著者
茂木 謙之介
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.88, no.1, pp.49-74, 2014-06-30

本稿の目的は、天皇神格化言説の高揚する昭和戦前戦中期における皇族表象の様相とともに、天皇崇敬に関する宮内省のスタンスを明らかにすることにある。先行論では崇敬対象の天皇と崇敬主体の国民という構造が展開され、抽象的な議論になりがちであるが、本稿では具体性を以て表象される皇族に注目する。本稿では旧宮内省文書から考察を試み、統括官庁の方針を確認するとともに、文書に織り込まれた人びとの声を回復し、それらの経年変化を探る。結果、一九二六〜三七年まででは皇族表象を価値目的的に利用しようとする地域社会のスタンスと、それを規制していく宮内省のスタンスが、一九三七〜四一年前後では〈利用〉と共に皇族を崇敬対象とみなす地域社会の声とともに、その傾向を事実上黙認する宮内省の立場が、そして一九四一〜四五年では軍部の要請と相俟って、崇敬される天皇とそれを崇敬する国民という構造へ収斂させていく宮内省の在り様が看取された。
著者
岡本 亮輔
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.81, no.1, pp.23-45, 2007-06-30

本稿では、現代宗教論の重要テーマの一つである宗教と個人について、より一般性の高い議論を行うために私事化論を再構築する。従来のルックマン流の理論では、私事化は宗教の拡散化と私的領域への撤退を招くとされた。だが世俗化論修正派の論著では、当該地域の社会文化的文脈との交渉も含めた私事化が論じられる。つまり、私事化とは個人が意味調達のために支配的文脈と駆け引きする中で生起する過程だと言える。本稿は、これを従来の私事化の個人主義モデルに対する文脈依存モデルとして提示した。両モデルの本質的差異は意味の問題にある。個人主義モデルは近代世界における意味の問題を捨象し、そこから私事化による宗教の細分化の議論を導いた。一方、文脈依存モデルの観点からは、私事化した宗教も、よりマクロな次元との連関の下に捉えられ、宗教と個人の関係性をめぐる問いも、より大きな問題系の中に定位される。
著者
藤本 拓也
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.85, no.3, pp.693-716, 2011-12-30

二十世紀フランスの思想家エミール・シオランは、無信仰者と自己規定しつつ、一方で神への渇望をしばしば語っている。シオランの神に対するアンビヴァレントな態度は、メランコリー=鬱という情動と強く結びついたものである。すなわち、メランコリーにおいて神の喪失が悲しまれ、同時に、不在の神に対する憎しみや怒りが吐露されるのである。こうしたシオランの姿勢に窺われるのは、神を感じる主体の情動を問題にする思考である。言い換えれば、シオランは神の「存在」自体を存在論的に思考するのではなく、感じられるか/感じられないかという自身の情動ないし感覚の水準で神を捉えているのである。本稿では、虚無や空虚のような鬱的情動に根差した「無」に関わるシオランの語りを考察することにより、シオランが否定的情動の裡に神をどのように把握していたかを明らかにする。それにより、信仰/無信仰、有神論/無神論という二分法には収まらないシオランの「情動の神秘主義」と、そこにおいて語り出された特異な神観を解明する。
著者
大谷 正幸
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.78, no.1, pp.95-118, 2004-06-30

「角行系宗教」とは、角行藤仏という富士山を信仰するユニークな行者を始祖とする宗教を包括して指す、筆者の造語である。この中に富士講という団体が含まれるが、彼らが栄えて地域に土着していく過程で、角行系宗教全体の起源と考えられる、ある名前のない宗教の存在が埋没してしまった。ここ数十年で発掘されてきた資料を元に、できるだけ富士講による伝統的な説を排除していくと、おぼろげながら彼らの姿が浮かび上がってくる。角行系宗教は全体を大きく五つに分けることができる。その始原は十七世紀初頭にまで遡るが、民間から発生した独特の教義を持ち、しかも伝統的な宗教には一切属さない。彼らは従来伝統的な山岳信仰と考えられてきたが、厳然たる創唱宗教にして富士信仰の伝統的な立場とは明らかに一線を画す。そのことが日本宗教史上でいわれる所謂「新宗教」の概念とどのように関わるのか問いかけたいと思う。
著者
富積 厚文
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.84, no.1, pp.25-50, 2010-06-30

