著者
沢田 善太郎
出版者
広島国際学院大学現代社会学部
雑誌
現代社会学 (ISSN:13453289)
巻号頁・発行日
no.3, pp.3-18, 2002

「あれが結婚に結びつくのであれば、ギーヴなど一年に五百回ぐらいは結婚式をあげねばなるまいよ」「例が極端すぎるのではないか」「例というものは極端なほうがわかりやすいからな」 ー田中芳樹『アルスラーン戦記』 日常生活で,わたしたちは極端な事例にもとづいてものごとを論じたり,事態を評価することがある。本稿ではこのような極端値が介在する社会過程のモデルづくりをこころみる。前半では極端値をあつかう統計学である順序統計の基礎を紹介する。後半では,マス・メディアの過剰報道の問題や「決定後の失望」の問題を話題にして,順序統計の社会分析への応用を論じる。 In our everyday life, we sometimes think and evaluate matters on the basis of their extreme cases. The purpose of this paper is to construct models of social processes which are involved with such extremes. In the first half of this paper,we will introduce a grounding of order statisticis, which is a statistics to treat the distributions of the extreme values. Then, in the latter half,we will discuss the applicabilities of the order statistics to the socal analyses. The main topics and key words of this part are "excessive reports of mass media","a paradox of sampling","a model of social monitoring", and"post-decision disappointments".
著者
山田 陽子
出版者
広島国際学院大学現代社会学部
雑誌
現代社会学 (ISSN:13453289)
巻号頁・発行日
no.10, pp.133-144, 2009

本報告は、広島国際学院大学現代社会学部・社会学合同演習「現代社会にみる恋愛」の一環として、2008年6月21日(土)に広島国際学院大学立町キャンパスにて行なわれた公開講義「純化する愛、その不安」の概要である。本講義では、恋愛について社会学的な観点から講じた。主として、1)ロマンティック・ラブ・イデオロギーと恋愛結婚の誕生、2)「純粋な関係性」と「コンフルエント・ラブ」(A.Giddens 1992)、3)コンフルエント・ラブが導く関係の不確定性、以上三点について講じている。受講者は、社会学にまったくなじみのない高校生や一般の方であったため、「恋愛チェックシート」(資料1)を作成し、講義の前に自らの恋愛観を振り返ってもらうという、最も身近なところから議論を出発させた。受講者一人一人が普段何気なく抱いている恋愛に関する様々な規範意識や感覚が、現代社会の成員の多くに共有されている社会意識であることを示し、そのことを通じて、通常は最も個人的で私的なものと考えられている感情が社会的・外的要因によって規定される側面を持つこと(E.Durkheim 1912)、もしくは自然で内発的なものであるとみなされている感情が社会的に決められた「感情規則」(A.Hochschild 1983)に沿う形で経験されていることに対する認識を促すことを目的とした。さらには、現代人に共有されている恋愛観や関係性の特徴、不安の来歴について講じることによって、社会規範や社会の在り方は常に「別様でもありうること」(N.Luhmann)を提示し、受講者自らが生きる社会を客観的に観察する契機となればとの期待をこめた。
著者
沢田 善太郎
出版者
広島国際学院大学現代社会学部
雑誌
現代社会学 (ISSN:13453289)
巻号頁・発行日
no.5, pp.3-24, 2004

本稿ではコンドルセが『多数決論』で提出した陪審定理を検討し,社会的決定過程の分析に役だちそうないくつかの含意をみちびくとともに,その限界を指摘する。陪審定理は啓蒙主義の人間観・真理観に制約されている。この結果,陪審定理をもちいてさまざまな価値が錯綜する現実の意思決定過程を分析しようとすると,困難が生じる。それゆえ,今日の社会的選択理論は,コンドルセがいわば窮余の策としてもちいたコンドルセ規則をベースに展開し,陪審定理をかえりみることはすくない。にもかかわらず,社会的決定過程において正しい決定がくだされる確率を探求するコンドルセの議論は,社会的選択理論の今後の発展にとって無視できない課題を示唆している。
著者
近藤 富美子 谷口 弘美
出版者
広島国際学院大学現代社会学部
雑誌
現代社会学 (ISSN:13453289)
巻号頁・発行日
no.9, pp.131-154, 2008

