著者
佐藤 千登勢
出版者
ジェンダー史学会
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.17-29, 2022-10-14 (Released:2023-10-13)
参考文献数
34

アメリカでは今日、連邦政府による貧困対策としてさまざまな所得維持政策が実施されているが、なかでもフードスタンプ制度1は、4,150万人(人口の12%)が参加する最大規模のプログラムとなっている。この制度は、農務省の食料・栄養サービス局が管轄しており、原則として所得が貧困線(2021年に3人家族で年収約2万2,000ドル)の130%以下であれば、年齢や子どもの数、健康状態などに関わらず、だれでも参加資格を得られる。平均受給額は、1世帯で月444ドル、1人当たり233ドルであり、フードスタンプを用いて、酒類とタバコ以外のあらゆる食料品を購入することができる。フードスタンプ制度は、重要なセーフティーネットとしてアメリカ社会で広く受け入れられている。その理由としては、低所得の家庭の子どもを飢餓や低栄養から救い出す役割を果たしていると評価されていることや、フードスタンプが農産物や食料品の消費拡大に貢献しているため、農業団体や食品業界が強く支持していることがあげられる。フードスタンプ制度は、農務省の下で、現金ではなく食料品の購入に特化したスタンプを支給しているという点において、他の社会福祉プログラムとは異なる特殊な性格を有している。生活困窮者が支給されたスタンプを用いて消費行動をし、それによって食生活を向上させるという仕組みは、大恐慌による余剰農産物の処理との関連で1930年代に考案された。本稿では、こうしたフードスタンプ制度の歴史的な起源を、消費行動の主体とされた貧困女性に着目しながら検討し、プログラムに内在していたジェンダー規範を明らかにしていく。消費と結びついたフードスタンプ制度をジェンダーの視点から見ることで、福祉国家の多様なあり方やアメリカ的な特殊性を考察することが本稿の目的である。これまで、フードスタンプ制度については、政策史や経済的な効果といった観点からいくつかの研究がなされてきた(Waugh, Hoffman, Gold 1940; Herman 1940; Herman 1941; Harvey 1941; Kreager 1942; Coppock 1947; Poppendieck 2014)。また、フードスタンプと消費に着目し、食品業界を中心とした経営者団体との関連でフードスタンプ制度を論じた研究もある(Moran 2011)。しかし、消費の主体としての貧困女性の役割やジェンダー規範を検討した研究はこれまでなされていない。本稿ではまず第1 節で、大恐慌の到来により飢えが社会的な問題として捉えられるようになったことを論じ、第2節で、1933年以降、フランクリン・D・ローズヴェルト政権の下で余剰農産物の処理と貧困者を対象にした食料支援が結びつけられたことを見ていく。第3節では、余剰農産物の配給制度が持つ弱点を克服するためにフードスタンプ制度が導入され、消費者として貧困女性が前景化されたことを明らかにする。第4節では、栄養学との結びつきを論じ、農務省家政局の下で、貧困女性がフードスタンプで入手した食材を用いて、栄養学的な知見に基づいた料理を習得することが期待されたことを検討していく。
著者
木村 尚子
出版者
ジェンダー史学会
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.21-35, 2012 (Released:2013-11-30)
参考文献数
54

