著者
池田 寛二
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究 (ISSN:24340618)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.21-37, 1995-09-01 (Released:2019-03-27)

今日、環境問題を研究するうえでもっとも重要な課題のひとつは、地球環境問題を地域環境問題と相互に関連づけて解明できる枠組みを構築することである。そのためにはまず、世界の諸地域において人々はどのように環境に働きかけているのか、という基本問題に立ちかえる必要がある。この問題にアプローチするために有効な枠組みとなるのが所有の概念である。所有とは環境をめぐる社会関係を意味している。従来の環境問題のとらえ方は、「コモンズの悲劇」論のように、所有を社会関係として理解する視点を欠いていたため、私的所有対共同所有という二項対立を絶対視し、環境と人間社会とを結びつけている所有の多様性と複合性を捨象する傾向があった。本稿は、所有の地域的・歴史的多様性を幅広く把握し得る類型論を試み、それが地球環境問題と地域環境問題とを関連づけて理解するために有効であることを例証することによって、環境問題研究における所有論の欠落を補おうとするものである。類型論では、環境問題を所有の視点から理解するには、自然人所有と法人所有の対立を軸にして得られる共同占有・共同所有・私的占有・私的所有・専有・個体的所有・私的法人所有・公的法人所有・管理の9つの所有類型が有効な分析枠組みになることを明らかする。そして、現代の地球環境問題は「グローバル・コモンズの悲劇」ではなく、世界の諸地域において、国家や企業を主体とする法人所有がグローバルな市場システムと結びついて自然人の多様な所有の可能性を排除することによって連動的にひき起こされている社会問題にほかならないことを、主にインドネシアの森林問題を取り上げて例証する。
著者
田窪 祐子
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究 (ISSN:24340618)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.91-108, 1996-09-20 (Released:2019-03-26)

原発政策をめぐっては、巨大な影響を持つだけに様々な形の決定方法が模索されている。本稿ではカリフォルニア州で1976年に成立した「ウォーレン・アルキスト法修正条項」(通称“原子力安全法”)を取り上げ、日本の原発政策とは異なる意志決定過程を分析する。この条項は原発の新規建設を事実上不可能にすることでアメリカの原発政策におけるマイルストーンとなったものである。条項の成立の背景には「イニシアティブ」制度を利用した市民の側の法案提出の運動があった。州法政策決定に関わる複数のアリーナ(主張が公になされる場)に焦点を当てて原発がイッシューとして登場する時点から立法的措置がなされるまでを分析し、アリーナ間の相互作用と日本にはない「イニシアティブ」という公共アリーナの果たす機能について考察する。
著者
足立 重和
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究 (ISSN:24340618)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.6-19, 2017-12-20 (Released:2020-11-17)
参考文献数
26
被引用文献数
1

現代において「環境」という視点はあまりにも自明なことであり,言説レベルでは多くが語られている。だがその一方で,自然利用のアンダーユースによる獣害問題,高度な科学技術による人工化した食の問題など,現在の人と自然の距離は,かつてに比べて疎遠になっていたり,いびつであったりするのではないだろうか。そこで問われるべきは,「人と自然のインタラクション」である。そこで本稿は,このテーマに即してこれまでの環境社会学を概観した後,近年の文化人類学における人と動物のインタラクション研究や郡上八幡でのフィールドデータをたぐり寄せながら,今後の環境社会学が探求すべき人と自然のインタラクションとはどのようなものか,その一端を示してみた。より直接的かつ対面的なインタラクションに注目していえるのは,(1) 自然は,積極的に“人に働きかける”というインタラクションの一方の重要な項=行為者である,(2)人と自然のあいだになんらかの競合やトラブルが生じたとき,人間は,インタラクションの性格上,相手の出方を見越して手を打たなければならない,という点である。そのうえで,これらの延長線上には,人工的環境に馴らされたわれわれが漠然といだく自然観を鍛え上げるだけでなく,自然環境の豊かさを取り戻す際には,「自然の視点」を人間の内側に取り込んだうえで,あくまでも人間の暮らしを考える,という人間と自然が入れ子になった政策論がみえてきた。
著者
似田貝 香門
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究 (ISSN:24340618)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.50-61, 1996-09-20 (Released:2019-03-26)

