著者
入倉 友紀
出版者
日本映像学会
雑誌
映像学 (ISSN:02860279)
巻号頁・発行日
vol.103, pp.73-90, 2020-01-25 (Released:2020-02-25)

本論文では、1916年から1919年にかけて活動したユニバーサル社の子会社、ブルーバード・フォトプレイズに着目する。同社は設立当初、作品の質を重視し、5リールの長編劇映画を週に1本公開するという理念を打ち出した。1910年代は、映画製作の主流が短編やシリアルから長編へと変化していった時代であり、ブルーバード社の活動に着目することは、ユニバーサル社の長編劇映画への取り組みを考える上で非常に重要である。ブルーバード社は同時代の日本映画へ与えた影響がよく知られている一方で、アメリカ映画史においては長い間忘れ去られた映画会社であった。しかし、近年のフェミニズム的な映画史再考の流れによって、同社は非常に多くの女性監督の作品を製作していたことが明らかになり、ようやく本国アメリカにおいても注目を集めつつある。しかし同社の全貌は未だ謎に包まれており、まとまった文献も存在していないのが現状である。そこで今回は、ブルーバード社の3年の活動期間に着目してその変遷を追いつつ、同社に在籍した3人の女性監督、ロイス・ウェバー、アイダ・メイ・パーク、エルシー・ジェーン・ウィルソンの活動を論じ、その影響を明らかにすることを目指す。
著者
角尾 宣信
出版者
日本映像学会
雑誌
映像学 (ISSN:02860279)
巻号頁・発行日
vol.101, pp.92-113, 2019

【要旨】<br> 敗戦後から1960年代前半にかけて、「風俗映画」と呼称される多くの作品が登場した。その特徴は、同時代のライフスタイルや風景などを記録し、そこから人々の思想や価値観を捉えるものと指摘されてきた。本論文は、総合的な「風俗映画」の研究に向けた一歩として、「風俗映画作家」と言われていた渋谷実の『自由学校』(1951年)を取り上げ、原作小説および吉村公三郎による同名翻案(1951年)と比較し、その「風俗映画」としての映画史的・社会史的意義と可能性を考察する。<br> 渋谷作品のスタイル上の特徴として、戦争および敗戦のトラウマの継続と、人物表象および心理描写両面での奥行きの無さの二点が指摘されてきた。本論文は、この二点を結ぶ線上において、本作品の特徴である男性主人公の「平面に寝ころぶ」という繰り返し現れる身ぶりを考察する。また、本作品での平面性というスタイルが、愛情や行動意欲の欠如と、ジェンダー的および物理的な平等性という二重の意味をもつことを指摘する。そして、この身ぶりの繰り返しを通じて描かれる、行動意欲を徹底して欠いた男性主人公の心理状態を、敗戦直後における日本社会全体の「虚脱」状態から歴史的に位置づける。さらに、本作品では、この「虚脱」状態を核として、「風俗映画」と見なしうる同時代の記録が構成されており、それが同時代における「虚脱」状態の逆説的かつ肯定的解釈と通じ合うことを示し、敗戦後の社会的心理状態から「風俗映画」を考察する必要性を指摘する。
著者
鳩飼 未緒
出版者
日本映像学会
雑誌
映像学 (ISSN:02860279)
巻号頁・発行日
vol.100, pp.92-111, 2018-07-25 (Released:2019-03-05)
参考文献数
41

