著者
山脇 直司
出版者
科学基礎論学会
雑誌
科学基礎論研究 (ISSN:00227668)
巻号頁・発行日
vol.27, no.1, pp.19-24, 1999-12-25 (Released:2009-07-23)
参考文献数
26

本稿は, 自然科学とも文芸批評とも異なる社会科学の学問的特徴 (=学問性) を, 学問史的考察と基礎的諸概念をもとに浮き彫りにする試みである。
著者
菅野 〓司
出版者
科学基礎論学会
雑誌
科学基礎論研究 (ISSN:00227668)
巻号頁・発行日
vol.26, no.2, pp.49-55, 1999-03-31 (Released:2010-01-20)
参考文献数
7

以前の報告(1)で, 科学のサイバネティック構造を中心に, 自然科学の有する諸々の特性を論じてきた。通常科学が対象とするのは実在の自然そのものではなく, 実在の自然から得た情報を基に築かれた「対象的自然」である。しかし, その情報は完全ではなく, 対象的自然は科学の進歩とともにその水準に応じて変化発展してきた。科学の理論体系はその対象的自然に対して, 相対的ではあるが完全性, 健全性 (公理や推論規則が妥当), 無矛盾性を備えた完備な体系である。自然科学を実在の自然におけるサイバネティックシステムと見るならば, 認識主体 (人間) が科学理論と方法を用いて自然から得た情報をフィードバックしながら, 自然のなかを切り拓いて進む自己制御系といえるだろう。この場合, 認識主体と理論体系がその本体をなし,「理論-演繹-検証」の方法がフィードバック機構の役を果たしているといえるだろう。それを踏まえて本稿では, 科学革命の過程とそのダイナミックな構造をできるだけ解明することにする。特に, 科学革命の本質を, T・クーンのパラダイム転換とは別に, 科学の理論構造の転換という側面から捉え直す。科学革命は「旧理論から新理論への自己否定的発展」であるが, それはいかにして可能かを考察する。そして, 理論転換と科学革命のタイプを, 物理学を例にとり, その契機と構造によって分類する。

1 0 0 0 OA 複雑性と科学

著者
武田 曉
出版者
科学基礎論学会
雑誌
科学基礎論研究 (ISSN:00227668)
巻号頁・発行日
vol.26, no.1, pp.1-7, 1998-12-25 (Released:2009-07-23)
参考文献数
3
被引用文献数
1 1

1 0 0 0 OA 複雑性の科学

著者
難波 完爾
出版者
科学基礎論学会
雑誌
科学基礎論研究 (ISSN:00227668)
巻号頁・発行日
vol.26, no.1, pp.9-16, 1998-12-25 (Released:2010-01-20)
参考文献数
12

この論説は, 科学基礎論学会年会でのシムポジウム「複雑性と科学」での提題から, 特に数学 (mathematics) や計算の複雑性 (computational complexity) あるいは計算量と呼ばれるものについて記したものである。

1 0 0 0 OA 書評

著者
角田 譲
出版者
科学基礎論学会
雑誌
科学基礎論研究 (ISSN:00227668)
巻号頁・発行日
vol.25, no.1, pp.59-60, 1997-12-25 (Released:2009-07-23)
著者
丸田 健
出版者
科学基礎論学会
雑誌
科学基礎論研究 (ISSN:00227668)
巻号頁・発行日
vol.25, no.2, pp.77-82, 1998-03-31 (Released:2010-05-07)
参考文献数
7

『探究』の感覚日記の議論 (§258)(1) は, 所謂私的言語論の中核をなす重要な議論である。これは, 公的に観察可能な何ものからも独立に生起する感覚の記録を付ける, という設定になっているのだが, 伝統的には, 〈このような日記の記録には意味がない〉とされてきた。なぜならば, この記録に使用される記号には, 用法の正しさの独立の基準-これは, ここでは, そのような感覚が確かに生じたのかどうかについて, 記録とは独立に, 記録の正しさを保証する基準と同じであるが-このような基準が欠けているからである。ヴィトゲンシュタインが書き残した様々な覚書を, 書かれた意図や時期や文脈を考えずに取り出してきて繋ぎ合わせると, 一見, 上の解釈が妥当であるかに見える。ヴィトゲンシュタインは, 文法規則が意味を決めるのであり(2), 基準が語に意味を与えるのであり(3), したがって感覚の生起のような内的状態にも基準が必要であり (cf.§580), また私的基準は基準たりえない (cf.§202) と述べているではないか-と, このように考えられるのだ。感覚日記で考えられている感覚は, まさに公的基準を持たないものである。したがって, そのような感覚の日記は, 無意味だとされるのである。しかし, 現実にこのような日記を付ける人に遭遇すれば, 我々は彼の記録を無意味だと見做すだろうか? ヴィトゲンシュタインが実際そう考えていたのなら, 彼は我々を規則の檻に閉じ込めてしまうような狭隘な言語観を持っていたのだとして, 私はヴィトゲンシュタインは誤っていると言いたい。しかし彼は果たして, 本当に感覚日記が無意味だと主張したのだろうか? 本稿では, 論点を次の三つに絞ることで, 伝統的解釈の再考を試みる。1) 私的言語の可能性と感覚日記の可能性は, 分けて論じられるべきである。2) 記録の正しさを記録とは独立に保証する基準の欠如, という理由によっては, 感覚日記の記録を無意味とすることは容易ではない。3) 感覚日記の議論の論点は, 正当化の欠如に対する批判ではなく, むしろ正当化を要求するような或る内的体験の語り方に向けられた批判であった。以上の三点を, それぞれ以下の三つの節で扱って行くことにする。
著者
菅沼 聡
出版者
科学基礎論学会
雑誌
科学基礎論研究 (ISSN:00227668)
巻号頁・発行日
vol.25, no.2, pp.89-95, 1998-03-31 (Released:2010-01-20)
参考文献数
24

