著者
長 志珠絵
出版者
ジェンダー史学会
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.21-35, 2015 (Released:2016-11-10)
参考文献数
20

第二次世界大戦を通じ本格化した「空爆」は、前線と銃後の線引きをゆるがし、「防空」を「国民」の義務とした。では戦時下日本での防空言説は、兵役を担わない性をどのように位置づけていったのか。本稿は、戦時下日本での「空襲」に関わるジェンダー表象を戦時下の防空言説および戦後の空襲記録運動に時間軸を延ばすことで分析した。1章は空襲研究とジェンダー射程との接合として課題を設定した。2 章は本稿の中心的な章である。第一次世界大戦後の科学兵器の開発競争と関わって防空言説の登場は早く、1932 年以降の防空体制の検討は、地域婦人会をはじめ、銃後の女性役割を意味付け、「家庭防空」が強調された。また日本軍の開発兵器でもあった毒ガス攻撃対策の一方、焼夷弾訓練など、人びとが自身の身体を守るための知は提供されなかった。日中戦争以降、改定を重ねる「防空法」はしだいに都市住民としての女性たちを銃後の性から都市防空の守り手へとその境界領域を侵犯させ、空爆が始まると即戦力であることを期待され、女性ジェンダー表象からは逸脱した。しかし占領期、戦後の空襲イメージは、求められる女性表象と密接に関係している。防空の担い手としての心性は「敗戦」下ですぐには切断されないものの、占領軍の空爆調査はジェンダーや民族の線引きを引き直し、戦意喪失過程の「日本人論」として描きなおされた。3章では市民運動としての空襲記録運動のジェンダー偏向について指摘した。成人女性の多様な語りが多く含まれることで担保されていた、前線と銃後の線引きのゆらぎのリアリティや両義性は、空襲記録運動の言説が戦争被害者としての「日本人」の語りに収斂されるなかで単線化していく。「終わりに」も含め、敗戦占領から戦後史へ、と続く過程を既存の線引きを引き直す力学としてとらえ、今日の「国民」の物語としての「子ども」を主人公とした空襲被害の物語の持つ危険性と戦時下のジェンダー線引きへの着目の持つ有効性を再度確認した。
著者
李 杏理
出版者
ジェンダー史学会
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.37-53, 2017-10-20 (Released:2018-11-01)
参考文献数
39

本稿は、在日朝鮮人による濁酒闘争について、1930-40年代の史的・政策的背景を踏まえてそのジェンダー要因を探る。在日朝鮮人女性の存在形態は、植民地期から6割を超える不就学と9割を超える非識字により底辺の労働にしか就けない条件下にあった。日本の協和会体制下では日常にも帝国権力が入り込み濁酒を含む生活文化が否定された。それでも朝鮮人女性が濁酒を「密造」したという個別の記録があり、小さな抵抗は積み重ねられてきた。「解放」を迎えた朝鮮人女性たちは、いち早く女性運動を組織し、ドメスティック・バイオレンスの解決や識字学級、脱皇民化・脱植民地の新たな生を歩み始めた。ようやく自由に朝鮮語や歴史を学び、自分たちが置かれてきた境遇を知ることが可能となった。しかし、日本の敗戦と「解放」は在日朝鮮人にとって失職を意味し、恒常的な食糧難と貧困をもたらした。日本の民衆だれもがヤミに関わって生きるなか朝鮮人に対していっそう取り締まりが強化された。在日朝鮮人が濁酒をつくる背景には、①朝鮮人の貧窮と生計手段の少なさ、②朝鮮人にとっての酒造文化と植民地「解放」のインパクト、③検察・警察による朝鮮人の標的化、④ジェンダー要因があった。在日朝鮮人運動の男性リーダーは、「解放民族として」濁酒をやめるべきだとした。それでも女性たちは濁酒をつくり続け、生きる術とした。女性たちが濁酒闘争の先頭にたち、女性運動団体は交渉現場にともに立った。地域によって警察に謝罪を表明させたり、職場を要求し斡旋の約束を取り付けたりもした。濁酒闘争は、植民地「解放」のインパクトの中で、民族差別とジェンダー差別を生み出す旧帝国日本の権力に異議申し立てをし、生活の現実とジェンダー差を明るみにしたという意味で、「脱帝国のフェミニズム」を思考/ 志向する上での重要な参照項となりうる。
著者
高安 桃子
出版者
ジェンダー史学会
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.51-65, 2009 (Released:2010-11-02)
参考文献数
25