アメリカ人と関わった日本人の間に、「アメリカ人はなかなか謝らない」という定説がある。この考えが本当に存在するとすれば、日本人にそう思わせる原因がどこにあるかを探ってみた。その原因となる仮説を4つ挙げたが、本研究ではそのうちの一つ、「謝罪方法の解釈の仕方と受け取り方が異なる」という説に焦点をあて、日米両国においてアンケート調査を行った。文化的に独特の解釈の仕方を行うものは一つしかなかった。また、おもしろいことに、単一の解釈の仕方をするものは、謝罪を受ける側の責任を問う戦略しかなかった。残りの間接謝罪方法では、解釈の仕方は日米双方とも複数あり、内容からみた解釈の仕方は同じであった。異なる点があるのは、謝罪方法が適切あるいは不適切と考える人数であった。例えば謝罪方法「説明」において、単純な説明を多くの日本人は適切としたのに対し、多くのアメリカ人は不適切とした。反対に間違いをおこした自分の立場を説明する場合、多くの日本人はこれを「言い訳」とみなし不適切とし、多くのアメリカ人は「丁寧な説明」とみなし、適切とした。これを「丁寧な説明」とみなす日本人は少数であった。こうした間接謝罪における受け取り方の違いが、上記定説の原因の一部であることが判明した。
著者
田中 里美
出版者
広島国際学院大学現代社会学部
雑誌
現代社会学 (ISSN:13453289)
巻号頁・発行日
no.10, pp.75-84, 2009

本稿は、Julia Lynch『福祉国家における年齢』(原題、Age in the Welfare State)の議論を追いながら、日本の社会政策における高齢者福祉政策の位置づけを国際比較の視点から捉える試みである。近年、人々が自立した生活を営むために重要な存在であった労働市場と家族は変化し、福祉国家への期待がますます高まっている。しかし先進各国の社会政策は、一人の人間が人生の各局面で直面するリスクへの対応について見ると、それぞれ独特の「年齢指向」を持っている。リンチはこの違いを、1900年前後に選ばれた社会政策の基本路線(市民権ベースか職業ベースか)、および、それぞれの国の政治競争の様式(制度化された競争か個別主義的な競争か)から説明する。社会支出に占める高齢者向け政策の割合を見ると、日本はアメリカと並んで世界で最も高齢者を優遇するグループに分類される。これは、職業ベースで組み立てられた社会政策を、個別主義的な政治競争が補強した結果と説明される。日本の社会政策の高齢者偏重の性格は1990年代にさらに強化されている。 The paper attempts to understand the positioning of Japan's social welfare policiesfor senior citizens in the broad picture of the nation's social policies from a viewpoint ofinternational comparison, following the discussion by Julia Lynch in her book entitled Age inthe Welfare State. In recent years, the function of labor market as well as family has changed,and we further expect on the state-led welfare system. However, when we look at the socialpolicies of each industrialized country especially on the point of how welfare states cover therisks associated with different stages of the life course, the characteristics of each state's "ageorientation" become clear. According to Lynch, the difference between the policies of thestates is due to the structure of early welfare state programs as well as the type of politicalcompetition characteristic of a party system. The ratio of expenditure for senior citizens out ofthe whole expenditure for social policies shows that Japan can be categorized to be one of thetop runners along with the U.S.A. giving prioriy to the policies for senior citizens. This can beexplained that the original social policy based on the principle of occupational attainment hasbeen supplemented by the particularistic competition.
著者
伊藤 泰郎 藤本 倫史 申 明姫
出版者
広島国際学院大学現代社会学部
雑誌
現代社会学 (ISSN:13453289)
巻号頁・発行日
no.10, pp.101-114, 2009