かつて私は調査にかかわる主体者間の関係(調査者-被調査者)について論じた。昨年からはじめた神戸市での震災に関する調査から、あらためてこの問題の中心テーマであった、調査者-被調査者の「共同行為」について論じる。被災地域ではいかにして生活再生が可能であるか、が緊要なる課題である。この課題への専門的支援は不可欠である。しかし残念ながら社会学は、他の応用科学のように、専門的知識・技術をも持ち合わていない。〈現実科学としての社会学〉は、いかようにあるべきか。被災者の〈絶望〉から〈希望〉への転身という行為は、被災によって自らの存在を否定されている人々が、現在の状況を、〈希望〉が無くなってしまった通過点として考えるのではなく、それとは反対に、あらゆる可能性がそこからはじまるところの「現実的境界」として考えられている。被災者のこうした転身に対し、私たちは何ができるであろう。この被災者の〈希望〉への可能性という「未検証の行為」が、再び〈絶望〉の状況へ引き戻されぬように、「未検証の可能性」のチャンスの瞬間を、観察し記録しつづける行為こそ、社会学者の構えでなかろうか。調査は、単に調査者‐被調査者の関係に留まらない。私たちは被災者の〈希望〉の可能性への行為を反映している現在の〈絶望〉の具体的状況から認識すべきである。テーマは、そこに包摂されている。同時にまた、「未検証の可能性」の行為そのもののなかに包摂されていることを、対話によって発見し、共同で構築していかねばならぬところまできている。
著者
脇田 健一
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究 (ISSN:24340618)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.5-24, 2009-10-31 (Released:2018-12-04)
被引用文献数
1

本稿では,環境ガバナンスが人口に膾炙する時代における,環境社会学の課題や役割について明らかにしていく。以上を明らかにするために,まず,環境社会学会の二大研究領域である〈環境問題の社会学〉と〈環境共存の社会学〉の代表的な研究として,舩橋晴俊の環境制御システム論と鳥越皓之らの生活環境主義を取り上げ,それらの理論的射程を再検討する。そして,両者の議論と関連しながらも,その狭間に埋もれた環境ガバナンスに関わる新たな研究領域が存在することを指摘する。そのような研究領域では,以下の2つが主要な課題になる。①多様な諸主体が行う環境に関する定義(=状況の定義)が,錯綜し,衝突しながら,時に,特定の定義が巧妙に排除ないしは隠蔽され,あるいは特定の定義に従属ないしは支配されることにより抑圧されてしまう状況を,どのように批判的に分析するのか。②そのような問題を回避し,実際の環境問題にどのように実践的にかかわっていくのか。以上2つの課題を中心に,政策形成をも視野に入れながら,「環境ガバナンスの社会学」の可能性について検討を行う。
著者
植田 今日子
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究 (ISSN:24340618)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.60-81, 2012-11-20 (Released:2018-11-20)
被引用文献数
2

本稿の目的は,2011年3月11日の津波で甚大な被害をうけた三陸地方沿岸の集落の人びとが,なぜ海がすぐそばに迫る災禍のあった地へふたたび帰ろうとするのかを明らかにすることである。事例としてたどるのは,津波常習地である三陸地方,宮城県気仙沼市唐桑町に位置する被災集落である。この集落では52世帯中44世帯の家屋が津波で流失したが,津波被災からわずか1ヵ月あまりで防災集団移転のための組織をつくり,2011(平成23)年度末には県内でももっとも早く集団移転の予算をとりつけるにいたった。舞根の人びとが集団移転をするうえで条件としたのは,移転先が家屋流失を免れた8世帯の人びとの待つ舞根の土地であること,そして海が見える場所であることであった。本稿は津波被災直後から一貫して海岸へ帰ろうとする一集落の海との関わりから,彼らが災禍をもたらした海に近づこうとする合理性を明らかにするものである。海で食べてきた一集落の人びとの実践から明らかになったのは,慣れ親しんだ多様な性格をもつ海は,どうすればそれぞれの場所で食わせてくれるのかをよく知り,長い海難史のなかで培われた“死と向き合う技法”と“海で食っていく技法”の双方が効力を発揮する海であった。すなわち,舞根の人びとにとって被災後なお海のもとへ帰ろうとすることが“合理的”であるのは,海がもたらしてきた大小の災禍を受容することなしに,海がもたらしてくれる豊穣にあずかることはできないという態度に裏打ちされている。
著者
嘉田 由紀子
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究 (ISSN:24340618)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.72-85, 1997-09-20 (Released:2019-03-26)

所有関係は、かつて人と人の関係としてとらえられてきたが、環境問題が社会問題化されるにつれて、人と自然のかかわりの中でアプローチする立場があらわれてきた。本稿は、これまで所有関係へのアプローチが観念的、制度的であった限界を越えて、人と自然のかかわりが埋め込まれている地域社会での日常的な生活実践の中から、所有意識とその実態を探る。方法は、写真による「資料提示型インタビュー」であり、余呉湖周辺を事例としてとりあげる。ここは、ひとつの村落が、湖、水田、河川から森林まで一括管理しているミニ盆地ともいえる複合生態系を有しており、生態的場の多様性にあわせた所有観をたどるのに格好の地域である。ここで明らかにされた所有関係の基本は、対象資源の生態的特性と空間、時間という組み合わせのなかで関係論的にきまってくる“重層的所有観”であり、「一物一権主義」という近代法の原則と大きく異なる。そこには〈総有〉ともいうべき基本原理が働いており、背景には、“労働”(働きかけ)と“資源の循環的利用”のなかで村落生活を維持しようとする生活保全の原理がはたらいている。
著者
渡辺 伸一
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究 (ISSN:24340618)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.129-144, 2001-10-31 (Released:2019-03-12)

