著者
酒井 龍一
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報 (ISSN:09191518)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.7-32, 2003-03

本稿では、フェニキア語の「アヒラム碑文(KAI1・2)と「アジタワッダ碑文」(KAIA26通称「カラテペ碑文」)を検討する。前者は、フェニキア世界の中核たるレバノンのゲブラ(ビブロス)、後者は外縁たるトルコのカラテペで出土した。手順は、先ずワープロによるフェニキア文字文で打ち出し、各単語に目安程度の英単語を付記しながら、簡単な解説を加える。全体の訳文は示さないがGibson(1982)・谷川(2001)を参照のこと。
著者
酒井 龍一
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報 (ISSN:09191518)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.1-20, 1997-03

本稿は、パルミラ語碑文研究に着手する予備作業として、先ずパルミラ遺跡・パルミラ語・アラム語群・セム語一般等に関する手短かな文献を概観し、次に碑文文字編年の作業方針を提示することに目的がある。
著者
白石 太一郎
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報 (ISSN:09191518)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.1-4, 2009-03

最初から予想していたことであるが、本当にあっという間の短い5年間であった。6年前の平成15年の早春のことと記憶するが、東京国立博物館で開かれた東大寺山古墳出土の中平銘大刀の修理・摸造のための調査検討会のあと、東野治之先生から歴博(国立歴史民俗博物館)退職後、奈良大学の文化財学科へ来ないかとのお誘いを受けた。翌平成16年の3月で、設立準備室以来26年間勤めた歴博を退職することが決まっていたが、私自身も、また家内も歴博のある城下町の佐倉が大いに気にいっており、退職後も二人でこの地に永住する覚悟を決めていた。他からのお話ならすぐお断りしただろうが、奈良大となると話は別で、真剣に考えさせていただく旨お答えした。奈良、すなわち大和は河内とともに私の専門的なブイールドの地であり、特に奈良は高校生時代以来、奈良県立橿原考古学研究所時代の10年間を含めて、歩き回った懐かしいところである。さらに奈良大の文化財学科は、優れた考古学専攻の卒業生を数多く全国各地に送り出しており、その教育研究には大いに敬服していた。また私にとっても、家内にとっても関西は故郷でもある。その後家内とも相談し、また大阪で水野正好先生ともお会いして奈良大の現状についていろいろお話を伺ったが、佐倉永住の覚悟を翻すのにそれほど時間はかからなかった。

2 0 0 0 IR 大仏師定覚

著者
三宅 久雄
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報 (ISSN:09191518)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.9-19, 2009-03

建仁三年(一二〇三)造立の東大寺南大門仁王像は、昭和六十三年から平成五年にかけて解体修理が行われ、その際、発見された銘記や納入経の奥書から注目すべきいくつかの事柄が判明した。そのうちのひとつに、大仏師として従来知られていた運慶、快慶のほかに、推測はされていたが、湛慶と定覚が起用されたことが確かめられたことがある。加えて大方の予想を裏切り、阿形像は運慶と快慶、畔形像は定覚と湛慶が分担したことも明らかになり、新たな問題をなげかけた。当時、運慶の長男湛慶は三十歳、この慶派の後継ぎと組んで畔形像の造像に当たったのが定覚である。周知のとおり、定覚という仏師は大仏殿両脇侍像、四天王像復興において康慶、運慶、快慶とともに活躍した慶派の四人の大仏師のうちの一人である。慶派の中では重要な位置を占めているように思えるが、彼の現存作例は南大門仁王像のみであり、しかもこの仁王像からは定覚個人の作風を知ることは、まずできない。出自もはっきりとせず、知名度の高いわりには謎に包まれた仏師である。ここで南大門仁王像の銘文を契機として、この定覚についてあらためて考えてみたい。
著者
光森 正士
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報 (ISSN:09191518)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.15-54, 1998-03

初期仏教々団、つまり僧伽は釈尊を中心として比丘、比丘尼らで構成されていた。しかし、後には在家の人びと優婆塞、優婆夷なども仏教に帰依するものが多くなって次第に大きく発展した。初期教団にては比丘や比丘尼たちは一定の土地に留まり、固定的に生活するというのではなく、常に各地を転々とする移動集団であり、絶えず移住する生活の連続であった。このことはある地域に対する執着を離れることにもなり、また、地域に密着する私的感情を断ち切ることであり、愛着をつのらせることも避けた。
著者
酒井 龍一
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報 (ISSN:09191518)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.1-26, 2004-03