岩崎直子(1868-1950)は、明治政府による新しい産婆教育のもとで養成された産婆として、はじめて天皇家にかかわった産婆である。彼女は、のちの大正天皇の子四人の出生介助にあたり、これによって産婆界内外で特異な地位を手に入れる。1910年代から1920年代は産婆職の興隆期であり、また正常産に介入する医師との間に競合が増す時期である。本稿は、岩崎という一人の産婆の著述を軸に、産婆が、天皇家とのかかわりを強調することで自らの権威を高めようとする経緯を明らかにする。岩崎は、その持ち前の熱意に加え、幼い子どもと夫を相次いで失ったことから産婆職に情熱を傾け、妊産婦に啓蒙を図るほか、産婆団体においても指導的立場に立つ。この時期、衛生行政からの要請と大正デモクラシーを背景に産婆の職能集団が形成され、さらに産婆たち自身が、その職の権益を守り業務の独自性を主張して産師法(産婆法)制定運動と呼ばれる運動を展開しはじめる。岩崎はこの運動において天皇家との関係を精神的支柱とし、さらにそれは、その後の戦時下人口管理体制のもとに産婆・助産婦を集結するにあたり大きな効果を及ぼしていく。天皇を「生ましました」産婆・岩崎は、1910年代半ばの新中間層に天皇家の母に象徴される「母性」への関心を「生まし」、また続く1920年代には、天皇を頂点とする国家に「御奉公」する産婆やその職能団体を「生ましました」産婆であった。岩崎にとって産婆職は生計を立てる手段という以上の大きな意味をもち、天皇家に関与したことは彼女の誇りや自信であった。同様の努力、あるいは総体としての産婆職の資質向上を、岩崎が必須と感じたのは無理からぬことであった。岩崎が主導した産婆の運動は男性医師や衛生官僚に対抗する女性の権利確立を目指すものであったが、同時に彼女の主張は、その職を通じて天皇家を支え、そのことによって産婆や妊産婦らに天皇家の存在意義を強く印象づける役割を果たしたのである。
著者
柳原 恵
出版者
ジェンダー史学会
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.55-73, 2012 (Released:2013-11-30)
参考文献数
59

本稿では岩手に「内発」したリブの存在とその思想の内実について、当事者のライフストーリーを中心として考察する。岩手の農村部において性差別への批判的視座を持ち活動してきた人物の一人としてまず、女性達の読書・学習サークル「麗ら舎読書会」を主宰する詩人・小原麗子(1935-)を取り上げ、麗ら舎設立までの経緯をライフストーリーから追う。小原は経済的に自立し、読み書きできる時間と場所を持つことを指す「自活」を目指してきた。小原らの活動の舞台となる麗ら舎は、小原の「自活」が実現できる場として設立された。小原と活動を共にしてきた読書会会員・石川純子(1942-2008)は、民主的な家庭の中にあるジェンダー構造を問題化した。岩手は封建的「家」と近代的「家庭」が並存している地域であり、こうした地域性がリブ思想を醸成する契機ともなった。石川と小原は「家」と「近代家族」の連続性を看破し、共通する問題からの解放を模索していった。石川は女性の身体とセクシャリティをめぐる問題にも取り組んだ。「孕み」と「お産」を通じて自分を東北の「農婦」であると認識し、疎外された〈女〉の経験と身体性を取り戻そうとする。その思想は、都市部のリブとも通じるが、決定的な差異は取り戻す対象として「東北」という場所性が含まれることである。麗ら舎読書会の主軸の一つに、戦没農民兵士とその母を弔う千三忌がある。千三忌は性差別・植民地主義などの複合差別の様相を認識し、それを乗り越えようとする小原の思想を背景として開催されている。以上、小原と石川は〈女〉であることを起点とし、民主的「家庭」が内包する抑圧性を批判し、女の身体性と母性を問い直し、複合差別への抵抗を実践してきた。近代が作り上げてきたジェンダー構造を疑問視し、問い直していく彼女らの思索と活動は岩手におけるリブであると評価できる。
著者
斉藤 利彦
出版者
ジェンダー史学会
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.55-65, 2017-10-20 (Released:2018-11-01)
参考文献数
25