This paper discusses the measures taken to assist disabled soldiers in finding marriage partners from the outbreak of the war between Japan and China to the Pacific War. I will also consider the role that disabled soldiers and their wives were expected to play during wartime. During the war years, the numbers of disabled soldiers increased dramatically, and measures were taken to help these disabled soldiers find marriage partners.This program to aid disabled soldiers began in 1938 when an organization of women took the lead in efforts to introduce future partners to disabled soldiers. In response to a request from the government, the activities were extended to the whole country in 1941.A number of goals lay behind the program including: a desire to assist in the rehabilitation of disabled soldiers so that they might comeback to serve the nation; a desire to secure manpower; and bestowing honor on the soldiers. Disabled soldiers needed a strong commitment if they were to complete rehabilitation, and also needed to have a sense of their own identity as disabled soldiers. Thus it was important to draw a distinction between those with congenital disabilities, and the disabilities of the soldiers who were wounded in combat.The movement sought Japanese woman who were willing to marry disabled soldiers. Women did not normally join the military services, but marrying a disabled soldier and relieving him of despair was promoted as a way for a woman to serve the nation. In the training schools set up to support the brides of disabled soldiers, women were taught useful vocations so that they would be able to earn a living instead of their husbands.The disabled soldier's wife was also expected to be a caregiver. The wife's most important role was to support the rehabilitation of her husband so that he could again serve the nation. She was supposed to be strong enough to bear the burden in her marriage. We can imagine that it must have taken a very strong resolve for a woman to decide to marry a disabled soldier.
著者
坂井 博美
出版者
ジェンダー史学会
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.31-44, 2008 (Released:2011-12-20)
参考文献数
26

This paper explores the various aspects of employment of jochu (maids) by Taisho feminists. Studies on the modern family have suggested that one of the characteristics of modern families is the exclusion of unrelated persons. However, the urban middle class in the Taisho era, which first formed modern families in Japan, often hired maids in their homes. This paper explores the impacts of experience in employing maids, especially in the 1910s and the 1920s, on the lives of the feminists' family members, their family relationships and their ideas, mainly focusing on three members of Seito: Iwano Kiyo, Hiratsuka Raicho and Yosano Akiko. It also examines the nature of their relationships with the maids.The urban middle class, which aspired to high-standards in household affairs, inevitably incorporated labor of lower-class women and women without family bonds. Employment of maids was also essential for feminists who wished to engage in social activities. Although the feminists who desired family intimacy felt uncomfortable living with their acquaintances and relatives, they easily accepted living with maids, whom they regarded as insignificant beings who were less educated and of the lower class.While maids inevitably existed in the feminists' lives, they seldom appeared in the feminists' arguments. The feminists, in general, did not deeply reflect on problems related to maids such as labor conditions. Nonetheless, as the public concern over labor problems was growing, the conditions surrounding maids began to be questioned. Yosano, in particular, suggested that it was necessary to raise their status, and to regard the work as a full-fledged career. The solutions provided by the feminists, however, seem to be merely emotional ones such as treating maids compassionately. This is because there were conflicts of interest between the feminists and maids, and also because the feminists shared with the general public a gender ideology that viewed work as a maid as a temporary job.
著者
陣内 恵梨
出版者
ジェンダー史学会
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.31-45, 2022-10-14 (Released:2023-10-13)
参考文献数
13

