著者
奴田原 諭
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 = Bulletin of The Faculty of Language and Literature (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.33, no.1, pp.1-33, 2019-10-31

学生が授業をどの様に捉えているかを授業担当者が把握すること、殊に目標設定が専門科目に比べて複雑にならざるを得ない教養科目でそれは尚更重要なことだ。しかしながら教養科目は一般的に出席者が多く、紙を使用した従来の物理的なコメントの回収は運用そのものに困難を来す。そこで、紙の回収に替わりデータでの回収、さらには「フォーム」を用いてスプレッドシート上に容易に一覧化できる方法を運用してみた。その是非について学生にアンケートを試みたところ、概ね賛同が得られた。回収したコメントは毎回の授業の導入として活用するのだが、データであることにより意外にも学生との距離を縮めるものとなり、また紹介の順番として適切な構成を組むことができた。それにより、15回の授業を出席学生の中で、同時に授業担当者の中で有機的に接続させるものとして機能し、授業改善の一助となることが考えられた。
著者
樋口 靖
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 = Bulletin of the Faculty of Language and Literature (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.25, no.2, pp.23-40, 2012-03-01

明治28年台湾は日本の植民地となり、台湾人に対する行政的、軍事的統治が開始された。台湾統治の方針は内地への同化政策であり、その基幹は教育であって、教育政策の実質は言語教育すなわち本島人に日本語を習得させることにほかならなかった。言語教育はもちろん現地人に対する日本語の「押し付け」ではあったが、領台の初期にあってはけっして片務的なものではなく、台湾に渡る日本人に対しては現地語(福建、広東系中国語方言と「藩語」を含む)の習得が要請された。学習は官吏、学校、軍、民間の各層で広く展開された。少なからぬ日本人が、漢語や欧米語ではなく文化価値の低い「土語」を学ぼうとしたことは史上初めての経験であったろう。「土語」はあくまで実用のために学ばれたので、「土語」の学習熱は日本語教育が一定の成果をあげると次第に下火になっていった。小論の目的は台湾「土語」のうち、最も使用人口が多く優勢な言葉であり、従って内地人の学習人口も相対的に多かった福建系台湾語の学習教育が、現場ではどのようなものであったのかを一次資料によりながら具体的に振り返ってみることにある。当然、資料から当時の台湾における言語の実際状況を知ることができる。また、日本植民地時代にあげた日本人の台湾語研究における成果も純学術面からみて極めて大きなものであり、この点も併せて考察する。考察は軍、官、民の各階層について行われる。
著者
山本 卓
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.12, no.2, pp.1-22, 1999-03-01

アラゴン後期の代表作『死刑執行』には、作者自身の自我の投影である「二重人間」が登場する。同一人物の公的な面と私的な面とを代表するアントワーヌとアルフレッドの二人がその二重人間だ。彼らはそれぞれに、作者の内面の対立する両極を具現化した存在である。この二人の対立を通して、後期のアラゴンの内的な葛藤が明らかにされていく。実はしかし、この、二重人間という認識のための仮説は、ロマネスクな世界に入り込むための出発点にしか過ぎないのだ。アラゴンはこうした対話の装置を媒介としつつ、より高度の多声的な構造を持った作品空間を構築していくからである。二つの声による対話は、副次的なさまざまの声を呼び寄せつつ、やがては数多くの声が語り合う多声的な空間を創造していく。本稿では、そうした多声的空間生成のプロセスを、パフチンなどの理論と対照しつつ考察する。
著者
佐倉 香
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.13, no.2, pp.75-122, 2000-01-10

イタリア・ルネサンスの典型的な「万能の人( uomo universare )」として知られるレオナルド・ダ・ヴィンチ( Leonardo da Vinci ,1452-1519)の遺産には、芸術作品の他に、生涯を通じて記された膨大な頁数の手稿がある。手稿の内容は、絵画、彫刻、建築の他、解剖、天文、幾何、物理、数学、寓話など多岐にわたるが、彼はそれらの多くにおいて、最終的な表現手段である芸術、特に絵画表現に昇華させることを目論んでいたと思われる。こうしたレオナルドの諸活動は、観察に基づいた独自の方法によっている点でおおむね共通する。そして、レオナルドが最も注目し、多様な視点から観察、分析を続けた対象のひとつに「水」があった。本論文では、この「水」のモティーフに焦点を絞り、さまざまな記録や描写とその発展過程とを整理した上で、このモティーフに見るレオナルドの自然観察と芸術表現との関わりについて考察する。
著者
寺澤 浩樹
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.26, no.1, pp.146-131, 2012-09-29