近代日本における「衛生」の導入が、国民国家の形成にいかなる役割をはたしたのか、そしてそれがどのように身体への管理に結びついていったのかについては、すでに様々な視点からの研究が蓄積されている。ところで、戦前期の高等女学校や女子師範学校で行なわれていた「女子特別衛生」は、これまでの先行研究では全く取りあげられてこなかった。その対象は女学校という発達段階の特性から、特に「月経」に焦点化されていたが、具体的にどのような実態をもち、いかなる背景と論理をもって生み出されたものであったのか。それは、女生徒の身体への管理ととらえられるべきものなのか、あるいは月経時の女生徒の身体への保護を目的とした正当で必要な配慮というべきものなのかが明らかにされなければならない。その際、この「女子特別衛生」が、個々の高等女学校で個別的に案出されたものではなく、明治30年代における国家による月経への着目という事態の中で成立したものであったということが重要である。本稿では、1900(明治33)年の文部省訓令第六号による月経への取扱方を分析し、それが各地の高等女学校での「特別衛生心得」の制定へと具体化されていった実態を明らかにする。そこに現れていたのは、「良妻賢母主義」の身体的具体化であり、「 衛生」の啓蒙と脅迫的なトーン、そして月経時の過剰な指導であった。さらに、1919(大正8)年の文部省による全国調査「月経に関する心得方指導、月経時に於ける生徒の取扱」の検討を行う。そこでは、国家的規模での詳細な月経への調査が実施され、教師による日常的な観察を通して、何が「正常」な月経で、何が「異常」なのかを国家と学校が規定する、いわば他律的な「規格化」が行なわれていたのである。はじめに近代日本における「衛生」の導入が、国民国家の形成にいかなる役割をはたしたのか、そしてそれがどのように身体への管理に結びついていったのかについては、すでに様々な視点からの研究が蓄積されている。
著者
千葉 慶
出版者
ジェンダー史学会
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.5-19, 2017-10-20 (Released:2018-11-01)
参考文献数
14

現在、「戦後民主主義」は危機に瀕しているが、わたしたちはまだ、「戦後民主主義」とは何なのか、何を受け継いでいくべきかを適切に検討できてはいないのではないか。本稿は、以上の問題意識に立ち、「戦後民主主義」表象の中でも、もっとも影響力を持った表象の一つである『青い山脈』を取り上げ、そこに何が「戦後民主主義」の要素として刻まれたのかを抽出し、同作品のリメイクおよび同一作者原作映画の中にその要素がどのように時代を経て、変容を伴いながら受け継がれていったのかを考察することによって、「戦後民主主義」の受容形態の一端を確認し、かつ、今何を「戦後民主主義」の遺産として継承すべきなのかを考える契機とするものである。『青い山脈』が、「戦後民主主義」のエッセンスとして描いたのは、第一に「自己決定権の尊重」であり、第二に「対話の精神」「暴力否定」である。前者は、1980年代に至るまで一貫して描かれてきた。他方、後者には1960年代以降、疑義が唱えられるようになり、特に「暴力否定」についてはほぼ描かれることはなくなってしまった。ただ、これをもって「戦後民主主義」が衰退したとすべきではない。この推移は、「対話の精神」を突き詰め、より時代に見合った民主主義の作法を模索した結果ともいえるからである。また、ジェンダー史的観点からすると、今回取り上げた作品群には、一様に男性優位、女性劣位のジェンダー構造に固執した表現が目についた。ただし、すべてがこのような限界性に囚われているとするのは早計である。なぜならば、作品群の精査によってそれらの中に、暴力性を拒絶する男性像や、男性優位の構造を内破しようとする女性像の描写を見つけることができたからである。今、わたしたちがすべきことは、「戦後民主主義」を時代遅れのものとして捨て去ることではなく、長い年月の中ではぐくまれてきたその可能性を見出し、受け継いでいくことではないだろうか。
著者
広瀬 玲子
出版者
ジェンダー史学会
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.17-32, 2014