プズリシュダガンのシュメール語粘土板(ドレヘム)文書は、ウル第三王朝の解明に重要な史料である。例えば、懊形文字史料による古代メソポタミア研究を総括した『歴史学の現代古代オリエント』(前田他2000)は、「プズリシュダガンはニップル近郊にあって、周辺諸国やシュメール・アッカド地方の諸都市から貢納として運ばれてきた家畜を管理するウル王家直轄地であった。そうした特色から、ウル第三王朝が国内と周辺地域に対してどのような支配体制で臨んだかを研究するのに好都合な文書」と評価する。本稿では、先学の研究を紹介しつつ、ウル第三王朝・ドレヘム文書・集配組織の学習に努める。
著者
水野 正好
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報 (ISSN:09191518)
巻号頁・発行日
no.14, pp.41-51, 1996-03

出産のあと、湯殿始めの儀が執り行なわれる。産湯の儀である。この産湯の水は、単なる産児を洗う湯という以上に強い宗教性が与えられている。例えば、後白河院の誕生を記す『九民記』には「次主税属佐伯貞仲率仕丁、令汲吉方水」とあるように、産湯水には、誕生した産児の吉方を勘案して陰陽師が方角(吉方)を定め、その方角にある河川などから「吉方水」を汲みとり、宮室・家宅に持ち蹄るのである。

1 0 0 0 IR 産育呪儀三題

著者
水野 正好
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報 (ISSN:09191518)
巻号頁・発行日
no.13, pp.71-80, 1995-03

最近では、奈良時代、平安時代の胞衣壷の発掘例が激増し、この時代、胞衣壷を丁寧に地に埋ある慣行が、各地に広く拡がっている状況が読みとれるようになった。また、一方、中世末から近世、都市として股賑を極めた堺や伊丹でも、同様の慣行の存続を物語る胞衣壷の発掘例が相ついでおり、長期の脈々たる慣行の伝承が予測されるようになった。こうした考古学の成果を検討すると、平安時代後期以降、中世前半の胞衣壷の発見例が極めて乏しいことに気づくのである。奈良朝の胞衣壷を地中に埋める慣行は『崔行功』小児方に「凡胞衣、宜蔵干天徳月徳吉方、深埋繋築、令見長寿」等と記す中国での埋納法をうけての慣行とみてよいであろう。中国の産経、産書を承けての慣行受容なのである。
著者
植野 浩三
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報 (ISSN:09191518)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.13-32, 2004-03

五世紀代の古墳時代文化の発展は、五世紀前半代に新たにもたらされた渡来文化の影響がきわめて重要な役割を果たしたことは、すでに説かれているところである。それは、各種技術に留まらず、墓制や諸制度、生活様式の一部においても認められ、渡来人の直接的な関与や影響、そして間接的な影響によって展開したもの等、多方面にわたる。このうち手工業生産においては、須恵器生産と鉄生産を中心とする金属器生産が考古学の分野では明らかになってきており、後で触れるように土木技術や、その他の生業・技術の面においてもその存在が確認されつつある。須恵器生産の開始が渡来人と密接な関係にあったことは、すでに文献史料の側からも推測されている。その代表的なものは、『雄略紀』七年条にある「今来才伎」渡来記事であり、「新漢陶部高貴」の記載から須恵器生産に陶部高貴が関わったことが予測され、古くはこの頃に生産が開始したであろうという年代論も指摘されてきた。また、年代的な信懸性をもつが、『垂仁紀』三年条の天日槍渡来伝説の中にある「近江国鏡村谷陶人、即天日槍之従人也」の記事は、須恵器生産に渡来人が関わりをもったことを伝えた内容として高く評価されてきた。こうした経緯からも、須恵器生産が渡来人によってもたらされたことは暗黙の了解事項として認識されてきた。須恵器生産の技術は日本で定着して以降、各地で展開していき、六世紀代以降は全国的展開している。初期においては、渡来時の窯跡や須恵器が次第にあるいは急激に変化して日本化が進み、定型化を迎えて行く方向性が示されている。しかしこうした須恵器の変遷が示される一方で、実際に生産に携わった渡来人の様相やその推移については、さほど明らかにされていないのが現状である。須恵器生産自身は渡来人の主導の元に成立して継続するが、それに従事した渡来人の集落の様相や渡来的要素の整理・比較といった総合的な把握は途に着いた状況である。そして、渡来的要素の動向と生産組織の相関関係についても未解明の部分が多いといえる。したがって本稿は、近年の調査資料を参考にしつつ、窯跡と須恵器、そして集落遺跡について渡来的要素のあり方を再整理してその推移を探り、生産に携わった渡来人の動向やその要因について検討する。加えて、渡来人の動向と生産の展開、生産組織の変化について関連させて考察していきたい。尚、本稿では、大阪・陶邑窯と周辺の地域について中心的に取り扱い、他地域については適時触れることとし、渡来人の動向が詳細につかめる5世紀代を主にとりあげていくことにする。
著者
塩出 貴美子
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報 (ISSN:09191518)
巻号頁・発行日
vol.27, pp.21-44, 2009-03

