著者
筒井 大祐
出版者
佛教大学総合研究所
雑誌
仏教大学総合研究所紀要 (ISSN:13405942)
巻号頁・発行日
no.25, pp.1-13, 2018-03

京都府八幡市男山に鎮座する石清水八幡宮には、古文書や古典籍が数多く伝来しており、それらは石清水八幡宮古文書として、国の重要文化財に登録されている。その古典籍の中に、昭和二十二年の社務所の火災で焼失したとされる『八幡宮寺巡拝記』の現存を確認した。そこで本稿では、その『八幡宮寺巡拝記』の書誌調査と、諸本との比較を行い、石清水八幡宮本が諸本の内、最善本であると結論付けた。また『八幡宮寺巡拝記』は、『八幡愚童訓』などの八幡縁起と関連するとともに、八幡神(八幡大菩薩)という、神仏の霊験や信仰を主題とした説話集でもあるため、中世文学史における『八幡宮寺巡拝記』の文学史的意義も確認した。『八幡宮寺巡拝記』『八幡愚童訓』八幡信仰八幡縁起中世説話集
著者
笹部 昌利
出版者
佛教大学総合研究所
雑誌
仏教大学総合研究所紀要 (ISSN:13405942)
巻号頁・発行日
no.8, pp.25-44, 2001-03

The theme of this paper is to analyze the contribution of Sanetomi Sanjo (三条実美) towards the growth of political awareness and its subsequent utilization in his political campaign. Sanetsumu Sanjo (三条実万), Sanetomi's father, and Oribe Tomita (富田織部), a feudatory of his family, were his mentors. His growing involvement with political issues led him to interfer with the personal affairs of the Imperial Court, and to request dispatching a "tyokushi" (勅使) delegation to the Tokugawa Shogunate in Bunkyu 2 (1862). In September of Bunkyu 2 (1862), Sanetomi himself was appointed as tyokushi. As a result of this important appointment, his influence gradualry increased and he secured himself the right to speak in the "tyougi" ( 朝議 ) administration meetings. Sanetomi's infuluence was further boosted when he led a special mission requesting "zyoui"(攘夷) to the Tokugawa Shogunate. His involvement led the Imperial court nobles and state daimyos (大名) to recorgnise. Sanetomi as a leader of the "zyoui" campaign. As a result, his authority in Kyoto was entrenched and deepened by the support of the "Choshu-han Mouri family", as they themselves had vested interest in Sanetomi's influence and "zyoui" campaign. In August of Bunkyu 3 (1863), the Mouri family was expelled from the government. As a result, Sanetomi also decided to settle with the Mouri family in Yamaguchi thereby showing symbolicially his identification with Mauri family struggle for political justice. After the Meiji Restoration, Mouri family was given recognition and political justice for their efforts in the "zyoui" campaign. As a result, Sanetomi's contribution was also acknowledge and he was emerged as a radical politician of modern Japan.
著者
井上 隆弘
出版者
佛教大学総合研究所
雑誌
仏教大学総合研究所紀要 (ISSN:13405942)
巻号頁・発行日
no.23, pp.1-14, 2016-03

広島県の比婆荒神神楽は、中世神楽の特徴である神がかり託宣の古儀を現代に伝える神楽である。その理解において今日でも大きな影響力をもっているのが牛尾三千夫の所説、すなわち荒神神楽は、死者の霊が「祖霊」たる本山荒神へ加入する儀礼であるとするものである。本稿では、そこで等閑視されている「小さき神」に焦点をあて神名帖や地域の小祭である地祭の検討を行い、牛尾の「祖霊神学」批判をとおして、牛尾に影響を与えている柳田民俗学の問題性にも言及した。荒神神楽祖霊加入説小さき神地祭祖霊神学
著者
山本 奈生
出版者
佛教大学総合研究所
雑誌
仏教大学総合研究所紀要 (ISSN:13405942)
巻号頁・発行日
no.17, pp.127-137, 2010-03

