著者
芝田 豊彦
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.82, no.1, pp.47-70, 2008-06-30 (Released:2017-07-14)

田辺の<死の哲学>は、他者としての死者を対象としている点で画期的な意義を有する。しかしながら田辺の<死の哲学>の問題点として、<絶対無の働き>と<死復活という行>との不可逆の関係が曖昧なこと、および死者が絶対無にどのような仕方で入れられているのかが不明であること、この二点を指摘できる。フランクルの「過去存在」の思想では、人生における人間のすべての営みが過去存在として永遠に保存される、と主張される。滝沢においては、死者は過去存在として絶対無に入れられており、フランクルとの大きな類似が見出される。滝沢の思惟の根底には常に「神人の原関係」があり、「死ぬ」ということも神人の原関係から、或は神の空間(絶対無)から脱することなどではあり得ない。死者を絶対無における「過去存在」として捉えることによって、死者と死者の記憶は区別され、さらに幽霊現象も視野に入り得るのである。最後に幽霊現象を扱ったベルゲングリューンの珠玉の短編が紹介される。
著者
伊達 聖伸
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.85, no.2, pp.479-504, 2011-09-30

カナダのケベック州は、一九六〇年代の「静かな革命」以降、大きな社会の変化を経験している。そのなかで、宗教のあり方も変化している。州政府、教会、家庭の関係が再編されるなかで、学校教育の役割も変わってきており、ますます増大する宗教的・文化的な多様性を踏まえながら、子どもたちの規範的な社会化と市民性教育を行なうことが課題となっている。そのときに拠り所となるのが「ライシテ」の原理だが、ケベックのライシテは、宗教を取り除くことを志向しがちなフランスのライシテとは趣を異にし、宗教と手を切る面を孕みながらも、むしろ学校での道徳教育や倫理教育、宗教文化教育、スピリチュアリティ教育の継続と再編を可能にしているところがある。それだけに、「道徳」「倫理」「文化」「スピリチュアリティ」という言葉には、ライシテの推進者のみならず、反対者の思惑も込められている。本稿は、これらの言葉のニュアンスを読み解きながら、一定の合意形成のなかに、対立の構図が残っていることを明らかにしようとするものである。
著者
中山 剛史
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.82, no.2, pp.383-408, 2008

ヤスパースの哲学は、実存と超越者とのかかわりにもとづくきわめて「宗教性」の高い哲学であるといいうるが、他方において、ヤスパースは哲学と宗教との相違を強調し、みずから「哲学」の立場に立って、権威への服従に基づく「宗教」に対して鋭い批判を行っている。とりわけ、「神が人となった」というイエス・キリストにおける神の「啓示」を唯一絶対の真理とみなすキリスト教の「啓示信仰」に対して、超越者の「暗号」を聴きとる「哲学的信仰」の視点から批判的な対決を行っている。ヤスパースは「啓示信仰」に対して、(1)神人キリストの放棄、(2)啓示の暗号化、(3)排他的唯一性の放棄という「三つの放棄」を要求するが、これは「啓示信仰」を「哲学的信仰」へと解消させることではなく、むしろキリスト教が教義への束縛と排他性の要求から脱け出て、その根源にある「真摯さ」へと立ち還ることを呼びかけるものである。ヤスパースの宗教批判の意義は、異なった信仰の根源同士が相互に出会いうる開かれた対話の道を開くことにあるといえよう。
著者
奥山 史亮
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.88, no.3, pp.701-725, 2014-12-30

