著者
岩橋 清美 北井 礼三郎 玉澤 春史
出版者
兵庫県立大学自然・環境科学研究所天文科学センター
雑誌
Stars and Galaxies (ISSN:2434270X)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.7, 2022 (Released:2023-02-10)
参考文献数
24

安政五(1858)年に出現したドナティ彗星は、我が国では京都土御門家、江戸幕府天文方および大坂間家 において観測され、その観測記録が残されている。これらの史料は、いずれも西洋天文学に基づく観測記 録であり、高度・方位が数値として記されている。管見の限りでは、19世紀前半の彗星観測記録において、 京都土御門家・江戸幕府天文方・大坂間家の記録がそろっている事例はドナティ彗星のみである。これらの 観測記録から、彗星の日々の赤経・赤緯値を導出して、観測精度の相互比較を行った結果、(1)西欧の近代 的な観測精度に比して我が国観測所の観測精度は一段落ちるものの、(2)彗星の軌道を赤道座標値で±2度 の精度ではあるが、軌道の全貌を概ね把握できていたこと、(3)3観測所の中では土御門観測が一番優れて いたこと、(4)天文方、間の観測は期間が短く断定は難しいが、観測値にオフセットがあることが分った。 また、三観測所での測量の比較から、測量の基本的な考え方は相互に共通しており、時刻測定の方法 も共通の機器が使われているので、天体位置測量の精度の違いは、儀器の設置精度および堅牢性、眼視観 測者の熟練度によるところが大きいという結論を得た。
著者
片岡 龍峰 岩橋 清美
巻号頁・発行日
2018-01-30

日時:2018年1月30日(火)~1月31日(水) 場所:国立極地研究所・国文学研究資料館・統計数理研究所 2階大会議室 主催:「天変地異と人間社会の変遷:言葉の在り方と世界の在り方」(2017年度 総研大 学融合推進センター センター長裁量支援研究) 共催:国文学研究資料館・日本語の歴史的典籍の国際共同研究ネットワーク構築計画(歴史的典籍NW事業)・異分野融合・典籍防災学
著者
岩橋 清美
出版者
公益財団法人 日本極地研究振興会
雑誌
極地 = POLAR NEWS (ISSN:00236004)
巻号頁・発行日
no.106, pp.16-21, 2018-03-01

明和7 年7 月28 日(1770 年9 月17 日)20 時を過ぎた頃,日本のあちこちで突然,北の空が赤くなり始め,時間の経過とともにその赤みは増して空一面を覆った。この日,突如,夜空に出現した「赤気」は北海道から九州にいたる各地で観測された。赤気はこれまで見たこともない天変地異として,公家や武家から庶民にいたるまでの多くの人々によって記録され後世に伝えられた。この不思議な現象の正体こそが低緯度オーロラだったのである。しかし,日本において夜空を不気味に赤く染めるオーロラが見えたのはこれが初めてのことではない。歴史を紐解けば,飛鳥時代にまで遡ることができる。『日本書紀』によれば,推古28 年12 月1 日(620 年12 月30 日),雉の尾のような「赤気」が現れたとある。この記述は『日本書紀』に記された最初の天文現象であり,あの厩戸王(聖徳太子)も見ていたかも知れないのである。神田茂氏が編纂した『日本天文史料』によれば,古代・中世においても,たびたびオーロラが現れていたことがわかるが,ここでは,江戸時代に注目して当時の人々がどのようにオーロラを認識していたのかを紹介してみたい。江戸時代を取りあげたのは,それ以前の社会に比べて,文字を読み書きする人々が増加し,多くの記録が残されているからである。これらの記述は書き手の社会的立場や教養・知識などを反映してユニークなものが多いところに特色がある。そして,なによりも特筆すべきことは,絵が残っていることである。絵画史料と文字史料を組み合わせながら,江戸時代のオーロラを紹介してみたい。
著者
岩橋 清美
出版者
千葉経済大学
雑誌
千葉経済論叢 (ISSN:21876320)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.一-一九, 2013-07-25