これまで神功皇后に関する研究には、絵馬や浮世絵、絵葉書や紙幣などの表象を取り扱ったものがあった。それらの先行研究からは、神功皇后のイメージが、為政者にとって、軍事的・ジェンダー的な観点から、非常に有益な両面性を備えた女性シンボルであったことが解明されてきた。第一に、神功皇后が国家主義的な政策・方針に利用可能な軍神的側面を持ち合わせていたこと1。神託に従い、朝鮮半島を征服した神功皇后の「三韓征伐」伝説は、前近代より、同時代の日本人の朝鮮半島への差別・領有意識を助長し、大陸への侵略思想を掻き立てる戦争プロパガンダとして機能するものであった。第二に、神功皇后が近代的女性規範に適応可能な母神的側面を有していたこと2。今日まで安産信仰で知られている岩田帯(腹帯)伝説に語り継がれているように、応神天皇を出産し、天皇の母となった神功皇后は、近代における女性国民の最重要課題として設定された、国民の再生産との高い親和性を備えていた、と指摘されてきた。しかしながら、神功皇后には、それだけでない別の側面も存在していた。記紀神話において「男装し、軍を率いた」「60年以上、国を統治した」神功皇后は、明治政府の推進した男性天皇の擁立と近代的性別規範と真っ向から対立し、齟齬を生み出す存在でもあった。先行研究において、長は「女性兵士と産む身体を兼ね備えるというイメージ像を広く知られていることで、近代国民国家が構築しようとする性差の境界をおびやかす。利用しやすい素材ではなかっただろう3」と述べている。原は、長の指摘を踏まえた上で、明治天皇の御真影の作者として有名な印刷局のお雇い外国人・キヨッソーネによってデザインされた神功皇后図像(以下、「キヨッソーネ神功皇后図像」と称す)の非戦闘性4と女性性の強調5に着目し、「キヨッソーネ神功皇后図像」【図1】とは、既存の神功皇后観とは乖離した「銃後の神功皇后像6」としてデザインされた表象ではないかと推測している7。明治政府は「王政復古」の象徴として神武天皇に加えて神功皇后を使用する際、最も著名な皇后である神功皇后の武闘的イメージの転換を試みたものの、時代が日清・日露戦争を迎える中、武闘的な神功皇后が適合的なモデルとして浮上してしまったと述べている8。さらに、神功皇后表象の一部には9、軍勢を指揮する神功皇后の傍らに武装した侍女、あるいは女性の兵士が登場する10。イメージの世界において、麾下に男性兵士のみならず、女性の兵士をも追随させていた神功皇后は、女性を銃後から前線へと進出させる力を備えていたのである11。しかしながら、男女の性別分業制が近代国民国家の基盤である以上、下手をすれば生身の女性をも公的領域へと進出させかねない神功皇后は、確かに、長の指摘する通り「利用しやすい素材」ではなく、原が推測するように転換しなければならない女性像であった。それでも、二人の指摘通り、神功皇后の武闘的なイメージは、対外戦争の軍神としての使い勝手の良さから、日清・日露戦争へ向けて、引き続き国内で使用されていたことは間違いない。そこで本稿では、1725年から 1999年にかけて、国内で制作・流通した神功皇后図像全268 件の通史的分析の結果、明治日本が 本格的な対外戦争を迎える以前、1880年から1890年代にかけて、イメージの世界において、二つの変化があったことを取り上げたい12。一つ目が、1890 年代以降に制作・流通した図像群から、神功皇后に付き従って、前線に赴いた女性兵士の姿が確認できなくなっていること13。二つ目が、神功皇后の「60 年以上、国を統治した」逸話に由来する「女帝」としての神功皇后図像が、1890年代以降に制作・流通していた図像群から、発見できなかったことである。つまり、神功皇后の武闘的なイメージが引き続き使用されていた一方で、1880年から1890年代にかけて、庶民レベルで共有されていた神功皇后イメージから14、「女帝」神功皇后図像が消失していく、何らかの要因があったと考えられる。神功皇后の「女帝」側面が完全に否定されるのは、1926年10月の詔書においてだが15、イメージの世界ではそれよりも早くに「女帝」神功皇后図像が確認できなくなっている。水戸藩の『大日本史』によって、神功皇后は女帝ではなく皇后とする歴史観が定着するまで16、神功皇后は息子・応神天皇の摂政(補佐役)ではなく、天照大神に次ぐ高貴な女性であり「女帝(第十五代天皇)」の始まりであると認識されていた。1786 年『武者かゞみ 一名人相合 南伝二』【図2】の図像は、その好例である。まず、画中の神功皇后の被っている冠が、日輪の飾りと独特の形状から、天皇にのみ許された冕冠だと推測できる。さらに、束帯の胸元には皇帝の象徴である金色の龍(黄竜)が大きく描かれ、その左右には日月が配置されている。他にも、左袖には神功皇后が武器とした鉞の他に、霊獣・白虎や鳳凰(あるいは鸞)が意匠として施されている。また、背景の文章から「崩御」の文字が読み取れるため、装飾と合わせて、通り名こそ神功「皇后」であっても、実質的には仲哀天皇に次ぐ「第十五代天皇」、すなわち「女帝」として扱われていた様子を読み取れる17。なお、「女帝」神功皇后の影響力は、皇朝に限定されておらず、武家政権においても通用した。神功皇后の引用は、女性政治家として辣腕を振るった北条政子の政治参与を賛美し、日野富子による執政を正当化する根拠として扱われていたのである18。このような神功皇后の政治的な側面は、儒教に代表される男性支配の原理のみならず、女性を私的領域の要たる家庭に配置し、母親として育児に専念させようとする近代国家の性別分業制をも揺るがしかねない。長・原同様に神功皇后の政治的な危険性を指摘した千葉は「1880年代以降において、神功皇后のようなファルスを持つ女性像は、女権運動をはじめとする性的侵犯と結び付けられ社会的タブーとされ」、男性たちに自らの地位が脅かされるような恐怖を与えるものであったと言及している19。さらに、明治の新政府が政治の領域からの「女権」の排除に積極的であったことから20、まだ海外領土獲得のプロパガンダとして活用できる神功皇后の武闘的なイメージよりも、女性の政治参与に繋がりかねない「女帝」イメージは、男性中心社会において、ひどく目障りな側面であったと推測できる21。先行研究において、近代的性別規範を逸脱する神功皇后の軍神的側面は「日清・日露戦争という対外戦争を経て、戦争の体験が社会化していく」過程で「急速に変質させられ」いずれは「消去される」と述べられてはいるが22、女性の政治参与を肯定する神功皇后の政治的側面の消去の過程については、管見の限り、これまでに言及されてこなかった。そこで、本論文では、先行研究における千葉の指摘を踏まえ、近代的性別規範との齟齬を生み出す「女帝」神功皇后が、近代国民国家における男性優位社会を揺るがす危険性を孕んでいたことを、明治初期の女権拡張運動における神功皇后関連の言説より明らかにする。同時に、女権拡張運動が盛り上がりを見せながらも「男装し、軍を率いた」「60年以上、国を統治した」神功皇后と近代的性別規範とが、大きな衝突を生むことがなかった理由を、神功皇后を表紙絵・創刊号に採用した『女学新誌』『女学雑誌』から読み解く。そして、女権拡張運動の後継者として登場し、女性の地位向上を謳う「女学」を提唱した両誌における神功皇后の読み替えの痕跡を浮き彫りにすることによって、「女帝」神功皇后イメージの排除の流れを明らかにすることを本論文の目的としている。
著者
片倉 綾那
出版者
ジェンダー史学会
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.45-56, 2008 (Released:2011-12-20)
参考文献数
32

