- 著者
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梁 媛淋
- 出版者
- 国際日本文化研究センター
- 雑誌
- 日本研究 (ISSN:09150900)
- 巻号頁・発行日
- vol.53, pp.127-151, 2016-06
本稿は、1830年頃に譜代大名彦根井伊家で作成された分限帳を主な素材として、同家の身分構造を明らかにする。大名家の内部構造の解明は近世の政治体制を知るために重要であり、明治維新やそれに伴う武士身分の解体を考える手がかりとなるだろう。 井伊家の事例で観察された事象は次の通りである。まず、家臣団は所属階層において侍と三御歩行に大別された。その組編成について見ていくと、井伊家は徳川将軍家の番方組織を模倣せず、独自な制度を有したことが判明した。次に、石高の分布を数量分析した結果、家臣団の全体的な石高分布の傾向として、千石以上の家臣が僅少で、二百石未満の家臣が約七割を占めた点において、萩毛利家や尾張徳川家と共通していることが分かった。ただし、知行取・蔵米取を分けて検討すると、他とやや異なる面が見えてくる。 近世武士の地位は、所属階層や給禄だけでなく、相続・御目見・役職の任命・騎馬の資格などの基準で判断できる。しかし、これらの諸基準による階層分けは必ずしも一致していないので、家臣団全員がこれらの基準によって同じ評価を得たわけではない。家臣団の下層部は基準ごとに評価が異なり、地位の不整合があった。この点が他の大大名と共通していることは、注目に値する。 また、井伊家では徳川将軍家や他の大名家と異なり、部屋住の登用が盛んであった。それは、藩政機構の整備過程において家臣の増員を控えたこと、さらに夭死・幼年家督相続など様々な理由で家督時に減知する慣例があったので、減知分を部屋住で奉公するものの給禄に当てられたためと考えられる。 本稿の分析によって、近世の武士は、高禄な知行取かつ御目見以上である騎士と、低禄な蔵米取かつ御目見以下である歩兵といったように、単純に把握できる社会階層ではないということが明らかになった。また、大名家では、徳川将軍家のように「家」単位での登用ではなく、個人単位の奉公が認められていたことも注意に値する。これらの事象は、大名家臣が倒幕に身を投じることや、武士身分の崩壊を考える際、重要な背景を提供するものであると考える。