出版者
国際日本文化研究センター
巻号頁・発行日
pp.1-76, 2012-11-22

会議名: 日文研フォーラム, 開催地: ハートピア京都, 会期: 2012年4月10日, 主催者: 国際日本文化研究センター
著者
笠谷 和比古
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.7, pp.p89-104, 1992-09

慶長八年二月、徳川家康は征夷大将軍に任ぜられ、徳川幕府を開いた。関ヶ原合戦の勝利によって覇権を確立し、天下人としての地位を不動のものとした家康が、この将軍任官によって徳川幕府という新たな政権を樹立し、豊臣家にかわる徳川家の天下支配を制度的な形で確定したとするのが、これまでの通説的な理解である。 しかし私の関ヶ原合戦に関する研究によるならば、同合戦において家康の下で戦った東軍(家康方)の軍事的構成が、専ら豊臣系諸大名を主力としており、本来の徳川軍の比重がきわめて低かったという事実が明らかとなった。すなわち家康の軍事的勝利は、専ら豊臣系諸大名の多大の貢献によってもたらされていたのであり、それ故に関ヶ原戦後の政治体制においては、豊臣系諸大名の勢力は強大なものとなっており、また大坂城の豊臣秀頼を頂点とする豊臣政権も解体されたのではなくて、潜在的な政治能力を充分に保っていた。 本稿は家康の将軍任官のより立ち入った意義を、このような政治状況との相関の中で検討し、さらにはそれを踏まえて、関ヶ原合戦より大坂の陣に至る近世初頭の政治史的展開、およびこの時期の国制の構造を考察する。
著者
小野 健吉
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.61-81, 2014-09

景観年代が寛永十年(一六三三)末~十一年初頭と考えられる『江戸図屏風』(国立歴史民俗博物館所蔵)には、三邸の大名屋敷(水戸中納言下屋敷・加賀肥前守下屋敷・森美作守下屋敷)と二邸の旗本屋敷(向井将監下屋敷・米津内蔵助下屋敷)で見事な池泉庭園が描かれているほか、駿河大納言上屋敷や御花畠など、当時の江戸の庭園のありようを考える上で重要な図像も見られる。本稿では、これらを関連資料等とともに読み解き、寛永期の江戸の庭園について以下の結論を得た。 将軍の御成などを念頭に置いて造営された有力大名下屋敷の広大な池泉庭園では、滝・池・護岸石組・州浜といった水をめぐる各種デザインが大きな見せ場であった。そのため、水源の確保が極めて重要な課題であり、各大名屋敷では、湧水のほか上水道や小河川・都市水路などからの導水に大きな努力を払ったと見られる。一方、隅田川沿いの旗本屋敷では潮汐の影響を受ける隅田川から直接導水する「潮入り」の手法が発明され、これがその後に海岸沿いの大名屋敷の庭園でも採用されることとなったと考えられる。また、庭園を眺める視点場として二階建て数寄屋楼閣が重要な役割を果たしていたことも注目される。さらに、池泉庭園を備えない上屋敷などでは市中にあって山居をイメージさせる、都市文化の極みともいうべき茶室と露地が設えられていたことが駿河大納言上屋敷の様子から窺える。庭園管理という観点では、例えば樹木を剪定整枝して仕立てる技術がすでにしっかりと定着していたことが植物の描き方に示される。加えて、御花畠からは、花卉を中心とする園芸文化が、いわば江戸の主人たる将軍の先導のもと、文字通り豊かに花開いていたことがわかる。以上のように、慶長八年(一六〇三)の開府からおおよそ三十年を経た江戸では、庭園をめぐる文化は多様で多面的なありようを見せていたのである。
著者
千田 稔
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.14, pp.125-145, 1996-07-31 (Released:2016-06-08)

小稿は、空間的属性である道路から、日本古代の王権の一端を探ろうとするものである。ここで対象とする道路は大和から河内に通ずる「南の横大路」―竹内街道と「北の横大路」―長尾街道である。「ミチ」という言葉の原義は、「ミ」+「チ」で、「ミ」は接頭辞で神など聖なるものが領するものにつくという説にしたがえば、「ミチ」は本来神に結び付くものであった。 「南の横大路」の東端の延長線上に神の山、忍坂山が、「北の横大路」の東端には和爾下神社が位置することは「ミチ」の語義にかなう。忍坂山のあたりは息長氏の大和における本拠地であり、和爾下神社はワニ氏によって奉斎されたものである。したがってこの両道は大王家の外戚氏族である息長・ワニ氏に関わるものとみられる。以上のことから両氏あるいは関係氏族から皇妃を入れた大王の墳墓が、河内の竹内・長尾街道沿いにあることが伝承されることが説明でき、同時に河内王朝論には慎重にならざるをえないと考える。
著者
久世 夏奈子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.143-189, 2014-09