環境の保護は,社会的に重要な課題である。しかし,環境保護の実際をみると,学術的な重要性や,保護が生み出す受益のために,特定の少数者に過重な負担や受忍を強いる例が散見される。「奈良のシカ」の事例は,こうした問題がみられてきた典型例である。奈良のシカは,「奈良公園の風景の中にとけこんで,わが国では数少ないすぐれた動物景観をうみ出している」とされる天然記念物であり,奈良における最も重要な観光資源の一つでもある。が,当地では,このシカによる農業被害(「鹿害」)を巡り,シカを保護する側(国,県,市,春日大社,愛護会)と被害農家との間での対立,紛争が長期化し,1979年には被害農家による提訴という事態にまで至ってしまった。本稿では,まず,鹿害問題の深刻化過程をみた後に,紛争長期化の背景を,「シカが生み出す多様な受益の維持」「保護主体間の責任関係の曖昧性」「受苦圈と受益圈の分離」「各保護主体にとっての保護目的の違い」等に着目しながら検討した。鹿害訴訟の提訴と和解(1985年)は,被害農家が長期に亘って強いられてきた状況を大さく改善させる契機となった。しかし,この新しい鹿害対策も,十分には機能してこなかった。そこで,後半では,鹿害対策の現状に検討を加えた上で,依然として問題の未解決状態が続いている理由と問題解決への糸口について考察した。
著者
丸山 定巳
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究 (ISSN:24340618)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.23-38, 2000-10-31 (Released:2019-03-12)

水俣病問題には発生・拡大・補償救済の遅れという重大な3つの責任問題がある。そして,それぞれに原因企業に加え行政や医学それに地域社会などが深く関わってきた。原因企業チッソ(株)は,生産至上主義に徹し安全性を無視した経営を行ってきた。唯一の巨大企業として地域社会に君臨し,環境を私物化してそれを長期にわたって破壊し,ついには水俣病被害を発生させてしまった。行政もそうした企業の操業を容認し,環境破壊を未然に防止する規制を講じなかった。地元地域社会には,チッソの企業活動をコントロールする社会的勢力は存在しなかった。水俣病の発生が公的に確認された後の初期の調査で,それが魚介類を介していること,そしてその魚介類を有毒化している原因として工場排水が指摘されたにも関わらず,いずれの面でも対策が怠られた。チッソも行政も,有効な排水対策を怠った。地域社会も,チッソの操業を擁護する立場から排水規制の動きを牽制した。加えて,漁獲の法的禁止措置も講じられなかった。その一方で,原因工程の生産規模は拡大されていったために,さらに被害を拡大させてしまった。補償救済問題においても,チッソは当初は責任を認めず低額で処理した。公式に責任が確定した後は,チッソに自力補償能力がなくなり,代わって行政が「認定医学」を利用して補償対象者を制限したため,長期にわたり大量の被害者が放置される状態が続いた。現在,地元地域社会では,過去を反省して「もやい直し」をキーワードにした地域の再生が目指されているが,「チッソ運命共同体意識」からの解放が鍵となっている考えられる。
著者
才津 祐美子
出版者
環境社会学会
雑誌
環境社会学研究 (ISSN:24340618)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.23-40, 2006-10-31 (Released:2018-12-25)
被引用文献数
2

世界遺産への登録を地域おこしの切札のように考えている地域は少なくない。実際,現在日本各地で行われている世界遺産登録運動は,枚挙に暇がないほどである。しかし,世界遺産登録は,当該地域に望ましいことばかりをもたらすわけではない。本稿で事例として取り上げる「白川郷」では,近年特に,この文化遺産の骨子である景観に「変化」が生じていることが問題として指摘されている。この場合の変化は,観光客急増に起因した「悪化」という意味で使われることが多い。しかし,「白川郷」で起きている変化は,〈景観の「悪化」〉だけではない。修景行為に伴う〈景観の「改善」〉もまた「白川郷」で起きている変化だといえるからである。つまり,「白川郷」では,〈景観の「悪化」〉と〈景観の「改善」〉の両方に変化が生じているといえる。しかしながら,実は,個々の変化を「悪化」と見るか「改善」と見るかは,評者によって違うのである。そこで必然的に,誰がそれを判断するのか,ということが問題になってくる。また,〈景観の「悪化」〉であろうと〈景観の「改善」〉であろうと,それらの変化が「白川郷」に暮らす人々の生活に直結しているということも重要である。にもかかわらず,従来景観の変化が取り沙汰される場合,その点が軽視されがちであった。そこで本稿では,住民と「専門家」という二つの行為主体に関する考察を軸に,生活者である住民の視点に留意しつつ,現在における景観保全の在り方の問題点を明らかにした。その際,これまでほとんど指摘されてこなかった,世界遺産登録後の〈景観の「改善」〉のための規制強化に着目し,検討を加えた。