1945 年の敗戦時日本帝国の支配は東アジア・東南アジア・太平洋地域に及んでいた。朝鮮半島もその一地域である。そこに約75 万人の日本人が移動・定着して家族を形成し、植民地での特権的生活を送った。35 年間の植民地支配の過程で、植民者一世・二世(あるいは三世)という世代形成がなされた。<br>本稿は、朝鮮で植民者として暮らした日本女性に焦点を当てた。被植民者に対し抑圧者・支配者であった女性に関する研究は少ない。まず、朝鮮における日本女性の人口・職業構成を明らかにし、彼女たちの植民地での位置を概観した。続いて、女性たちのあり様を、一世の経験としての愛国婦人会の結成と活動を通して考察する。朝鮮における愛国婦人会の結成は併合以前の1906 年であり、それも内地の愛国婦人会結成と歩みを揃えて行われた。これは日本の支配層が植民地化推進に女性の力を不可欠としたことを示している。愛国婦人会は「文明化の使命」の理念を掲げ、朝鮮王室や支配層の女性の多数を組織しながら活動を展開していった。<br>さらに女性たちのあり様を、二世の経験としての女学校生活という側面から明らかにした。具体的には京城第一公立高等女学校生の植民地経験をとりあげた。朝鮮で生まれ育った彼女たちは高等女学校生として「幸せな」学園生活を送るが、それは支配者としての特権の享受のうえに成り立っていた。彼女たちの大半は、自らが「植民者= 侵略者」であるという自覚なしに生活した。そこには支配を支配と感じさせない暴力、被植民者を不可視化する暴力が働いていていた。日本の敗戦により、「自分が侵略者であった」とつきつけられ、引揚げたのちに、内なる植民地主義をいかに解体するのかが課題となるが、いまだに果たされたとは言えない。<br>さいごに、少数ではあるがこの課題に応えようとする女性植民者の事例を紹介し、植民地主義解体の可能性について考察した。
著者
平井 和子
出版者
ジェンダー史学会
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.5-16, 2014

2001 年の「9.11 事件」に端を発する、対イラク戦争開始に当たって、ジョージ・W・ブッシュ大統領は、過去の数ある占領の中から、民主化の成功例として「日本モデル」を取り出して、占領を正当化しようとした。攻撃に際しては、「女性解放のため」という理由が付け加えられた。これを、わたしは日本の女性史研究が大きく問われていると受け止めた。<br>アメリカによる日本占領をひとたび、敗者‐勝者の男性間で取引された女性たち(占領軍兵士へ「慰安」の提供をさせられた売春女性たち)の体験から見直せば、軍事占領と女性解放を安直につなげることの矛盾は明らかである。具体的にいえば、敗戦直後、日本政府によってつくられたRAA(Recreation and Amusement Association)などの占領軍「慰安所」や、冷戦期に激化した基地売春下で、女性たちが強いられた性管理の実態は、日米合作による軍隊維持のための組織的性暴力であった。<br>さらに、売春禁止運動を担った廃娼運動家や女性国会議員・地域婦人会の女性たちと、売春女性たちの間には大きな分断があり、これが米兵の買春行為と矛盾しない売春防止法を生み出す要因の一つとなった。つまり、二分化された女性たちの対立と反目が、結果として軍事化(日米安保体制・軍事基地)を支えることにつながった。ここに、女性を、「護られる女性=『良家の子女』」と、売春女性(「転落女性」「特殊婦人」)に二分化する男性中心的な「策略」の罠がある。米兵の買春行為の激しさは、朝鮮戦争勃発とリンクする。そのため、軍事組織は売春女性を「活用」して、兵士の性をこそコントロールする必要があったのである。
著者
髙橋 裕子
出版者
ジェンダー史学会
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.5-18, 2016

<p>本稿では、2015年12月に開催されたジェンダー史学会年次大会シンポジウム「制度のなかのLGBT- 教育・結婚・軍隊」での報告を纏めるとともに、セブンシスターズの5女子大学が女子大学としての大学アイデンティティを重視しながらも、もはや「女性」という「性別」を一枚岩的に捉えることができなくなってきた現状を紹介する。さらに、とりわけ誰に出願資格があるのかを決定する判断の背景にある、女子大学自体の大学アイデンティティの問題を考察しつつ、2014年から15年にかけて発表された新たなアドミッションポリシーを概観した。この問題は、いわば21世紀に女子大学が直面しているもう一つの「共学」論争とも言える。20世紀後半に経験した「共学」論争との違いはどこにあるのか、その点にも着目しながら、性別二元論が女子大学における入学資格というきわめて現実的な問題としてゆらぎをみせていることとともに、米国における今日の女子大学の特色をあぶり出すことを試みた。</p><p>トランスジェンダーの学生や、ノンバイナリーあるいはジェンダー・ノンコンフォーミングというアイデンティティを選び取る学生が増えていることは、女子大学が、「常に女性として生活し、女性と自認している者を対象とする」高等教育機関であるとあえて明示しなければならなくなったことに反映されている。それにも拘わらず女子大学のミッションが、すなわちその必要性や存在意義がよりいっそう強く再確認されていることに注目した。女性が社会で、そして世界で、多様な分野で参画できる力と自信を、大学時代に身に付ける場として、女性がセンターに位置づく経験をする教育の必要性が、このトランスジェンダーの学生の受け入れを巡ってのディスカッションを通していっそうクリティカルに再確認されたとも言える。</p><p>大学教育という実践の場において、ジェンダー的に周縁に位置するセクシュアルマイノリティの学生をめぐって、アドミッションポリシーを文書化し、具体的に「女子大学」と名乗るのかどうか、さらには「よくある質問(FAQ)」で「女性とは誰のことなのか」という質問に詳細にわたって回答し、ジェンダー的に流動的な(gender fluid) 学生に対応しているこの局面に、21世紀のアメリカにおけるセブンシスターズの女子大学が果たしている新たな先駆的役割を見て取れる。</p>
著者
加納 実紀代
出版者
ジェンダー史学会
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.5-19, 2015

