著者
柏原 宏紀
出版者
慶應義塾大学法学研究会
雑誌
法学研究 = Journal of law, politics and sociology (ISSN:03890538)
巻号頁・発行日
vol.90, no.12, pp.159-171, 2017-12

1 はじめに2 幕末の密航 : 長州五傑と「実学」3 新政府への出仕 : 「大阪」での活躍4 明治維新後の長州五傑5 むすび特別記事 : 平成二九年度慶應法学会シンポジウム 大阪と実学
著者
柏原 宏紀
出版者
關西大学經済學會
雑誌
関西大学経済論集 = Economic review of Kansai University (ISSN:04497554)
巻号頁・発行日
vol.67, no.4, pp.695-710, 2018-03

本論文は、日本の近代化が速やかに達成された理由を探るべく、明治初年の洋行官僚について検討したものである。具体的には、明治零年代後半に時期を限定し、政府内各組織における洋行官僚を抽出して表として掲げ、それらを集計して、人数や割合の変化について考察した。結果として、当該期に洋行官僚は政府で高い価値を帯び、政府内に占める彼らの割合が、全体としても各組織単位でも増加していたことが判明し、西洋を念頭に置いた近代化政策を進める人材が確保されていたことが明らかになった。
著者
柏原 宏紀
出版者
關西大学經済學會
雑誌
關西大學經済論集 (ISSN:04497554)
巻号頁・発行日
vol.67, no.4, pp.695-710, 2018-03-10

本論文は、日本の近代化が速やかに達成された理由を探るべく、明治初年の洋行官僚について検討したものである。具体的には、明治零年代後半に時期を限定し、政府内各組織における洋行官僚を抽出して表として掲げ、それらを集計して、人数や割合の変化について考察した。結果として、当該期に洋行官僚は政府で高い価値を帯び、政府内に占める彼らの割合が、全体としても各組織単位でも増加していたことが判明し、西洋を念頭に置いた近代化政策を進める人材が確保されていたことが明らかになった。
著者
柏原 宏紀
出版者
日本政治学会
雑誌
年報政治学 (ISSN:05494192)
巻号頁・発行日
vol.64, no.2, pp.2_230-2_251, 2013 (Released:2017-02-01)

In contemporary Japan, it is the important issue whether political initiative is preferable or bureaucratic initiative is. When we think about this issue, it is essential to consider the relation between a minister and administrative vice-minister. This paper explores its historical relation, going back to the beginning, specifically focusing on the relation between Kyo (minister) and Taiyu (vice-minister) of Kobusyo (the ministry of public works and technology) under the Dajokan system in the early Meiji years. This paper clarifies the following three points:   First, through the examination of the rules and the institution, it can be cleared that October 1873 was the beginning of the relation between a minister and administrative vice-minister. Second, the actual situation of minister and vice-minister of Kobusyo from 1874 to the early 1875 can be elucidated by the analysis of Tetsudoryo-jimubo (the approval document about the railroad policy in Kobusyo). It turns out that the minister Ito Hirobumi was able to cooperate with the vice minister, Yamao Youzou, while controlling the ministry and its policy well. Finally, it can be surveyed by a limited consideration that those relations in other ministries would be the same as Kobusyo's case.
著者
柏原 宏紀
出版者
公益財団法人 史学会
雑誌
史学雑誌 (ISSN:00182478)
巻号頁・発行日
vol.124, no.6, pp.1128-1152, 2015-06-20 (Released:2017-06-27)

明治6(1873)年5月に大蔵省事務総裁、10月に大蔵卿(長官)を兼務した大隈重信参議が、大蔵省を統轄して積極財政を進め、いわゆる「大隈財政」を展開したと多くの研究が指摘してきた。また、この大隈が、大久保利通の強力なリーダーシップの下で、伊藤博文と共に「大久保政権」の一翼を担い、大久保・伊藤率いる内務省・工部省の政策展開を支えたともしばしば描かれてきた。 本稿は、かかる「大隈財政」像について、政治史的側面に焦点をあてて再検討を試みるものであり、特に、政府内での大隈の政治的位置も含め、財政権をめぐる大隈・大蔵省の政治・制度的問題に注目して考察した。 結果として、大隈の政治的行動に由来する不安定な立場や失脚危機と共に、太政官制潤飾(改革)を発端とする大蔵省の制度的不安定が継続して存在し、それらに起因して財政をめぐる競合が展開したことを解明した。すなわち、制度的に分担関係が曖昧となった正院(左院)財務課と大蔵省との財政権をめぐる管轄争いを描き出し、それが正院財務局構想へと発展すると共に、政策や予算にも影を落としたことを指摘した。 かかる競合関係の中で、大蔵省はその予算方針を貫徹しきれず、彼らが削減を目指した工部省予算も、過去最大の7年度予算と同割合か漸減レベルで確保を許した。その理由は、政治問題化を避けるための前年度維持方針や伊藤工部卿の反論などと考えられ、「大隈財政」のためというよりは大隈・大蔵省の不安定さ故と見た方がよく、従来の「大隈財政」像には一定の留保が必要であると評価した。また、最終的に大隈を救う大久保も、大隈の危機に乗じて管轄を取り上げるなど、両者の関係が必ずしも強固なものではなかった点も指摘し、「大久保政権」論も再考を要するとした。 最後に、上記の不安定要素は、8年10月の島津久光らの辞任と翌月の大蔵省事務章程改定を経て解消され、「大隈財政」が展開される前提が整ったとした。