【要旨】 日活が成人映画のロマンポルノの製作・配給に転じた1971 年は、その戦後史における大きな転換点をなす。しかしながら、ロマンポルノ以前と以後の日活の間には連続性も見出すことができる。ロマンポルノの配給・興行形態は全盛期とほぼ同じであり、それを支える撮影所での製作の体制も引き継がれたものであった。日本映画全体の基盤としての撮影所システムが瓦解していくなか、1988年まで存続したロマンポルノは撮影所システムの延命策として機能したのである。本稿は、ニュー・アクションの担い手であり、1971年以降にはロマンポルノでも活躍した監督長谷部安春に着目する。具体的には、長谷部のロマンポルノ監督作9 本を取り上げ、長谷部のイメージを利用し観客にアピールしようとした日活側の戦略の変遷と、ロマンポルノという未知の映画の形態に挑戦し、適応していった長谷部の試行錯誤の過程とその限界について論じる。9本の映画は、売り手の日活、作り手の長谷部と、買い手として映画を受容する観客の思惑が絡み合った結果として生まれた。その経緯と、それぞれの映画のテクストに見出されるニュー・アクションとの連続性との関係を検討していき、最終的には、長谷部の9本のロマンポルノと長谷部の存在が、ロマンポルノによって撮影所システムを長らえさせていた日活にとって何を意味したのかが明らかになるはずである。
著者
玉田 健太
出版者
日本映像学会
雑誌
映像学 (ISSN:02860279)
巻号頁・発行日
vol.98, pp.48-67, 2017-07-25 (Released:2017-09-13)
参考文献数
18

【要旨】1948年のジーン・ネグレスコ監督によるハリウッド映画『ジョニー・ベリンダ』で、主役で聾唖のベリンダ・マクドナルドは⼀切言葉を話さない。この点において、メロドラマ映画や特に40年代女性映画の典型的な例として、本作はしばしば先行研究によって取り上げられてきた。しかし、本作の重要な主題のうちのひとつは、まさに言葉に他ならない手話をベリンダが習得するという点にある。そこで、本稿は手話が⾮言語的なメロドラマの⾝振りではなく、言葉そのものである点を議論の出発点とする。すると、他の40年代女性映画における男性医師の機能(ヒロインが自分では言語化できないトラウマや真実を言語化する)と、本作の医師ロバートの機能は異なることになる。それを踏まえ、主に裁判のシーンを言葉という観点から分析することを通じて、男性医師ロバートもベリンダと同じく、支配的な社会から疎外された人物であることを明らかにする。本作はエンディングで、ベリンダやロバートらマイナーな言葉を話すもの同士が結束し、支配的な社会に取り込まれることもなく、また逃げ出すのでもなく、そこから適度な距離を保った新たな社会を打ち立てようと試みている様を描いているのだ。最後に本稿は、エンディングの⼆面性を明らかにし、彼女らの試みが孕む不安と希望を指摘する。
著者
平野 大
出版者
日本映像学会
雑誌
映像学 (ISSN:02860279)
巻号頁・発行日
vol.101, pp.155-176, 2019

【要旨】<br> 本稿は、クリストファー・ノーラン監督による映画『プレステージ』について、シルクハットというアイテムに焦点を絞り、これを分析の手がかりとしながら、読み解いていくことを目的としている。同時に、いままであまり注目されてこなかったファッション・アイテムである帽子の、分析ツールとしての可能性の一端を提示していくことも試みていく。<br> 映画『プレステージ』は19世紀末のロンドンを舞台に、「人間瞬間移動」を得意演目としていた二人の奇術師が繰り広げる確執の物語である。<br> 本作を検証するにあたり、特に注目するシーンがある。それは、オープニングとエンディング部分に見られる数多くのシルクハットが空き地に散乱しているシーンである。アメリカの映画研究家、トッド・マガウアンは、『クリストファー・ノーランの嘘― 思想で読む映画論(<i>The Fictional Christopher Nolan</i>)』の中で、このシーンに関して「過剰な帽子は、創作活動に必然的に付随する余剰物である」と述べている。<br> このマガウアンの視点は、ノーランの映画製作観に鋭く踏み込む画期的なものである。しかし、果たしてシルクハットは、本当に創作活動の「余剰物」に過ぎないのであろうか。本作におけるシルクハットは「余剰物」以上の役割と意味を担っているのではなかろうか。<br> 本稿においては、このマガウアンの指摘に対して、シルクハットの歴史や象徴性をふまえながら、検討を加えていく。
著者
大谷 晋平
出版者
日本映像学会
雑誌
映像学 (ISSN:02860279)
巻号頁・発行日
vol.101, pp.114-133, 2019-01-25 (Released:2019-06-25)
参考文献数
25