<p>日本の原発導入は、1953 年12 月のアイゼンハワー米大統領の国連演説「原子力の平和利用」に始まるが、その年は日本の「電化元年」でもあった。テレビ放映が始まり、家庭電化製品が相次いで売り出された。54 年3 月には「原子力の平和利用」は国策として動き出すが、それにともなって電化ブームがおこり、55 年にはテレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫が「三種の神器」としてもてはやされる。</p><p>その背景には、占領下において流布した原爆の威力への肯定的評価やアメリカ文化の紹介によってかき立てられた電化生活への憧れがあった。1952 年4 月の独立後、原爆の人体への被害が報道されるようになるが、物理学者武谷三男は被爆国だからこそ「平和利用」すべきだという原発推進の論理を展開、『読売新聞』を中心とするマスメディアも、アメリカと協力して「平和利用博覧会」を主催するなどキャンペーンにつとめた。</p><p>その一方、54 年3 月のアメリカの水爆実験によるビキニ事件をきっかけに、女性を中心に原水爆禁止署名運動が盛り上がり、55 年8 月には国民の3 分の1 以上という多数の署名が集まっている。原発導入と原水爆禁止運動は両立・同時進行したことになる。</p><p>それを可能にした一因として、「原子力の平和利用」という経済発展は男性、原水爆禁止という平和運動は女性というジェンダー分業があげられる。電化生活による近代化、産業構造の高度化により、社員・主婦というジェンダー分業を柱とする近代家族が普遍化したが、それは家庭内にとどまらず、進歩・発展は男性、ケアや後始末は女性という社会的分業をも定着強化した。</p><p></p>
著者
井野瀬 久美惠
出版者
ジェンダー史学会
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.5-19, 2020-10-20 (Released:2021-09-01)
参考文献数
37

As we saw in the enthronement ceremony in 2019 as well as the abdication message of the Emperor (now Emeritus) in 2016, the phrase “always staying together with the people” is characteristic of the Japanese constitutional system called symbolic monarchy. But we must be careful in interpreting what that phrase really means to the Emperor system in Japan.This paper will discuss this phrase in reference to the change in the British constitutional monarchy, partly because the British monarchy was and has been an ideal or model for the Japanese symbolic monarchy after 1945, and partly because both Emperors, Hirohito and Akihito, once confessed that they had been influenced by the British constitutional monarchy, particularly that of King George V (1910-1938). The important point is what types of monarchy George V had inherited under a constitutionally organized government from his father, Edward VII (1901-1910).In Britain, the phrase “staying together with the people” or “sympathy to the people” became widely applied to the monarchy during the reign of Queen Victoria (1837-1901), especially after the mid 1870s. This is usually discussed in relation to the idea of “the invention of tradition”, represented by the Golden (1887) and Diamond Jubilee (1897) of Queen Victoria. But the critical moment resulting in “the invention of tradition” and changing the essence of the monarchy, was during the 1860s, when the British monarchy lost one future that might have existed by the sudden death of the Queenʼs beloved husband, Prince Albert, and the Queenʼs withdrawal from public life to mourn him. This period led Walter Bagehot to write his farsighted essay on monarchy which was to be collected in his famous book, the English Constitution (1867). In addition, the peopleʼs feeling towards the monarchy also dramatically changed at that time. Since then, the importance of the monarchʼs popularity, as well as the sympathy between a monarch and the people, has grown.The monarchy the two Japanese Crown Princes observed while they visited Britain, in 1921 and 1953 respectively, and thought ideal under the new Japanese Constitution when they were Emperors, had been the one personalized and de-masculinized, even if we do not call it “feminization of the monarchy”.
著者
伊東 久智
出版者
ジェンダー史学会
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.5-18, 2019-10-20 (Released:2020-11-21)
参考文献数
28

