著者
冨澤 かな
出版者
人間文化研究機構地域研究推進事業「現代インド地域研究」
雑誌
現代インド研究 (ISSN:21859833)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.49-76, 2013-02

本稿は「インドのスピリチュアリティ」なる像の形成を問うものである。それは「オリエンタリズム」の典型とも見えるが、インドの側からも西洋への対抗上有効な語彙として用いられてきた。ヴィヴェーカーナンダの普遍宗教論にもこの語彙は大きな役割を果たしている。いわゆる「肯定的オリエンタリズム」の一種と思われるが、しかしその用例を見ていくと、必ずしもいわゆるオリエンタリズムの構図におさまらないことがわかる。オリエンタリズムの核は、差別や蔑視よりむしろ、西洋が東洋について語りその本質を規定するという不均衡な構図こそにある。しかし、19 世紀の「スピリチュアリティ」の用例には、西洋の規定に対する東洋の反応という構図におさまらないものが見て取れる。この語彙の現代的用法は東西が入り交じる関係の中から編み出され、そしてそこにはむしろ、オリエンタリズム的二元論を崩し止揚するような意義が求められていたと考えられるのである。This paper will examine the construction of the image of "the spirituality of India." This is quite a popular image and is seen as a typical example of Orientalism. It has certainly functioned as a counter image towards the hegemony of the rational and materialistic West. For example, Swami Vivekananda used this term in explaining his idea of universal religion and it seems a good example of so-called "Affirmative Orientalism." Examining the usages of this term in detail, however, we can see that it does not always fit the common scheme of Orientalism. The core of Orientalism is not the negative evaluation of the East, but the uneven scheme by which the West defines the East. Even Affirmative Orientalism can be seen as an inverted response to the active call from the West. However, in the use of the term "spirituality" around the 19th century, we cannot find a simple "call and response" between the West and the East. It seems that the modern use of this term was elaborated not by the initiative of the West, but by an intermingling between the West and the East, and that a significant function of that usage was to deconstruct the Orientalistic dichotomy itself.
著者
三田 昌彦
出版者
人間文化研究機構地域研究推進事業「現代インド地域研究」
雑誌
現代インド研究 (ISSN:21859833)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.27-48, 2013-02

本稿は10−14世紀の南アジアの政治史的展開を、ユーラシア・レベルの乾燥・半乾燥地帯の活性化とその定着農耕地帯との連結という、当時の地政学的構造の文脈の中で把握し、その動きがインド洋海域世界の発展と密接に連関して、当時のアフロ=ユーラシア・レベルの交易と結びついていた、そのメカニズムを捉えようとするものである。生態環境の変動(温暖化と降雨量の安定化)による乾燥・半乾燥地帯の活性化は南アジアの地政学的構造を変化させ、その結果、それまでの定着農耕地帯中心の国家は、乾燥・半乾燥地帯と定着農耕地帯とのインターフェースとして機能する国家へと転換した。このような状況が、当時ユーラシア全域で活発化していた遊牧勢力による南アジアへの進出と帝国建設の必要条件となった。同時にそうした国家の出現は、中央ユーラシアとインド洋世界とをスムーズに連結することを可能とし、当時のアフロ=ユーラシア規模の交易ネットワークの形成にも寄与していた。
著者
三田 昌彦
出版者
人間文化研究機構地域研究推進事業「現代インド地域研究」
雑誌
現代インド研究 (ISSN:21859833)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.27-48, 2013-02

本稿は10−14世紀の南アジアの政治史的展開を、ユーラシア・レベルの乾燥・半乾燥地帯の活性化とその定着農耕地帯との連結という、当時の地政学的構造の文脈の中で把握し、その動きがインド洋海域世界の発展と密接に連関して、当時のアフロ=ユーラシア・レベルの交易と結びついていた、そのメカニズムを捉えようとするものである。生態環境の変動(温暖化と降雨量の安定化)による乾燥・半乾燥地帯の活性化は南アジアの地政学的構造を変化させ、その結果、それまでの定着農耕地帯中心の国家は、乾燥・半乾燥地帯と定着農耕地帯とのインターフェースとして機能する国家へと転換した。このような状況が、当時ユーラシア全域で活発化していた遊牧勢力による南アジアへの進出と帝国建設の必要条件となった。同時にそうした国家の出現は、中央ユーラシアとインド洋世界とをスムーズに連結することを可能とし、当時のアフロ=ユーラシア規模の交易ネットワークの形成にも寄与していた。This paper discusses the historical process of South Asian state formation and the expansion of the maritime network in the Indian Ocean during the 10th to 14th centuries, demonstrating the relevance to the existing Eurasian geopolitical structure: activation of arid and semi-arid zones and linkage between those zones and sedentary agricultural zones. The ecological changes known as the Medieval Climate Anomaly, namely warming and the activation of monsoons, promoted agricultural expansion and stimulated commercial activities in arid and semi-arid zones in South Asia. The economic activation of these zones motivated the people of the zones to construct regional states of Hindu kingdoms functioning as interfaces between the arid and semi-arid zones of newly developing areas and the sedentary agricultural zones of ancient advanced areas. Such economic and political situations stimulated nomad powers in Central Asia, who then invaded many parts of the vast agricultural zones in Eurasia, to enter and establish extensive empires in South Asia which also functioned as interfaces between the two zones. The interface functions of those states enabled smooth and direct overland connections between Central Asia and the port cities of South India through the arid and semi-arid corridors passing through the Deccan, MP, Rajasthan, and Punjab regions, and made a great contribution to the establishment of extensive overland and maritime Afro-Eurasian trade networks in the period of the Mongol Empire.
著者
香月 法子
出版者
人間文化研究機構地域研究推進事業「現代インド地域研究」
雑誌
現代インド研究 (ISSN:21859833)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.195-220, 2011-03

