著者
山本 教人
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.13-25, 1995

本研究の目的は、大学生のライフスタイルとスポーツの活動選好の関連を検証することであった。この目的のために、1,000名の大学生を対象に質問紙法による調査が実施された。本研究を通じて得られた結果は、次に示す通りであった。1) 活動選好の類似性によってスポーツ種目の分類を行うたに、71種目 (項目) に対して因子分析を適用した。分析の結果、マリンスポーツ、ダンス、格闘型球技、スカイスポーツ、ラケットスポーツ、アウトドアスポーツ、ターゲットスポーツ、パワー型スポーツ、武道、陸上競技、野球・ソフト、持久性スポーツ、水泳競技の13のスポーツの活動選好因子が抽出された。2) 大学生のライフスタイルの構造を把握するために、41のAIO項目を因子分析にかけたところ、ファッション志向、達成志向、スポーツ志向、ボランティア志向、個性化志向、リーダー志向、ブランド志向、出世志向、調和志向、自然志向の10のライフスタイル因子が抽出された。3) スポーツ志向を除く9つのライフスタイル因子のクラスター分析を通じて、調査対象者は、ファッション重視型、生活無目的型、調和重視型、アンチブランド型、積極生活型、出世重視型の6つのタイプのライフスタイルグループに分類された。4) 6つのライフスタイルグループについて、スポーツの活動選好度を検証した結果、ライフスタイルのタイプと活動を選好するスポーツとの間には、明瞭な関連が認められた。しかも、相対立するライフスタイルを示すグループ間においては、活動選好のパターンが逆転していることが明らかとなった。
著者
橋本 公雄 丸野 俊一 徳永 幹雄 西村 秀樹 山本 教人 中島 俊介 杉山 佳生 藤永 博
出版者
九州大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2004

本研究は、運動・スポーツで経験されるドラマチックな体験が、青少年の生きる力にどのような影響を及ぼしているのかについて、質的および量的側面から検討することを目的とした。ここでは、ドラマチック体験を「練習や試合を通して体験した心に残るよい出来事や悪い出来事を含むエピソード」と定義し、試合場面における、たとえば逆転勝利などの劇的な瞬間だけでなく、普段の練習の過程でもみられる様々なエピソードも含めて捉えることとした。また、生きる力は、ライフスキルの概念と類似しているため、量的側面の分析では、スポーツドラマチック体験の学校生活におけるライフスキルに及ぼす影響を分析した。質的研究は、大学生(一般学生と体育部学生)を対象に、自由記述およびインタビューによって、どのような場面でドラマチックな体験が生じているのか、またその体験が心理、社会、身体、および生活上にどのような影響をもたらしたかを分析した。その結果、ドラマチック体験として、成功体験、失敗体験、試合体験、出会い体験、克服体験、課題遂行体験、役割遂行体験などが抽出され、心理的(自信や意欲)、身体的(技能向上)、社会的(協力や他者への思い)、人生・生活観(将来の見通しや人生観)にポジティブな影響を及ぼし、ドラマチック体験が生きる力に寄与していることが明らかにされた。また、ドラマチック体験尺度(Inventory of Dramatic Experience for Sport : IDES)の開発を試み、「努力の積み重ねへの気づき」「技術向上への気づき」「対人トラブルによる自己反省」の3因子、13項目からなる尺度を作成した。ドラマチック体験(独立変数)と学校生活スキル(従属変数)との関連では、時間的展望、QOL,自己効力感を媒介変数とする共分散構造分析を行い、モデルの検証をした。さらに、本研究では運動・スポーツ活動ばかりではなく、自然体験なども生きる力には関連するものと思われ、グリーンツーリズムや野外キャンプにおけるコミュニケーションに関しての考察を行った。
著者
吉田 毅 山本 教人
出版者
九州大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
1995