武者小路実篤の中期(大3〜6)作品群において、素材を同じくする戯曲「罪なき罪」(大3・3)と小説「不幸な男」(大6・5)の二作品は、他の諸作品を挟む時期に位置する。その中には、小説「彼が三十の時」(大3・10〜11)、戯曲「その妹」(大4・3)、戯曲「ある青年の夢」(大5・3〜11)など、戦争への作者の関心が反映された著名な作品が多く、この中期が「ヒューマニズムの時代」と呼ばれるゆえんである。しかし、小説「不幸な男」の特質として、戯曲「罪なき罪」から小説「不幸な男」への変容の根底には、〈死のリアルな表現〉の意図であること、その素材のデフォルメの意図には、モデルの〈苦境と苦悩の明確化〉があること、その主題は、〈神ならざる凡人には重すぎた運命〉であり、その情調は、〈厳粛な暗澹たる悲哀〉であることなどから、小説「不幸な男」という視座からは、この中期には、〈死の認識〉のモチーフが明瞭に見える。それが、「非戦」的と言われる諸作品を芸術として成立させる礎であり、武者小路独自の運命の観照なのである。
著者
八田 洋子
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 = Bulletin of The Faculty of Language and Literature (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.14, no.2, pp.57-82, 2001-01-01

グローバリゼイションの拡大とともに、英語が世界を覆い尽くすと懸念されている。本当に英語はこのまま拡大を続けるであろうか。歴史的地理的経済的要因によって、英語の位置は第一言語であったり第二言語であったり外国語であったりする。現実には英語の拡大は現地語との接触によって「新英語」を生みだし、英語の国際化をもたらしている。英語の現状をアメリカ、アジア、日本、ヨーロッパに探り、世界における英語の位置を確認し、その展望を考察する。
著者
樋口 靖
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 = Bulletin of the Faculty of Language and Literature (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.11, no.1, pp.1-14, 1997-10-01

日本統治台灣時期出現了許多有關台語的著作。這期間被使用的台語漢字有些獨特之處;使用訓讀漢字用得比較多,而且它的用法相當不統一。其原因何在?大部分作品的作者是日本人,讀者也是日本人,是用於日本人學台語所編的語言敎材和辭典之類。日語的漢字用法多用訓讀法來表示「大和言葉」。當時,日文的漢字用法比較隨便;對同一個單字,有時候用這個漢字充當,又有時候用那個漢字充當。或是,以同一個漢字表示兩個不同日語單字。日本作者可能把這種日文的習慣帶進台語著作裡面。例如:對台語【khùn睏】出現有「睡,眠」兩種寫法;又,對台語【khng,hē】兩個字使用一個「置」(おく)字來表示,等等。台語有很多單字無法以恰當的漢字表出,有時候關於一個字的寫法眾説紛紜,是叫我們初學台語的外國人實在傷腦筋的事。如要解決這種問題,採用訓讀法可能是比較妥當的解決方式。然則,個人以爲日本時代的漢字用法也有一定的參考價値。
著者
江種 満子
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 = Bulletin of The Faculty of Language and Literature (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.20, no.2, pp.1-25, 2007-03-01

1914年に朝鮮から留学したナ・ヘソク(羅蕙錫)のエッセイと小説を通して、1910年代の日韓の政治状況及び文化状況の交点に照明を当てる。1910年代は、明治国家主義を推進した明治第一世代に抗して、個人の価値に立脚して世界をとらえようとする第二世代の言説、すなわち<白樺>・<青鞜>・アナーキズム等の個人主義の思想が主流化する。その中で、有島武郎は白樺派としては異例の存在として、インターナショナルな視点をアメリカ留学と社会主義の研究によって獲得し、1910年の韓国併合に至るまでの日本の朝鮮・韓国支配に対して鋭い国家批判を抱懐していた。有島に比べると、一見、インターナショナルな視点をもたなかったかに見える白樺派の武者小路実篤や志賀直哉たちだが、実際には、彼らは明治第一世代がとらわれた国家意識や国民意識を離れ、国家と個人の関係を革命的に逆転させる仕事をした。ナ・ヘソクの自己形成は、このような第二世代の言説が燃え上がる時期に留学したことを抜きにしては、考えられない。とりわけ<青鞜>の平塚らいてうが描いた「太陽」の表象が、彼女をインスパイアした。
著者
渡邉 大
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 = Bulletin of The Faculty of Language and Literature (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.31, no.2, pp.154-121, 2018-02-28