本稿は、江戸の町における迷子の保護について分析を行ったものである。迷子は捨子と同様に近世後期には主要な都市問題の一つになっていた。それは、捨子に準じ、親類・縁者・養父母が見つかるまで養育しなくてはならず、その費用を町入用から捻出したからである。こうした町の負担を軽減すべく、安政四年(一八五七)、町の有志によって一石橋に迷子石が建立された。これは迷子情報を手軽に広めることができる方法だったため、明治初年にかけて各町に次々と迷子石が建てられることになった。本稿では迷子石建立をめぐる手続きを分析し、迷子保護に対する町奉行所と町人たちの意識の差異、迷子石の社会的意義について考える。
著者
岩橋 清美 玉澤 春史
出版者
兵庫県立大学自然・環境科学研究所天文科学センター
雑誌
Stars and Galaxies (ISSN:2434270X)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.51-65, 2018 (Released:2019-03-25)
参考文献数
33

市民が研究に関与する「市民科学」は、科学への市民の積極的な参加の一形態である。市民が研究に積極的に参加するためには、動機づけや参加しやすい環境など様々な要因を想定し、研究を設計する段階でこれらの点を考慮に入れなければならない。近年のオープンデータに関する動きは自然科学だけでなく人文社会科学にも亘っており、専門家以外のデータ利活用促進を目指している。その意味では分野横断的なテーマのワークショップは、市民に研究参加の場を提供すると同時にオープンデータの利用を促進する有効な方策である。国文学研究資料館では、一般市民に歴史史料の中に記述された天変地異に関する用語を探してもらうワークショップを 2016 年から 3回にわたって行った。事後のアンケート調査から、地域の史料への関心や歴史と天文学という組み合わせの意外性などが参加動機に繋がっていることが窺え、異分野連携研究が自然科学にそれほど興味のない層を取り込むために一定の効果があることが明らかになった。その一方で、今後、市民参加による研究データの基盤整備を進めるためには、データの精度と確度の高い情報を抽出することができるよう指導していくことが必要で、参加者の年齢層や能力を勘案してシステム設計をする必要がある。
著者
鈴木 俊幸 齋藤 真麻理 小林 一彦 田中 大士 中嶋 隆 入口 敦志 海野 圭介 栁瀬 千穂 岩橋 清美 荒木 仁朗 粂 汐里 滝澤 みか 小林 健二
出版者
人間文化研究機構国文学研究資料館
雑誌
国文研ニューズ = NIJL News (ISSN:18831931)
巻号頁・発行日
no.54, pp.1-16, 2019-01-23

●メッセージ継承と蓄積●研究ノートホノルル美術館蔵『塵滴問答』について●エッセイ一期一会●トピックス第11回日本古典文学学術賞受賞者発表第11回日本古典文学学術賞選考講評中世日本の写本文化をめぐる研究集会肥前島原松平文庫における合同古典籍研修会日本古典籍セミナーUniversity of California, Berkeley 2018公開研究会「古典籍画像に対する文字認識と内容解析への取り組み」大学共同利用機関シンポジウム2018「福島県浜通りの歴史と文化の継承―『大字誌ふるさと請戸』という方法―」平成30年度古典の日講演会第42回国際日本文学研究集会総合研究大学院大学日本文学研究専攻の近況●表紙絵資料紹介『かみよ物語絵巻貼付屏風』六曲一隻
著者
岩橋 清美
出版者
国文学研究資料館
雑誌
国文学研究資料館紀要 文学研究篇 = The Bulletin of The National Institure of Japanese Literature (ISSN:18802230)
巻号頁・発行日
no.46, pp.171-201, 2020-03-16

本論文は、太陽黒点観測記録をもとに、十八世紀後半から十九世紀にかけての天文認識について論じたものである。具体的には寛延二年(一七四九)の江戸幕府天文方の観測が記されている「三際図説並寛保以来実測図説」、寛政五年(一七九三)に京都伏見で行われた観望会の記録「望遠鏡観諸曜記」、天保六年(一八三五)に自作のグレゴリー式反射望遠鏡を用いて国内で初めて約一年にわたる観測を行った国友一貫斎の「日月星業試留」を分析対象とした。これらの観測記録を通して、暦学に直接、関係しない天体の運行や天体表面の観測に興味を持った知識人と職人の文化的な繋がりを明らかにした。職人たちは、西洋の精巧な技術に魅せられ、それを趣味的に追求していくことで、結果として天文学における新しい分野を創出した。こうした彼らの天文学への関心の背景には、観測記録の写本の流布や天文書の出版があったのである。
著者
岩橋 清美
出版者
国文学研究資料館
雑誌
国文学研究資料館紀要 = The Bulletin of The National Institure of Japanese Literature (ISSN:18802230)
巻号頁・発行日
no.42, pp.61-90, 2016-03-12

