著者
江種 満子
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 = Bulletin of The Faculty of Language and Literature (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.17, no.2, pp.65-91, 2004-01-01

前稿で中断した「こわれ指輪」論を発展させ、テクスト全体の構造を、「女権」という主題軸と「指輪」によるレトリックの軸の相互関係としてとらえた。さらにこれらの二つの軸に埋もれるようにして、植木枝盛のいわゆる「歓楽」への視線が瞥見できる点を指摘。これはのちの紫琴時代のテクスト群がみせる粘弾性の強い人間観の貴重な兆しである。しかし紫琴時代に至るまでには、女権論者清水豊子を挫折させた二つの体験(大井事件による妊娠出産と古在由直との結婚)が介在する。この時期を、豊子書簡と古在書簡および掌篇「一青年異様の述懐」によって考えた。その後、夫の由直の留学によって僥倖のように訪れる紫琴時代をいくつかのテクストによって読み解く。なかでも「葛のうら葉」の位置は最も重要である。「葛のうら葉」は、構造的に清水豊子時代の「こわれ指輪」をなぞるかにみえて、じつはその後の豊子の体験と英知と想像力を結集して、異質な世界へ超え出た成熟の文学的達成である。
著者
三枝 優子
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.28, no.1, pp.31-50, 2014-09

近年、多くの大学で実施されている授業評価だが、そのあり方は授業形態によって異なるものである。本稿では文学部開講科目の日本語教育実習授業で実施した授業評価について報告する。この評価の特徴としてプログラム評価の手法を用い複数の関係者による複眼的評価を行った点が挙げられる。一般の講義授業とは異なり、教師と学生のみならず実習機関の教師や学生など様々な立場の人が関わる教育実習における複眼的評価の有用性について言及する。さらに評価結果を利用した授業活動についても報告する。この活動の結果、実習生は評価結果を共有することにより授業改善のための評価の仕方を学べただけでなく、実習授業を俯瞰的により深く理解することが可能となった。
著者
樋口 泰裕
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 = Bulletin of The Faculty of Language and Literature (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.14, no.1, pp.97-81, 2000-10-01

陳の徐綾撰『玉台新詠』十巻とは如何なる書物で、また如何なる問題を孕んでいるのか、四庫提要の撰者は、成書の時期、本集の体裁及び内容、文学的及び資料的価値、そして版本といった幾つかの視点から解説する。当然、そこには時代の限界などによる問題点も若干窺えようが、当時第一級の知識と見識を誇る学者たちによって執筆されたそれは、現在もなお尊重されるべき指摘を富有した、『玉台新詠』という書物を理解していく上で看過できない基本的な文献なのである。
著者
文教大学目録学研究会
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 = Bulletin of The Faculty of Language and Literature (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.29, no.2, pp.108-80, 2016-03-15

本稿は、章学誠『校讎通義』の訳注である。今号では、巻三の「漢志諸子第十四」全三十三条のうち、第十一条から第二十三 条までを訳出する。樋口が担当した。前号に引き続き、底本には、葉瑛『文史通義校注』(中華書局、一九八五年)を用い、あわせて、嘉業堂本、劉公純標点の『文史通義』(古籍出版社、一九五六年、中華書局新一版、一九六一年)、葉長清『文史通義注』(無錫国学専修学校叢書、一九三五年)、王重民『校讎通義通解』(上海古籍出版社、一九八七年、傅傑導読、田映㬢注本、上海古籍出版社、二〇〇九年)、劉兆祐『校讎通義今註今訳』(台湾学生書局、二〇一二年)などを参照した。
著者
磯山 甚一
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 = Bulletin of The Faculty of Language and Literature (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.16, no.1, pp.1-26, 2002-10-01