一流選手のキャリア・パターンを明らかにするために、16校の一流サッカー選手たちを対象に調査を行った。また、スポーツキャリア形成過程をめぐる日本的特徴を明らかにするために、ユニバ-シア-ド競技大会参加選手を対象に国際比較調査を行った。ここでは、紙幅の都合上、前者についてのみ報告する。選手たちは非常に早期から、ほとんど独占的にサッカーと関わっていた。生活においても、小学校時代よりサッカーが中心を占め、また多くが一流選手になりたいという指向性を持っていた。彼らの主たる活動の場は、地域や学校のクラブであった。始めるきっかけは、自分の判断やメディア、友人の影響が大きかった。サッカーとの関わりで中学校への進学を考えた者は少数であったが、多くの者にとって、進学する高校の選択には、サッカー環境は重要な要因であった。現在、4割以上が遠征に年間1月〜2月を費やしており、そのことが将来の進学や就職、勉強への不安となって現れているようであった。卒業後は4割以上が大学への進学を希望しており、すぐにプロとして活躍したいとする者は意外にも少なかった。スポーツ選手のリタイアメントについては、過去に大学で活躍した人々を対象に調査を行った。その主な結果は次のようなものであった。彼らは大学時代、生活の多くを犠牲にして競技に取り組んでおり、4割以上が将来一流選手になることを強く願っていた。2割は、大学への進学はスポーツの推薦入学であった。8割近くが大学卒業後も実業団・教職員チームなどで競技選手としての活動を続けていた。引退の決断は自発的なもので、体力や意欲の減退、時間的な制約などが主な理由であった。多くは、競技生活について後悔の念を抱いてはいなかった。引退後の職業生活上の困難を感じている者は少数であった。これは、多くが体育やスポーツに関わりのある職業を得ることができたためと考えられる。
著者
山本 教人
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.18, no.1, pp.5-26, 2010

<p> オリンピックメダルやメダリストが、メディアによってどのように描かれているのかを物語の観点から明らかにするために、1952年ヘルシンキ大会から2008年北京大会を報じた「朝日新聞」の記事を対象に、内容分析を行った。<br> 我が国のメダリストに関する分析から、次のことが明らかとなった。メダルの多くが体操、柔道、レスリング、水泳などの種目で獲得されていた。近年、オリンピック新種目での女子選手の活躍が顕著であった。多様な企業に所属する選手が増加傾向にあった。<br> オリンピックでメダルを獲得することは、我が国の国力を世界に向けて示すことであり、メダリストの養成は国策として報じられていた。1970年代前半までのメダリストのメディアイメージは、類い希なる「根性」の持ち主であり、メダリストには超人的な存在の名が冠せられた。精神主義を介してつながる、国家と個人の関係イメージを指摘できた。<br> 東西両陣営によるオリンピックを通した国力の誇示、オリンピックの商業主義が進行する状況で、商業資本を利用したメダルの獲得は、ますます国策として位置づけられるようになった。この時期のメディアは、プレッシャーに負けず実力を存分に発揮する選手を理想のアスリート像として提示した。<br> 1990年代前半のスポーツをめぐる状況の変化のなかで、新しいタイプのメダリストがメディアに登場した。この時期の報道は、メダリストの個人情報に焦点化したものが多く、彼らをひとつのロールモデルとして位置づけているように思われた。このような報道においては、国策としてのメダル獲得と、メダリスト個人の体験はつながりを失ったものとしてイメージできた。しかし時に、選手の振る舞いや言動を通して、国家や組織から自由ではないアスリートの姿がメディアに描かれることもあった。スポーツの商業主義化やメディアの多様化は、今後、国策としてのメダル獲得とメダリスト個人の関係をますます複雑・多様化すると考えられた。</p>
著者
山本 教人
出版者
一般社団法人 日本体育学会
雑誌
体育学研究 (ISSN:04846710)
巻号頁・発行日
vol.50, no.6, pp.641-650, 2005-11-10 (Released:2017-09-27)

The objective of this study was to treat media texts on sports as narratives, and then analyze their structure. In order to do so, a content analysis was performed on articles appearing in The Nishinippon Shimbun reporting the 51st Around The Kyushu Ekiden (long-distance relay race) held from November 1st to 10^<th>, 2002. It was confirmed that in these articles, various narratives appeared, such as "Competition Between Teams", "Competition Between Individuals, or Heroes' Achievements", "The Character of Kyushu", "Family Relationships", "Revival", "Revenge", "Love of Home Town", "The Relationship Between Generations", "Gratitude To One's Teammates", "The Tradition of Around The Kyushu Ekiden", and so on. The Around The Kyushu Ekiden narratives according to the media are structured so that the central story "Competition Between Teams" is connected with various sub-plots concerning competition, such as "Competition Between Individuals, or Heroes' Achievements", thus further asserting its position as part of other plots. In conclusion, it may be thought that the Around The Kyushu Ekiden narratives are structured to maximize the diversity of narration, or alternatively that a limit is placed on this diversity, or that such diversity can be added to a limited narration.
著者
山本 教人
出版者
一般社団法人 日本体育学会
雑誌
体育学研究 (ISSN:04846710)
巻号頁・発行日
vol.50, no.6, pp.641-650, 2005