This paper focuses on the “cultural cradle” that gave rise to a distinctive idea of masculinity and counter-culture as seen in records of day laborers’ own monologues preserved in a collection of workers’ diaries. The main material for the paper comes from the ‘Diaries of day laborers’ (total of two volumes) collected and compiled by the Bureau of Social Affairs of the city of Tokyo in the early Showa period. As for the masculinity of day laborers, the peculiar “expression” style was symbolized in discourses on “drinking, gambling, and prostitution.” On the other hand, in order to grasp the day laborers’ expressions of masculinity in relation to the totality of masculinity, this paper focuses the discussion on the “cultural cradle” = various elements that promoted these “expressions”. Concretely, this paper examines (1) the actual conditions of daily laborers and their consciousness, (2) their awareness of “others”, and (3) the forms of entertainment and culture favored by day laborers, correlating the various factors.The results can be summarized in the following three points. First, what formed the “cultural cradle” of the masculinity and counter-culture of day laborers was the ambivalent consciousness of “frightened” and “resentment” leading to an inverted form — “frightened masculinity (frightened but masculine)”. This consciousness was formed during the depression years and in “not sociable” relationships with “others” such as intermediate contractors, Korean laborers and women. Second, the appeal of this counter-culture was not constant. We can see this in the fact that there were a significant number of day laborers with academic backgrounds who tried to stand outside of the counter-culture as well as the Korean laborers who also stood outside of this counter-culture. Third, the “cultural cradle” of their masculinity was amplified or eliminated in the context of femininity. This can be clearly seen from their reactionary remarks against “Modern girls” and the reality of a form of “sociable” entertainment called “Yasugi-bushi” which was popular among day laborers.
著者
豊田 真穂
出版者
ジェンダー史学会
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.55-70, 2010

Although the 1955 International Planned Parenthood Conference in Tokyo brought drastic change in governmental efforts to promote birth control as a means to control population, little is known about how or why the conference was held in Tokyo. The official story according to the conference proceedings went that it was Clarence J. Gamble, an American philanthropist, who suggested that the conference be held in Tokyo. However, as this paper shows, Gamble merely happened to be in Japan when Yoshio Koya, a Welfare bureaucrat, and others were struggling to find a way to have the Conference take place here.<BR>Gamble, who should not be given very much credit for his contribution to the Tokyo IPPF Conference, was a controversial figure. His main concern was the fertility differential between classes. As a fervent eugenicist, he supported the development of a simple contraceptive method, using salt solution and sponges. He strongly promoted the simple method as a means to control population when he extended his work in Asia. This shows his lack of empathy for Asian women. His arrogant acts in Asia, where he ignored local autonomy, led the board of IPPF to harshly criticize and finally to expel Gamble.<BR>Nonetheless, Gamble was credited for his service to Japan. It impressed him that it was the Japanese birth controllers who appreciated his work. As a result, the Japanese birth control movement, already funded substantially by Gamble, was able to continue receiving financial support from him. However, by accepting Gamble's money and publicly praising him as "the Benefactor of the Family Planning Movement in Japan," the postwar birth control movement in Japan proclaimed its agendas of population control and eugenics.
著者
堀川 修平
出版者
ジェンダー史学会
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.51-67, 2016