前回はロビンソン・クルーソー物語が今日のわが国で「絶海の孤島」物語として読まれていることを明らかにした。しかし実際にはロビンソン・クルーソーの島は大陸沿岸のカリブ海に位置しており、その島における物語は18世紀カリブ海言説と考えるべきである。今回は、そのカリブ海言説としての物語が近代世界のなかでどのように読まれ、わが国では「絶海の孤島」物語となってきたかを検証する。そのためにまず、題名にある 'adventure' という語が日本語で「冒険」と訳された事実に注目する。その事実にどのような暗示があるか、'adventure' と「冒険」のそれぞれが持つ意味を確認する。そして両者の意味を比べると、訳語の「冒険」は 'adventure' のそなえる意味の一部を伝えるにすぎないこと、ロビンソン・クルーソー物語について、それを「冒険」物語として、あるいは 'adventure' 物語として読むかぎり、彼の島における生活について語ることはできないことを明らかにする。
著者
山本 卓
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 = Bulletin of The Faculty of Language and Literature (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.20, no.2, pp.27-63, 2007-03-01

散文と詩とを二項対立的な視点で捉えるのが、アラゴンの同時代の散文観における通念だった。だが、こうした二分法的な単純化によっては捉えることのできない散文の中の異質な要素の存在が、アラゴンの散文には認められる。散文の中での詩的言語の奔放な使用、言葉遊びの思いがけない展開、コラージュ的な表現の唐突な挿入などのさまざまな技法がそれである。その中でも、とりわけ重要な問題だと考えられる散文の中の詩的言語と音声性の問題を分析する。
著者
浦 和男
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 = Bulletin of The Faculty of Language and Literature (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.23, no.2, pp.149-191, 2010-03-01

笑いに関する研究が国内でも本格的に行われるようになって久しい。大学でも笑い学、ユーモア学の名称で授業を行い、笑い学という領域が確実に構築されている。笑いそのものの考察に限らず、笑いと日本人、日本文化に関する研究も少しずつ行われている。これまで江戸期の滑稽に関する笑いの研究はすぐれた専攻研究が多くあるが、それ以降の時代の笑いに関する研究は十分に行われていない。本稿では、基礎研究の一環として、明治期に出版された笑いに関連する書籍の目録をまとめた。本稿で扱う「笑い」は、滑稽、頓智などに限定せず、言語遊戯、風俗など、笑いを起こす要素を持つものを広く対象としている。目録としてだけではなく、通史的に編纂することで、明治期を通しての笑いの在り方を考察できるように試みた。また、インターネットで利用できるデジタル資料情報、国立国会図書館で所蔵形態についての情報も付け加えた。
著者
浦 和男
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 = Bulletin of The Faculty of Language and Literature (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.22, no.2, pp.41-69, 2009-03-01

文明開化とともに西洋の笑話が原文で紹介されるようになる。新聞・雑誌類では明治10年以降の掲載が確認され、明治25年には福沢諭吉が「開口笑話」を出版し約350篇の笑話を紹介した。明治30年代後半になり、西洋の笑話を利用した英語学習書が相次いで出版され、英語読本類にも笑話が掲載される。その背景には、明治20年代後半からの英語教育の普及と産業発展による英語ブームと、文法に重点を置かない実用英語指向の高まりがある。また、この時期には新しい「笑い」を求める雰囲気があり、西洋の笑話の英語学習への利用が高まったとも考えられる。原文による笑話の学習を通じて、明治期の読者は多文化に接触し、日欧に共通する笑いの存在を知ることで、日本人が異質でないことを知ることができた。これらの英語学習書の英語教育的な意義、扱われた西欧笑話の日本の笑いへの定着、近代文学への影響など、今後検討しなけらばならない問題は多く残されている。
著者
浦 和男
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.22, no.2, pp.41-69, 2009-03