This essay investigates the identity of Byzantine princess Anna Komnene through a consideration of two conspiracies in which she was involved.Before and after the accession of the Alexios I Komnenos, who was the founder of the Komnenos Dynasty, there were three women, who played roles on the political stage. Each of them participated in politics as mothers and wives of emperors on behalf of their children.However, there was a princess who had ambitions for herself, not her own children. This princess is Anna Komnene, who was the first-child of Alexios I. She is famous as the author of "Alexias" and the only female historian in the society of medieval Christianity. But she has another identity, as a chief conspiratress. She attempted plots in order to gain for herself a government post during Alexios I's reign, claiming her right of place as the emperor's first-child.Some scholars have analyzed these two plots by Anna as part of the long history of political struggles and intrigues that characterized the political history in the Komnenian era. On the other hand, other scholars have used the incidents as a way to focus on the role of imperial women who participated in these events; they have investigated the political role of imperial women through a close examination of their participation in these plots.In this essay I focus not only on the patterns of action by the women, but also on the incidents as an important part of the way in which Anna forged her own identity. I believe this approach will allow us to see more clearly how Anna used the incidents to strengthen her own position.In this paper, the hypothesis is demonstrated that the two plots in 1118 and 1119 were Anna's attempts to recover her right to the throne. Firstly, I describe Anna's role in these affairs as revealed through consideration of the process of development of the two conspiracies. Next, I examine the ways in which imperial women in general were able to participate in politics and compare these with Anna's actions in these two incidents. Finally, I look into Anna's identity, as the first-child of the emperor and the empress.
著者
広瀬 玲子
出版者
ジェンダー史学会
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.17-32, 2014-10-20 (Released:2015-12-29)
参考文献数
32

1945 年の敗戦時日本帝国の支配は東アジア・東南アジア・太平洋地域に及んでいた。朝鮮半島もその一地域である。そこに約75 万人の日本人が移動・定着して家族を形成し、植民地での特権的生活を送った。35 年間の植民地支配の過程で、植民者一世・二世(あるいは三世)という世代形成がなされた。本稿は、朝鮮で植民者として暮らした日本女性に焦点を当てた。被植民者に対し抑圧者・支配者であった女性に関する研究は少ない。まず、朝鮮における日本女性の人口・職業構成を明らかにし、彼女たちの植民地での位置を概観した。続いて、女性たちのあり様を、一世の経験としての愛国婦人会の結成と活動を通して考察する。朝鮮における愛国婦人会の結成は併合以前の1906 年であり、それも内地の愛国婦人会結成と歩みを揃えて行われた。これは日本の支配層が植民地化推進に女性の力を不可欠としたことを示している。愛国婦人会は「文明化の使命」の理念を掲げ、朝鮮王室や支配層の女性の多数を組織しながら活動を展開していった。さらに女性たちのあり様を、二世の経験としての女学校生活という側面から明らかにした。具体的には京城第一公立高等女学校生の植民地経験をとりあげた。朝鮮で生まれ育った彼女たちは高等女学校生として「幸せな」学園生活を送るが、それは支配者としての特権の享受のうえに成り立っていた。彼女たちの大半は、自らが「植民者= 侵略者」であるという自覚なしに生活した。そこには支配を支配と感じさせない暴力、被植民者を不可視化する暴力が働いていていた。日本の敗戦により、「自分が侵略者であった」とつきつけられ、引揚げたのちに、内なる植民地主義をいかに解体するのかが課題となるが、いまだに果たされたとは言えない。さいごに、少数ではあるがこの課題に応えようとする女性植民者の事例を紹介し、植民地主義解体の可能性について考察した。
著者
内田 雅克
出版者
ジェンダー史学会
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.75-84, 2012 (Released:2013-11-30)
参考文献数
10
被引用文献数
2

アジア・太平洋戦争期、『少年倶楽部』はジェンダー・イデオロギー生産装置として機能し、軍人を男のモデルとして「男らしさ」を連呼し、「少年」をウィークネス・フォビアの包囲網に囲み、そして戦場に送り続けた。やがて敗戦とともに、『少年倶楽部』は、その薄い冊子に平和と希望を語り始めた。だが、その厚さと同様、戦前のあの勢いは全く見られなかった。少年には希望や平和・反戦が語られるなか、戦前に野球を愛した男たちは早くも動き出し、GHQの後押しを受けながら次々と野球の復活を実現した。GHQの軍人、日系アメリカ人、プロ野球や学生野球を導く男たちには、それぞれの野球に対する思いがあった。そして野球復活のプロセスのなかで、精神野球のイデオローグ飛田穂洲を中心に、野球少年の美しさ、純情、さらに国家の再建を彼らに託す声が聞こえ始めた。やがて少年向けの野球雑誌が誕生し、飛田をはじめ野球に「少年」が学ぶべき「男らしさ」を見出す男たちは、戦い・団結・仇討の精神を、そしてそこに映る至極の少年美を語った。再開した高校野球の球児は、かつて夭折へと導かれた少年兵とその姿を重ねた。少年雑誌が見せたのは、「軍人的男性性」の復活といえよう。戦闘的な「男らしさ」は、一見平和を象徴する野球というスポーツを媒体とし、『野球少年』のような少年雑誌のなかで再びその姿を見せ始めたのだった。もちろん、少年雑誌が見せた復古的なマスキュリニティがかつてのヘゲモニックな地位に返り咲いた訳ではない。ジェンダーの境界線が揺さぶられ、決定的な男性モデルが喪失した占領下という時代は、複数のマスキュリニティーズの出現を可能にしていた。歴史的文脈において、それらを読み解いてゆくのが本研究のテーマであり、本稿はその第一章である。
著者
板橋 晶子
出版者
ジェンダー史学会
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.81-93, 2009 (Released:2010-11-02)
参考文献数
20