これまで,いわゆる「監視社会」論は,国内外の都市社会学や犯罪社会学に対して一定の影響を発揮してきた。「監視社会」をめぐる議論では,監視と安全,あるいは監視と自由といったテーマが取り上げられてきたが,しかしこれらの議論に対する社会学的評価は,未だ十分に定まっているとはいえず,「公共圏」や「パノプティコン」などの部分的なキーワードのみが比喩的に援用されてきたともいえる。本稿では,代表的な「監視社会論」の命題を整理したうえで,これに理論的検討を加えるが,ここで「監視社会」論の主たるテーマとされるのは次の三点である。.監視と権力性の問題,.監視とプライバシーの問題,.監視と「法維持的暴力」,あるいは公共圏との関係,が本稿で取り扱う問題圏であり,さらにこれらのテーマが内包する「監視社会論」の前提命題について検討を加える。そして結論として,.の命題が..の成立要件をなしていることが主張される。監視社会法維持的暴力公共圏
著者
田所 弘基
出版者
佛教大学総合研究所
雑誌
仏教大学総合研究所紀要 (ISSN:13405942)
巻号頁・発行日
no.24, pp.15-25, 2017-03

高村光太郎の「「道程」時代」の詩歌を検討することは、「「道程」以後」・「「猛獣篇」時代」の詩歌との繋がりを明らかにするうえで重要である。「「道程」時代の詩歌」には、頽廃的な雰囲気を漂わせる「デカダン性」を表現した詩歌が複数見受けられる。これまで、このような詩歌が創作された理由としては、特に、当時の光太郎の生活態度が頽廃的であったことが挙げられてきた。しかしながら、「「道程」時代」の詩歌と、同時期に発表されていた美術に関する評伝・評論の翻訳との関連を検討することで、光太郎の生活態度からではない別の理由が明らかになった。本稿では、特に、アルセーヌ・アレクサンドルのトゥルーズ・ロートレック評伝を光太郎が翻訳した「痛ましき地獄の画家」に着目し、「「道程」時代」の詩歌と比較した。その結果、風景や人物のモチーフとなる対象が類似する点を明らかにすることができた。そしてこれらのモチーフが描かれたのは、「露骨な本能の発表」という新しい風景描写の表現をするためであると考えられる。高村光太郎トゥルーズ・ロートレック道程痛ましき地獄の画家本能
著者
竹内 明
出版者
佛教大学総合研究所
雑誌
仏教大学総合研究所紀要 (ISSN:13405942)
巻号頁・発行日
pp.185-207, 2002-03

Ippen was the disciple's disciple, of Shoku, who was himself Honen's foremost disciple. Hence Ippen's teaching, even as it represented his own unique understanding, was based on that of Honen as transmitted by Shoku, and also had possessed the original characteristic. Traditionally, Pure Land Buddhism taught the possibility of birth and life in Amida Buddha's Pure Land after death. This is because it is difficult for the common man to manifest his own Buddha-nature by himself. Therefore in his Senchakushu Honen declared that it is possible to be born in the Pure Land after death by chanting the name of Amida Buddha. However, even while Honen understood the birth in the Pure Land to be something achieved after death, he often declared that the devotees chanting the name set their hearts in the Pure Land and he lived himself already there in his present life. Therefore Honen also said "Chant the name earnestly believing that it will result in birth in the Pure Land." On the other hand, although Ippen, following traditional Pure Land thought, unquestionably understood the birth in the Pure Land to be something achieved after death, he considered that, because every moment was last moment, there is no difference between being born in the Pure Land after one's death and being born there in one's hearts at present. Indeed for Ippen, being born in the Pure Land was the death of the self by chanting the name, and the death of the self meant becoming Amida Buddha. This is the unity between the person chanting the name and Amida Buddha. Neither Honen nor Shoku required a person to rely on his own efforts; they only stressed the need to rely on the compassion of the Buddha. Moreover Ippen excepted faith from the necessary conditions of being born in the Pure Land in order to push the logic of the selection forward. Of course, it depended on the chanting the name of the Buddha. Therefore Kanda, a Tokugawa period Jishu monk who learned the Senchakushu, argued in his Senchaku-kikyusho that the faith was present in the chanting of the name. In short, the Pure Land Buddhism returned to main-current of Mahayana Buddhism in Ippen's Pure Land thought. Thus, the difference between Pure Land Buddhism and Holy Path Buddhism disappeared in Ippen's Pure Land thought.
著者
KarmaChags-med 中御門 敬教
出版者
佛教大学総合研究所
雑誌
仏教大学総合研究所紀要 (ISSN:13405942)
巻号頁・発行日
no.18, pp.31-46, 2011-03