本稿ではスピノザの思想における共同体の倫理学の基礎について考察する。議論の中心はスピノザとホッブズの比較である。両者は人間たちの敵対性を認める点で一致するが、それぞれの共同体論は発生的に大きく異なる。前者は絶対を対象的にではなく非対象的に見る思惟により展開される「喜び」の政治論であるが、後者は優れて世俗的な見解を提示する「恐怖」を主軸とした政治術である。一見すると二つの主張は対立しているが、スピノザの自然思想からすれば、ホッブズによって多分に人間的な事柄として抽出された自然における<他>と<自>の関係性は、もはや「一である」とも言表しえない「絶対に無限な有るもの(神)」において問い直される。その問いとは、人間たちの<出遭い>の機が「生の育成」に寄与しうるかどうかである。詮ずるにスピノザの思想における共同体の倫理学は、相対の世に絶対の神を示そうとする宗教論のうちに働く、現実のための学である。
著者
田鍋 良臣
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.83, no.1, pp.25-45, 2009-06-30

あまり知られていないことだが、ハイデッガーは『存在と時間』(一九二七)公刊直後に神話に関する言及をくりかえしおこなっている。『存在と時間』が未完であったことを考えると、ハイデッガーにとって神話は『存在と時間』全体の仕上げにかかわる重要な問題であったと考えられる。しかしながら従来のハイデッガー研究において、神話問題をこの観点から論じたものはない。そこで本稿は、カッシーラーの『神話的思惟』(一九二五)についての書評(一九二八)やこの時期の諸講義の中で展開された「神話的現存在分析」をあとづけることによって『存在と時間』構想における神話問題の意義を明らかにし、それを通じて、一般に「無宗教の書」と思われている『存在と時間』の問題圏のうちに、宗教と哲学の根源的な関係を問いうるような新たな地平を開拓したい。
著者
鶴岡 賀雄
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.81, no.4, pp.849-869, 2008

本稿は、西欧キリスト教史の中で「行」というべきものがどのように実践され、その際「身体」がどのように位置付けられてきたかを、おおきなパースペクティブで通覧することを目指す。まず「行(修行)」という発想自体が西欧のキリスト教では希薄なことを語彙の観点から指摘する。これは古代以来の西欧の人間観において心身二元論的発想が強固であることに基づくが、神の受肉の教義を核心に据えるキリスト教は人間が身体をもつことを肯定的に捉えていることを確認する。ついでおもに中世・近世の修道生活において「行」に相当する実践の諸相を概観する。その際、身体に対してこれを、(1)「否定的に評価し能動的に関わる」側面、(2)「肯定的に評価し能動的に関わる」側面、(3)「否定的に評価し受動的に関わる」側面、(4)「肯定的に評価し受動的に関わる」側面に操作的に区分し、それぞれについておもに近世初期スペインの修道者たちの実践を例に検討する。おわりに、従来あまり注目されてこなかった上記(4)の側面、すなわち修道者に内から感じられる身体性ではなく、他者から「見られるもの」としての身体性の意義について若干の展望を述べる。
著者
木村 清孝
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.78, no.4, pp.947-961, iii, 2005-03-30

本論文は、近代日本において、西欧から移入された文献学的な仏教研究の軌跡を辿ることを基軸として、このおよそ百年間における仏教研究の歴史を顧み、その特徴を明らかにするとともに、それがもつ問題点を探り、合わせて今後の仏教研究のあり方について述べようとするものである。明治時代の初め、<近代的>な仏教研究の扉は、少なくとも表面的には伝統的な仏教学と切れたところで、南條文雄によって開かれ、高楠順次郎によって一応定着した。それが、文献学的仏教研究である。この伝統は、のちに歴史的な見方を重視する宇井伯寿によって新展開を見た。さらにその愛弟子の中村元は、宇井の視点と方法を継承しながらも、それに満足することなく、新たに比較思想の方法を導入し、「世界思想史」を構想し、その中で仏教を捉えることを試みた。この比較思想的な仏教研究が、西田哲学を継承する哲学的な仏教研究と並んで、現在も主流である文献学的な仏教研究に対峙する位置にあると思われる。最後に付言すれば、これからの仏教研究は、その中軸として、文献学的研究と、それを踏まえた思想史的研究、さらには、その思想史的研究によって明らかになる重要な「生きたテキスト」をよりどころとする比較思想的研究が遂行されることが望まれるのではなかろうか。
著者
釈 悟震
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.82, no.2, pp.523-546, 2008-09-30 (Released:2017-07-14)

