著者
山名 淳
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.115-129, 2012-10-13 (Released:2017-08-10)

本稿の目的は、「アジール」を鍵概念としつつ、19・20世紀転換期における時代の危機診断とともに生起した<学校=共同体>を事例として、近代における共同体の可能性と課題についてシステム理論を前提として検討することを試みる。ここで具体的に注目したいのは、「新教育」における<学校=共同体>、とりわけ「学校のゲマインシャフト化」を標榜した田園教育舎系の学校である。
著者
山名 淳
出版者
一般社団法人日本教育学会
雑誌
教育學研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.78, no.4, pp.336-347, 2011-12-29

本稿では、ドイツの「新教育」に関して20世紀末に生じた論争に注目し、そこで提起された「新教育」を相対化する具体的な方法およびそのバリエーションを概観すると同時に、「新教育」の虚構性をめぐる争点を明らかにする。そのことをとおして、教育学的な〈カノン〉(=教育学において標準とみなされてきた知識やテキスト)を相対化するための方法およびその課題について検討を試みる。
著者
山名 淳
出版者
東京学芸大学
雑誌
萌芽研究
巻号頁・発行日
2004

研究計画の最終年度となる平成18年度は、論文「『もじゃもじゃペーター群』の教育学的分析(前半)-絵本に描かれる「悪い子たち」の境界づけをめぐるライナー・リューレの試みとその妥当性について」(『東京学芸大学紀要第一部門 教育科学』第57集、2006年3月、47-62頁)において特定した教育学的に重要な『もじゃもじゃペーター』の類似本の一覧にもとついて、引き続きドイツの類似本収集家たち(とりわけ、代表的な収集家であるライナー・リューレ氏、ヴァルター・ザウアー氏、ディーター・ザロモン氏)と郵便およびメールのやりとりを通じて未収集であった類似本の情報および複写を入手した。考察対象の候補としてリスト・アップした182冊の作品のうち、収集した類似本は、約81パーセントの155冊(約1,250話)である。それらを対象として、各物語の内容を確認した後に、(1)主人公の性別、(2)具体的な特徴および行為(3)忠告の有無(4)忠告の与え手、(5)行為の帰結、(6)懲罰の種類、(7)懲罰の与え手、(8)推奨されるモラル、(9)危険の区別(危険としての子ども/危険としての環境)、について分析を加え、それにもとついて物語の歴史的な変遷について検討を行った。その結果、時代の変遷とともに、戒めの多様化、危険な時間帯および空間の変遷、物語における親の役割の普遍性、偏見への配慮の増大、などの傾向が見られることを確認した。これらの結果を「文明化」理論に依拠しつつ解釈した。本研究の成果については単著の形で公刊する予定であり、現在、その準備を進めている。
著者
山名 淳
出版者
教育哲学会
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
vol.2007, no.96, pp.191-198, 2007-11-10 (Released:2009-09-04)

誰もが-少なくともその名前と哲学史における輝かしい地位については-よく知るイマヌエル・カント。著者である鈴木晶子氏は、近著『イマヌエル・カントの葬列』を、このあまりにも有名な哲学者の、とはいえほとんど語られることのない最期の瞬間を描写することから説き起こしている。ある思想まつこ家の末期から葬儀までの状況描写をもって導入を試みる教育学の書物を、評者は管見にして他に知らない。多くの読者は、まず本書を開いた時点で、このことに意表を突かれ、また衝撃的で謎めいた出だしに惹きつけられるであろう。その一方で、この導入部は、読み返してみると、本書の主調を予示しているという点においては、むしろ必然的でさえあるという印象をも抱かせる。本書は、一九九四年から雑誌『現代思想』において著者が公にしてきた複数の論文を基盤としつつ、それを死生の観点から編み直したものである。この死生をめぐる著者の関心が、すでに本書の入り口辺りで漂っている。死生という観点からの編み直しが、教育学研究としての著者の大きな賭けであるように思われるのだが、その点については後述する。本書は、第I部「カントを失う」 (第一、二、三章) 、第11部「教育の世紀」 (第四、五章) 、第III部「喪の技法」 (第六、七、八章) の三部で構成されており、さらに、第II部と第III部の間に「間奏曲」として「発達の行方」という論考が収められている。本書の樹幹をなしているのは、「カントが呈示した問題系が教育的思考様式や教育学という学問形式にどのように受け継がれ、あるいは忘却されたか」 (「はじめに」vii頁) という問いである。すべては、直接的または間接的に、カントをめぐる問題とかかわっている。とはいえ、本書は多層的に読み込むことができるようにできており、とりあげられている主題や話題は多岐にわたる。本書の構成にしたがって各章の内容を順番に一通りなぞることによって本書を見渡すことは、評者には到底できそうもない。ここでは、著者による上述の問いにしたがって、とはいえ評者の関心にもとづきつつ、まず<カントの継承>という視点から、最も重要であると思われるいくつかの章の概要を示してみたい。その後、<カントの継承>についての論述に折り重ねられている<カントの忘却>についての論述がどのようなものであるかを確認し、最後に、そのようなカント問題との格闘の末に浮上する死生の教育思想に注目して、本書の核心部分を読み直してみようと思う。
著者
山名 淳
出版者
教育哲学会
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
vol.1994, no.69, pp.44-56, 1994-05-10 (Released:2009-09-04)
参考文献数
30

