著者
清水 靖久
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.216, pp.39-70, 2019-03-29

東大紛争大詰めの1968年12月23日,加藤一郎総長代行が全学共闘会議に最後の話し合いを申入れ,懸案の文学部処分の「白紙還元」を提案したのに,全共闘は話し合いを拒否したという説がある。事実ではないが,その当否を検討するためにも,文学部の学生がなぜ処分されたのか,その「白紙撤回」を全共闘はなぜ要求しつづけたのか,1969年1月18,19日の機動隊導入による安田講堂の攻防は避けられなかったか,1969年12月まで文学部だけ紛争が長引いたのはなぜかを考察する。東大紛争における文学部処分とは,1967年10月4日の文学部協議会の閉会後,文学部学生仲野雅(ただし)が築島裕(ひろし)助教授と揉みあいになり,ネクタイをつかんで暴言を吐いたとして無期停学処分を受けたことである。当時の山本達郎文学部長は,12月19日の評議会で,仲野の行為を複数教官に対する「学生にあるまじき暴言」として誇大に説明して処分を決定し,一か月後に事実を修正したが伏せた。1968年11月就任の林健太郎文学部長は,同月上旬の軟禁時以外は,仲野と築島の行為の事実を議論せず,教師への「非礼な行為」という説明を維持した。1969年8月就任の堀米庸三文学部長は,9月5日,仲野処分を消去するとしたが,処分は適法だったと主張しつづけ,築島の先手の暴力という事実を指摘されても軽視した。この文学部処分は,不在学生が処分された点で事実誤認が明らかになった医学部処分とともに東大紛争の二大争点であり,後者が1968年11月に取消されたのちは,最大の争点だった。加藤執行部は,12月23日,文学部処分について「処分制度の変更の上に立って再検討する用意がある」と共闘会議に申入れたが,林文学部長らが承認する見込みはなかったし,共闘会議から拒否された。「白紙還元」の提案と言えるものではなかった。
著者
清水 靖久
出版者
九州大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2013-04-01

この研究では、丸山真男の政治思想を戦後民主主義との関連で思想史的に解明してきた。丸山は、戦後民主主義は虚妄だったと論じられるようになった1964年、「大日本帝国の「実在」よりも戦後民主主義の「虚妄」の方に賭ける」と記した。丸山にとって大日本帝国は良心の自由を侵す超国家主義の体制だったが、それからの歴史的転換において人民主権の思想を選んでから、たえず民主化する「永久革命」として民主主義を説いてきた。戦後民主主義に「虚妄」の面があったことはよく知りながら、民主主義を日本社会に根づかせるための思想的営為を続けたが、大日本帝国を経験していない若い世代には伝わりにくかったことを明らかにした。
著者
清水 靖久
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.216, pp.39-70, 2019-03

東大紛争大詰めの1968年12月23日,加藤一郎総長代行が全学共闘会議に最後の話し合いを申入れ,懸案の文学部処分の「白紙還元」を提案したのに,全共闘は話し合いを拒否したという説がある。事実ではないが,その当否を検討するためにも,文学部の学生がなぜ処分されたのか,その「白紙撤回」を全共闘はなぜ要求しつづけたのか,1969年1月18,19日の機動隊導入による安田講堂の攻防は避けられなかったか,1969年12月まで文学部だけ紛争が長引いたのはなぜかを考察する。東大紛争における文学部処分とは,1967年10月4日の文学部協議会の閉会後,文学部学生仲野雅(ただし)が築島裕(ひろし)助教授と揉みあいになり,ネクタイをつかんで暴言を吐いたとして無期停学処分を受けたことである。当時の山本達郎文学部長は,12月19日の評議会で,仲野の行為を複数教官に対する「学生にあるまじき暴言」として誇大に説明して処分を決定し,一か月後に事実を修正したが伏せた。1968年11月就任の林健太郎文学部長は,同月上旬の軟禁時以外は,仲野と築島の行為の事実を議論せず,教師への「非礼な行為」という説明を維持した。1969年8月就任の堀米庸三文学部長は,9月5日,仲野処分を消去するとしたが,処分は適法だったと主張しつづけ,築島の先手の暴力という事実を指摘されても軽視した。この文学部処分は,不在学生が処分された点で事実誤認が明らかになった医学部処分とともに東大紛争の二大争点であり,後者が1968年11月に取消されたのちは,最大の争点だった。加藤執行部は,12月23日,文学部処分について「処分制度の変更の上に立って再検討する用意がある」と共闘会議に申入れたが,林文学部長らが承認する見込みはなかったし,共闘会議から拒否された。「白紙還元」の提案と言えるものではなかった。
著者
清水 靖久
出版者
青土社
雑誌
現代思想
巻号頁・発行日
vol.42, no.11, pp.200-219, 2014-08
著者
清水 靖久
出版者
九州大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2005

戦後日本を代表する政治学者・思想史家の丸山真男(1914~1996年)の政治思想の全体像を解明するために、その厖大な著作をデジタル化してコンピューターで網羅的に分析することを本研究は試みた。日本社会の民主化を第一の目標とした戦争直後、市民による多様な結社形成を説いた1960 年前後、自由な人格形成を阻む日本思想の古層を専ら研究した1970 年代以後を通じて、丸山がリベラルであろうとしたことの意味を明らかにした。
著者
清水 靖久
出版者
九州大学大学院地球社会統合科学府
雑誌
地球社会統合科学 (ISSN:21894043)
巻号頁・発行日
vol.24, no.2, pp.1-20, 2017-12-10

Maruyama Masao (1914 - 1996) famously expressed his political thought by "democracy as permanent revolution" in the addition to the third part of his book Thought and Behavior in Modern Japanese Politics(enlarged edition, 1964). Also, Maruyama made his "bet on the sham of postwar democracy" in the postscript of the same book. This article traces his thought of democracy during the postwar period and considers his idea of democracy as permanent revolution. After the end of World War II, Maruyama worried about democracy for more than a half year partly due to his skepticism about its contradictions. With the announcement of the drafted constitution in March 1946 , he converted to the principle of the sovereignty of the people, and wrote about the so-called democratic revolution of Japan. Since 1949 he was committed to the movement of the democratic camp, pursuing democratization of Japanese society and protesting against the conservative and reactionary forces. Around 1960 he talked about the paradox of democracy, for the government of the people was not natural as Rousseau thought. Shortly after the rise of the Anti-Anpo movement, he wrote in his notebook that not socialism, but democracy deserved the name of "permanent revolution" because of the paradox of the government of the people. Democracy had been the protest concept against the orthodox concept for Maruyama until 1960 . In 1964 , when he professed democracy as "permanent revolution," he kept such literary radicals in his mind as Tanigawa Gan, Yoshimoto Takaaki and their epigones. His idea of democracy as "permanent revolution" was to routinize the revolution as the process of everyday movement. Since then, he had never mentioned "democracy as permanent revolution" before the late 1980 s. Exceptionally, he disputed with students about "permanent revolution" of Trotsky at the University of Tokyo Struggles in 1969 .
著者
関口 正司 清水 靖久 鏑木 政彦 木村 俊道 井柳 美紀 竹島 博之
出版者
九州大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2009

本研究では、今後の日本における市民型教養のあり方を探るために、日本、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカにおける<教養>の思想を歴史的に解明した。研究に際しては、思想を比較の視座から立体的に捉えることに留意するとともに、政治的教養という点を強く意識した。研究の結果、抽象的知識ばかりでなく実践的な行為や所作のあり方までを教養に取り入れようとする興味深い企てが、様々な歴史的文脈の中で息づいていたことが確認できた。