本稿では、広島東洋カープが二軍の本拠地を置く山口県の由宇町を事例として、プロスポーツを軸とした地域おこしの取り組みについて考察を試みた。関係者への聞き取り調査に加えて、2008年8月に由宇練習場の観客を対象とした大量調査を実施し、観客の構成や集客上の問題点、地域への波及効果に関して分析を行った。この調査データは、スポーツファンの研究においても基礎資料ともなるものである。商工会や観光協会を中心に結成された広島東洋カープ由宇協力会は、イベント開催などの取り組みを行っており、二軍チーム専門の応援団である広島東洋カープ由宇応援隊も様々な活動を行っている。これらは一定の成果を上げており、「由宇球場が好き」という回答は観客の7割近くを占める。しかし、由宇練習場の位置付けがあくまでも「練習場」であることから、観客のための設備は不十分な状態にあり、公共交通機関によるアクセスの悪さや駐車場不足などの問題も抱えている。また、現地での物販が制限されていることから、観客の需要が高いにも関わらず、直接的な経済効果はほとんど上がっていない。また、由宇町が当初期待していた既存の観光資源との相乗効果も生まれていない現状にあるが、調査結果ではPR 方法の工夫などによりこうした現状が変化する可能性があることも示された。In this paper, the author looks at a case of regional vitalization with a professional sport, withan example of the town of Yuu, Yamaguchi Prefecture, in which the farm of the professionalbaseball team is based.In addition to interviews with people involved, the author conducted a mass survey of audienceat the Yuu stadium in August 2008, to analyze the composition of the audience, problems inattracting audience and the ripple effects on the town.The approach has accomplished certain achievements; however, facilities for the audiencein the stadium ― a mere practice ground ― remain insufficient, and the access by publictransportation and parking space is limited. Also, because the sales of merchandise in the stadium are restricted, there are few direct economic effects in the town, despite demands fromthe audience.The synergetic effects with existing local tourism resources are yet to come ; however, theresults of the survey show the possibility that the circumstance may change with, for example,a twist of publicity.
著者
目黒 輝美 申 明姫
出版者
広島国際学院大学現代社会学部
雑誌
現代社会学 (ISSN:13453289)
巻号頁・発行日
no.11, pp.91-98, 2010

本論は、研究課題 「福祉学を学ぶ留学生による福祉研究会の設立と運営」のもとに、現代社会学研究科に入学した中国からの大学院生及び研究生による福祉の研究をめざした研究会の活動の成果を報告するものである。2007年度、大学院生一人と研究生一人により、本研究会を設立した。2008年度は、2007年度に研究生であった留学生が、大学院前期課程に入学し、新たに研究生二人を受け入れて、三人で研究会を継続した。二年間延べ四人の中国人留学生による研究会活動の報告である。活動内容は、日本語と中国語の対訳表の作成である。四人とも福祉に係る研究をするために、本学の大学院で学び、日本語の福祉関連の本を読む必要があった。日本語で示された専門用語を理解することと、自分たちが読んで理解した日本語を中国語に翻訳することにより、日本の福祉を学ぶ中国からの学生に寄与できるものを作ろうという試みである。日本語と中国語を対にした辞書的なものを作るということで意見が一致し、月に二回程度集まって、分担した訳語表を作成したものである。日本語の福祉関連用語を「あいうえお順」にならべて、その意味を表わす中国語を併記するというかたちで訳語表を作った。
著者
小林 裕一郎
出版者
広島国際学院大学現代社会学部
雑誌
現代社会学 (ISSN:13453289)
巻号頁・発行日
no.12, pp.3-17, 2011

