著者
岩井 茂樹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:24343110)
巻号頁・発行日
vol.61, pp.45-67, 2020-11-30

本稿は、明治末期から大正時代にかけて増加した笑った写真(本稿では「笑う写真」とした)の誕生と定着過程を明確にすることを目的としたものであり、そこで重要な役割を担った雑誌『ニコニコ』の特徴について論じたものである。 従来、「笑う写真」の定着過程については、石黒敬章などによって、おおよそ大正時代のことであったということが指摘されてきたが、その原因についてはほとんど考察されることがなかった。 しかしながら、本稿では1911(明治44)年に、ニコニコ倶楽部によって創刊された雑誌『ニコニコ』が「笑う写真」の定着過程に大きな役割を担ったことを証明した。この雑誌には、従来なかったような特徴があった。その一つが「笑う写真」の多用である。口絵はもとより、本文中にも「笑う写真」を多数配していたのである。また1916(大正5)年時点での発行部数は当時もっとも多く発行されていた『婦人世界』に次ぐものであり、また図書館における閲覧回数も上位10 位内に入るほど広く読まれた雑誌であった。 この雑誌の発刊に尽力した中心人物は当時、不動貯金銀行頭取をしていた牧野元次郎という人物であったが、彼は大黒天の笑顔にヒントを得て「ニコニコ主義」という主義を提唱し、それを形象化するために雑誌『ニコニコ』に「笑う写真」を多数掲載したのである。大黒天の笑顔を手本にし、皆が大黒様のような笑顔になることを、牧野は望んだ。国民全員がニコニコ主義を信奉し、実践することによって、国際的な平和と、身体の健康、事業の成功(商売繁盛)を実現しようとしたのである。『ニコニコ』は好評を博し、大衆に広く受け入れられた。その結果、「笑う写真」が誕生し、急増した結果、大正時代になって「笑う写真」が普及したのである。 本稿によって、雑誌『ニコニコ』の特徴が示され、その普及程度が具体的な数値や言説を用いて推定されたとともに、この雑誌が「笑う写真」に及ぼした影響が明確になった。
著者
岩井 茂樹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.49, pp.147-181, 2014-03-31

現在、日本では、「痴漢」による被害が多発しており、一つの社会問題となっている。とりわけ電車内における被害が多いようだ。その対策として「女性専用車両」が多くの沿線で設けられたりもしている。
著者
岩井 茂樹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.49, pp.147-181, 2014-03-31

現在、日本では、「痴漢」による被害が多発しており、一つの社会問題となっている。とりわけ電車内における被害が多いようだ。その対策として「女性専用車両」が多くの沿線で設けられたりもしている。
著者
岩井 茂樹 Iwai Shigeki イワイ シゲキ
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.33, pp.29-53, 2006-10

「わび」、「さび」という言葉は、「日本美を代表する言葉」として広く認知されている。同時に、多くの人が「茶道」を想起する言葉でもある。たしかに、「わび茶」という言葉は、江戸時代から現在まで途絶えず用いられ続けているから「わび茶」とは何かを考えることは重要なことであろう。しかし、その美意識とされる「わび」、「さび」といった言葉の意味する内容についてはどうだろう。つまり、茶道の重要概念を表現する言葉として、現在では必ずといっていいほど使用される「わび」「さび」という言葉が、茶道史上常に使用されてきたのか、それはどのような意味においてであったか、ということを筆者は問いたいのである。本論考はそのような疑問に答えようとしたものである。いつから「わび」、「さび」という概念が茶道で重んじられるようになったのか、そこにはどのような意思や愛大の力学が働いていたのかを明らかにすることを目的としたものである。 本論考で明らかになったことは、次の五点である。① 元禄期の茶書には「わび」、「さび」について語っているものは多いが、江戸時代を通じてみれば、それは少数でしかない。② 明治期には「質素・質朴」、「礼儀」などが重視されていた。大正期になると「和敬清寂」が重要理念として強調され始め、昭和期にはその「寂」の部分を「わび」や「さび」で説明する書物が多くなってくる。③ 「わび」や「さび」は明治期から大正期には主に茶室・茶道具などを形容する言葉として用いられることが多かった。それが機能的方法により茶道に集約されたのである。④ 茶道と「わび」、「さび」が結合するようになった要因として、三つのことが考えられる。一つは、大正期から盛んに論じられた「風流」や「日本趣味」が、文化ナショナリズムが昂揚していく過程において非常に注目されるようになったこと。二点目は、創元社の『茶道全集』の刊行である。三点目は、家元、禅学者、そして京都帝国大学史学科出身の学者ないしはその弟子たちによって書かれた日本文化論がよく読まれたことである。⑤ 茶道の「わび」「さび」化は、主として京阪神中心の文化によって形成されたものである。 本研究によって、「わび」、「さび」という言葉が茶道において、常に強調されてきた理念ではないこと、そしてそれは、大正期から昭和初期にかけて喧伝され、第二次大戦後広範に認知されるに至ったことが明らかになった。
著者
岩井 茂樹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.61, pp.45-67, 2020-11

