著者
宮寺 晃夫
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.221-231, 2007

プラトンの『国家』、アリストテレスの『政治学』は、政治学と教育学にまたがる古典とみなされるし、シュライエルマッハーの『教育学講義』には、教育学を政治学と並ぶ倫理学の一部門とする発想がみられる。そうした政治と教育を重ね合わせて論じる構想が、今日どうして萎えてしまったのか。それには、政治の介入を許さない、教育学の側の理由-「オフリミット」論などといわれるだけではなく、政治学の側にも理由があるように思われる。本稿では、政治哲学者ハンナ・アーレント(1906-75)の所論を読みながら、政治学が教育学を遠ざけてきた/いる理由にふれ、両者のリユニオンの難しさの一端を明らかにしたい。
著者
丸山 恭司
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.1-12, 2002

ポストコロニアリズムの問題提起は、学習者をある権力構造へと組み入れようとする志向が教育的意図のうちに潜んでいることを教えてくれる。これを教育のコロニアリズムと呼ぼう。本論の課題は、ポストコロニアリズムの問題提起を整理し、教育のコロニアリズムを乗り越えるために、悲劇性と他者性という二つの特性から教育を読み解くことである。
著者
松浦 良充
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.63-71, 2005

「教育」の捉え直しを徹底するために、「学び」論へ迂回する戦略がある。私たちの学会でも、近年そうした観点からの議論が一つの水脈をつくってきた。今回の松下氏のフォーラム報告はそれをより確実なものにすることに貢献している。松下氏と筆者は、ともにこの流れにおける問題意識を共有している。ただし議論のアプローチや方向においては、かなりの距離を見出せる。この水脈を継承し、いずれは松下氏と共同戦線を組み、今後の議論を豊かにしてゆきたい。そのためまず、筆者の「Learningの思想史」構想への松下氏によるコメントに対して応答した後、松下報告への問題提起を行う。論点は、大きく2つ。第1は、松下氏の議論の立て方に関して。具体的には、まずその二律背反的な枠組みの問題であり、さらに主張の歴史(思想史)的検証性の問題である。第2の論点は、松下氏の「生としての学び」という展望について。具体的には、表象にとらわれずに「学ぶ」ということ、そしてその「学び」を認知するメカニズムについて。さらに、「生としての学び」をどのように学校教育システムのなかに実現するのか、という問題である。
著者
森田 伸子
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
no.16, pp.111-119, 2007-09-16

18世紀イギリスの教訓派作家とは、歴史的にどのように位置づけられるのだろうか。それは、児童文学史、社会運動史、そして教育史が交差するところに位置づけられる特異な存在である。このフォーラムはこうした対象を扱うことの困難とともにその可能性をも指し示している。子ども観の変化、中産階級の勃興と階級意識の発達、女性の自己変革とその社会的位置の変化、そして、社会経済的コードからは一定程度の独立と自律性を有する「教育的なるもの」の萌芽とその展開、これらの多様で多層にわたる動きが重なり合うところに、あの、独特な「児童文学」とは呼びがたい、しかし紛れもなく子どものための文学であるところの教訓的物語が成立するのである。そしてそれは、ほかならぬ18世紀という時代に成立し、19世紀が進むにつれて速やかに消えていくべく運命づけられた存在であった。
著者
小野 文生
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
pp.13-32, 2010-10-20

教育目的論は、「何のために、何に向かって教えるのか」という教育の目的・目標を基礎づけ構想する。それは教育学の発生当初から原理的要素であり続けてきた。それゆえにこそ、教育思想史研究が教育学の歴史的出自としての<近代>を批判的考察の対象と定めたとき、教育学の思考様式の相対化作業のなかで教育目的論のあり方-<教育目的論の近代>-も問いに付された。普遍妥当的基礎づけを疑うポストモダニズムも、その動向に関与していたのだろう。本章は、教育思想史学会の前身である「近代教育思想史研究会」の創設期に展開された「教育目的論論争」(特に創刊号と第2号)を取り上げ、提出された問い、反論、疑義、課題、展望などを整理し、際立たせる。教育目的の基礎づけ、近代教育学、教育思想史研究という三幅対が、ポストモダニズムの思潮の只中でどのような照応を見せたか、その痕跡を辿る。そして、その<残照>にある現在にあってなお、教育思想史研究の継承すべき<批判の未来>を展望する。
著者
北野 秋男
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
no.24, pp.1-9, 2015-09-12

現代アメリカの学力向上政策は、1990年頃を境に「ハイステイクス・テスト」「タフ・テスト」と呼ばれる学力テストの結果に基づく教育アカウンタビリティ政策の具現化を特徴とする。M.フーコーは、「規律・訓練のすべての装置のなかでは試験が高度に儀式化される」(フーコー,1977: 188)として、試験が生徒を規格化し、資格付与し、分類し、処罰を可能とする監視装置となることを指摘したが、今や学力テストは児童・生徒を評価・監視するだけではない。学区・学校・教師をも評価・監視する装置へと変貌している。本論文で指摘する学力テストの「暴力性(violence)」とは、学力テストの実施と結果を利用した「抑圧」「統制」「管理」という「権力性(gewalt)」を意味するものであり、それは連邦政府や州政府によってもたらされた全ての児童・生徒、学区・学校・教員に対する脅威となるものである。
著者
鳥光 美緒子
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
no.14, pp.29-34, 2005

シェリングとベンヤミン、この二人の時間論を対象に、「決断こそが本来的時間を惹起させる」という両者に共有される思想の当否を問うことが、池田論文の課題であるという。だが、なぜシェリングとベンヤミンなのか。決断、本来的時間、これらの用語がなによりもふさわしいのは、シェリングでもベンヤミンでもなく、ハイデガーだろう。それにもかわらず、池田論文は、ハイデガーとシェリングでも、ハイデガーとベンヤミンでもなく、シェリングとベンヤミンの時間論を、比較思想史的な考察の対象として設定する。以下の私のコメント論文では、池田論文の隠れた主役として、ハイデガーを想定する。ベンヤミンをハイデガー的時間論の近傍におき、ベンヤミンを実存哲学的、実践哲学的に問題にするという、池田氏のアプローチがどのようにして成立したのか、またそれはベンヤミンの思想解読として果たして実り豊かなものといえるのかどうかが、以下において問題にされる。
著者
吉見 俊哉
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
no.22, pp.121-133, 2013-09-14

本論文は、シンポジウム当日の報告に基づいて、今日における「大学の危機」をめぐる議論を踏まえつつ、思想史的な観点からポスト国民国家時代の知的空間として「大学」概念そのものを再定義することの必要性を強調し、メディアとしての大学という新たな視角を切り開くことを試みる。