著者
好井 裕明
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.73-80, 2022 (Released:2023-06-08)
参考文献数
9

社会学部や社会学科、社会学専攻に入学する新入生や高校生に対して、社会学をどのようにしたら魅力的に伝え得ることができるだろうか。彼らの多くは、学校生活、部活、家庭生活など“半径数メートル”の世界で生きてきている。私は、抽象的でどこにあるのか実感できない社会ではなく、彼らが実感できる社会として日常生活世界のありようを語り、そこで他者理解や他者理解の困難さを考える学が社会学だと伝えている。さらに私は、他者を考える重要なフィールドが日常生活世界であり、日常を考えるうえで重要な契機として「自明性」「日常性」「現在性」「他者性」を考え、それぞれをテーマとして社会学の新書を執筆してきた。なぜ教科書ではなく新書なのだろうか。いくつか理由はあるが、もっとも重要な理由は、「教科書」的構成や「教科書」的文体から解放され、自由に社会学の魅力を語ることができるからだ。インターネットを通しての社会学的知の発信。思わず手に取って読んでしまうような魅力あふれる社会学冊子の刊行。高校での授業に役立つ社会学テキストや副読本の開発。悩める社会学者を主人公としたコミック、等々。社会学を高校生に広める工夫は考えられるだろう。ただ前提として社会学者が本気で考えるべき問いがある。“半径数メートル”の世界から彼ら自身が旅立つのに必要な知やセンスをどのようにわかりやすく、魅力あふれる言葉で伝えることができるのだろうか。この問いだ。
著者
好井 裕明
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.64, no.4, pp.711-726, 2013 (Released:2015-03-31)
参考文献数
86
著者
好井 裕明
出版者
The Japan Sociological Society
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.55, no.3, pp.314-330, 2004-12-31 (Released:2010-04-23)
参考文献数
23

差別を語るということ.これは差別することでもないし, 差別について語ることでもない.本稿では差別することの特徴としてカテゴリー化の暴力と被差別対象の “空洞化” を述べ, 差別について語る社会学の基本として〈受苦者〉の生に限りなく接近することの意義や問題性を論じる.そのうえで差別を語るということを, 自らの差別的経験を自分の言葉で語ることとして捉え, ある啓発講座での実際の語りからその営みを例証する.普段私たちは自らの差別的経験を語ることはない.その意味でこの営みは非日常的である.しかしこれは, 語る本人やその声に耳を傾ける他者が, 差別について抽象的一般的に考えるのでなく, 常に自らが生きる日常生活から遊離することなく等身大の世界で具体的に考えることができる営みなのである.そしてこの非日常的な営みを新たなトピックとすることで差別の社会学の可能性が広がってくる.〈受苦者〉の生, 〈被差別当事者〉の生を原点とすることは差別の社会学の基本である.そのことを認めたうえで〈かつて差別したわたし/差別する可能性があるわたし〉の生を原点とし, 〈わたし〉の普段の営みを見抜き, 自らの生へ限りなく接近することから差別を捉えなおすという営みが, さらに差別の社会学を豊穣なるものにすることを主張したい.
著者
好井 裕明
出版者
三田社会学会
雑誌
三田社会学 (ISSN:13491458)
巻号頁・発行日
no.19, pp.70-79, 2014-07

1. はじめに2. 当事者「運動」について3. 当事者「運動」主体のありようを見つめる必要性4. 当事者「研究」における「主体」とは?5. 当事者「研究」は何をめざすのか?特集 : 生きられる経験/当事者/当事者研究

1 0 0 0 OA 特集によせて

著者
後藤 範章 好井 裕明
出版者
日本社会学会
雑誌
社会学評論 (ISSN:00215414)
巻号頁・発行日
vol.60, no.1, pp.2-6, 2009-06-30 (Released:2010-08-01)
参考文献数
3
被引用文献数
1
著者
好井 裕明
出版者
筑波大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2001

「ヒロシマ」をめぐる一般映画、アニメーション、ドキュメンタリー作品などを、可能なかぎり入手し、その映像のなかで被爆やその後の情景など「ヒロシマ」に関連することがどのように描かれているのかを解読した。その結果、「ヒロシマ」の具体性の稀少と一般的な核イメージの過剰を確認した。つまり、被爆した瞬間、直後の惨状など歴史的な時間に依拠された「ヒロシマ」を表現する映画が稀少である一方で、より一般的に原水爆の恐怖、悲劇を利用する作品が過剰であったのである。そのうえで、いわば「ヒロシマ」表現の原点である映画における表現のありようを詳細に解読した。具体的にとりあげたのは『原爆の子』(新藤兼人監督、1952年)、『ひろしま』(関川秀雄監督、1953年)、『はだしのゲン』(真崎守監督、1983年、アニメーション)である。3作品はそれぞれ独自の「ヒロシマ」表現を持っている,ことを例証した。他方、こうした作品は製作後半世紀がすぎたものであり、古い映像と言える。原点としての「ヒロシマ」映画が、現代の若者にとってどのような意味があるのかを例証するために、これらの映画を見せ、感想レポートを作成させた。レポート内容を整理し解読を試みた結果、原点としての映画は、現代においても、十分に「ヒロシマ」を理解するうえで意義あることが確認された。過去の作品として整理するのではなく、こうした映画を今後どのように活用するのかを考えることは「ヒロシマ」理解において極めて重要な作業であることも確認した。他に、今後の課題として、強大な破壊力の象徴としての核イメージの解読、「ヒロシマ」をめぐるTVドキュメンタリーの詳細な解読などをあげることができた。