本稿は、明治末期から大正時代にかけて増加した笑った写真(本稿では「笑う写真」とした)の誕生と定着過程を明確にすることを目的としたものであり、そこで重要な役割を担った雑誌『ニコニコ』の特徴について論じたものである。 従来、「笑う写真」の定着過程については、石黒敬章などによって、おおよそ大正時代のことであったということが指摘されてきたが、その原因についてはほとんど考察されることがなかった。 しかしながら、本稿では1911(明治44)年に、ニコニコ倶楽部によって創刊された雑誌『ニコニコ』が「笑う写真」の定着過程に大きな役割を担ったことを証明した。この雑誌には、従来なかったような特徴があった。その一つが「笑う写真」の多用である。口絵はもとより、本文中にも「笑う写真」を多数配していたのである。また1916(大正5)年時点での発行部数は当時もっとも多く発行されていた『婦人世界』に次ぐものであり、また図書館における閲覧回数も上位10 位内に入るほど広く読まれた雑誌であった。 この雑誌の発刊に尽力した中心人物は当時、不動貯金銀行頭取をしていた牧野元次郎という人物であったが、彼は大黒天の笑顔にヒントを得て「ニコニコ主義」という主義を提唱し、それを形象化するために雑誌『ニコニコ』に「笑う写真」を多数掲載したのである。大黒天の笑顔を手本にし、皆が大黒様のような笑顔になることを、牧野は望んだ。国民全員がニコニコ主義を信奉し、実践することによって、国際的な平和と、身体の健康、事業の成功(商売繁盛)を実現しようとしたのである。『ニコニコ』は好評を博し、大衆に広く受け入れられた。その結果、「笑う写真」が誕生し、急増した結果、大正時代になって「笑う写真」が普及したのである。 本稿によって、雑誌『ニコニコ』の特徴が示され、その普及程度が具体的な数値や言説を用いて推定されたとともに、この雑誌が「笑う写真」に及ぼした影響が明確になった。
著者
岩井 茂樹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.27, pp.215-237, 2003-03-31

『百人一首』の研究は近年盛んになりつつあるが、近代(明治時代以降)の享受の実態についてはほとんど行われていない状態である。本論稿は、近代に特徴的に見られる『百人一首』の恋歌に対する非難の実態と、そのような論調により作り変えられた恋歌を排除した『百人一首』に関するものである。加えてその原因について考察を行った結果、①百人一首歌留多の興隆と受容形態の変化、②旧派歌人を中心とした恋歌の消滅、がその背景にあることがわかった。
著者
岩井 茂樹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.31, pp.69-114, 2005-10-31

現在、能といえばすぐさま「幽玄」という言葉が想起されるほど、両者は固く結びついている。なるほど、世阿弥が残した能楽書には「幽玄」という言葉がたびたび使われている。だが、「幽玄」は、能の世界では長らく忘れ去られていた言葉であった。それでは、能と「幽玄」は、いつから、どのようにして、結びついたのだろうか。本論稿はこの点を明らかにすることを目的とする。
著者
岩井 茂樹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.31, pp.69-114, 2005-10-31

現在、能といえばすぐさま「幽玄」という言葉が想起されるほど、両者は固く結びついている。なるほど、世阿弥が残した能楽書には「幽玄」という言葉がたびたび使われている。だが、「幽玄」は、能の世界では長らく忘れ去られていた言葉であった。それでは、能と「幽玄」は、いつから、どのようにして、結びついたのだろうか。本論稿はこの点を明らかにすることを目的とする。
著者
岩井 茂樹
出版者
大阪大学文学研究科片山剛研究室
雑誌
近代東アジア土地調査事業研究ニューズレター
巻号頁・発行日
vol.2, pp.96-98, 2007-03

平成18 年度科学研究費補助金 基盤研究(A)1930年代広東省土地調査冊の整理・分析と活用(課題番号 17251006)中間報告書
著者
岩井 茂樹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.49, pp.147-181, 2014-03-31 (Released:2015-11-11)