The objective of this study was to treat media texts on sports as narratives, and then analyze their structure. In order to do so, a content analysis was performed on articles appearing in The Nishinippon Shimbun reporting the 51st Around The Kyushu Ekiden (long-distance relay race) held from November 1st to 10^<th>, 2002. It was confirmed that in these articles, various narratives appeared, such as "Competition Between Teams", "Competition Between Individuals, or Heroes' Achievements", "The Character of Kyushu", "Family Relationships", "Revival", "Revenge", "Love of Home Town", "The Relationship Between Generations", "Gratitude To One's Teammates", "The Tradition of Around The Kyushu Ekiden", and so on. The Around The Kyushu Ekiden narratives according to the media are structured so that the central story "Competition Between Teams" is connected with various sub-plots concerning competition, such as "Competition Between Individuals, or Heroes' Achievements", thus further asserting its position as part of other plots. In conclusion, it may be thought that the Around The Kyushu Ekiden narratives are structured to maximize the diversity of narration, or alternatively that a limit is placed on this diversity, or that such diversity can be added to a limited narration.
著者
山本 教人
出版者
九州大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2004

マーシャル・マクルーハンのメディア論をもとに,スポーツがメディア・コンテンツとしてだけでなくメディアそのものとして機能している可能性の検討を行った.具体的には,「メディアとしてのスポーツ」が我々の社会,人間関係,感性などに及ぼす影響を検討するために,解釈学的な研究方法から「Jリーグ公式戦」,「ゴールデンゲームズ in のべおか」,「第53回西日本各県対抗九州一周駅伝競走大会」,それに「第87回全国高等学校野球選手権福岡県大会」の観察と記録を行った.その結果,以下のことが明らかとなった。高度情報環境の出現は,あらゆる物事に対する人々の信頼感や現実感を希薄化させ,現代人のアイデンティティを寄る辺ないものとし,人とひととの直接的なコミュニケーションの崩壊を引き起こしていると問題視されている.このように社会全体が仕組みとして身体性の脱落を加速化させる中,スポーツが「メンバーシップ」,「相互のつながり」,「社会参加」,「確信や信念」,「他者への影響力」を介して人々の関心を引きつけていると解釈できる現象が,サッカーや陸上競技,そして野球の試合観戦を行っている人々の観察から明らかとなった.これらのことから現代社会におけるスポーツは,新聞,テレビ,インターネットといった一般にいわれるメディアの内容であるばかりでなく,それ自体人とひととを媒介し結びつける「コミュニケーション・メディア」として機能していると解釈された.現代社会においてスポーツが重要なのは,スポーツが「する,極める,見る,支える」といった多様な参与形態により人とひととを瞬時に結びつけ,交流を促し,彼らの住まう地域の活性化に貢献し得るからである.つまりスポーツは,「情動的なコミュニケーション」を介して集団のメンバー間に多様な関係を生み出すことで,彼らに「実存の感覚」をもたらすよう機能していると考えることができる.
著者
山本 教人
出版者
九州大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2002

2年度間に、「九州一周駅伝」を報じた西日本新聞の記事をテキストに、新聞がどのようなやり方で駅伝を社会的に意味ある出来事して物語ってきたのかの検討を行った。また、駅伝についてのメディア・テキストを物語としてとらえ、その構造を分析する研究を行った。結果として、今日の新聞の駅伝記事は、主張を明確に表明せず、結論を曖昧にするような書き方で構成されていることが明らかとなった。このような記事の有する曖昧さは、今日の駅伝記事が個人情報を中心に構成されているということとともに、多様な解釈を読み手にもたらすことになると考えられた。また、九州一周駅伝の物語は、語りの多様性を限りなく広げていくようなやり方と、逆にそれに制限を課すようなやり方、そして制限された語りにさらに多様性をもたらすようなやり方で構造化されていた。こうした駅伝記事の物語としての構造が、読み手の多様な関心を引きつけることのできるひとつの要因であると考えられた。このような結果から、読者の「能動的な読み」とは、実はテキストの構造自体が可能とするものであるということができ、近年必ずしも評判が芳しいとはいえないメディア・メッセージの内容分析の意義が改めて確認された。