【要旨】 勅使河原宏や松本俊夫ら、後に日本の「新しい波」と言われる映画人たちは、1950年代末頃から「主体」を巡って様々な映画を制作するが、本論は勅使河原の『北斎』(青年プロ、1953)を、そういった映画活動の初期作品であると位置付け、その観点から考察を試みるものである。 勅使河原は1950年代初頭から「世紀の会」等のいくつかの芸術運動に携わり、後に映画制作で協働する安部公房や、1940年代末に「主体性論争」の中心となった「近代文学派」の人物たちとも交流を持ち、同時代に芽生えていた問題意識を共有していく。勅使河原はそういった活動をしている時に、瀧口修造が過去に制作していた映画『北斎』の仕事を引き継ぎ、自分なりの『北斎』を再制作して監督デビューした。 そのため、本論では瀧口が残したシナリオと、勅使河原版の『北斎』とを比較し、また、絵画を「物語的」に扱う映画の先駆者であるアラン・レネらの影響も考慮しながら、勅使河原のオリジナルな演出に焦点を当てて『北斎』を「主体」との関わりから考察する。 本論を通して、勅使河原の『北斎』は「主体」を巡る映画としてある程度の問題意識を提出できたが、問題点も孕んでいたことが明らかになる。結局、『北斎』は、日本の「新しい波」の活動が盛んになる前の1953年の作品であること、そして「主体」に関しても課題を含んでいることから、「主体」を巡る映画運動の萌芽であると位置付けられるのである。
著者
福島 可奈子
出版者
日本映像学会
雑誌
映像学 (ISSN:02860279)
巻号頁・発行日
vol.98, pp.5-24, 2017-07-25 (Released:2017-09-13)
参考文献数
43

【要旨】鶴淵幻燈舗は、明治期に文部省の委託で初めて西洋幻燈を製作・納品し、その後の幻燈の普及に多大な影響を与えている。しかし鶴淵幻燈舗の事業の実態については、現存史料が少ないために、先行研究では断片的にしか明らかにされてこなかった。本論は、近年新たに発見された鶴淵幻燈舗発行の機関誌をも参照しながら、同舗の製造・宣伝・販売事業と、販売先のひとつである博文館の雑誌『少年世界』が主宰するお伽幻燈隊の活用方法について検証し、「通俗教育」事業としての幻燈と諸メディアのつながりの一端を明らかにしようとする。なぜなら同舗製作の幻燈は、近代国家としての「国民」の形成を目指していた明治政府にとって必要不可欠な教育ツールと目されたからであり、また明治期は現在考えられているような概念やメディアが定着・分離する以前であり、写真、幻燈、児童雑誌など多様なメディアが混在していたからである。そして「通俗教育」の名のもとにそれを横断する形で、鶴淵幻燈舗の製造・販売事業、お伽幻燈隊の受注事業があった。本論では、メディア考古学の観点から、メディアの多様性と相互の連関に注目するとともに、従来等閑視されてきた幻燈の実際面、製造・販売者や使用者の視点からの、技術的側面や具体的使用例を検討しつつ、明治期の「教育」現場での、他メディアとのつながりをも含む幻燈の果たした役割を明らかにする。
著者
上倉 庸敬
出版者
日本映像学会
雑誌
映像学 (ISSN:02860279)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.26-38, 1989-09-25 (Released:2017-07-31)
参考文献数
5

Yoshimitsu Morita est un directeur de film qui attache beaucoup d’importance à la méthode de production. Sa méthodologie révèle non seulement une grande logique mais aussi une profonde sensibilité. Dans cet article à partir de la méthodologie de Morita, on peut découvrir un certain point de vue sur l’essence du cinéma. Dans son premier film, Morita se demandait s’il devait attacher l’importance à l’histoire elle-même ou à la façon de la raconter. Il donna la préférence à la façon de raconter, non pas à l’histoire elle-même, mais l’histoire des personnages. Il en est arrivé à ce que l’histoire des personnages expriment le temps de leur vécu quotidien, (c’est-à-dire) les moments spatials qui peuvent être mal interprêtes. Selon lui le film nous fait visionner les moments vides et spatials de la vie quotidienne et la nature de l’art cinématographique devient le quotidien et change les moments vides, graduès par la vision, en temps véritable qu’on vit. Le problème du cinéma est de changer le temps spatial en temps vécu, i. e., donner au vide du quotidien un sens et une âme.
著者
藤田 修平
出版者
日本映像学会
雑誌
映像学 (ISSN:02860279)
巻号頁・発行日
vol.97, pp.65-86, 2017-01-25 (Released:2017-03-03)
参考文献数
41