スリランカ仏教は、アショーカ王の時代以来の長い歴史を有する。しかし、この長い同国の仏教の歴史は、決して平坦ではなかった。一六世紀以降のヨーロッパ人によるスリランカ支配は、必然的にキリスト教の布教、とりもなおさず仏教への圧迫さらに弾圧となって現われた。特にイギリスの植民地支配時代、スリランカの仏教は、存亡の危機に直面した。その時、仏教僧侶と二人のキリスト教の牧師との間に、激しい教理論争が繰り広げられた。その結果は仏教が勝利したとされるが、このことがスリランカ仏教復興の原動力となった。特に、仏教の近代化やその復興に功績の大きかったオールコット大佐が、仏教の支援者となったのもこの討論の結果である。そして、彼らの仏教復興運動は、全世界に波及しインドや日本の復興や近代化にも影響を与えた。一九世紀のスリランカの田舎で行われた仏教とキリスト教の討論は、仏教の近代にとって看過できない大きな意味を有するものであった。しかし、この討論についての学術的研究は、殆どなされていない。本稿では、この忘れ去られた仏教の近代化の出発点ともなった討論とその意義について検討する。
著者
宮部 峻
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.97, no.1, pp.75-98, 2023-06-30 (Released:2023-09-08)

本稿の目的は、一九八一年に改正された真宗大谷派の『宗憲』の改正過程を事例に、法学が教団組織の近代化に与えた影響を考察することである。大谷派の『宗憲』改正、それによる宗務機構の近代化は、精神主義運動を展開した清沢満之のエートスの影響に着目して論じられてきた。しかし、大谷派の『宗憲』改正は、宗教的権威である法主が宗教法人の代表を兼ねることをめぐって生じた。本願寺の歴史的状況、明治以来の法整備の過程で生じた法主の地位について、教学・教団史にもとづいて問い返すだけでなく、法律上の位置づけについても見直す必要があった。法学の立場から『宗憲』改正に重要な役割を果たしたのが法社会学者の川島武宜であった。本稿は、『宗憲』改正過程に照準を合わせて、『宗憲』改正に対して法学による正統化が必要とされた背景、教学と法学それぞれの立場がどのように正統化したのかを論じる。この作業を通じて、仏教教団の近代化を宗教と法の関係史の文脈に位置づける。
著者
宇野 功一
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.88, no.3, pp.673-699, 2014-12-30 (Released:2017-07-14)

祈りとは、人格的または非人格的な絶対的超越者の存在を前提として、何かに注意を集中することで、自己や他者や世界の存在の様態を自己の内面で変革しようとする行為である。この定義に基づき、グルジェフの祈祷論を検討する。彼は祈る対象として、祈りに専念しやすいからという理由で、神・祈祷者自身・祈祷者に最も近しい生者を措定した。そして祈られた願望を達成するのは非人格的な神や、祈祷者に最も近しい生者ではなく、祈祷文などにたいする祈祷者自身の注意の集中だと考えた。それは自己観察兼自己想起を伴う修行法でもあった。彼はまた、祈祷者が適切なやり方で祈ればその肉体に具わっている磁気という物質が変容すると説いた。彼はさらに、この変容は肉体にたいする魂であるアストラル体の形成を助けると説いた。彼の祈りは言語の使用に重きを置いた、自己の存在の様態の変革を志向するものであった。
著者
山本 佳世子
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.90, no.1, pp.99-123, 2016 (Released:2017-07-03)

「非宗教者」によるスピリチュアルケアの営みを支えるビリーフを検討するために、臨床現場から逃げずに、ケア対象者の「今」を無条件に受け入れるという営みにおける「祈り」について考察する。その際に、「信仰に基づかない祈り」に言及した論考として、小説家の大江健三郎と写真家の藤原新也の論考を検討する。そこから見えてくるのは、自身の限界が身に沁みるとき、私たちは所詮「なんでもない人」なんだと覚悟を決め、開き直ることで受け入れる祈りであった。それは「それでも世界は続いていく」という確信のもと、「なんでもない人」である私が、「なんでもない人」であるあなたを受け入れたいと、「なんでもない人」として死んでいった小さな存在・無名の存在を愛おしみ、慈しむ「祈り」である。このような確信と行為は、日本独自の無常観と、愛おしみ慈しむことで死者を賦活させ、交流する先祖供養に基づく死生観に支えられている。