本論は、著述のあり方、学術の変遷について考察する文史・校讎の学という観点から、章学誠の六経皆史説を再検討したものである。章学誠にとって、経書の経書たる所以は、それが実際に天下を経綸した先王の政典である点に存し、六経皆史説も古人無著書説もそれを前提として成り立つものであった。また、両説の背景には、官師合一、治教無二と称する、政治・学問・教育が一体となった古代の理想状況が想定されていた。章学誠は、六経をあらゆる学問・著述の淵源として位置づけたのと同時に、あらゆる学問・著述は、六経がそうであったように、経世を志向するものでなくてはならず、また、変化してやまないその時々の情勢に即応したものでなくてはならないと主張したのであった。
著者
渡邉 大
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 = Bulletin of The Faculty of Language and Literature (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.20, no.2, pp.100-78, 2007-03-01

上古音研究の書である『音学五書』が、顧炎武にとってはなぜ「道を明らめ」「世を救う」ための著述となりえたのか、顧炎武の経世意識と古音研究との結びつきについて「音学五書敘」および「答李子徳書」を中心に考察を加え、顧炎武にとって、古音学とは、音学の衰退により乱れが生じていた経書のテキストを正し、そこに載せられた「経世致用」の道を明らかにするためのよすがであり、また、忘れ去られていた経書自身が有する秩序とその信頼性を明らめるすべというふたつの意味を有していたということを確認した。
著者
山本 卓
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 = Bulletin of the Faculty of Language and Literature (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.25, no.1, pp.1-31, 2011-09-01

ダダイズム、そしてシュルレアリスムの詩人として出発したルイ・アラゴンはいわゆる「アラゴン事件」の後にシュルレアリスムの陣営を追われ、長い曲折を経てレアリスムの小説家として生まれ変わる。その後、長らく「現実世界」の連作や『レ・コミュニスト』の作家として社会主義レアリスムの立場に立つ人間だと見なされてきた。そのアラゴンが晩年になって発表した『死刑執行』(1965)や『ブランシュまたは忘却』(1967)は批評家たちや読者たちから一種の驚きをもって迎えられた。そこには明らかにシュルレアリスム的な手法への「先祖返り」が認められたからだ。この時期に書かれた自伝的なエッセイ『私は書くことを決して覚えようとしなかった、または冒頭の一句』(1969)はアラゴンにおける言葉の誕生の秘密を明らかにしようという優れて生成論的なテクストであり、アラゴンの後期小説を読み解く上でも数多くの示唆を与えてくれる作品なのだ。
著者
チャプレン マイケル 羽田 美也子
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 = Bulletin of the Faculty of Language and Literature (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.28, no.1, pp.1-30, 2014-09-01

早川雪洲主演のサイレント映画 『チート』 (1915)は、金・女・悪人という普遍的なテーマを扱いながら、その底流に人種問題を密接に絡み合わせた衝撃的な作品である。その後のリメイク作品4本を併せて取り上げ、それぞれの作品の背景、テーマに込められた意味を比較文化的見地から考察する。
著者
加納 陸人
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.15, no.2, pp.40-52, 2002-03

中国の中等教育では、ここ数年、従来の受験教育や詰め込み教育から脱却しようという動きが出ている。日本語教育においてもその動きに呼応し、時代に合った教科書が求められるようになった。本稿では高校教科書作成の指針になっている大綱(指導要領)の目的と教科書の編集方針、教科書の全体構成と作成意図・目的などについて触れ、教科書を使用した教師の感想や意見・問題点について言及する。現場の多くの教師には、当初、新しく作成された教科書を高く評価しながらも、新しい内容や大学受験との関係で、どのように対処したらいいか戸惑いも見られた。しかし、教師自身が教科書を使用していく中で、生徒のコミュニケーション能力の必要性や文化の大切さなどを強く感じるようになってきた。教科書が現場の意識に影響を与えているといえる。また、大学受験の出題項目にも変化がみられ、従来の暗記をすれば対応できるものでなくなってきている。ここにも教科書の意図が反映されている。
著者
芦田川 祐子
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.32, no.1, pp.45-65, 2018-09

本論文は、ウェルズのThe War of the Worldsについて、どのような諸世界の戦いが描かれているのかを、作品内に響く音を手がかりに考察する。火星人の立てる音は他者性が強調され、生身の軟らかい音もあるが、大部分は機械音で、生身と機械が一体化した存在として認識されることが多い。地球側を特徴づける音としては人声や車輪の音があるが、音声で意思疎通をする点では火星と必ずしも対立していない。火星人は武器を駆使して地球の音を圧倒し、死の静寂をもたらすが、バクテリアに敗れて自らも沈黙する。一方で火星人到着から侵略、死滅までを目撃する語り手の中でも世界の衝突が起きており、火星人に接近して音と沈黙、生と死の世界のせめぎ合いを体験した語り手は、現在の世界に過去と未来を重ねて見るようになる。こうして新たな世界の見方を獲得した語り手も、人間の限界を超えることはなく、それ故に世界の衝突が続くであろうことが示唆される。
著者
白井 啓介
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 = Bulletin of the Faculty of Language and Literature (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.11, no.2, pp.74-93, 1998-01-01