本稿で紹介する富美文庫蔵「ふしみときは」は、上下二冊からなる絵入りの写本である(以下、富美文庫本と称する)。内容は、平治の乱の後、源義朝の愛妾常盤御前が今若、乙若、牛若の三兄弟を連れて都落ちする途次、伏見の老夫婦のもとに逗留するというもので、これは舞の本のうちの一つである。舞の本というのは、室町時代後期から江戸時代初期にかけて流行した幸若舞の語り台本を読み物用に転用したもののことである。慶長年間には古活字版が、また寛永年間には製版本が刊行されており、その後も版行が繰り返されていることから、かなり広く普及したものと思われる。また、舞の本は絵巻や「奈良絵本」と通称される絵入本の題材にもなっており、多数の作例が伝存する。「ふしみときは」についても既に十数件の存在が確認されているが、富美文庫本はその新たな一例となるものである。本稿では、この富美文庫本の概要を紹介し、本文を翻刻するとともに、その特質について若干の考察を加えることにしたい。なお、富美文庫が所蔵する絵入本及び絵巻については、別に報告書を作成するので、そちらも併せて参照されたい。
著者
奥野 義雄
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報 (ISSN:09191518)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.43-58, 1994-03

中世公家・武家の孟蘭盆習俗は、端的に祖先祭祀を表現するものである。すでに、公家・武家の孟蘭盆習俗にみる燈籠進供について触れたが、そこでは、中世孟蘭盆の習俗とは、古代の孟蘭盆習俗とは違って新しい習俗が付加されたものであることを大雑把に提示したのみであり、もう少し詳しく中世公家・武家の社会における孟蘭盆習俗を検討し、どの時期にどのような習俗が付け加えられてきたかを究明することによって、中世以降の孟蘭盆習俗とどのようにかかわっていくのかを考えていく手掛りを捉えることができるのではないかと想定し得るからである。また、中世の孟蘭盆習俗を軸に古代の孟蘭盆習俗と対比することによって、中世の孟蘭盆習俗の存在形態が明確にし得るのではないかと考えたからにほかならない。この視点で中世公家・武家の孟蘭盆習俗について、小稿で検討することにしたい。
著者
西山 要一
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報 (ISSN:09191518)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.13-35, 2006-03