現在、古来より代々ゾロアスター教を信奉してきたインドのゾロアスター教徒、つまりパールシーが少子高齢化や女性の外婚増加等による、人口減少に悩まされている一方で、改宗によって、様々な背景を持ったゾロアスター教徒が世界中に200 万いるともいわれている。しかしパールシーにとって、このような教徒数の増加は、決して手放しで喜べる話ではない。それどころか改宗者やパールシー外婚女性に対する態度を巡って、「保守派」と「改革派」に分かれ、パールシー・コミュニティを二分する論争に発展している。これは18 世紀における度重なるコミュニティの分裂によって宗教的権威が衰退してしまったことで、彼らのゾロアスター教はヨーロッパの研究成果の影響を大きく受け、彼ら独自のゾロアスター教の確立が中断されたため、彼らのアイデンティティ形成に混乱が生じ、それが今になって「保守派」対「改革派」という対立構造となって表れているのである。
著者
梶原 三恵子
出版者
人間文化研究機構地域研究推進事業「現代インド地域研究」
雑誌
現代インド研究 (ISSN:21859833)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.101-130, 2012-01

本稿は2005年から2009年にかけて起きたアメリカ合衆国カリフォルニア州公立学校教科書の古代インド史記述をめぐる論争と訴訟を検証しその社会的背景を考察する。この事案ではヒンドゥー団体が提出したヒンドゥー至上主義的歴史観にもとづく教科書修正案に研究者たちが学術的観点から異議を唱えて論争となり、最終的に研究者側の見解に沿った教科書が承認された。これを不服として、ヒンドゥー団体側が二件の裁判に訴えた。法廷は研究者の見解に沿った教科書の内容を是認したが、教科書承認プロセスには教育委員会側に不備があったと認定した。特に論点となったのは、古代インドの女性の地位、カースト制度、多神教思想、アーリア人侵入説であった。この教科書問題は、ヒンドゥイズムについてネガティヴなイメージを押し付けられているという一部のインド系市民のアメリカ社会主流派に対する反発が、ヒンドゥー・ナショナリスト関連団体による組織的運動と連動して顕在化したものであり、古代インド史を論争の主題としているが、現代アメリカにおけるインド系市民の社会的・文化的背景から起きた問題であった。
著者
田中 雅一
出版者
人間文化研究機構地域研究推進事業「現代インド地域研究」
雑誌
現代インド研究 (ISSN:21859833)
巻号頁・発行日
no.2, pp.59-77, 2012-01

名誉殺人とは、女性の不道徳な行為がその家族や帰属集団(家族、親族、村落、カースト、宗教集団など)にもたらす不名誉を取り除き、名誉回復の手段として行われる暴力(殺傷事件)である。不道徳な行為とは婚前の性関係、親が認めない婚姻関係(ただし、認めない理由はさまざまである)、そして妻の不貞などである。名誉殺人はその言葉から殺人を指すが、殺人未遂や拉致など、殺人以外の暴力も含めることができる。名誉殺人は、両親の権威によって象徴される伝統的な共同体、すなわち「名誉の共同体」の秩序を揺るがす若者にたいする処罰である。本稿の目的は、北インドにおける名誉殺人の実態と背景について考察することである。またサティー(寡婦殉死)との比較を通じて注目したいのは、名誉殺人をめぐる言説における、「野蛮」や「犠牲」という概念である。さらに「名誉の共同体」にたいする「哀しみの共同体」を対比させることで、あらたな分析枠組みを提示したい。
著者
岡 通太郎
出版者
人間文化研究機構地域研究推進事業「現代インド地域研究」
雑誌
現代インド研究 (ISSN:21859833)
巻号頁・発行日
no.1, pp.41-64, 2011-03