文明開化とともに西洋の笑話が原文で紹介されるようになる。新聞・雑誌類では明治10年以降の掲載が確認され、明治25年には福沢諭吉が「開口笑話」を出版し約350篇の笑話を紹介した。明治30年代後半になり、西洋の笑話を利用した英語学習書が相次いで出版され、英語読本類にも笑話が掲載される。その背景には、明治20年代後半からの英語教育の普及と産業発展による英語ブームと、文法に重点を置かない実用英語指向の高まりがある。また、この時期には新しい「笑い」を求める雰囲気があり、西洋の笑話の英語学習への利用が高まったとも考えられる。原文による笑話の学習を通じて、明治期の読者は多文化に接触し、日欧に共通する笑いの存在を知ることで、日本人が異質でないことを知ることができた。これらの英語学習書の英語教育的な意義、扱われた西欧笑話の日本の笑いへの定着、近代文学への影響など、今後検討しなけらばならない問題は多く残されている。
著者
遠藤 織枝
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 = Bulletin of The Faculty of Language and Literature (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.22, no.2, pp.1-27, 2009-03-01

戦時中の日本語の一面を、ルビによって捉えようとするものである。戦時中の家庭雑誌『家の光』は1942年8月号までは、記事全体にルビが振られていた。そのルビで「日本」に「ニホン/ニッポン」のいずれのルビがふられているのかをみると、1935年ごろまでは、すべて「ニホン」であったのが、戦局が激しさを増すと同時にほとんど「ニッポン」に替えられてしまっている。また、「知識階級(インテリ)」のように、外来語が従来語・訳語のルビとして用いられる例が多い。そこから、外来語の定着の仕方をみるものである。つまり、外来語導入の過渡期的なものに、そのような外来語と漢字語の併記がされると考えられるので、当該の語句を当時の新聞・辞書、また戦後の新聞・辞書で使用の実情を調べた。その結果、外来語として、現在の新聞では「知識階級」はほとんど使われず外来語由来の「インテリ」が優勢になっている。一方で「空港(エアポート)」のように戦前の雑誌で併記されていた語の中には外来語でなく、「空港」が圧倒的になっているものがあることがわかった。導入された外来語の中にも、従来語・訳語の方が優勢になっていった語があることを示した。
著者
佐倉 香
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 = Bulletin of The Faculty of Language and Literature (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.13, no.2, pp.75-122, 2000-01-01

イタリア・ルネサンスの典型的な「万能の人( uomo universare )」として知られるレオナルド・ダ・ヴィンチ( Leonardo da Vinci ,1452-1519)の遺産には、芸術作品の他に、生涯を通じて記された膨大な頁数の手稿がある。手稿の内容は、絵画、彫刻、建築の他、解剖、天文、幾何、物理、数学、寓話など多岐にわたるが、彼はそれらの多くにおいて、最終的な表現手段である芸術、特に絵画表現に昇華させることを目論んでいたと思われる。こうしたレオナルドの諸活動は、観察に基づいた独自の方法によっている点でおおむね共通する。そして、レオナルドが最も注目し、多様な視点から観察、分析を続けた対象のひとつに「水」があった。本論文では、この「水」のモティーフに焦点を絞り、さまざまな記録や描写とその発展過程とを整理した上で、このモティーフに見るレオナルドの自然観察と芸術表現との関わりについて考察する。
著者
Logan Richard
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.22, no.2, pp.29-40, 2009-03

Endo Shusaku's first work of fiction was published in 1954 and describes a journey by ship from the French port Marseilles to Aden on the Arabian Peninsula. The main character muses on his inability to bridge the racial and cultural gap between Japanese and Europeans.
著者
磯山 甚一
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 = Bulletin of The Faculty of Language and Literature (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.14, no.2, pp.25-56, 2001-01-01

1983年に開園した東京ディズニーランドには,「カリブの海賊」という名称の人工空間が造営されている。それを一つの例として,今日の日本には「カリブ海域」に関わる言説が多方面に見られ,英文学史上の小説作品として知られる『ロビンソン・クルーソー』もその一つである。ところがロビンソン・クルーソーの物語のテクストは,17世紀後半のカリブ海域をめぐる言説であることが隠蔽されて今日の日本に流通している。ロビンソン・クルーソーの暮らす島が「絶海の孤島」であるというのは,何かの理由によってつくりあげられた思い込みによる誤解である。コロンブスの新大陸「発見」を契機にして西ヨーロッパの列強が新大陸に競って進出し,全地球を巻き込む「近代世界」というシステムをつくりあげた。そのシステムの形成過程のなかに位置付けることによってロビンソン・クルーソー物語を理解することが重要である。
著者
GRAHAM Jimu
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.32, no.2, pp.1-38, 2019-03