本稿では、ハンナ・アーレントの初期の著作である『全体主義の起原』における全体主義的な暴力の過程を整理する。アーレントは、20世紀を代表する思想家である。彼女は全体主義の時代をヨーロッパで生きたユダヤ人であり、アメリカに亡命してからは全体主義についての考察をおこなっている。その成果が本稿で対象とする『全体主義の起原』である。今回は本書を分析するために、反ユダヤ主義、ナショナリズム、大衆という全体主義の3 つの要素に着目し考察を進める。これら3 つの要素は、相互に関連しながら全体主義を形成していく。本稿では、こうした要素を中心に歴史的な形成過程をたどりながら、全体主義と反ユダヤ主義との関連を整理る。そして最終的にアーレントの全体主義的な暴力論を示すことを目指す。Diese Studie ist über die Theorie der Gewalt von Hannah Arendt. Unter Theorie der Gewalt versteht jeder etwas anderes. Aber ich erforsche diese Theorie als die Theorie des Totalitarismus.Arendt ist eine repräsentative Denkerin des 20. Jahrhunderts. Berühmt ist sie durch ihr Werk "Elemente und Ursprünge totaler Herrschaft". Dadurch gilt sie als Begründer der Theorie des Totalitarismus. Sie war als eine Jude in Deutschland geboren. Die erste Hälfte dieses Jahrhunderts war ein gewalttätiges Jahrhundert. Sie sah sich mit Schwierigkeiten konfrontiert, weil die totalitäre Gewalt damals die Welt herrschte.Es gab totalitäre Systeme von altes her, so untersuchte sie geschichtliche Ursprünge und Elemente. Die Problematik des Totalitarismus ist wichtig. Aber es ist auch heute schwer zu lösen. Sie ist in vieler Hinsicht nicht ganz gelöst. Der Totalitarismus ist gegen Zivilisation und widermenschlich. Die zukünftige Menschheit hängt von dieser Lösung ab. Einen rein ideologischen Totalitarismus gibt es nicht. Er erscheint in Zusammenhang mit anderen. Ich erforsche diesmal Hannah Arendt nach den Totalitarismus in Zusammenhang mit Nationalismus, Massensteuer, Antisemitismus. Besonders möchte ich die Beziehungen zwischen dem Totaritarismus und Antisemitismus klarmachen.
著者
山田 陽子
出版者
広島国際学院大学現代社会学部
雑誌
現代社会学 (ISSN:13453289)
巻号頁・発行日
no.11, pp.3-14, 2010

本稿の目的は、ソーシャルネットワーキングを介した時間管理術の自主的勉強会における参与観察や参加者へのインタビュー調査をもとに、昨今の「自己啓発」の内実について明らかにすることである。調査の実施期間は2008年6月から2009年3月、インタビュー対象は大手企業勤務のシステムエンジニアやIT系の起業家である。近年、ビジネスマンの自己啓発や仕事の効率性・生産性の向上を目的とした諸々のテクニックの集積体は「時間管理術」や「ライフハック」といった名称で呼ばれることが多い。本稿では、時間管理術やライフハックとは何なのか、人々は時間管理術やライフハックに何を求め、どのような点に魅力を感じているのか、その社会的機能とはどんなものか、時間管理術やライフハックという知が人々をどのように結び付けているのか、時間管理術やライフハックという知が出てきた社会的背景はどのようなものか、時間管理術やライフハックと現代人の自己がどのように関連しているのか等について知識社会学の観点から明らかにする。In this paper, from a viewpoint of sociology of knowledge, I survey the aspects of worker's self-enlightenment today based on the qualitative research concerning the social networks of time management and life-hacks. Methods of self-enlightenment or of working with great efficiency for businessperson frequently are called "life-hacks". In this paper,I interviewed two systems engineers worked in world-wide electronic company and an entrepreneur. In this paper, the following the points at issue are examined."What is the life-hacks?,". "What are social functions of life-hacks?", "What are social backgrounds of life-hacks?", "How does the life-hacks connect people?" and so on.
著者
沢田 善太郎
出版者
広島国際学院大学現代社会学部
雑誌
現代社会学 (ISSN:13453289)
巻号頁・発行日
no.10, pp.3-25, 2009