カギュ派,ニンマ派の学者・行者カルマ・チャクメー(ラーガアスヤ.1612.1678)著『大楽誓願』は,ゲルク派の祖ツォンカパ(1357.1419)著『最上国開門』とともに,チベット仏教におけ最も広く普及した極楽願文であり,宗教的だけでなく文化的にも重要である。チャクメーの極楽願文は,彼が指導した活仏ミギュル・ドルジェ(1645.1667)が無量光三尊を見て教えられたという虚空法(天空法)の法類に所属しており,それらの儀式や法要において大きな役割を果たすとともに,宗派や儀式を越えて広く用いられた。本稿においては,藤仲孝司氏との協力のもと,礼拝対象である観自在と大勢至の両脇侍と極楽浄土の特性と,彼らに対する供養に関する部分を,翻訳研究したカルマ・チャクメー(ラーガアスヤ)極楽願文虚空法『清浄大楽国土誓願(大楽誓願)』ミギュル・ドルジェ
著者
KarmaChags-med 藤仲 孝司
出版者
佛教大学総合研究所
雑誌
仏教大学総合研究所紀要 (ISSN:13405942)
巻号頁・発行日
no.18, pp.47-61, 2011-03

カギュ派,ニンマ派の学者・行者カルマ・チャクメー(ラーガアスヤ.1612.1678)著『大楽誓願』は,ゲルク派の祖ツォンカパ(1357.1419)著『最上国開門』とともに,チベット仏教における最も高名で普及した極楽願文であり,宗教的だけでなく文化的にも重要である。チャクメーの極楽願文は,彼が指導した活仏ミギュル・ドルジェ(1645.1667)が無量光三尊を見て教えられたという埋蔵経「虚空法(天空法)」に所属しており,それらの儀式や法要において大きな役割を果たすとともに,宗派や儀式を越えて広く用いられた。本稿においては,中御門敬教氏との協力のもと,この極楽願文の概説を行い,序分と観想,礼拝対象である無量光仏に関する部分を,翻訳研究した。カルマ・チャクメー(ラーガアスヤ)極楽願文虚空法『清浄大楽国土誓願(大楽誓願)』ミギュル・ドルジェ
著者
橋本 憲尚
出版者
佛教大学総合研究所
雑誌
仏教大学総合研究所紀要 (ISSN:13405942)
巻号頁・発行日
no.16, pp.1-18, 2009-03

本稿の目的は,高度職能教育としての教員養成プログラム策定にあたり,その基盤となる理論的視点の提供にある。まず,教室における学習のしくみの前提となっている知能観( 能力を個人内部に帰属させ,常に考えて見通しを立ててから行為するよう求める) に批判を加えた。次に,研究データ収集場面と教室学習の場面での人間関係の類似性に着目し,各々の場面において被験者・子どもに要請される行為のルールの了解が課題解決の制約条件となっていることを指摘した。最後に,教室学習を"状況に埋め込まれた"ものとみなす観点から,"分散された知"という新しい枠組を紹介し,その主要な概念的事項として道具・プラン・コンテクストについて解説を施した。
著者
西之園 晴夫
出版者
佛教大学総合研究所
雑誌
仏教大学総合研究所紀要 (ISSN:13405942)
巻号頁・発行日
no.16, pp.19-34, 2009-03

わが国では大学の授業料高騰が教育格差と社会的格差とを相互に助長する懸念があることが指摘されている。世界的にみるならば,変動社会の出現と職能の高度化にともなって,すべての国民に高等教育までを提供することが求められており,1970 年代に国連で高等教育まで無償化することが決議された。しかし日本政府は無償化問題については奨学金などで対応するのでこの決議に拘束されないことを表明している。その後の学習に関する科学技術の進歩,ならびにユビキタス情報通信環境が整ってきたので,各国において新しい教育方法の開発が進んでいる。このような状況から協調自律学習による授業開発の方法論としてシンボリック設計法を紹介している。従来の授業開発が教育目標や教育内容が重視されていたのに対して,最近では学ぶ意味,学習活動,学習成果などのように学習者に視点をおいた方法にシフトしており,そのときの設計法を提案している。
著者
井上 隆弘
出版者
佛教大学総合研究所
雑誌
仏教大学総合研究所紀要 (ISSN:13405942)
巻号頁・発行日
no.24, pp.1-14, 2017-03

比婆荒神神楽は中世に開郷された名を単位とする中世神楽の色彩を色濃く残した神楽であるが、近世的な再編を経ていることは見逃せない。このなかで重要な位置を占めるのが土公神祭祀である。土公神は中世的な地霊から世界の王へと転形をとげた。また土公神との習合によって、不定形で無数の集合霊であった荒神は組織を与えられた。かくて比婆荒神神楽は、世界の秩序を更新・再生する祭となったのである。こうした再編は吉田神道の影響のもとで行われたと考えられる。土公神荒神九魔王神吉田神道陰陽道