【要旨】函館イルミネイションやあきた十文字、青森、湯布院といった地域の名前がついた映画上映イベントを「地域の映画祭」と呼ぶとすれば、それらはカンヌやベルリンといった国際映画祭とは異なり、プレミア上映を行う場でも映画作家を見出す場でもなく、(その地域で上映されることのなかった)商業映画を上映するだけに留まるが、地域の住民が企画・運営を担っていることに特徴がある。「地域の映画祭」は1970年代半ばに誕生し、全国に拡がり、1980年代に入って地方公共団体の支援が始まるとその数は増加し、2007年には100以上の映画祭が確認された。こうした映画祭はいかに誕生し、どのような特徴を持っているのか。また、国際映画祭との違いは何か。本稿では日本で最も古い映画祭であり、「町おこし」や「地方の映画祭」のモデルとされた湯布院映画祭を取り上げ、その誕生に至る経緯と背景を探る。その上で映画祭という新しい映画受容の〈場〉を公共空間として捉え、ハーバーマスやアーレントの研究を参照しながら、日活ロマンポルノが上映されたこと、外国映画の上映やゲストの招待をめぐって内部で大きな対立に発展したことを手掛かりとして、その〈場〉の特徴を探っていく。
著者
玉田 健太
出版者
日本映像学会
雑誌
映像学 (ISSN:02860279)
巻号頁・発行日
vol.96, pp.48-67, 2016

<p>【要旨】</p><p>本論文はヴィンセント・ミネリ監督による1949 年公開のハリウッド映画『ボヴァリー夫人』について論じる。本作は先行研究において、ヒロインであるエマの欲望とその抑圧を中心に論じられてきた。それに対して本論文は、フローベールによる原作小説と異なり良き夫として造形されているチャールズについて、ミネリの作家論的特質も踏まえた上でテクスト分析を中心に考察を加え、さらに同時代のハリウッド映画との比較を通じて本作の意義を明らかにすることを目標としている。そこで重要なのは、チャールズもエマと同じような行動をしているということだ。舞踏会ではエマがメロドラマ的な過剰さの下で熱狂的に踊り続ける一方で、チャールズも泥酔により放縦な行動をしている。これは精神分析の影響を受けた同年代の女性映画から本作を隔てる特徴となっている。それらの映画はヒステリックなヒロインの傍らに、正常さ=社会(家庭)=真実を体現する夫ないし男性医師を登場させているのだが、本作は舞踏会のシーンで、エマだけでなく医師であり夫であるチャールズも、自らの挫折した欲望から生じる一種のヒステリー的な異常状態に陥ることで、その原則が一時的であれ崩れているのである。ミネリによる『ボヴァリー夫人』は40 年代最後の年の映画に相応しく、複数の人物が各々の欲望と夢を持っているために至るべき結末とそこへの道筋が所与のものではない、50 年代以降のハリウッドにおけるミネリやダグラス・サークなどのメロドラマ映画の萌芽としても捉えることが出来る。</p>
著者
川﨑 佳哉
出版者
日本映像学会
雑誌
映像学 (ISSN:02860279)
巻号頁・発行日
vol.94, pp.5-23, 2015

<p>&emsp;After making <i>Citizen Kane</i> (1941), Orson Welles directed <i>The Magnificent Ambersons</i> (1942), which was an adaptation of Booth Tarkington's 1918 novel. While <i>Citizen Kane</i> is full of political implications, <i>The Magnificent Ambersons</i>, which tells a story of an aristocratic family which is destroyed because of a new economic system, does not seem to deal with any political issues. In this paper, however, I reveal a hidden political meaning in <i>The Magnificent Ambersons</i> by focusing on the problem of viewpoint in the film. First, I show that the film's viewpoint shifts from outside to inside of Ambersons' house after a brief prologue. This means that the spectator sees the film's main narrative from the viewpoints of the members of Ambersons. As their fortune declines from the middle of the film, they become impoverished and fall one after another onto the ground. At this point, I suggest that the members of Ambersons become ghostly figures who look at the growing city from below. Analyzing the POV shot that appears near end of the film, I argue that this shot and the film's final image represent specters' ghostly viewpoints through which the spectator looks at the devastating effects of modernization. Finally, I examine the significance of these specters' eyes for recognizing "the movement of history" in 1942.</p>

