著者
森本 あんり
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.79, no.3, pp.653-675, 2005-12-30 (Released:2017-07-14)

文脈化神学は、ここ数十年の間に社会正義から文化的自己表現へとその関心を移してきた。ポストモダンの諸文化理論もこの変化を後押しし、神学の自己理解もこれに新たな意義を認めるようになった。なかでもアジア神学は、キリスト教史に占める時代史的な先端性のゆえに、今では文脈化神学の主要な担い手となりつつある。この視点から近年の「日本的キリスト教」理解を検討すると、そこには外からの視線で日本の日本らしさを規定するオリエンタリズムの関与が疑われる。加えて、従来無視されてきた非正統的な宗教集団に「みずからを語らしめる」という社会学的な接近方法は、研究者=救済者という構図を生んでポストコロニアル批判を招く。アジア神学がこのような虚構性に敏感であらざるを得ないのは、みずからもアジアの「アジア性」について繰り返し問い続けているからである。最後に本稿は、アジア神学を「アジアから神学を問う」ないし「アジアによって神学を問う」という「奪格的神学」の試みとして説明する。
著者
李 勝鉉
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.80, no.3, pp.665-686, 2006-12-30 (Released:2017-07-14)

本論は、柳宗悦の著書『南無阿弥陀仏』(一九五五年)を通して宗教と美との関わりを柳がどのように理解したかについて考察するものである。『南無阿弥陀仏』では、彼が青年時代から展開してきた宗教哲学の構想や独自の「民芸」運動の原点を、浄土思想によって総合的に集約しようという試みがなされている。本論はこの集約の過程を検討し、彼が宗教認識を確立させていく際、どのようにして美というものを取り入れる論理を導くことができたのかについて論じる。まず『無量寿経』の本願思想を取り上げることによって、信と美が根本的に関わる所を示そうとした柳の着眼を明らかにする。そして次に、柳が宗教と美に共通した本願思想の根本であるとしている名号論の意味を探る。最後に、柳が『南無阿弥陀仏』を論じる際、現実における信と実の具体的な事例として示した「妙好人」と民芸品との関わりを問うことによって、目に見えるものを媒介して宗教認識を高めようとした柳の宗教論の解明を試みる。
著者
岩崎 賢
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.87, no.1, pp.131-156, 2013-06-30

アステカ文明などの舞台となった古代メキシコ(メソアメリカ)では、「花」は地上のあらゆる生命に関する神話的起源の地「タモアンチャン」を表現する重要なシンボルであった。古代メキシコにおけるこの「花」の文化的宗教的意味について触れた研究は、既にいくつか存在する。しかし十六世紀前後に作成されたスペイン語・ナワトル語(アステカ人が使用していた言語)の文献資料を検討する中で、しばしばこの「花」の主題が「笑い」という主題と強く結びついていることに、筆者は気付いた。このことは従来の議論では、あまり注意されることのなかったことである。そこで本論では古代メキシコの宗教詩や神話における、「花」と「笑い」に関係する事例をいくつかとりあげ、さらに「笑い」の宗教的意味を探るために植民地期以降のメキシコ先住民の神話的伝承を検討することで、「笑い」が「花」と同様に、優れて宇宙創成的な意味を帯びた主題であったことを論じる。
著者
関口 浩
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.86, no.3, pp.553-576, 2012-12-30

折口信夫は、敗戦後、國學院大學での「神道概論」において神道の立直しを試みるが、その際、ムスビノカミに注目し、この神について独創的な解釈を発表している。従来、ムスビとは「産出する霊魂」と解され、ムスビノカミは創造神であるとされてきたが、これに対して折口は、ムスビとは霊魂を形骸に入れる技術であり、ムスビノカミは技術を施す神であると説いた。ムスビノカミは神々にそれぞれ適切な霊魂を入れて神とする。神道学を説くにあたって、この神をまず最初に取り上げねばならなかったのは、その故であった。神を神とするムスビノカミのムスビの技術を知らずして、神々の性格や職掌は理解できないのである。ムスビノカミへの信仰は産育習俗にその起原をもつ。産婆が生児に霊魂を附与する呪術を施すが、この神はそのような呪術者が神聖視されたところから生じてきた。折口のムスビノカミ解釈はこのような産育習俗によって根拠づけられるのである。
著者
近藤 光博
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.78, no.2, pp.397-421, 2004-09-30 (Released:2017-07-14)

本稿の主題は、現代インドの日常生活を強く支配する対「ムスリム」偏見である。とくに「ムスリム」を「余所者」「侵略者」、さらには「狂信者」「分離主義者」とみなす二組のステレオタイプを取り出し、それぞれについてその歴史的背景を整理する。そこで明らかにされるのは、右のような強固な偏見は単なる空想や虚偽ではなく、一定の事実性にもとづく共通感覚であること、しかもその偏見の強固さのゆえに偏見を強化する言動が再生産されるという循環関係がインド社会に構造化されていることである。現代インドのコミュナリズムの基底をそのようなものとして提示したうえで、本稿はさらに、この特殊インド的な問題が宗教研究の諸理論と深く関連していることを指摘する。具体的には、宗教分類学と宗教概念の関係、習合概念の限界、ユダヤ=キリスト教=イスラーム的な世界観・文明原理の特殊性、宗教概念と共同体概念の関係などの諸問題が、コミュナリズム論にとって有する意義の大きさを指摘する。

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著者
宗教研究會 [編]
出版者
宗教研究会
巻号頁・発行日
1916
著者
秋富 克哉
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.87, no.2, pp.251-278, 2013-09-30

技術を哲学的に主題化するとき、そこには、技術の本質がどのように規定されるかという課題と、それに対して人間の本質ないし可能性がどのように理解されるかという課題が含まれる。ハイデッガーは、戦後四年目にドイツ・ブレーメンで行なった一連の講演で、技術的世界における「近さ」の不在という洞察のもと、そのような状況を産み出した現代技術の本質を「総かり立て体制」として取り出し、その根底に「危険」を指摘する一方、「近さ」の回復を、「四方界」と呼ばれる世界と「物」の独自な関わりにおいて描き出した。問題は、技術的世界のなかで四方界の世界がいかにして回復されるか、そこに人間がどのように関わり得るかということである。本稿は、上記二つの課題の観点から、ブレーメン講演を中心に同時期の主要テキストを読み解き、特に「死すべき者たち」としての人間に注目し、技術的世界における人間の本質と可能性を取り出すことを試みた。