本文探讨洪深在1923年所"改译adaptation"的话剧《少奶奶的扇子》之文学价值。该剧的演出,当时誉为"轰动全沪,开新剧未有的局面"。其原因一般认为:"写实的处理方法,演员的表演自然、细腻、真实""舞台布景,服装、道具也力求艺术风格的统一性和演出的完整性"等演出方面之出色使之然。本文主要核对分析英国王尔德原作《Lady Windermere's Fan(温德米尔夫人的扇子)》和洪深改讳作品之间异同。经过台词和人物形象处理的对照,得出以下结论。一则洪深一剧被称为"对话流利警畅俏皮动听"的成就主要出于原作台词本身之妙。洪深的贡献却在于把台词之美引进到中国现代话剧上来,因之使白话文学的表现力更加丰富多采。二则是洪深改讳本和原作之间的差距。洪深把金女士当做一个"伤心"人物来处理,因此应该同情她,安慰她。可原作里Mrs. Erlynne的人物形象并不尽然,她亦可有当做一个不受旧有社会观念拘束的"开明"女士来处理的余地。这两个剧本间人物形象的改变,或许由于洪深受到五四时期妇女解放运动风潮之影响而带来的。
著者
文教大学目録学研究会
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.29, no.2, pp.108-80, 2016-03

本稿は、章学誠『校讎通義』の訳注である。今号では、巻三の「漢志諸子第十四」全三十三条のうち、第十一条から第二十三 条までを訳出する。樋口が担当した。前号に引き続き、底本には、葉瑛『文史通義校注』(中華書局、一九八五年)を用い、あわせて、嘉業堂本、劉公純標点の『文史通義』(古籍出版社、一九五六年、中華書局新一版、一九六一年)、葉長清『文史通義注』(無錫国学専修学校叢書、一九三五年)、王重民『校讎通義通解』(上海古籍出版社、一九八七年、傅傑導読、田映㬢注本、上海古籍出版社、二〇〇九年)、劉兆祐『校讎通義今註今訳』(台湾学生書局、二〇一二年)などを参照した。
著者
マイケル チャプレン 羽田 美也子
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 = Bulletin of The Faculty of Language and Literature (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.30, no.1, pp.59-73, 2016-09-01

フィルム・ノワールの巨匠と呼ばれるドイツ人映画監督フリッツ・ラング(Fritz Lang, 1890-1976)の最初期の作品に、『ハラキリ』(1919)がある。彼の初期の代表作である『ドクトル・マブゼ』(1922)、『メトロポリス』(1927)、『M』(1931)のような作品とは明らかに一線を画しているロマンチシズムの極致のような『ハラキリ』は、内容的にはまさにドイツ版「蝶々夫人」である。「蝶々夫人」は、原作はアメリカ人ジョン・ルーサー・ロングによる短編小説で、初出は1898年『センチュリー・マガジン』誌1月号である。これが大評判となってアメリカ人劇作家デイビッド・ベラスコが戯曲化、この舞台をイギリスで観て感激したイタリア人プッチーニが1904年にオペラ化したものが、全世界を席巻したという経緯がある。19世紀後半から20世紀初頭にかけてのジャポニスム全盛期の象徴的作品と言っても過言ではない。この作品を「ハラキリ」というタイトルで、1919年というジャポニスムも下火になりつつある時期に製作したフリッツ・ラングの意図は、どこにあったのであろう。また、以後時代を風刺する作品を撮り続け、社会や人間に対する不信感を抱き続けたラングにとって、この作品はどういう意味を持っていたのであろうか。彼の描く悪役には通底するモチーフがあり、それは最初期に制作された『ハラキリ』にも見て取れる。一見その後の作品とは指向が全く違っているかのようにみえる『ハラキリ』であるが、他作品と同様に人間への不信感というものが独特の味わいで描かれている。本稿では、これらの点につき、表象文化(映像)の観点からの分析と、ジャポニスムを軸とした検証を各自が担当し、可能な限り多角的視点で論じることを試みた。
著者
八田 洋子
出版者
文教大学
雑誌
文学部紀要 (ISSN:09145729)
巻号頁・発行日
vol.16, no.2, pp.107-136, 2003-01

2000年1月、「英語公用語化」問題が唐突に出された。世界に生き残っていくには英語を日本の公用語にするほかはないと。本当にそうであろうか。「公用語」とはなにか。英語教育は機能しないのであろうか。「英語公用語化」の意味をさぐりながら英語教育改革をあわせて考える。