This paper examines the images of women used in cosmetics advertising during World War II in the United States. Under conditions of full-scale war, the question of whether women should continue to be "glamorous as usual" by using cosmetics was a controversial subject. The national concern for applying makeup reflected the changing conditions of women and the public uneasiness about the ever-expanding role of women during the war.Advertising for cosmetics frequently depicted women war workers as doing "man-sized jobs," and performing a crucial role in the war effort. Despite such rigors, however, the women in the advertising kept their femininity intact by using cosmetics. Promoting their products as morale boosters, especially for women war workers, these advertisements often suggested to women the possibilities of being more self-assertive, self-confident, and of joining the war effort more actively, even transgressing the limits set by traditional gender norms.At the same time, women wearing makeup in public spaces often implied a sexually independent character, and could be seen as a challenge to conventional norms of acceptable sexual attitudes and behavior. Although sexually attractive women were required in wartime to provide entertainment to servicemen, the appearance of women in such overtly sexual roles was sometimes seen as "promiscuous."Nevertheless, cosmetics advertising during the war carefully circumscribed the limits of the traditional notions of gender and sexuality by appealing to women to buy and use their products in order to attract men, especially service men, holding out the hope of eventually finding a marriage partner. Although cosmetics had come to stand for a new meaning during the war—highlighted as essential for women's well being and good morale—they conveyed contradictory messages to women, and never offered a consistent answer to the question of why women should have continued to be "glamorous as usual."
著者
伊集院 葉子
出版者
ジェンダー史学会
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.39-51, 2013 (Released:2015-12-29)
参考文献数
33

日本の律令女官制度は、男女ともに王権への仕奉(奉仕)を担った律令制以前(7世紀以前)の遺制を踏襲し、天皇の意思伝達・政務運営・日常生活への奉仕を中心的な役割として出発した。しかし、平安初期の9世紀には、律令女官制度は大きな変容を遂げた。氏を基盤とし、男女ともに仕奉するべきだという理念を根幹に据えた女性の出仕形態が失われ、国政に関わる職掌を男官に取って代わられるとともに、皇后を頂点とする後宮制度の確立によって、天皇に奉仕する存在から後宮の階層性のなかに位置づけられる存在へと変化していったのである。 この律令女官の後退の時期に出現するのが、「女房」である。女房は、天皇に仕える「上の女房」、貴族の家に仕える「家の女房」、后妃に仕える「キサキの女房」があるが、このうち「キサキの女房」の出現は、9世紀の後宮の確立にともなうキサキの内裏居住と不可分のものであった。 キサキの女房は、本来はキサキに仕える私的存在にすぎない。ところが、キサキが后位にのぼり、後宮のトップの地位を獲得すると、仕える女性たちの地位にも変化が生まれた。女官として公的存在に転化するのである。文徳朝における天皇と母后・藤原順子の「同居」に続き、初の幼帝・清和天皇(在位858-876)の即位によって天皇と母后・藤原明子の内裏内居住が実現し、それをテコにした皇太后の後宮支配が確立した清和朝には、母后の「家人」であった上毛野朝臣滋子が後宮に進出し、最終的には典侍正三位にまで昇った。幼帝即位による皇太后の「皇権代行権能」の発揮が、母后の私的使用人であったキサキの女房を「公的存在」に転化させる契機となったのである。 上毛野滋子を素材に、キサキの女房が女官という公的存在に転化する具体例を検討し、女性の出仕が、氏を基盤とするあり方から、権門勢家とのつながりに依拠する形態へと変容していく転換点を考察するのが、本稿の目的である。
著者
加納 実紀代
出版者
ジェンダー史学会
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.5-19, 2015 (Released:2016-11-10)
参考文献数
21

日本の原発導入は、1953 年12 月のアイゼンハワー米大統領の国連演説「原子力の平和利用」に始まるが、その年は日本の「電化元年」でもあった。テレビ放映が始まり、家庭電化製品が相次いで売り出された。54 年3 月には「原子力の平和利用」は国策として動き出すが、それにともなって電化ブームがおこり、55 年にはテレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫が「三種の神器」としてもてはやされる。その背景には、占領下において流布した原爆の威力への肯定的評価やアメリカ文化の紹介によってかき立てられた電化生活への憧れがあった。1952 年4 月の独立後、原爆の人体への被害が報道されるようになるが、物理学者武谷三男は被爆国だからこそ「平和利用」すべきだという原発推進の論理を展開、『読売新聞』を中心とするマスメディアも、アメリカと協力して「平和利用博覧会」を主催するなどキャンペーンにつとめた。その一方、54 年3 月のアメリカの水爆実験によるビキニ事件をきっかけに、女性を中心に原水爆禁止署名運動が盛り上がり、55 年8 月には国民の3 分の1 以上という多数の署名が集まっている。原発導入と原水爆禁止運動は両立・同時進行したことになる。それを可能にした一因として、「原子力の平和利用」という経済発展は男性、原水爆禁止という平和運動は女性というジェンダー分業があげられる。電化生活による近代化、産業構造の高度化により、社員・主婦というジェンダー分業を柱とする近代家族が普遍化したが、それは家庭内にとどまらず、進歩・発展は男性、ケアや後始末は女性という社会的分業をも定着強化した。
著者
青山 薫
出版者
ジェンダー史学会
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.19-36, 2016

