著者
松本 耿郎
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.78, no.2, pp.347-371, 2004-09-30

イスラームの信仰宣言「アッラーのほかに神はなく。ムハンマドはアッラーの使徒である」はムスリムを宗教的瞑想に誘う。その理由は、二つの命題の論理的関係が文言だけでは不明で、なぜ二つの命題を宣言するのかも明らかでないからである。多くのムスリムの思想家たちがこの問題に取り組み、その知的営為の中から存在一性論という哲学が形成され、この哲学を継承発展させる運動がイスラーム世界全域で展開した。存在一性論はアッラーを唯一の真実在者とし、それ以外の諸存在は仮の、あるいは幻の存在であるとする。そして、唯一の真実在者と幻の存在との関係を考察し、さらにこの真実在者から預言者ムハンマドが派遣される理由を可能な限り理論的に説明しようとする。これは相当なエネルギーを必要とする知的営為である。しかし、存在一性論はその中で使用する基本概念をいずれも重層的意味を持つものに設定して、この学派の枠組みの中での思索がほぼ自己増殖的に発展する装置を創り上げている。それは思想的生命力の自動的維持装置ともみなしうる。存在一性論が中国の思想的土壌のなかでも見事に開花していることもこのことを証明している。
著者
松本 耿郎
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.78, no.2, pp.347-371, 2004-09-30 (Released:2017-07-14)

イスラームの信仰宣言「アッラーのほかに神はなく。ムハンマドはアッラーの使徒である」はムスリムを宗教的瞑想に誘う。その理由は、二つの命題の論理的関係が文言だけでは不明で、なぜ二つの命題を宣言するのかも明らかでないからである。多くのムスリムの思想家たちがこの問題に取り組み、その知的営為の中から存在一性論という哲学が形成され、この哲学を継承発展させる運動がイスラーム世界全域で展開した。存在一性論はアッラーを唯一の真実在者とし、それ以外の諸存在は仮の、あるいは幻の存在であるとする。そして、唯一の真実在者と幻の存在との関係を考察し、さらにこの真実在者から預言者ムハンマドが派遣される理由を可能な限り理論的に説明しようとする。これは相当なエネルギーを必要とする知的営為である。しかし、存在一性論はその中で使用する基本概念をいずれも重層的意味を持つものに設定して、この学派の枠組みの中での思索がほぼ自己増殖的に発展する装置を創り上げている。それは思想的生命力の自動的維持装置ともみなしうる。存在一性論が中国の思想的土壌のなかでも見事に開花していることもこのことを証明している。
著者
松本 耿郎 岩見 隆
出版者
英知大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
1994

本研究は平成5年1月に78歳の生涯を終えた井筒俊彦博士の学問の方法と思想を分析解明することを目的としたものであった。井筒俊彦博士はコーラン研究、イスラーム思想研究、ギリシア思想研究、ロシア文学研究、東洋思想研究などの諸分野にわたって多くの業績を残している。また晩年には独自の言語哲学と存在認識論の総合を目指して、広い意味での東洋哲学に基礎をおいた独自の哲学の確立を構想していた。当初、この研究計画ではその思想と方法の全貌を明らかにすることを目指していたが、井筒博士の該博極まりない知識に基づく学問的営為を見るにつけ、その全貌を解明することは時期尚早であるとの結論に到達した。そこで、この研究においては井筒俊彦博士のこうした学問と思想的営為の基礎となる部分をまず明らかにすることが急務であると考え、同博士が所蔵し、同博士の学的営為の源泉となった1万5千冊の中近東諸語の蔵書の整理を研究の中心的作業とすることにした。中近東語の蔵書の多くはアラビア語、ペルシア語、トルコ語のもので、内容的には主としてイスラーム思想に関係するものである。このため蔵書の整理についてはアラビア語、ペルシア語、トルコ語の文献学に精通している慶応義塾大学非常勤講師岩見隆氏の全面的協力を得ておこなった。この結果、井筒博士の蔵書のなかには極めて資料的価値の高いイランの石版図書が含まれていることが明らかになった。石版図書はその性質上、分析に時間と労力を要するものであるが、本研究計画の最終年度にこれら石版図書のなかから特に資料的価値の高い図書90点をえらび「故井筒俊彦博士旧蔵イラン石版本目録」を作成し、研究課題報告書の一部として印刷した。
著者
八巻 和彦 矢内 義顕 川添 信介 山我 哲雄 松本 耿郎 司馬 春英 小杉 泰 佐藤 直子 降旗 芳彦 橋川 裕之 岩田 靖男 芝元 航平 比留間 亮平
出版者
早稲田大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2009

<文明の衝突>から<文明の対話>への道は、各社会が己の価値観を絶対視することなく、互いの相違を外的表現の相違であって本質的な相違ではないことを認識することによって確保されうる。たとえば宗教において教義と儀礼を冷静に区別した上で、儀礼は各社会の文化によって表現形式が異なることを認識して、儀礼の間に相違が存在するから教義も異なるに違いないとする誤った推論を避けることである。キリスト教ユニテリアニズムとイスラームの間の教義には本質において相違がないが、儀礼形式は大いに異なることでしばしば紛争が生じ、他方、カトリックとユニテリアニズムの間では教義は大いに異なるにもかかわらず、儀礼が類似しているとみなされることで、ほとんど紛争が生じない、という事実に着目すれば、われわれの主張が裏付けられるであろう。