ハーバーマスは1962年に『公共性の構造転換』を刊行した頃から,1960年代を通じて社会科学方法論の研究に力を入れ,認識主体の関与抜きに対象を認識しようとする実証主義の限界を意識するようになった。ドイツ実証主義論争の後,1967年に発表された「文献報告 社会科学の論理によせて」では,かれは,現象学的社会学,ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論,ガダマーの解釈学などを検討し,生活世界の構成員による相互主観的な意味理解を重視する社会科学方法論を模索した。本稿ではこの論文を中心に,60年代のハーバーマスの著作をとりあげ,『コミュニケーション的行為の理論』にいたるかれのコミュニケーション的転回の端緒の時期の問題状況をあきらかにしたい。 During 1960s, Habermas spent much time to study methoologies of social sciences, since hehad written Structual Transformation Of Public Sphere in 1962. He suspected the positivisticthought to be limited, which assumed that we could recognize the object without our preconceptionabout it. After "the positivist dispute in German sociology", he published "On theLogic of the Social Sciences" in 1967. Therein he examined the phenomenological sociologies,Witgenstein's language-game theory, and Gadamer's hermeneutics, in order to construct themethodology of social sciences, focusing upon the intersubjective meanings of everyone in thelife-world. We will revisit the Habermas's works in 1960s, and bring out the problematics ofthe beginning of his "communicative turn".
著者
沢田 善太郎
出版者
広島国際学院大学現代社会学部
雑誌
現代社会学 (ISSN:13453289)
巻号頁・発行日
no.9, pp.3-24, 2008

公共討議によって,異なる意見を持つ集団がどのようにして,どの程度まで合意に達するかは,討議民主主義論の鍵問題のひとつである。アメリカのコミュニタリアンは,公共討議による合意は,コミュニティ成員のあいだに共有価値が存在することによって可能になると考える。 コミュニタリアニズムの代表的な理論家の1人であるアミタイ・エチオーニは,個人の自由と権利の保障は,コミュニティが有効に維持されていることであるという視点から,アメリカ人は近年,個人の権利を強調しすぎており,個人の権利は縮小されるべきだと主張する。同時に,かれは日本のような権威主義社会や中国のような全体主義社会では,権利や自由の促進が課題になるという。なぜなら,エチオーニによると,人権は,たとえそれを求めるコミュニティの声は小さくても,また,たとえそれが歴史的に西洋に源を発するものであっても,全人類に向かって主張できる普遍的価値であり,西洋がこれらの価値を異文化に適用するときには,第3世界からの抗議によって阻止されてはならないからである。それゆえ,「コミュニティの内なるモラルの声」に耳をかたむけるというアメリカ社会におけるコミュニタリアンの提唱は,非西洋社会では西洋的価値を外部から押しつける普遍主義の思想に転じることになる。これをよくあらわすのは,エチオーニも賛同署名したアメリカのアフガン戦争擁護の意見広告『私たちは何のために戦うか:アメリカからの手紙』に見られる「正しい戦争(just war)」の思想であろう。 さらに,エチオーニは,コミュニティの協働を維持するために,コミュニティ内の諸集団の差異を強調するアイデンティティの政治を抑制することを提唱する。しかし,共有価値にもとづいて,諸集団が歩調をそろえるというコミュニタリアンの理想の背後にあるのは,コミュニティ内部には,たがいに異なる価値とアイデンティティをもち,ときには対立的な諸集団が存在するという事実認識であろう。これこそエチオーニが批判したアイデンティティの政治の基本認識ではあるまいか。 How and how much can public deliberations bring out the consensus among the groups of different thoughts? It seems a key question to the theory of deliberative democracy. Recent American communitarians would answer that the consensus is possible because the community members might share the common values of that community. Amitai Etzioni, one of the leading sociologists and communitarians, believes that the preservation of individual liberty and human rights depends on the maintenance of well integrated communities. Then, he points out that Americans have overemphasized individual rights in recent years, and proposes that individual rights should be curtailed. At the same time, he recommends more individual rights in authoritarian societies like Japan, or, toataltarian societies like China. It is because, according to him, human rights are not only Western value, but also a value that lays claims on all people, even if historically they arose in the West, and, even if the voice to call for human right may be very low and small in some authoritarian or totalitarian communities. Moreover, he contends, these rights should not be deterred by some third world protests when the West applies this validity of these claims. That is, American communitarians' proposals to listen to the moral voice in the community turns into universalism of the Western concept of individual right when applied in non-Western world, and results in enforcement of the Western value, irrelevant to the community in question. Such a view was also reflected in the theory of "just war" stated in "What We're Fighting for: A Letter from America" (2002), an advocacy ad. of Afgan war, to which Etzioni agreed and signed. Etzioni also proposes to limit identity politics, which tends to stress group differences and endanger the cooperation within a community. But, if we abandon the ideal of communitarians that purport subgroups within a community unite together on the basis of common value, we may find the reality of the theory of politics of identity/difference. That is, groups in a community are riven many times by various different group-identities, and the conflicts among the groups are almost inevitable.
著者
小林 裕一郎
出版者
広島国際学院大学現代社会学部
雑誌
現代社会学 (ISSN:13453289)
巻号頁・発行日
no.13, pp.63-77, 2012