<p>昨年、全米で法制化されるなどして話題になった「同性婚」<sup>1 </sup>。日本では、その法制化が現実味を帯びないうちに賛否両論が出揃った感がある。本稿は、この議論をふまえ、「同性婚」やこれに準ずる「同性パートナーシップ」を想定することが、現在の世界と日本社会でどのような意味をもつのかを考察する。</p><p>そのために本稿は、まず、世界で初めて同性カップルの「登録パートナーシップ」を法制化したデンマーク、やはり初めて同性同士の法律婚を可能にしたオランダ、特徴的な「市民パートナーシップ」制度を創設したイギリス、そして「婚姻の平等」化で世界に影響を与えたアメリカにおける、「同性婚」制度の現代史を概観する。そしてこれら各国の経験に基づいて、「同性婚」が何を変え、何を温存するのかを考察する。そこでは、「同性婚」が近代産業資本主義社会の基礎としての異性婚に倣い、カップル主義規範を温存させることを指摘する。また、「同性婚」が、異性婚の必然であった性別役割分業・性と生殖の一致・「男同士の絆」(セジウィック)を変化させる可能性についても論じる。次に本稿は、近年の日本における「同性婚」に関する賛否両論を概観する。そこでは、賛成論が、同性婚の1)自由・平等の制度的保証面、2)国際法的正当性、3)象徴的意義、4)実生活の必要性に依拠していること、反対論が、同性婚の1) 性的少数者の中のマイノリティ排除、2)経済的弱者の排除、3)社会規範・国家法制度への包摂、4)新自由主義経済政策との親和性を問題視していることを指摘する。</p><p>そのうえで本稿は、異性愛規範が脆くなってきた今、抗し難い「愛」の言説を通じて「LGBT」が結婚できる「善き市民」として社会に包摂されるとき、他のマイノリティを排除していること、さらに、日本における包摂には、欧米の「同性婚」議論では「愛」と同様に重要視されてきた自由と平等の権利さえ伴っていないことに注意を注ぐよう、読者に呼びかける。</p>
著者
長 志珠絵
出版者
ジェンダー史学会
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.21-35, 2015

<p>第二次世界大戦を通じ本格化した「空爆」は、前線と銃後の線引きをゆるがし、「防空」を「国民」の義務とした。では戦時下日本での防空言説は、兵役を担わない性をどのように位置づけていったのか。本稿は、戦時下日本での「空襲」に関わるジェンダー表象を戦時下の防空言説および戦後の空襲記録運動に時間軸を延ばすことで分析した。1章は空襲研究とジェンダー射程との接合として課題を設定した。2 章は本稿の中心的な章である。第一次世界大戦後の科学兵器の開発競争と関わって防空言説の登場は早く、1932 年以降の防空体制の検討は、地域婦人会をはじめ、銃後の女性役割を意味付け、「家庭防空」が強調された。また日本軍の開発兵器でもあった毒ガス攻撃対策の一方、焼夷弾訓練など、人びとが自身の身体を守るための知は提供されなかった。日中戦争以降、改定を重ねる「防空法」はしだいに都市住民としての女性たちを銃後の性から都市防空の守り手へとその境界領域を侵犯させ、空爆が始まると即戦力であることを期待され、女性ジェンダー表象からは逸脱した。しかし占領期、戦後の空襲イメージは、求められる女性表象と密接に関係している。防空の担い手としての心性は「敗戦」下ですぐには切断されないものの、占領軍の空爆調査はジェンダーや民族の線引きを引き直し、戦意喪失過程の「日本人論」として描きなおされた。3章では市民運動としての空襲記録運動のジェンダー偏向について指摘した。成人女性の多様な語りが多く含まれることで担保されていた、前線と銃後の線引きのゆらぎのリアリティや両義性は、空襲記録運動の言説が戦争被害者としての「日本人」の語りに収斂されるなかで単線化していく。「終わりに」も含め、敗戦占領から戦後史へ、と続く過程を既存の線引きを引き直す力学としてとらえ、今日の「国民」の物語としての「子ども」を主人公とした空襲被害の物語の持つ危険性と戦時下のジェンダー線引きへの着目の持つ有効性を再度確認した。</p>
著者
新保 淳乃
出版者
ジェンダー史学会
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.29-42, 2010 (Released:2011-10-01)
参考文献数
25