本書は、ルーマニア正教会の修道士であるニコラエ・ステインハルトの言論に対する保安警察の調査、およびステインハルトとエリアーデの交遊を整理することにより、エリアーデの言論が共産主義体制下において反体制運動を支援する言葉として受容されていた状況を明らかにする。ステインハルトは、ルーマニア国内にとどまりながら反体制的な言論を展開した人物として知られている。ステインハルトはとりわけエリアーデの宗教研究と文学作品に親しみ、それらを反体制的な言論に取り込んでいた。政治や経済体制に還元不可能な宗教性を重視するエリアーデの言論は、政党の統制から脱した文化活動を展開しようとしたステインハルトにとって親和性のあるものであった可能性が想定される。従来、エリアーデの宗教学は、大学や学界における宗教学の展開を学問史として整理する試みのうちで、その問題点や意義について論じられてきた。本稿は、政治的少数派の活動においてエリアーデの言葉が担ってきた意味を明らかにすることにより、宗教学の歴史を補完することを試みる。
著者
住家 正芳
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.91, no.2, pp.125-151, 2017-09-30 (Released:2017-12-30)

宗教経済学は宗教の合理的選択理論を理論的核とし、個々人は合理的に行為するものであり、取り得る行為のコストと利益をはかりにかけ、自分にとっての純利益を最大化してくれる行為を選択する、という人間観を起点とする。そして、こうした合理的選択という観点から宗教を捉えることの利点は、宗教行為の多くが合理的であり、単なる無知や迷信、手前勝手な願望からのものではないことを示すことであるという。本稿は宗教経済学のこうした主張を、伊藤邦武による「パスカルの賭け」の議論と論争の整理を参照しながら検討することによって、宗教と合理性についての理論上の位置づけについて試論的な考察を加える。そのうえで、宗教経済学は外部の観察者の視点から見出される論理としての合理性を仮説的に提示する点において意義を有するが、そのことをもって宗教行為は合理的であるとする点において間違っていると結論する。
著者
大宮司 信
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.80, no.2, pp.339-354, 2006-09-30 (Released:2017-07-14)

本論文では、精神医学の領域でかつてもちいられ、今はまったく捨てられたロボトミーという治療技術の盛衰を通して、医療技術の忌避の要因について考えた。第一にあげられる点は、心や精神という人間それ自体と同義に考えられる対象に対する医療の適用への嫌悪感・拒否感である。第二は治療手法の非可逆性である。ロボトミーが捨てられた最大の原因は、取り返しのつかない後遺症をもたらした点である。第三は、医療技術の開発は目的に対応する計画的な準備だけでは不十分で、多彩でしかもまったく偶然的な要素の出現が、アミダくじ的に組み合わさって可能になるという、「医療のアミダくじ的な展開」という村岡の指摘である。抗精神病薬の登場は、ロボトミーをのこすか捨てるかという当時の議論をとびこして、必要としなくてよいとする決定因のひとつとなった。このアミダくじの一部を担いうるものとして、宗教は医療や倫理とはまた違った仕方で、視座を与えうると筆者は考える。
著者
橋爪 大三郎
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.82, no.4, pp.827-842, 2009-03-30

西欧をはじめとする世界の多くの社会と異なり、日本では宗教の社会的地位が低い。特定の宗教を信じる人びとは少数で、多くの日本人は宗教と距離をとり、自分は無宗教の現実主義者だと思っている。だが実際には、日本社会は、特異な宗教的伝統のもと、それなりに濃密な宗教体験にいろどられている。日本宗教学は、特定のマイナーな宗教ではなく日本社会の宗教体験の総体を、考察の対象とすべきだ。とりわけ、プレ近代の武家政権のもと、仏教・儒教・国学が断片化しハイブリッド化し、日本のネイション形成の土壌となったことは重要である。世界的な文脈のなかで、こうした日本社会の特異な宗教性を、普遍的な記述と説明に開いていくことを、日本宗教学に期待したい。
著者
黒川 知文
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.79, no.2, pp.475-498, 2005-09-30 (Released:2017-07-14)

十字軍、レコンキスタ、フス戦争と近代以後に起きた諸宗教戦争は、宗派対立型、教派対立型、政治対立型に類型化することができる。その本質構造は、社会的危機、経済的危機、政治的危機、宗教的危機等の危機状態になった時に、宗教に民族主義が結合して、排他的教説が採用されると、排他的戦争へと変容するということにある。排他的教説とは、二項対立論と悪魔との「聖戦」論と終末における戦争論であり、キリスト教においては、その救済論と人間論と終末論から生起したと考えられる。民族紛争における宗教の要素は宗教戦争のそれとはかなり異なっていると推定される。
著者
髙山 善光
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.92, no.1, pp.131-155, 2018 (Released:2018-09-30)