<p>本稿の目的は、日本のセクシュアル・マイノリティ〈運動〉における「学習会」活動の役割とその限界を明らかにすることである。IGA/ILGA日本を設立し、〈運動〉を牽引してきた南定四郎によって1984年から1994年まで断続的になされていた活動である「学習会」は、今日に続く〈運動〉の「出発点」であったと考えられるが、IGA/ILGA日本初期の活動ならびに南の〈運動〉理論に着目した研究は十分になされていない。よって、南が関わった〈運動〉の機関誌や〈運動〉に関わる論稿などの「記録」と、南への半構造化インタビューで得られた「記憶」を対象に分析する。</p><p>「記憶」と「記録」から見えてきたのは、南の当事者性が、青年期に読書などの「学び」を通して、「同性愛者である」というものから「被抑圧者である同性愛者」というものへと変化していき、それが〈運動〉理論に深く結びついていることであった。生きづらさを理由の一つとして上京した南は、鶴見俊輔、「声なき声の会」と出会い、〈運動〉観を築く。その後IGA/ILGA日本を設立した際に、「日常的なコミュニケーションの場をつくる」という〈運動〉の手法を取り入れて、学習会活動を始めたのである。</p><p>学習会は、参加者が「同性愛者である」ということに「自覚的」になれるような「学び」の場として構成され、「被抑圧者である同性愛者」としての当事者性を獲得することが目指された。しかし、南の〈運動〉は、参加者である若者のニーズや〈運動〉観に必ずしも一致せず、「分裂」という結果を導いている。ただし、「分裂」したものの、南の〈運動〉理論は、アカー(動くゲイとレズビアンの会)などの次世代団体にも伝播していった。次世代の〈運動〉の原動力となる人びとを育てることが出来た学習会によって、その後〈運動〉が次の時代を迎えることになったのである。本研究の意義は、十分な評価がされてこなかった〈運動〉初期の南の役割を再評価できた点に見出せる。</p>
著者
飯田 未希
出版者
ジェンダー史学会
雑誌
ジェンダー史学 (ISSN:18804357)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.21-38, 2018-10-20 (Released:2019-11-01)
参考文献数
33

明治末から大正にかけて、髪結女性たちが結髪イベントに出演したり、新聞や雑誌で流行の髪形紹介を行うようになり、髪結たちの女性客に対する人気の高さが社会的に可視化された。本稿では、東京を中心に活躍した髪結たちの活動を跡付けることで、この髪結人気を啓蒙的家庭観への女性たちからの「応答」として読み取ることができることを示したい。明治末に可視化された髪結人気が注目に値するのは、明治期を通じて女子教育に関心のある啓蒙知識人が髪結たちを批判し続けたからである。これは髪結が女性客の家を訪問して髪を結う「出髪」という業態に由来すると考えられる。啓蒙知識人は「家庭」に入り込む髪結の女性客への影響力を問題視し、髪結を「主婦」に花柳界的な悪影響を及ぼす家庭の「他者」、すなわち排除されるべき存在として位置づけた。髪結イベントに中上流層の女性が集まったということは、この髪結に対する啓蒙的批判に同意しなかった女性たちがいたことを示している。本稿では、これらの女性たちが髪結をどう見ていたのかを探るため、この時期に髪結について女性たちが書き残したものを分析する。それらにおいて、彼女たちは髪結との距離を「敬意と親密さ」として分節しており、知識人男性が髪結を常に見下していた(すなわち「下」として分節する)のとは、距離感の分節の仕方が明らかに異なっている。女性たちは、啓蒙知識人の髪結観をそのまま受容したわけではなかった。イベントでの髪結人気が可視化されることにより、彼女たちは多くのスポンサー(小間物商、化粧品会社など)が関わるイベントに出演するようになり、婦人雑誌や新聞などの商業メディアで流行の髪形紹介を行うようになる。商業化が強まる明治後期以降の社会的変化の中で、女性と髪結との関係は、商業的に領有されたのだろうか。本稿では彼女たちの関係は単に領有されただけではなかったことを最後に示したい。