This paper will examine the visual representations of plague victims as a specific complex of gender and class images. After the 1630 pandemic in Italy, the images of plague victims appeared in the official plague altarpieces commissioned by the city authorities during or just after the epidemic; they served as the collective votive objects (ex. The Neapolitan altarpiece by Luca Giordano for the memorial church of S.Maria del Pianto, ca.1660-61). Analysis of the historical context and visual languages will contribute to a better understanding of the characteristics of this genre and the unstated assumptions lying behind these paintings. In the foreground of the altarpiece, the miserable scene of the lazzaretto or quarantine camp is depicted with a crude realism. The victims in this scene are clearly represented as the Poor. On their naked bodies, one can easily distinguish the plague symptoms. In the 17th-century, the painters following Raphael's model, uniformly chose to insert a motif of a dead mother with a child clinging to her breasts and some male workers carrying the dead. This group became a leitmotif for plague imagery. In sharp contrast to the Virgin Mary and the interceding patron saints, who are depicted as standing or seated gloriously on the clouds, this figure of the dead mother lying at their foot could be read as a sinful daughter of Eve. Also the male workers are represented not as the agents of governance but as those who have a marginal existence exposed to contagion, for they are depicted among the Poor and placed outside the city walls. In conclusion, under the social crisis brought on by the plague, the city authorities tried to keep and reinforce their ideal social and gender systems by visualizing the plague victims as the Other, who should be excluded from their healthy society.
著者
港 那央
出版者
ジェンダー史学会
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.47-61, 2022-10-14 (Released:2023-10-13)
参考文献数
29

「ベトナムに平和を!」市民連合(以下、ベ平連1 )は、1965年のアメリカによる北ベトナム爆撃に対する抗議運動が世界的興隆を見せるなかで、同年4月に日本で誕生したベトナム反戦市民運動体である(油井 2019、2, 95-105頁)。ベ平連は「個人原理」と呼ばれる方針により、個人の自発性を尊重し、運動内部にはピラミッド型組織に見られるような上下関係をつくらなかった。非暴力を原則とし、会員制度や幹部を設けず、誰でもベ平連を名乗り運動を始めることができた(小熊2009b、312頁 ; 平井 2020、85-86頁 ; 吉川 2011、64-68頁)。以上の運動スタイルが一因となり、最初に結成された東京のベ平連が1974年に解散するまでに、日本各地で数百ものベ平連が誕生した。これらは地域ベ平連と呼ばれる。本稿は、地域ベ平連の一つである、1968年1月末に長崎県長崎市で結成された長崎ベ平連に焦点を当て、長崎ベ平連結成期の中心人物の語りを通して、その人物の運動参加経緯を明らかにしながら、運動のジェンダー化過程を分析することを目的とする。本論に入る前に、先行研究を以下の三点から検討し本稿の課題を示したい。まず、平井一臣(2005)は、それまで主に明らかにされてきたのは東京のベ平連の運動であるため、資料収集やインタビュー調査を行い、地域特性に留意しながら、各地の地域ベ平連の動向を検討したうえで、ベ平連の運動全体を再検討する必要があることを主張した。先行研究の地域的偏向の背景には、語り、記録し、保存し/されえた手記や回顧録が東京のベ平連の「知識人」によるものが多かったことがある。次に、松井隆志(2016)は、東京のベ平連の中心メンバーはほぼ男性であり「そこに時代の限界もあった」(12頁)と注釈にて言及した。つまり、従来のベ平連研究は「東京」の「知識人」の語りを中心に評価してきたと同時に、「男性」の語りを中心とした分析だったのである。これを踏まえて先行する地域ベ平連研究を見ると、黒川伊織(2015)・平井(2005)はそれぞれベ平連こうべ、金沢ベ平連の運動内部でセクシズム告発の動きがあったことに注目している。しかし、両者は各地域ベ平連が向き合う課題の変容・展開を示す複数の例のうちの一つとして挙げているため、告発の経緯や、運動においてセクシズムがなぜ、いかに稼働していたのかを詳細には明らかにしていない。最後に、阿部小涼(2020)は、東京のベ平連のデモの常連でもあった新宿ベ平連の古屋能子が残したさまざまなテクストから、特に「八月沖縄闘争」をめぐって「ベ平連」の運動内外から向けられるセクシズムに抵抗し、記録に残されないと思われる女性たちの闘争を自らが記録しようとも努めた古屋の姿を掘り起こした。「ベ平連」に参加した女性論客や書き手は一定数いたにもかかわらず、その省察が十分になされていないことを指摘し、それらをジェンダー・トラブルとして再読することの重要性を提起したのである。まさに古屋が記録しようと努めたような、そもそも記録されることのなかった無名の女性の闘争、自ら書き残すことのできなかった、あるいは聞き手の不在により語りえなかった無名の女性の思想や行動が、オーラル・ヒストリーの蓄積をともなう地域ベ平連研究によって掘り起こされる可能性を示唆している。本稿は、これらの先行研究では十分に明らかにされてこなかった「地域」「無名性」「女性」に着目し、長崎ベ平連結成期の中心的人物であったK.T. のオーラル・ヒストリーを中心に運動におけるジェンダー化された運動当事者と記録の問題に焦点を当てる。長崎ベ平連結成期の資料は極めて少なく2、特にK.T. が運動に中心的に関わったことを示すもの3 は、警察による尾行や複数回にわたる実家への訪問などといった嫌がらせを受けてK.T. が資料の保存を断念した4 ため、ほとんど残されていない。資料分析はオーラル・ヒストリーに大きく限定されるものの、運動参加当事者・周辺の運動参加当事者へのインタビュー調査5 の実施と、結成期の長崎ベ平連に関わる周辺組織・人びとの記録や報道の分析を行いながら、運動や記録にジェンダーがどのように働きかけたのかを検討したい。
著者
堀川 修平
出版者
ジェンダー史学会
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.51-67, 2016-10-20 (Released:2017-11-10)
参考文献数
44

