- 著者
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松田 恵示
島崎 仁
- 出版者
- 日本スポーツ社会学会
- 雑誌
- スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
- 巻号頁・発行日
- no.2, pp.81-94, 1994
『タッチ』は、当初より若者たちの圧倒的支持を受けたマンガである。作品の終盤、甲子園出場を最後まで争ったライバルの「ま、そのうちまた、どこかのグラウンドで会うこともあるだろう」という言葉に対して、主人公の達也は「もういいよ、疲れるから」と間を外してしまう。このシーンはいわゆる「名場面」として刻印されるシーンなのだが、このシーンの解釈は、作者と読者が共有する生きられたスポーツ経験を掘り起こすことに他ならない。本稿の課題はこの作業を通して生きられた具体的、全体的経験としてのスポーツ (行為) を社会学的に捉える視角 (特に「遊」概念に照準したもの) について考察を深めることにある。<br>この作品は、「アジール的空間、コミュニタス的時間と、その終わり」を主題とする青春マンガである。野球と恋愛が主な素材であるが、作品の前半と後半ではその描かれ方がちがうことに気づく。ここでそれを「出来事としてのスポーツ=コケットリーの戯れ」と「物語としてのスポーツ=コケットリーのイロニー」と呼んで区別する。検討の結果、「コケットリーの戯れ」と「出来事としてのスポーツ」は非〈目的-手段〉図式上の行為として親和性を持つ。この親和性は、意味を形成する主体の不在=伝統的主体概念を出発点とした思考の外側からの視線を共有することによって生じている。この親和性が持つ伝統的な主体性に対置されるパースペクティブは、近代化が進んだ社会の現実原則が伝統的な「主体性」を背景とするものであるならば、現実社会に対向するパースペクティブでもある。それゆえこれは、青春=アジールを現すものともなりえる。非主体と反主体あるいは不主体の混同が見られるために,「出来事としてのスポーツ」というパースペクティブをうまく捉えきれていないこれまでの「遊」概念は、スポーツを理解する上で今後さらに精練されなければならない。