本稿は、日本においてノルベルト・エリアスの暴力論がどのように受容されたのかについて明らかにすることを目的とする。エリアスは、1969年まではほとんど知られることのなかった社会学者である。その彼が1970年代以降ヨーロッパをはじめ、日本においても受容されるようになったのはどうしてなのか。またその過程においてエリアスの暴力論はどのように受け取られたのか。本稿はこうした疑問に対して、日本におけるエリアスの暴力論についての論文等を参照しつつ、大まかな受容の流れを解釈しようとする試みである。 Diese Studie ist über den Akzeptanz in Japan für die Theorie von Norbert Elias. Norbert Elias, ein Soziologe in Europa, ist als Forscher der Gewalt und des Sportes. Sein Hauptwerk ist "Über den Prozeß der Zivilisation". Dies deutsch geshriebenes Buch wurde 1939 in der Schweiz gedrückt. Aber es erregte in der Nazizeit keine Aufmerksamkeit. Warum ist Norbert Elias jetzt in Japan bekannt? Und wie ist seine Theorie der Gewalt bekannt? Diese Frage zu lösen ist der Zweck dieser Studie.
著者
増山 栄一 エリック
出版者
広島国際学院大学現代社会学部
雑誌
現代社会学 (ISSN:13453289)
巻号頁・発行日
no.10, pp.115-131, 2009

It has often been criticized that Walt Disney's "They lived happily ever after" storiessuch as Sleeping Beauty and Snow White do not represent the real U.S. society. Inorder to wipe off this criticism, Walt Disney Pictures released Enchanted in whichGiselle the heroine is sent to New York City by evil Queen Narcissa from a fairytaleland, Andalasia where she was supposed to get married with Prince Edward to livehappily ever after. The movie appears to be a success because Walt Disney Picturesintroduces the traditional plots that they have valued for a long time and cleverlyintertwines them with the contemporary alternatives, or the facts of life, some ofwhich should have been mentioned in Disney's works in order to let children knowthat "living happily ever after" cannot always happen in our real lives. When Ichecked people's criticism on this successful movie in Japan and the U.S. written onthe internet, I found interesting differences in their comments and opinions in thesetwo countries. Why do these differences exist? How differently do people in thesetwo countries perceive "They lived happily ever after"? And why? In this paper, Iwill conduct a socio-cultural analysis on this Walt Disney movie, Enchanted, in order to answer these questions. 「ウォルト・ディズニーの『眠れる森の美女』や『白雪姫』等に見る『2人はその後幸せに暮らしました。』はアメリカの現実社会を適切に表していない。」とたびたび批評されてきたが、そのような批評を消し去る為に、ウォルト・ディズニーピクチャーズは『魔法にかけられて』を制作した。この映画では、ヒロインであるジゼルは悪女王ナリッサによっておとぎの国、アンダレージアから現代のニューヨークの町に送られてしまう。ゼジルはアンダレーシアで結婚して、エドワード王子と2人でその後幸せに暮らすはずであった。この映画は成功を収めたが、その理由はディズニーが長い間大切にしてきた伝統的なストーリーラインを、『魔法にかけられて』に盛り込みながらも、それを、ディズニーがもっと前に紹介すべきであった現代的な考え方、言い換えれば日常生活の現実と一緒に映画の中に組み込むことで、「2人はその後幸せに暮らしました。」は必ずしも実際の生活の中では起きるとは限らないと示唆したからである。この成功を果たした映画に対する日本とアメリカの人たちの映画批評をインターネットで読んだ時、国の違いで批評がかなり相違していることに気が付いた。なぜこのような相違が存在するのか。「2人はその後幸せに暮らしました。」は日本とアメリカでいかに相違して受け止められているか。そして、その理由は。私は、この論文でウォルト・ディズニー映画『魔法にかけられて』に関する社会文化的な分析を行い、これらの質問に答えていきたい。
著者
山下 雅彦
出版者
広島国際学院大学現代社会学部
雑誌
現代社会学 (ISSN:13453289)
巻号頁・発行日
no.11, pp.53-65, 2010