本稿は、都市経済の成長が農村貧困層に与える影響について、第一に、農業労賃率を抑制するといわれるカースト制度や農村土着制度の存在を、グジャラート州内59 カ村の一次データから計量的に明らかにすること、第二にそうした農村土着制度が、都市経済の成長によって変容する過程を実態調査から明らかにすることを課題としている。結果、従属変数である各村の農業労賃率が農村土着制度の存在によって低められていること、また多くの村では、非農業就業機会の増加があっても、農村内のカーストを軸とするパトロン・クライアント関係や土着制度が強く残存していること、ただし村の貧困層の6 割以上が非農業部門へ就業するという大規模な労働力シフトが生じ、貧困層の心理的な要素をも含めたパトロンへの依存関係が消滅すれば、農村土着制度も変容・消滅することが明らかとなった。
著者
拓 徹
出版者
人間文化研究機構地域研究推進事業「現代インド地域研究」
雑誌
現代インド研究 (ISSN:21859833)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.159-176, 2011-03

カシミール問題/紛争の分析にしばしば用いられる用語「カシミーリーヤット」が歴史的に初めて登場したのは1970 年代半ばのことである。一般化した現在のカシミーリーヤット概念は主にカシミール人のエスニック・アイデンティティー、もしくはカシミール独特のセキュラーな諸宗教混在文化を指すが、創成期におけるこの用語の意味・用法はこれとはやや異なるものだった。本稿では、これまで顧みられることのほとんどなかったこの用語誕生のいきさつとこれをとり巻くカシミールの政治・文化状況に光を当て、この用語が1970 年代半ばに登場した必然性は何だったのか、そしてこの用語の創成期の意味・用法がその後別のものにとって代わられたことの意味は何なのかについて考察を試みる。The term 'Kashmiriyat' is of relatively recent origin (mid-1970s) and its meaning has undergone several changes since then. Yet during the early 1990s, while the secessionist militancy in Kashmir was at its peak, a set of meanings (secular syncretism as the essence of Kashmiri tradition; ethnic sub-nationalism of Kashmiri Muslims) was given and fixed to the term in the Indian/international public discourse on Kashmir, and this created the dominant usage of the term still prevalent today. This paper traces the little-studied history of the term 'Kashmiriyat' from its birth in the mid-1970s, and contemplates the historical significance of the term's creation.
著者
井坂 理穂
出版者
人間文化研究機構地域研究推進事業「現代インド地域研究」
雑誌
現代インド研究 (ISSN:21859833)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.171-189, 2013-02

本稿は「スィクとは誰か」をめぐる議論の変遷を、植民地期から独立後にかけての政治・社会的背景とあわせて概観したものである。現在、スィクのシンボルとして広く認識されている諸要素や、スィク・コミュニティの間で大きな影響力をもつ規範・教義は、植民地期以前のスィクの歴史のなかで形成されたものを引き継ぐと同時に、植民地期に展開した「スィク」を明確に規定しようとする動きによって再構築された側面をもつ。本稿では、相対的に多くの蓄積をもつスィク・アイデンティティについての先行研究をまとめながら、19 世紀半ば以降の宗教・社会改革運動や政治運動のなかで、スィクの統一化や他コミュニティからの差異化を求める動きが台頭した過程や、こうした動きがスィクを特定の言語・地域と結びつける言説を促した過程を概観した。そのうえで、他地域の事例も念頭におきながら、近現代インドにおけるコミュニティの再構築過程に関する研究の分野で、今後どのような方向性がありうるのかを検討している。
著者
田中 雅一
出版者
人間文化研究機構地域研究推進事業「現代インド地域研究」
雑誌
現代インド研究 (ISSN:21859833)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.59-77, 2012-01

名誉殺人とは、女性の不道徳な行為がその家族や帰属集団(家族、親族、村落、カースト、宗教集団など)にもたらす不名誉を取り除き、名誉回復の手段として行われる暴力(殺傷事件)である。不道徳な行為とは婚前の性関係、親が認めない婚姻関係(ただし、認めない理由はさまざまである)、そして妻の不貞などである。名誉殺人はその言葉から殺人を指すが、殺人未遂や拉致など、殺人以外の暴力も含めることができる。名誉殺人は、両親の権威によって象徴される伝統的な共同体、すなわち「名誉の共同体」の秩序を揺るがす若者にたいする処罰である。本稿の目的は、北インドにおける名誉殺人の実態と背景について考察することである。またサティー(寡婦殉死)との比較を通じて注目したいのは、名誉殺人をめぐる言説における、「野蛮」や「犠牲」という概念である。さらに「名誉の共同体」にたいする「哀しみの共同体」を対比させることで、あらたな分析枠組みを提示したい。
著者
田中 鉄也
出版者
人間文化研究機構地域研究推進事業「現代インド地域研究」
雑誌
現代インド研究 = Contemporary India (ISSN:21859833)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.197-209, 2015-02-27

