著者
小谷 瑛輔
出版者
将棋と文学研究会
雑誌
将棋と文学スタディーズ
巻号頁・発行日
vol.2, pp.15-45, 2023

『新思潮』派は、芥川龍之介、菊池寛、久米正雄を輩出したことによって、大正文学の特に重要なエコールと見なされてきた。彼らのような若き文学グループは、えてして「創作への灼熱の気」を共有し、「互いに刺激し合」った「友情」に焦点が当てられがちである。それも誤りというわけではないのだが、このように顕彰の物語として消費されてしまう題材においては、「友情」の物語に昇華しにくい不一致を連想させるものは見落とされることになりやすい。しかし、彼らを一人一人独自の矛盾や問題を持ち、それと結び付いた固有の文学性を示した作家として認めるのであれば、むしろ一致し得なかった点や葛藤こそが重要である。実はその一端が、第四次『新思潮』が出発点において掲げ、文壇から受け入れられた主張において、既に示されていた。そしてその争点は、三人の作家が活躍した期間全体を通して問題であり続けた。
著者
関戸 菜々子 姫野 諒太郎 早瀬 裕也 小谷 瑛輔
出版者
富山文学の会
雑誌
群峰
巻号頁・発行日
vol.4, pp.122-142, 2019-03-03

1.実験の趣旨2.構想と準備の経緯2-1.実験の構想2-2.ナツヅタの探索と採集許諾確認2-3.第一予備実験ー代用品による最終工程シミュレーション2-4.実験実施時期の検討と準備2-5.第二予備実験ーナツヅタの樹液採取および糖度測定3.芋粥再現実験当日4.考察注
著者
小谷 瑛輔
出版者
富山文学の会
雑誌
群峰
巻号頁・発行日
vol.3, pp.37-45, 2017-03-04
著者
関戸 菜々子 姫野 諒太郎 早瀬 裕也 小谷 瑛輔
出版者
富山文学の会
雑誌
群峰
巻号頁・発行日
no.4, pp.122-142, 2019-03-03

1.実験の趣旨2.構想と準備の経緯2-1.実験の構想2-2.ナツヅタの探索と採集許諾確認2-3.第一予備実験ー代用品による最終工程シミュレーション2-4.実験実施時期の検討と準備2-5.第二予備実験ーナツヅタの樹液採取および糖度測定3.芋粥再現実験当日4.考察注
著者
小谷 瑛輔
出版者
日本文学協会
雑誌
日本文学 (ISSN:03869903)
巻号頁・発行日
vol.64, no.6, pp.52-56, 2015-06
著者
小谷 瑛輔
出版者
将棋と文学研究会
巻号頁・発行日
pp.132-145, 2019-01-05
著者
小谷 瑛輔 田中 祐介 中野 綾子 若島 正 木村 政樹 矢口 貢大
出版者
富山大学
雑誌
挑戦的萌芽研究
巻号頁・発行日
2016-04-01

近代において、将棋と文学は密接に関わりあいながら展開してきた。本研究では、その様相を具体的に解き明かし、データベースや論集にまとめた。一つ目は、小説という近代的な新しい概念が将棋の比喩によって誕生し、その後も文学の概念に影響を与えてきたこと。二つ目は、新聞・雑誌メディアの発展において将棋と文学がともに重要なコンテンツであったということ。三つ目は、文壇の人的ネットワークにおいて将棋が大きな役割を果たしてきたことである。
著者
小谷 瑛輔
出版者
言語態研究会
雑誌
言語態 (ISSN:13487418)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.45-66, 2012

大江健三郎『水死』は、父の過去の言葉や行動について解釈しようとする主人公長江古義人が、他の人々が父をどう解釈したかと向き合い、また自身の解釈の欲望自体も周囲の人から様々に解釈され、そうした多方向的な解釈のネットワークの中で自らの言菓を紡いでいく物語である。それはつまり、言葉を発すること、言葉を受け止めること、受け止めた言葉に解釈を加えて発し直すことの問題が、誰も特権的な安定した位置に身を置けないものとして扱われているということでもある。『水死』の作中世界の出来事においては、小説家長江古義人は、一方では一人称の語り手であるが、他方で特権的な言葉の統御者ではなく、他の発言者や解釈者達とのネットワークの中の一つのノードに過ぎない。『水死』において、長江古義人という作家は言葉との関わりにおいて常に能動的にのみ関わるのではなく、同時に受動的でもあらざるを得ず、古義人の言葉の世界はそうした相互作用の中に生成することになる。古義人の欲望自体が解釈の俎上に載せられるとき、素材となるのは古義人の過去作品である。『水死』において古義人の過去作品として登場するのは、いずれも大江健三郎の過去作品のタイトルそのままとなっている。それらの作品の中で、登場人物達によって最も多く引用され、対象化され、問題化されている古義人の過去作品は、『みずから我が涙をぬぐいたまう日』である。本稿は、この『みずから我が涙をぬぐいたまう日』と『水死』との関わりを考えることによって、『水死』において示されるフィクション生成の問題を明らかにする試みである。