本論文は、一九世紀初頭における日光をめぐる歴史意識について、植田孟縉の『日光山志』と竹村立義の『日光巡拝図誌』をもとに論じるものである。『日光山志』は五巻五冊からなり、天保七年(一八三六)に刊行されたもので、日光に関する最もまとまった内容を持つ地誌である。その内容は中世以来の山岳霊場としての歴史から書きはじめられ、山内の景観・建物の構造・奥日光の動植物・日光周辺地域の人々の暮らしにまで及ぶ。孟縉は、東照宮だけではなく周辺地域を含めて「日光」であることを示し、江戸幕府の権威の象徴として描いている。こうした、彼の歴史意識は、八王子千人同心という身分集団に属していたことに規定されていると言える。これに対し竹村立義は、東照宮というこれまで秘匿されてきたものを、豊富な挿絵で視覚化し、自らの考証を加えて『日光巡拝図誌』を編纂した。特に注目されるのは、武家であっても容易に入ることができない奥院御廟を様子や東遊・延年之舞といった儀式を描いた挿絵である。『日光山志』が日光山全体を詳細に記述しているのに対し、『日光巡拝図誌』は参詣者の興味関心を中心にまとめられた書物と言えよう。両者の日光へのアプローチは非常に対照的ではあるが、二つの地誌に共通することは、日光に関するまとまった情報を読者に提供し、東照宮をより民衆に開かれた存在にしたことである。その背景には参詣者の増加や東照宮信仰の広がりがある。こうした東照宮をめぐる社会の変化が東照宮の書物化を可能にし、多くの読者を生み出したと言えよう。二つの地誌は、まさに一九世紀初頭の読者を意識したものであり、これらを通して日光の歴史化が図られたのである。This paper discusses historical perceptions of Nikko at the beginning of the 19th Century based on the "Nikko Sanshi Topography" by Moshin Ueda and the "Nikko Pilgrimage Topology" by Ritsugi Takemura. Consisting of five scrolls and five booklets, the "Nikko Sanshi Topography" was published in the seventh year of the Tenpo era (1836) and is the most coherent topography of the Nikko region. The work begins with a history of sacred places in the mountains existing from theMiddle Ages and goes on to describe and illustrate mountain scenery, the structure of buildings, the fauna and flora of the Nikko region and the daily lives of people in its environs. Moshin depicts Nikko as a symbol of the authority of the Edo Shogunate that comprises not only the Tosho-gu Shrine, but also the surrounding areas. Moshin's historical perceptions can be seen as deriving from the Hachioji Sennin Doshin (junior officials in Hachioji), the social rank to which he belonged.In contrast, the "Nikko Pilgrimage Topology" is a compilation by Ritsugi Takemura comprising visual illustrations of previously obscure aspects of the "Tosho-gu Shrine" with additional historical commentary by the author. One particular feature of note is the illustrations of the appearance of the "inner shrine," access to which was difficult even for members of the samurai class, and events such as the "Azuma Asobi," an ancient Japanese dance suite that originated in eastern Japan, as well as the "Ennen no Mai," or "longevity dance." In contrast with the "Nikko Sanshi Topography," the "Nikko Pilgrimage Topology" can be thought of as a work that focuses on the interests and concerns of pilgrims.While there is a sharp contrast between the approaches of the two authors, one element that their works share is that they both depict "Nikko," an area for which no topologies had previously been compiled, bringing the world of the Tosho-gu Shrine closer to the common people. In the background to this lie the growing numbers of pilgrims and the spread of the religion of the Tosho-gu Shrine. It is likely that it was such social changes as these revolving around the Tosho-gu Shrine that made it possible to present the shrine in book form and thus gave rise to a great many readers. Without a doubt, these two topologies were compiled with an awareness of readers at the beginning of the 19th Century and presented the historicization of Nikko in graphic form.