This paper analyzes how a Hindu temple named Rani Sati temple can feasibly be managed after state regulation by the Commission of Sati (Prevention) Act, 1988. Rani Sati temple, situated in northern Rajasthan, commemorates a legendary widow from the Jalan lineage of the Agrawal caste, who is alleged to have followed a custom of widow immolation, namely Sati, in 1295, and became one of the most famous Satimatas (deified immolated widows) in India. Since the Commission of Sati (Prevention) Act was implemented in 1988 to prohibit worship of the immolated widows, the temple has begun lawsuits to protect the basic rights of religious freedom against public interference from the Rajasthan State Government. The precedents of court battles show that the legal legitimacy of the Act is ambiguous. While the Indian state must prohibit Satimata worship, it must protect the rights of religious freedom. Analyzing a series of court battles by the temple, this paper discloses the process forming a legal discourse that gradually curtails the space for worship and the permissive religious activities of the worshippers within the temple premises.ラージャスターン州ジュンジュヌー市に存するラーニー・サティー寺院は, 中世期に寡婦殉死を経て神格化したサティーマーター (サティーの女神) を祀ったヒンドゥー女神寺院である。しかし1988年サティー犯罪 (防止) 法が施行され, 寡婦殉死とともにサティーマーター信仰も法的に禁止された。それ以来この寺院運営の違法性は問われ, 現在に至るまで多くの裁判が行われている。本稿では1980年代後半からの法廷闘争に注目し, 現代インド社会における宗教実践の場として寺院がどこまでが私的空間で, どこまでが公的空間であると線引きされうるのか, そしてどの程度において信仰の自由が維持されうるのか詳らかにしている。同寺院をめぐる一連の裁判では, 寺院を規制しようとする行政側と運営を実行としようとする寺院運営トラストとの間で信教の自由権が常に論議の中心に置かれてきた。この司法的解釈の変遷から「信仰の自由」の諸相を読み取ることができるのである。
著者
小松 久恵
出版者
人間文化研究機構地域研究推進事業「現代インド地域研究」
雑誌
現代インド研究 (ISSN:21859833)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.131-151, 2013-02

著名なマールワーリー商人の自伝や日記において、彼らはガーンディーを信奉し独立運動を熱心に支持する質実剛健な姿で描かれている。しかし1920 年代後半に刊行された人気ヒンディー雑誌の特集には、マールワーリーは享楽豪奢で後進的な姿で表象される。自己表象とは180度異なるこのイメージは、都市部に移住したマールワーリーの「他者性」だけでなく、表象する側、つまり当時の北インドエリートが直面していた自身のアイデンティティーの揺れもまた表している。近代ナショナリストとしての自己イメージを確立するため、彼らはマールワーリーに「ミラーイメージ」としての役割を課した。In autobiographies and diaries by prominent Marwari traders, such as Jamnalal Bajaj and G.D. Birla, they represented themselves as very simple and diligent men who had been eagerly supporting the independence movement under the influence of M.K. Gandhi. However, in the special issue of Chand magazine published in November 1929, which featured the Marwaris, they were represented as 'others' and depicted with a totally opposite image, namely fast-living, greedy, stingy, mean, conservative, backward and so on. It shows us not only the Marwari image of 'otherness' defined by the so-called elites in Northern India but also illustrates the antilogy of the elites who themselves were floundering between modernity exemplified by the material realm and tradition embodied in the spiritual realm.
著者
冨澤 かな
出版者
人間文化研究機構地域研究推進事業「現代インド地域研究」
雑誌
現代インド研究 (ISSN:21859833)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.49-76, 2013-02

本稿は「インドのスピリチュアリティ」なる像の形成を問うものである。それは「オリエンタリズム」の典型とも見えるが、インドの側からも西洋への対抗上有効な語彙として用いられてきた。ヴィヴェーカーナンダの普遍宗教論にもこの語彙は大きな役割を果たしている。いわゆる「肯定的オリエンタリズム」の一種と思われるが、しかしその用例を見ていくと、必ずしもいわゆるオリエンタリズムの構図におさまらないことがわかる。オリエンタリズムの核は、差別や蔑視よりむしろ、西洋が東洋について語りその本質を規定するという不均衡な構図こそにある。しかし、19 世紀の「スピリチュアリティ」の用例には、西洋の規定に対する東洋の反応という構図におさまらないものが見て取れる。この語彙の現代的用法は東西が入り交じる関係の中から編み出され、そしてそこにはむしろ、オリエンタリズム的二元論を崩し止揚するような意義が求められていたと考えられるのである。