我々が経験科学の成果から学んだ (ないしは推測した) ことの一つに, 我々人類は全宇宙で共通に成り立っている自然法則の範囲内で生まれたものであり, またその人類の生まれ育った地球は, 数千億以上もの銀河の中のごくありふれた一つの中の, 数千億もの恒星のうちのこれまたごくありふれた一つの回りをまわる小さな天体にすぎない, ということがある。いわゆるコペルニクス的転回以後の科学の根底に流れるこのような自己相対化, 平等原理を推し進めれば, この広い宇宙に我々人類だけしか知的生命が存在しないと考えることはかなり不自然ではないか, という疑問が容易に浮かんでくる。実際, 宇宙人, つまり地球外の知的生命 (Extraterrestrial Intelligence, ETI) が存在するのではないか, とする発想の根底にあったのは, 基本的には常にこの疑問であった(1)。もっとも, 従来はこの発想は単なる空想の域を出ることはなかった。何しろ検証も反証もしようがなかったのであるから。だが, ここ数十年来の電波天文学をはじめとするさまざまな科学技術の発展によって, この発想は近年にわかに現実的な様相を帯びてきた。実際今日多くの科学者たちが, 地球外のどこかに知的生命が存在するか, もし存在するならどのような方法で彼らと交信したらよいかという問いをモチーフに, きわめて真面目に宇宙人探しを行いだしている。科学者たちによるこのような真面目な宇宙人探し-それがSETI (Search for Extraterrestrial Intelligence=地球外知的生命の探査) である。1960年前後に一部の天文学者たちによって始められたSETIは, その後さまざまな活動がなされることによって, 現在では科学研究としての市民権を得たと言っても言い過ぎではない(2)。1990年代に入ってからの諸動向(3)により, SETIはいよいよ多くの注目を浴びてきている。もちろん根強い懐疑論者もいるが, いまや科学界においてSETIが理論と実践の両面にわたって盛り上がっていることは間違いない。それは, 巷にあふれている「宇宙人もの」や「UFOもの」のような明らかに実証性を欠いた擬似科学とは厳密に区別されるべき, 真剣に検討されるべきテーマなのである(4)。だがその一方で, 哲学者たちのSETIに対する関心は相対的にきわめて低い状況にある。これは, SETIがさまざまな哲学的含蓄を含んでいることを考えると, 奇妙なことである。もちろん, ETIは存在しないかもしれないし, 少なくとも現在ETIの存在確認は全くなされていない。だが, 多くの科学者が考えているように将来におけるその存在確認の可能性が無視し得ない以上, 我々哲学者は前もって, 実際のETIに関する何のデータもない今だからこそむしろできるような一般的問題に関する議論の叩き台としての大枠を作っておくべきであろう。そこで本稿で我々は, それをとりわけ, 実際にETIの存在が見出だされた際に我々人類に起こり得る哲学的インパクトについてに限って試みる。そしてそれを通して, SETIがいかに重大な哲学的意義を含んでいるかを明らかにしたい。
著者
小林 道夫
出版者
科学基礎論学会
雑誌
科学基礎論研究 (ISSN:00227668)
巻号頁・発行日
vol.25, no.1, pp.9-15, 1997-12-25 (Released:2009-07-23)
参考文献数
7

デカルトは現在の (特に英米系の) 心の哲学においてはたいへん奇妙な扱いを受けている。デカルトの心の哲学の第一の特質はその二元論であるが (ただし, あとで触れるように二元論に尽きるのではない), この二元論のゆえにデカルトの哲学は, しばしば, 反科学の扱いをうけるのである。J.サールは最近の著書で, 現代の心の哲学での (科学主義的的) 唯物論の動向を難じて, その要因の筆頭に,「 (人々は) デカルトの二元論に陥るのが怖いのだ」という点を挙げている。現代の科学の時代にあって, 実在とはすべて客観的なものであり究極的には物理的存在であると思われるにかかわらず, 物理的存在以外に心的実体なるものを認めるデカルトの二元論に同調することは, 科学的知性を脅かす不条理を引き受けることだと見られるというのである(1)。しかし, 改めていうまでもなく, 自然科学の対象から心的性質や目的論的な概念を一切除外して, 近現代の数理科学を方向づけたのは他ならぬデカルトである。彼はまた, 動物や人間の身体をも機械論的に説明しようとして近代の生理学の見地をも設定したのである (デカルトの生理学的な「人間論」はのちの唯物論的な「人間機械論」の一つの有力なソースであった)。デカルトにとっては自分の哲学こそが, 人間の身体をも含む自然全体の科学的探究を推進するものであったのである。しかし, 問題はもちろん, デカルトが科学的探究の対象となる物理的生理学的対象以外に, それとは独立のものとして思惟や意志という心的存在を認めたことである。現代の言葉でいえば, デカルトは, 科学的生理学的探究を推進しながら, それとは独立に「常識心理学」の領域があるとはっきりと認めたということになる。私見によれば, 現代の心の哲学の状況に身を置いて, いわゆる「消去的唯物論」に与するのでなしに, 自然や人間の身体に対する科学的生理学的探究の見地を堅持しながら, 常識心理学が表す心的性質や心的存在に独自の身分を認める方向の哲学を立てようとした場合には, デカルトの心の哲学はなおも極めて有力で説得的な見地と評価しうる。以下で私は, 現代の心の哲学の問題, とくに「心的性質の実在性」や「心的因果性」の問題を念頭におき,「デカルトの心の哲学」からはそれらの問題に対してどのような解答が与えられるか, という点を考えてみたい。