レバノン共和国の首都・ベイルートの南約80kmにあるティール(現スール市)は、東地中海に面した景勝の地でありまた温暖な気候に恵まれて、紀元前5000年ころにはすでに優れた古代文明があったといわれている。ここに世界文化遺産「フェニキアの中心都市として栄えた港町ティール」がある。フェニキア時代の遺構はまだ未解明であるものの、シティー・サイトとアル・バス・サイトの2か所の世界遺産地区には、ローマ時代の港湾・列柱道路・公共浴場・金属とガラスの工房・劇場・水道橋・ヒッポドロムス(戦車競技場)・ネクロポリス(墓地)などの遺構が発掘され、保存修復され、多くの研究者・観光旅行者を迎えている。ティールの世界遺産地区の東約3㎞ の丘陵にはローマ時代からビザンチン時代にかけての地下墓・竪穴墓・地上掘込墓が営まれていて、その数は数千にも達するといわれている。この一角のラマリ地区では2002年度より、泉拓良奈良大学教授(現京都大学大学院教授)を代表者とする奈良大学考古学調査隊が文部科学省科学研究費(2002~2004年)の助成を得て発掘調査を行ない、ローマ時代の地下墓と地上掘込墓およそ30基を発掘調査し、テラコッタの神像・アンホラ(ワイン壷)・ランプ・ガラス瓶・青銅コイン・鉛製分銅などを発見している。本保存修復研究が対象とするローマ時代の地下墓TJO4はラマリ地区にあり、石灰岩丘陵裾の岩盤に長さ約5mの下り階段を設けて、およそ7m四方、高さ3mの空洞を掘削し、その空間におよそ3m四方、高さ3mの墓室を切石で構築している。墓室の壁には長さおよそ2mの19の納体室(棺棚)と床に2つの納体室、合わせて21の納体施設を設けている。既に開口していて墓室内部はかなりの損傷を受けていたが、2002年、西山らは側壁には赤色の波形、緑色のオリーブの枝束、灰色の石柱と灯火台など、天井には赤・緑・灰色などで鮮やかに彩色された花形などの壁画のあることを発見し、さらに2003年(財団法人文化財保護振興財団の一部助成)の調査によって墓室内部に落下堆積していた土砂中より多数の壁画片と壁や納体室の石材を発見し、これら落下した石材を原位置に戻せば、TJO4墓室の壁画および墓室・納体室のほぼ9割を復原できる可能性のあることを明らかにした。これと並行して、地下墓の岩盤・構造石材の材質分析、壁画顔料の機器分析、壁画の汚れを除去し、壁面を強化するテストとともに温度・湿度・照度・紫外線強度・二酸化炭素濃度・大気汚染などの保存環境調査を実施し、将来のTJO4地下墓の良好な保存環境確保の研究も進めた。以上のような経過を経て、奈良大学・レバノン考古総局の両者ともに調査研究の継続を望んだことと期を一にして、2004年には学校法人奈良大学創設80周年を迎えることになり、市川良哉理事長の提案によって、本研究を奈良大学創設80周年記念事業として実施することになった。
著者
東野 治之
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報 (ISSN:09191518)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.23-41, 2001-03
被引用文献数
1

本稿は、一九九九年七月二十五日に開かれた市民の古代研究会全国集会における記念講演を文章化したものである。講演内容は、同会の河野宏文氏によってテープ起こしされ、同年十月一日及び十一月一日刊行の『市民の古代ニュース』(一九六、一九七号) の付録として会員に配布されたが、その性格上、一般に周知されたとはいえなかった。それにもかかわらず、富本銭関係の論文に引用して下さる方もある。そこで右の付録の内容に大幅な筆削を加え、公刊することとした。講演であることを尊重して、文体は「です」「ます」調を踏襲し、史料は読み下しとした。論旨に関わるような改変は加えていない。ただ和同銀銭と「前銀」の関係にふれた箇所は、新たに付加えた。また注も、発言の典拠を示すため新たに付けることとした。なお、飛鳥池遺跡出土の富本銭に関する情報は、その後刊行された『奈良国立文化財研究所年報1999Ⅱ』『同上2000Ⅱ』にまとめられている。
著者
酒井 龍一
出版者
奈良大学文学部文化財学科
雑誌
文化財学報 (ISSN:09191518)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.23-40, 1998-03

わが奈良大学文化財学科にも、メソポタミアの懊形文字(Rev.A.H.Sayce1907『TheArchaeologyoftheCuneiformInscriptionsAresPubulishersInc.,C.B.F.Walker1987『Cuneiform‐ReadingthePast』BritishMuseum、杉勇1968年『懊形文字入門』中央公論社、その他)に関心をもっ学生諸君を散見(2~3人)する。当学科にとっては望外だが、結構なことである。本稿の目的は、その独習の指針となる文献や作業を提示し、諸君の初歩的な学習を促進させることにある。