1 0 0 0 OA 白の存在

著者
早川 由真
出版者
日本映像学会
雑誌
映像学 (ISSN:02860279)
巻号頁・発行日
vol.99, pp.5-24, 2018-01-25 (Released:2018-06-11)
参考文献数
23

【要旨】映画において画面上に映しだされる身体とは、どのような存在なのか。この問題を考えるにあたり、本論文はリチャード・フライシャー監督『絞殺魔』(1968)を取り上げる。トニー・カーティス演じるアルバート・デサルヴォという存在には、これまでの研究では指摘されてこなかった、画面上の身体としての在り方の特異性が表れているのだ。精神病的な観点からこの作品を論じた先行研究は、デサルヴォが〈第2 の人格が真犯人である分裂した存在〉であることを前提にしているが、本論文はそれを前提にしない。本論文の目的は、スティーヴン・ヒースが分類した物語映画における「人々の存在」の各項目を仮設的枠組みとして用いつつ、テクスト内外の諸要素を多角的な観点から分析し、それぞれの項目にはうまく収まらないデサルヴォの在り方の特異性を明らかにすることである。まず第1 節では、カーティスのスター・イメージ、およびメディア言説におけるデサルヴォ像を検証する。第2 節では、デサルヴォを真犯人に見せるプロセスを指摘し、不可視性や声を手掛かりにそのプロセスにおける綻びを見出す。第3 節では、デサルヴォを主体化しようとする可視化の暴力のメカニズムを示し、終盤の尋問の場面における身振りを論じる。最終的に、不可視の体制、可視化の暴力、別の不可視の領域、この3 つの段階をたどった後に〈白の存在〉へと至るその在り方が明らかになる。
著者
江本 紫織
出版者
日本映像学会
雑誌
映像学 (ISSN:02860279)
巻号頁・発行日
vol.96, pp.110-129, 2016-07-25 (Released:2016-08-19)
参考文献数
20

【要旨】 これまで写真は、コンテクストやプロセスに対して受動的な位置付けを与えられてきた。その要因となってきたのは、撮影・呈示におけるコード化、観賞でのコンテクストによる意味の規定である。しかし誰もが写真の撮影者・呈示者・観者になり、それぞれの段階に能動的に関与する現在の状況は、従来の議論のみでは説明できない。そこで本論文は写真とコンテクスト、撮影から観賞までの写真プロセスの関係を改めて検討した。詳細な分析を行うために、コンテクストを作用の点で「直接的コンテクスト」(キャプション、呈示媒体など)と「間接的コンテクスト」(文化的・社会的背景、写真技術など)の二つに類型化した上で、コンテクスト・写真プロセス・撮影者や観者の作用関係とその変化を考察した結果は以下の通りである。第一に、従来観賞にのみ作用すると思われた直接的コンテクストは、撮影時にも意識されることが明らかとなった。第二に、デジタル化による写真プロセスと直接的コンテクストの変化は、加工・修正への関与を容易にしただけでなく、直接的コンテクストの変更や、呈示された写真の自由なグループ化など、観者による呈示への能動的な関与も可能にした。そして最後に、これらの写真とコンテクストは次々に増え、蓄積され、新たな写真や写真行為に作用する「一時的コンテクスト」として作用することが示された。以上のように写真とコンテクスト、写真プロセスは有機的な関係性を結ぶものであり、現在の写真は開かれた構造を持つ能動的なプロセスと見なすことができる。このように写真をイメージではなくプロセスと捉えることは、従来の議論の有効性を担保しつつ、現在の写真状況を踏まえた理論の発展につながるはずである。