著者
髙橋 覚 青木 茂樹
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.72, no.10, pp.734-742, 2017

<p>原子核乾板は,荷電粒子の軌跡を三次元的に1 μm以下の空間分解能で記録する強力な飛跡検出器である.その特徴をもとに,宇宙ガンマ線精密観測実験GRAINEを推し進めている.一方で原子核乾板は本来時間情報を持たず,製造してから現像するまでの間に蓄積する飛跡は,数ヶ月から数年スケール(およそ10<sup>7</sup>秒)の時間的な不定性を持つ.GRAINE実験を実現するためには,原子核乾板に秒以下の時間分解能を持たせる必要がある.</p><p>原子核乾板に秒以下の時間分解能を持たせるために,多段シフターと呼ぶ手法を考案した.多段シフターは複数の原子核乾板から構成され,それぞれを固有の周期で動かすことで時刻に応じた独立な位置関係を創り出し,解析時に飛跡の位置関係を再現することにより入射時刻を秒以下で再構成できる.原子核乾板から構成される多段シフターは,高い効率かつ高い信頼性での時間情報付与,低いエネルギー閾値(運動エネルギーにして,陽子で~10 MeV,電子で<~10 MeV),大面積化が実現可能である.また,シンプルな構成,コンパクト,軽量,トリガー系不要,高電圧不要,低消費電力,不感時間無しが実現可能である.このように多段シフターは,原子核乾板が本来持つ特徴を最大限活かした時間情報付与機構を実現する.これらに基づき,三鷹光器社と実機を共同開発し,気球実験に実戦投入した.</p><p>GRAINE実験の実現を目指して,2011年に,原子核乾板ガンマ線望遠鏡の初めての気球実験をJAXAと共同でおこなった.その中で,ガンマ線電子対生成事象を捉え,0.2秒の時間分解能を付与し,天球上の到来方向を決定する一連の流れを確立し,気球搭載原子核乾板ガンマ線望遠鏡の実現可能性を実証した.2015年には,望遠鏡の総合的な性能実証を目指した気球実験をJAXAと共同でおこなった.その中でミリ秒オーダーに迫る時間分解能を実現し,将来的なパルサー位相ごとの偏光測定の展望を拓いた.今後は口径面積やフライト時間の拡大を図り,科学観測の開始を目指す.</p><p>2014年には,原子核乾板の特徴を活かして,ニュートリノ反応精密測定やニュートリノ振動の精密検証を目指し,多段シフターを導入したJ-PARC T60実験を開始した.2014–2015年にかけて2ヶ月近くにわたるニュートリノビーム照射実験をおこない,46.9日に対して時間分解能7.9秒を実現するとともに,ニュートリノ振動実験T2Kのニュートリノビーム測定器であるINGRIDとのハイブリッド解析を確立した.2016年にはスケールアップした照射実験をおこない,126.7日にわたり秒レベルの時間分解能を実現しつつある.今後スケールアップなどを図り,物理実験を計画している.</p><p>多段シフターによって,時間分解能は従来手法に対して5桁の改善を果たすなど飛躍的な向上を成し遂げた.将来的なスケールアップを図った実験では,さらにこれらの一桁から二桁程度の向上を目指すが,それを実現するための新型多段シフターの開発も進んでおり,その実現見通しが得られつつある.多段シフターによって原子核乾板は有意な時間軸を持つ新しい検出器へと発展し,新しい宇宙線観測や加速器ニュートリノ実験を切り拓く.</p>
著者
橋坂 昌幸 藤澤 利正
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.72, no.11, pp.805-809, 2017-11-05 (Released:2018-08-06)
参考文献数
16

物性物理において,多体効果は数々の興味深い物理現象の源である.1次元電子系は,多体効果による顕著な物性が現れる典型例である.1次元電子系ではフェルミ液体論の準粒子描像が破綻し,励起は電荷またはスピンの集団運動(密度波)として記述される.この1次元電子系の興味深い性質は,朝永・ラッティンジャー(TL)液体と呼ばれる標準モデルによって説明される.このモデルは1950年に朝永振一郎博士によって最初に提案され,1963年にホアキン・マズダク・ラッティンジャー博士によって再構築された.当初は1次元電子系が実際に存在するとは想定されておらず,理論的なモデルとして提案されたようである.しかし現在では,半導体メゾスコピック系における量子細線,カーボンナノチューブ,量子ホール系試料端のカイラルエッジチャネルなど,実験技術の進歩によって実際に1次元電子系とみなすことができる物質・材料の作製が可能になっている.現実の1次元電子系のTL液体的性質を確かめるスタンダードな実験手法は,冪乗則を観測することである.例えば1次元電子系へのトンネル電流の温度やバイアス電圧に対する冪的な依存性( I∝T α,I∝V α′)から,素励起が準粒子ではなく電荷やスピン密度波であることを確認できる.このような実験から,多くの1次元電子系について,TL液体的性質がすでに良く確かめられている.では1次元電子系上の電荷,およびスピン密度波のダイナミクスを選択的に観測し,それぞれの伝搬特性を詳細に評価するような実験は可能だろうか.我々は,1次元電子系に電子波束を注入しその時間発展を検出するポンプ・プローブ法によって,TL液体における素励起の観察に成功した.実験では,試料として整数量子ホールエッジチャネルを用いた.エッジチャネルはその1次元1方向性の伝搬特性ゆえに,カイラルTL液体として振る舞う.チャネルの本数や形状は電場や磁場によって制御可能であり,TL液体における素励起を観測するための最適な試料となる.我々は,エッジチャネルにおけるスピン電荷分離現象,および電荷波束の分断化現象を観測した.これらの現象はどちらもTL液体を象徴する重要な現象である.得られた時間波形データから,電荷およびスピン密度波の速度などの伝搬特性を読み取ることができ,エッジチャネルのTL液体としての性質を表す全パラメータを決定できる.電荷,およびスピン密度波はTL液体の固有伝搬モードであるため,長距離を減衰することなく伝搬する.今回の実験では,これらの密度波束を励起し,伝送し,最終的に信号として独立に検出できることを示した.この結果は,代表的な量子多体系である1次元電子系において素励起のダイナミクスを直接観察したものであり,多体効果にもとづく物性の研究にとって大きな一歩だと考えている.
著者
杉本 敏樹 福谷 克之
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.71, no.10, pp.668-678, 2016-10-05 (Released:2017-04-21)
参考文献数
63
被引用文献数
1

