弥生時代には炊きあげる炊飯方法が普及していた,(2)弥生時代になると炊飯専用の甕が作り分けられていたなどの点から,弥生時代の米食程度は現在の主流仮説よりは高かったと考えられる。
著者
小林 正史 北野 博司 設楽 博巳 若林 邦彦 徳澤 啓一 鐘ケ江 賢二 北野 博司 鐘ヶ江 賢二 徳澤 啓一 若林 邦彦 設楽 博己 久世 建二 田畑 直彦 菊池 誠一
出版者
北陸学院大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2007

縄文から古代までの調理方法を復元し、土鍋の形・作りの機能的意味を明らかにする、という目的に沿って、ワークショップ形式による土器観察会、伝統的蒸し調理の民族調査(タイと雲南)、調理実験、を組み合わせた研究を行った。成果として、各時代の調理方法が解明されてきたこと、および、ワークショップを通じて土器使用痕分析を行う研究者が増え始めたことがあげられる。前者については、(1)縄文晩期の小型精製深鍋と中・大型素文深鍋の機能の違いの解明、(2)炊飯専用深鍋の確立程度から弥生時代の米食程度の高さを推定、(3)弥生・古墳時代の炊飯方法の復元、(4)古墳前期後半における深鍋の大型化に対応した「球胴鍋の高い浮き置き」から「長胴鍋の低い浮き置き」への変化の解明、(4)古代の竈掛けした長胴鍋と甑による蒸し調理の復元、などがあげられる。