本稿は,地域スポーツチームにおける組織文化の意義と機能を明らかにすることを目的とし,高野町雪合戦チームを対象に,インタビュー調査と参与観察を実施し,その内容分析を行った。高野町雪合戦チームのシンボルをダンドリッジ,T.C.らに従い分類し,その機能を分析した結果は以下のとおりである。言語的シンボルとして,S氏,物語,S氏の発言が示された。続いて,行動的シンボルとして,広島県雪合戦大会,家族会,暗黙のルールがあげられた。最後に,チームハウス,トロフィー,賞状,写真,旗,ロゴマークが物理的シンボルとして提示された。これらのシンボルについてT氏,N氏,I氏が語っていく中で「歴史を感じる」,「伝統」,「名誉」,「誇り」,「郷土愛」といった発言があったことから,チームのシンボルは,(1)会員にチームの歴史や伝統を共有させる,(2)会員のチームへのロイヤリティやコミットメントを維持する,(3)世代間交流を促進する,(4)会員間の関係を維持する,(5)対地域社会への「橋渡し型」のネットワークが作動し,地域活性化に貢献する,ということが明らかになった。会員は普段このようなシンボルがあること,そのシンボルを通してチームの伝統や歴史に触れていること,シンボルに則って行動していることなどを意識しているわけではないだろう。しかしながら,会員は日常の活動の中で無意識のうちにシンボルを通してチームの伝統や歴史に触れ,シンボルに則って行動しているのである。 The purpose of this study is to discuss the organizational culture of local sports teams based in intermediate and mountainous areas, taking a snowball fight team in Takano town as an example for a case study. The case study was conducted through interviews and participant observations, which were then analyzed carefully. After their team symbols being categorized according to Dandridge, T. C.etc. and analyzed how they served, following results have been obtained.First of all, Mr S, stories and Mr S's words were indicated as linguistic symbols. Then, Hiroshima Prefecture Snowball Fight Competition, a family council and implicit rules were considered as behavioral symbols. Lastly, their team house, trophies, certificates, pictures, flag, team logo were given as physical symbols. During the talk, Mr T, Mr N, and Mr I mentioned certain words, including 'tradition,' 'honor,' 'pride' and 'love for their hometown,' saying that they felt their history. Considering these, it has been reveled that the team symbols are serving to help them (1) share the team's history and tradition among members, (2) maintain their loyalty and commitment to the team, (3) encourage communications between different generations and (4) contribute to revitalizing their community, (5) The network acts as a bridge for the local community, contributing to revitalization of the community.
著者
谷口 重徳
出版者
広島国際学院大学現代社会学部
雑誌
現代社会学 (ISSN:13453289)
巻号頁・発行日
no.8, pp.3-19, 2007