現在、日本では、「痴漢」による被害が多発しており、一つの社会問題となっている。とりわけ電車内における被害が多いようだ。その対策として「女性専用車両」が多くの沿線で設けられたりもしている。 にもかかわらず、「痴漢」に関する研究は非常に少ない。とりわけ文化的なアプローチをとったものは皆無に等しい。本稿は、「痴漢」に関する語義変化の時期の確定と、読みや表記に関する変化について考察するものである。本来「痴漢」は「おろかな男」という意味であり、それ以外の用法はなかった。それがある時期から現在のような性的な意味を含むようになり、現在では原義での使用例はまったくといっていいほど見られなくなっている。 先行研究によれば、こうした語義変化は二十世紀になってからの現象であるという。そこで本稿では、明治時代以降の雑誌・新聞記事、小説、辞書類などを分析対象として用い、「痴漢」の語義と読み、表記に関する変遷過程を明らかにした。 分析の結果、一八九〇年代以前は、性的な意味合いはほとんどといっていいくらい希薄であった「痴漢」という語が、一九〇〇年前後から徐々に性的な意味が付与されてゆき、一九三〇年代に現在のような意味になったということが明らかになった。それが社会問題化し、盛んに論じられるのは一九五〇年代以降であること、一九六〇年代以降は小説などでも「痴漢」が頻繁に描かれるようになること、なども明らかになった。 読みに関していえば、原義が主流だった時代は、「痴漢」を「ちかん」とは読ませず、「しれもの」などの訓読みがルビとして振られていたが、性的な意味に変化した頃から音読みである「ちかん」が主流になっていくようだ。 表記は一九九〇年代半ばまで「痴漢」と漢字で書くのが普通であったが、ポスターなどで用いられるようになると、最近では「チカン」とカタカナで書かれる場合も多くなってきた。 本稿は以上のような「痴漢」に関する事項を具体的な例を挙げながら論じたものである。 The behavior of men who touch others with sexual intent on Japan's crowded trains, commonly referred to as chikan (gropers), is a continuing social problem. Some especially crowded commuter trains even run "women-only" cars as a countermeasure. Nevertheless, there is little research on chikan, especially from the cultural point of view. This paper considers the changes that have taken place in the meaning and the way the word is written. The original meaning of chikan was "foolish man," and it was not used otherwise. Among the few works on the subject, the prevailing view is that the shift in the current meaning of "groper" occurred after the turn of the twentieth century. This study sets forth the semantic and orthographic changes in use of the word chikan that took place over time as defined in dictionaries and shown in fiction and magazine and newspaper articles since the latter part of the Meiji era (1868-1912). The analysis here shows that the meaning of the word gradually acquired a sexual connotation from around 1900 and, in the 1930s, it was used in the contemporary sense of "groper". The word chikan can be found in articles and works of fiction frequently from the 1950s onward. Concerning the reading of the characters with which chikan is written 痴漢, during the period when the original meaning of foolish man was predominant, instances in documents with accompanying rubi show that it was often read shiremono. As the usage of the word changed to indicate the meaning of "sexually foolish man," the characters came to be read in their on-readings and chikan became standard. The word was commonly written using the Chinese characters until the middle of the 1990s, but as seen on posters, signs, and notices in public areas, it is now most often written in katakana. This paper cites specific examples and sources for the various points made concerning its semantic and orthographic changes of chikan.
著者
平勢 隆郎 武田 時昌 岩井 茂樹 宇佐見 文理 高見澤 磨 大木 康 橋本 秀美
出版者
東京大学
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2001

本学東洋文化研究所(上記の他橋本秀美・金児茂・山本和也)・同総合研究博物館(上記の他鵜坂智則)と京都大学人文科学研究所(上記の他守岡知彦)・同大学院文学研究科の教官が、複数の作業領域を作り、継続して検討を進めてきた。すでに二種のサーバーを作り上げた。いずれもトロン超漢字とリナックスを組み合わせたもので、一方は室内ランを構成し他方は所内ランを構成する。立ち上げたホームページなどを活用しつつ、今後も研究を発展させたい。東アジアの日本・朝鮮・中国は、それぞれ江戸時代・李朝・清朝の強い影響をうけている。その影響を歴史的にどのように把握し、効果的に発信するかをわれわれは検討した。そのためシンポジウム等を開催し、討論を進め、論文を発表した。主題は「江戸・明・古代を考える」である。「江戸」は江戸時代・李朝・清朝の時代を代表させ、かつ我が国を主軸に検討することを示す。「明」は、江戸時代・李朝・清朝に大きな影響を与えた時代であり、これなくしては、よきもあしきも議論することがかなわない。これで東アジア全体を視野にいれることを示す。「古代」は、東アジアにおいて共通して理想化された時代を考える。その理想と究明される実相とのへだたりが検討の要になった。研究の成果は雑誌『東洋文化』85号(特集「江戸・明・古代を考える」)および冊子『山中人饒舌注・上巻』などとして刊行。ホームページは、江戸時代の『左伝』・『史記』研究を紹介するページ、18紀前半に隆盛した明律研究と幕末の『海国図志』による西洋理解を紹介するページ、『警世通言』などの小説を読解するための基礎的工具書としての『三才図会』を紹介するページ、科学思想として『五行大義』『医心方』等の引用書データベースを公開するページなど。