This paper focuses on the German Sociologist N. Luhmann and offers one possibility of the theoretical problem structure in relation to the purpose of education. Luhmann, already in his early research, while not seeking a quality of objective 'truth' in causality explanations, but rather supposing that they do not possess such a quality, presents a theoretical stance which permits questioning the hypothetical, doubtful connection and the function of the purpose attached to it. The purpose of this paper is to apply this to pedagogial discussion by making use of the concept of the 'causality plan'.Here, it will be confirmed that the transformation of the other, in spite of following a non-causal process, in the educational activity, must apply a subjective causal hypothesis (causal plan), and in addition, that the purpose by which this is chosen as a prerequisite, works by applying the strategy of a 'reducation of complexity'. Furthermore, it is confirmed that this way of thinking is characterized by a 'decentralization of purpose argumentation', quite alien to the tradition of German pedagogy.
著者
山名 淳
出版者
教育哲学会
雑誌
教育哲学研究 (ISSN:03873153)
巻号頁・発行日
vol.1989, no.59, pp.88-101, 1989-05-10 (Released:2009-09-04)
参考文献数
52

In this paper the problems around 'Mündigkeit' which forms the central idea underlying Kant's question, “what is enlightenment?” are examined. As a result it becomes clear that in his famous statements dealing with the definition of enlightenment, while he had the strong desire to deal consciously with enlightenment, yet on the other hand he felt some anxiety caused by the difficulty involved in such an attempt. It seems that this anxiety was connected with the tension between ' Mündigkeit' on one side and the guarding act on the other side (guarding on one hand was aimed at ' Mündigkeit', on the other hand, however guarding may include the possibility of suppressing 'Mündigkeit').Furthermore, this uneasiness of Kant is also part of his educational theory which belongs to what is generally admitted to have been the eighteenth century optimistic view on education. The author argues that Kant suggests that the person engaged in education as well as the person talking about education may possibly suppress the 'Mündigkeit' of other persons and that this anxiety became a major factor causing a certain inconsistency in his statements on education.
著者
山名 淳 宮本 健市郎 山﨑 洋子 渡邊 隆信
出版者
京都大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2011

本研究は、新教育運動期において、児童・生徒の「本性」に基づいて彼らの自己活動の余地を保持するために、学校における「アジール」的な時空間(教師の明確な計画性を逃れる曖昧な時空間)の重要性が認識され始めたことに注目し、新教育的な学校における「アジール」との関わりにおける教師の技法を、新教育運動の影響が最も鮮明にみられたイギリス、ドイツ、アメリカ合衆国を考察対象として比較史的に究明することを心試みた。日本との比較考察という視点も導入し、今後の継続的な研究の展望を示した。本研究の成果は、報告書『新教育運動期における学校の「アジール」をめぐる教師の技法に関する比較史的研究』にまとめて公にした。
著者
對馬 達雄 今井 康雄 遠藤 孝夫 小玉 亮子 池田 全之 山名 淳
出版者
秋田大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2009

本研究は、戦後ドイツを通底する課題である「過去の克服」という課題に、これまで等閑視されてきた精神史、文化史、広く人間形成の側面からその本質に迫ることを目的としている。本年度は、7名の分担者が交付申請書記載のそれぞれの研究テーマに則して、文献・資料の分析を進め、2回の全体研究会を通じて、共同研究としての統一性を保ちつつ研究を進めた。より具体的には、まず遠藤は、州憲法及び基本法の制定を通して、ナチズム克服の理念としてキリスト教の復権が行われたこと、小玉はナチズムにより解体の危機に瀕していた家族の再建に関する議論と施策が行われたこと、渡邊はナチ教義の注入手段と化していた歴史教育の再建において、ヴェーニガーの「政治的歴史教育」の理念が重要な役割を果たしたことを明らかにした。また、池田は20世紀ドイツを代表する哲学者ハイデガー、リット、ヤスパースの「過去」に対する思想的対応の相違を腑分けし、今井は「政治的成人性」の理念を中核とするアドルノの教育思想の特質を「過去の克服」との関連で明らかにし、對馬は反ナチ運動の復権を司法界において最初に宣明した「レーマー裁判」の意義を検事ブリッツ・バウアーの思想と行動に関連づけて明確にした。そして、山名は「追悼施設教育学」の成立経緯とその今日的意味を「記憶文化」と関連づけて明らかにした。これらの研究成果は、平成23年3月に上梓された對馬達雄編著『ドイツ過去の克服と人間形成』の各論文として収録された。