本稿の目的は、「サークルアーティスト」(谷口[2001])とよばれる芸術家と支援者の存様態について理論的な視点から検討を試みることにある。サークルアーティストとは、分自身とその支援者の密接な関係性に活動の基盤を置く芸術家を指す概念である(谷口2001])。本稿では、まず近年の芸術社会学や文化社会学等において、"Distributors"が論的に重視されつつあることを論じる。これは狭義の「流通」にとどまらず、芸術(作品)と社会との関係や、芸術作品の作り手と受け手との関係を媒介するという意味を含む、広義の「流通の担い手」として位置づけられる。次に、本稿は、H・ベッカーによる「芸術世界」の概念を取り上げ、サークルアーティストの概念と関連づけつつ議論を進めていく。関与者による芸術活動の共同性を重視する「芸術世界」の概念は、サークルアーティストの存在様態を検討するうえで、大きな手がかりを与えてくれる。サークルアーティストは、芸術活動のキャリアを通じて、不特定多数ではなく、「比較的閉じられた人間関係の範囲」に活動の基盤を置く。この「比較的閉じられた人間関係の範囲」は、同時に、芸術家とその支援者たちにとっては芸術に対する認識を醸成する場でもありうる。しかし、このことは、作品の不特定多数の受容者への流通可能性を妨げる原因にもなりうる。サークルアーティストにとって、支援者は「流通の担い手」でもあるのだが、支援者は、芸術への認識について、支援対象の芸術家の影響を強く受ける。そのため、不特定多数を対象とした「文化産業システム」に見られるような、作品の流通可能性を高めるための重層的な「フィルター」の機能が期待できない。結果的に、作品の不特定多数への流通可能性が高まらず、作品は、支援者を中心に流通していくのである。本稿は、このようなサークルアーティストとよばれる芸術家とその支援者の関係性を検討することで、芸術活動における媒介の問題をとらえるひとつの視点を提示しようとするものである。 The purpose of this paper is to reconsider the relationship of artists and their support personnel in making artwork. The analysis is largely based on Howard S. Becker's conceptual model of the 'Art Worlds'. Becker argues that the arts are embedded in what he calls 'art worlds,' which is a network of people whose cooperative activity, organized via their joint knowledge of conventional means of doing things, produces various art works. Becker emphasizes that art is a collective activity, not the product of lone geniuses. Some individuals are called 'core personnel' because they contribute most of the creative work, have the special skills of an artist, and are the central organizers in creating a piece of artwork. Other individuals are called 'support personnel' because they perform the remaining activities that require administrative skills, business acumen, or some other supplemental ability. Thus, thecore personnel' and the 'support personnel' are bundled in an art world. Once the 'artists' (the core personnel and the support personnel) complete a work, they need to distribute it and invest additional time, money, and materials in the work so that more future resources will be available with which to make more works. Becker discusses three types of distribution systems, including those based on self-support, patronage, and public sale. This paper considers the self-support type. Self-support occurs when 'artists' (the core personnel and the support personnel), distribute their own work by themselves or through small networks. The latter includes networks focused on friends, family, or partners. The most important limitation of the self-support distribution is that the audience is small. As Paul M. Hirsh discussed, distribution systems are affected in some way by gatekeepers in order for new cultural products or ideas to reach the larger public. Yet for self-support distribution, the artwork is already partially delivered through the distribution system.
著者
櫻井 啓一郎 谷光 透
出版者
広島国際学院大学現代社会学部
雑誌
現代社会学 (ISSN:13453289)
巻号頁・発行日
no.11, pp.29-38, 2010

意思決定をテーマに心理学や経済学や経営学などを中心に様々な理論が生み出されてきた。経済学におけるように理想的な意思決定をすることができれば問題はないが、実際の意思決定は完全なものはありえない。ある状況下において最適な意思決定ができることが最も良い選択と言える。その選択については現代の言語理論を利用することにより、人間の脳から生み出される出力の過程を理論で分析すること、つまり認知科学、によって説明することができると考えられる。本稿では音韻論のひとつの理論である最適性理論を用いて、さらに心理学のヒューリスティックやバイアスなどの概念を取り入れることにより、意思決定についてより緻密な決定が可能であると提案する。ただし最適性理論で用いられる制約は普遍的なものでなければならず、心理学のヒューリスティックやバイアスについて普遍的な制約として新たに生み出さなければならない。To date, numerous theories about decision-making have been generated in fields such as psychology, economics, and management. It would be best if idealistic decision-making could be attained as in economics, but it is very difficult to identify the best decision to take. Achieving optimal decision-making under a particular circumstance can be said to be making the best choice. It is thought that the choice can be explained by utilizing modern theories of language, and analyzing the process of outputs generated through the human brain, that is, through cognitive science. In this paper, I propose that we can achieve more systematic decision-making by utilizing Optimality Theory, which is a theory associated with phonology, and by introducing the principle of heuristics and biases from psychology. The constraints used in Optimality Theory have to be universal, and it will be necessary to create new universal constraints on heuristics and biases.