本稿の目的は、日本のセクシュアル・マイノリティ〈運動〉における「学習会」活動の役割とその限界を明らかにすることである。IGA/ILGA日本を設立し、〈運動〉を牽引してきた南定四郎によって1984年から1994年まで断続的になされていた活動である「学習会」は、今日に続く〈運動〉の「出発点」であったと考えられるが、IGA/ILGA日本初期の活動ならびに南の〈運動〉理論に着目した研究は十分になされていない。よって、南が関わった〈運動〉の機関誌や〈運動〉に関わる論稿などの「記録」と、南への半構造化インタビューで得られた「記憶」を対象に分析する。「記憶」と「記録」から見えてきたのは、南の当事者性が、青年期に読書などの「学び」を通して、「同性愛者である」というものから「被抑圧者である同性愛者」というものへと変化していき、それが〈運動〉理論に深く結びついていることであった。生きづらさを理由の一つとして上京した南は、鶴見俊輔、「声なき声の会」と出会い、〈運動〉観を築く。その後IGA/ILGA日本を設立した際に、「日常的なコミュニケーションの場をつくる」という〈運動〉の手法を取り入れて、学習会活動を始めたのである。学習会は、参加者が「同性愛者である」ということに「自覚的」になれるような「学び」の場として構成され、「被抑圧者である同性愛者」としての当事者性を獲得することが目指された。しかし、南の〈運動〉は、参加者である若者のニーズや〈運動〉観に必ずしも一致せず、「分裂」という結果を導いている。ただし、「分裂」したものの、南の〈運動〉理論は、アカー(動くゲイとレズビアンの会)などの次世代団体にも伝播していった。次世代の〈運動〉の原動力となる人びとを育てることが出来た学習会によって、その後〈運動〉が次の時代を迎えることになったのである。本研究の意義は、十分な評価がされてこなかった〈運動〉初期の南の役割を再評価できた点に見出せる。
著者
佐々木 正徳
出版者
ジェンダー史学会
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.19-33, 2019-10-20 (Released:2020-11-21)
参考文献数
40

In today’s Korea, articles on misogyny and misandry are often found in the media. Also, many Koreans consider misogyny and misandry to be a serious problem. In this paper, I will focus on Korean masculinities in order to clarify the cause of misogyny.Section 1 reviews Korean masculinity studies. Through the review, it becomes clear that Korean masculinity has been analyzed using the concepts of “militarism” and “militarization.”Section 2 will clarify the change of Korean masculinities from their relation with militarization. Firstly, there have been points in common between the military regime’s masculinities and the prodemocracy masculinities. Secondly, the masculinities called for by the military regime and the IMF Era were similar. Thirdly, since the 2000s, the difference between men and women has been maintained by a way of thinking that men who serve military service are victims of society.Section 3 examines the reasons why men are hostile to women using the framework of Messner and Ito. Firstly, a general sense of deprivation felt by today’s young men makes it difficult for them to feel superior to women. Secondly, because of the socialization of male-dominated values in the militarized society, young men’s anger is directed at women.In other words, the reason for the spread of misogyny is recent women’s social advancement despite the fact that a debasing attitude toward women still exists in society. In order to break out of the negative cycle of misogyny and misandry, people should realize the following: Firstly, Korean society is a militarized one. Secondly, there is a possibility that people are being socialized by militarization. And lastly, there are differences and inequalities between men.
著者
岩島 史
出版者
ジェンダー史学会
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.37-53, 2012 (Released:2013-11-30)
参考文献数
35

本稿は、戦後の民主化政策の一環として行われた生活改善普及事業を「農村女性政策」ととらえ、その政策展開の特徴を生活改良普及員のジェンダー規範を通して明らかにすることを目的とする。本稿の課題は、1950~60年代に農林省が発行した生活改良普及員の事例集の分析から、普及員が働きかける対象領域の設定にみられるジェンダー規範と、その領域設定の背後にある女性の役割に対する規範を明らかにすることである。事例集において、1950年代に最も多くとりあげられた「問題」は農村の「古さ」や女性の過労であったが、生活改善課題として最もとりくまれたのはかまど・台所改善と料理講習であり、食・台所の領域に偏っていた。これは普及員にとって台所が女性の苦難の象徴であったこと、そして普及員が女性であったために男性優位の農村のジェンダー秩序の中で口を出せる領域が限られていたためと考えられる。1960年代には主婦の労働時間の長さが「問題」とされたが、同時に家事をしないこと、子どもに気を配らないことも「問題」とされた。兼業化の進展によって農村女性は農業生産の主要な担い手となっていたが、普及員は主婦を「家庭管理の責任者」と位置づけた。これは、農業のみならず社会や家族関係の近代化を目標とする基本法農政と、人口学的に女性の「主婦化」が進んでいた時代背景とに起因すると考えられる。生活改善普及事業の展開の特徴として、1950年代は家事労働の効率化、無駄の排除、農繁期の生活調整が農林省の設定した目標であるが、女性である普及員を介在することで農村のジェンダー秩序が政策理念を制限した。1960年代には、農林省は健康維持、生活の合理化、育児と家庭教育、家族関係の民主化を改善目標として設定し、個々の農家の範囲を超えて地域社会での生活改善がめざされたが、家庭管理に重点をおく普及員のジェンダー規範によって政策理念は転換されたといえる。