本論では、ある現象を宗教だと判断する際の基準はどのような要素になりうるのか、という問題について考察する。従来、宗教の判断基準は現象的なものになるという前提がゆるぎないものであったために、ある現象を宗教だと判断する際の基準がどのような要素になりうるのか、という問題は問う必要もなかったものである。しかし近年では、宗教がある本質的な現象を指しているわけではないという見方が強まりつつある。宗教概念にかかわる研究者の間では、特定の現象にこだわること自体が忌避されるべきだと考えられている。本論では、宗教現象の世俗化と、世俗的な現象の宗教化という問題を通して、宗教の判断基準を考察する。その結果わかったことは、どちらの場合においても結局のところ、ある現象が宗教だと判断されるためには、宗教的概念を成立させている特殊な認識の形式が観察者によって発見されなければならないということである。今回は宗教の判断基準は何かという問題を扱わなかったが、本論では、その問題を扱うための基礎ができたように思う。
著者
田中 雅一
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.93, no.2, pp.107-134, 2019-09-30 (Released:2020-01-07)

本稿の目的は、セクシュアリティ・ジェンダー体制と呼ぶ社会システムと宗教との関係を考察することである。具体的な事例としてインドのデーヴァダーシーと呼ばれる女性たちと、その中核に位置するエッラッマ女神への実践と信仰を取り上げる。そこに認められる吉と不吉という女性を分断する宗教的観念が女性への差別を正当化していると同時に、宗教が既存のセクシュアリティ・ジェンダー体制を撹乱する要因にもなっていることを指摘する。差別をめぐる女性の分断は日本の文化や社会体制に馴染んでいる者にとっても他人事ではないという観点から、日本においては女性を分断する支配的な言説として貞淑な女性とふしだらな女性という対立が重要であると指摘する。そして、子宮委員長はるの著書を取り上げて、その撹乱的意義を論じる。
著者
平野 直子
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.90, no.2, pp.107-130, 2016 (Released:2017-09-15)

本稿は、スピリチュアリティ研究の対象としてよく取り上げられる、オルタナティブな食実践における身体観を取り上げ、そこに見られる〈現代の社会システムのなかで流布している通常医療や科学の言説における身体観を乗り越える〉という言説について検討を加える。食を含むオルタナティブな療法や身体実践においては、身体を「自然なもの」と見て、それを見つめ直すことにより、より良い身体やライフスタイルを作り上げることが提案される。しかしそもそも、言説から切り離された白紙の身体というのは有り得るのか。本稿ではこの点を検討すると同時に、実践者たちにとって重要なのは、自分自身やライフスタイルを再帰的に見つめ、管理し、絶えず作り直していくツールを消費し共有することであることを示す。
著者
森本 あんり
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.79, no.3, pp.653-675, 2005-12-30

文脈化神学は、ここ数十年の間に社会正義から文化的自己表現へとその関心を移してきた。ポストモダンの諸文化理論もこの変化を後押しし、神学の自己理解もこれに新たな意義を認めるようになった。なかでもアジア神学は、キリスト教史に占める時代史的な先端性のゆえに、今では文脈化神学の主要な担い手となりつつある。この視点から近年の「日本的キリスト教」理解を検討すると、そこには外からの視線で日本の日本らしさを規定するオリエンタリズムの関与が疑われる。加えて、従来無視されてきた非正統的な宗教集団に「みずからを語らしめる」という社会学的な接近方法は、研究者=救済者という構図を生んでポストコロニアル批判を招く。アジア神学がこのような虚構性に敏感であらざるを得ないのは、みずからもアジアの「アジア性」について繰り返し問い続けているからである。最後に本稿は、アジア神学を「アジアから神学を問う」ないし「アジアによって神学を問う」という「奪格的神学」の試みとして説明する。