核スピンの存在は,量子力学創成期,電子スピン発見から2年後の1925年に証明された.その画期的な発見は,コペンハーゲンのBohr研究室に留学中の堀健夫(朝永振一郎の義兄)による水素分子の分光研究に端を発する.堀は,電子励起スペクトルにおいて,回転量子数が偶数を起点とするスペクトル強度と奇数を起点とする強度に違いがあり,その比が1対3となることを発見した.この実験事実に基づき,Dennisonは陽子が大きさ1/2のスピンを持つフェルミ粒子であることを明らかにし,水素分子には核スピン量子状態が異なるオルト・パラ異性体が存在することを証明した.このように,水素分子は量子力学の発展に大きな貢献を果たす一方で,宇宙に最も豊富に存在する分子種として星間空間における物理・化学過程に重要な役割を果たしている.近年,遠赤外線天文観測技術の進歩によって星間分子雲中の水素分子の分光が行われ,オルト/パラ比から求まる核スピン温度が回転温度と一致しないという観測結果がしばしば報告されている.回転温度と核スピン温度は観測した分子雲環境の現在と過去の温度を反映していると考えられており,これらを解析することで星間分子雲の熱履歴や年齢,さらには星形成メカニズムの解明につながると期待されている.水素分子の核スピン温度を星間分子雲の過去の温度計として使用する場合,核スピン温度が「具体的にどの程度の時間スケールの過去の温度」を反映しているのかを知る必要がある.核スピン多重度の変化を伴う水素分子のオルト–パラ転換は気相の孤立系では非常に遅く実質的には起こらない.しかし,物質との相互作用によって転換が誘起されるため,種々の星間物質表面での転換確率を実験で明らかにする必要がある.応用上も,水素は燃焼時に温室効果ガスや有害ガスを発生しないクリーンな燃料として家庭用や自動車用の燃料電池で利用されるほか,ロケット燃料としても利用されてきた.水素を大量に貯蔵する方法として液化貯蔵があるが,オルト水素が混在する水素ガスを液化する際にはオルト–パラ転換に起因するボイルオフが問題となる.これを回避するため,オルト水素をあらかじめパラ水素に転換させてから低温貯蔵する必要があり,そのために古くから磁性体を利用したオルト–パラ転換触媒の開発が進められてきた.磁性体表面に吸着した水素分子は,表面電子スピンの磁気双極子に起因した不均一磁場でオルト–パラ転換が促進されることが1933年にWignerによって理論的に示されている.それ以来,電子磁性を持たない反磁性物質の表面ではオルト–パラ転換は誘起されないと信じられてきた.1980年代に入り真空技術が進歩するのに伴い,原子レベルで構造や電子状態を規定した清浄表面が得られるようになると,従来は転換を誘起しないと考えられてきた銀・銅等の反磁性金属表面や,極性を有する水分子が凝集したアモルファス氷等の反磁性絶縁体表面においてもオルト–パラ転換が促進されることが次々に明らかになってきた.近年の実験・理論研究によって表面の局所磁場のみならず電荷移動や表面の局所電場によってオルト–パラ転換が誘起されることが示され,固体表面と吸着子が織りなす多彩な磁気・電気的相互作用の全容が解明されつつある.
著者
湯浅 新治 長浜 太郎 鈴木 義茂 田村 英一
出版者
一般社団法人 日本物理学会
雑誌
日本物理学会誌 (ISSN:00290181)
巻号頁・発行日
vol.58, no.1, pp.38-42, 2003-01-05 (Released:2008-04-14)
参考文献数
14
被引用文献数
1

磁性金属多層膜や磁気トンネル接合の巨大な磁気抵抗効果などスピン偏極した伝導電子が引き起こす現象の発見により,固体中の電子の電荷とスピンの両方を利用した新しい分野であるスピントロニクスが急速な発展を見せている.本稿ではスピントロニクスの中心課題であるトンネル磁気抵抗効果(TMR効果)について解説し,スピン偏極共鳴トンネル効果に関する著者らの最近の研究を紹介する.