This is a continuation of the discussion on how various types of school textbooks used in Japan and the United States lack a thoroughness that begs for supplementation or revision (Graham 67-93). In addition to virtually ignoring war's role in the social history of American racial relations by Japanese textbook writers, within the framework of history instruction, both countries' textbooks avoid authentic testimony by individual soldiers on what it feels like to kill another human being, whether combatant or non-combatant. While literature and popular culture aptly take up this theme for emotional and aesthetic effect, raw and artless accounts of war's most grotesque realities are seldom if ever juxtaposed with the names and dates textbooks offer students for rote memorization that can lead to success on examinations. A direct proximity of such recollections to the dry narrative of modern war's geopolitical ramifications would deepen an understanding of what war really is, at least where more sensitive students are concerned.
著者
GRAHAM Jim
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.32, no.1, pp.67-93, 2018-09

This paper is a discussion of how the card-stacking technique has been employed in promoting historical understanding among youth, mainly where textbooks are concerned, but in the information mainstream as well. Both Japan and the United States have their unsavory histories, whether it be the enslavement of African Americans for the United States or the militarist past in Japan. Where it comes to Japan's understanding of how to teach modern American history, too, the domestic significance of World War II can get short shrift altogether. A particular widely respected Japanese publisher of textbooks for school age English language learners highlights and even celebrates the message of Martin Luther King's "I Have a Dream," but makes an error of omission revealing a stunning lack of historical perspective.
著者
笠井 勝子
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.19, no.1, pp.31-55, 2005-09-01

1884年のFeeding the Mind は、比喩と話の運びに注目したいルイス・キャロルの読書論である。この講話がどこで書かれたかについて考察する。Duncan Black (1996年)とSelwyn Goodacre (1984年)はキャロルがオールフリタンを訪問する前と見なしているのだが、訪問中に書いたのであろうと推測する。 グッデーカー(1984年)に入っている写真版からキャロルの講話を訳出し、内容に関する詳しい注を付けた。また、キャロルの日記とグッデーカーの冊子に基づいてオールフリタン訪問に至る経緯、およびイーディス・デンマン、ウィリアム・ドゥレイパーのこと、彼らを訪ねた1884年の選挙制度改革にキャロルが深い関心を持っていたこと、などに基づいて、ルイス・キャロルとドゥレイパーとの間にはこれまで注目されていない好感・共感が存在したことを考察する。
著者
藤井 仁奈
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.24, no.2, pp.77-97, 2011-03-15

シェイクスピアの『ハムレット』に登場するオフィーリアは、「恋人への献身を最も完璧に立証する」狂気と死を表現する乙女として、19世紀の多くの画家によって描かれる。同時代に、ランボーは詩「オフィーリア」を完成させる。オフィーリアが(『ハムレット』にはない)百合やヴェールに喩えられ、純潔と死を象徴することは、この詩の1節を中心に読み取れる。続く2節では、彼女の狂気に陥った原因が、自ら夢を求めたことに由来することが明らかになる。彼女は、自ら夢を求めるがゆえに狂気に陥り、「黒い波のうえ」を永遠に漂う、ランボー独自の創造物として描かれる。彼女の狂気の原因が当時の倫理観や価値観から逸脱しているという意味で、ランボーのオフィーリアは、(「狂気の処女」を含めた)『地獄の季節』の語り手と軌を同じくする。この小論では、ランボーの「オフィーリア」の独自性を指摘し、後年書かれる『地獄の季節』へと通じる点を指摘したい。