本論では、一九二八年十一月から十二月に日本で開催された「唐宋元明名画展覧会」について、いわゆる「外務省記録」を中心に用いて考察する。 「唐宋元明名画展覧会」は「日華聯合絵画展覧会」の主催団体であった東方絵画協会と、同展覧会へ「対支文化事業」より助成費を支出していた外務省関係者との間で発案され、事実上東方絵画協会によって実施された。当初は第五回日華聯合絵画展と前後して開催予定であったが、中国側会員間の内紛により同展が延期されたために単独で開催された。 中国人に対する賛助・出品交渉は、中国大陸において国民革命軍による(第二次)北伐の開始からその完成(北京政府の消滅)を経て、(南京)国民政府が新体制を確立するまでと同時期に行われた。特に北伐開始直後に日中の軍隊が衝突し(済南事件)、その解決交渉が十カ月に及んだだけでなく中国では対日不買運動が盛んとなったが、中国人収蔵家と国民政府首脳が出品と賛助に同意して開催が実現した。 展覧会への出品点数は、中国人三百点強、日本人三百点弱、合計六百点超である。中国人出品者は旧北京政府の閣僚経験者、画家、実業家が多数を占める一方、日本人出品者は実業家が半数近くを占め、古寺・旧大名家・公家、勲功華族も含まれた。伝称作者の時代では明代が最も多く四割以上、宋代・元代を合わせて九割近くに上り、清代・五代・唐代が若干含まれた。その内容は当時の日中における収蔵内容の差異だけでなく、日本における新旧収蔵家の交代をも反映した。 結論として、「唐宋元明」展は第一に近代日本における中国絵画受容の論点より見れば、戦前における新来の中国絵画紹介の集大成であり、日本人の中国絵画観の修正を決定づけた。第二に近代日中関係史における文化外交の論点より見れば、近代以降の複雑な背景と多彩な陣容からなる日中双方の官民の利害に十分に一致し、日本の対支文化事業の明白な成功事例であった。
著者
田中 俊明
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日文研叢書 (ISSN:13466585)
巻号頁・発行日
vol.42, pp.417-436, 2008-12-26
著者
高 文勝
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.85-102, 2009-11

本稿では、満州事変までの国民政府の満蒙問題に対する態度を考察することで、主に以下のことを示すことができた。第一に、日露戦争後、満蒙における特殊権益を拡大しそれを維持していくのは日本の一貫した政策であり、日本はその特殊権益を中国側に返還する意図を有さなかったのである。この問題について、幣原外交も例外ではなかった。第二に、満州事変までの国民政府の満蒙問題に対する態度は大体において孫文の主張を継承するものであり、日本に対してかなり妥協的であった。国民政府はその革命理念から日本の満蒙特殊権益を回収すべきだと主張するが、満蒙特殊権益の早急の回収が不可能だと認識し、それを現実として容認し、その根本的解決を将来の懸案として後回しにして、当面解決可能な問題から日中関係の改善を優先し、両国間の感情を緩和していく、その上で、満蒙問題の解決を図ろうとした。このようなアプローチは幣原外交における対中国政策と一致している。したがって、満蒙問題に関して、日中両国は究極の目標において対立したものの、交渉による妥協の余地が十分にありうるであろう。
著者
木村 汎
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.24, pp.13-35, 2002-02-28

ロシア連邦を構成する八九の行政単位の一つであるカリーニングラード地方は、日本人にとり次の意味で無視しえない地域である。ソ連邦崩壊後リトアニアが独立国となったために、カリーニングラード地方は、ロシア本土から地理的に切り離された陸の孤島となった。モスクワの中央政府は、そのような境遇となった同地方に「経済特区」の地位を認めた。経済特区とは、関税・査証・為替通貨などにかんし優遇措置を与えることを通じて内外からの投資を惹きつけ、よって当該地域の経済活動を活性化しようとする工夫のことである。ソ連邦解体後の一九九一~九二年にかけて、ロシア連邦内には約十四ヶ所の「経済特区」が設立された。
著者
芳賀 徹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.16, pp.187-209, 1997-09

夏目漱石(一八六七―一九一六)作『永日小品』は明治四十二年(一九〇九)正月元旦から三月半ばにかけて、大阪、東京の『朝日新聞』に断続的に連載された。『三四郎』と『それから』の二長編の間にはさまれた小傑作集なのに、従来あまり論じられないできたから、これを漱石の二十五の美しい離れ小島と呼ぶことができる。また作者はここで、前年の『夢十夜』にもまして多彩で多方向の詩的想像力の展開を試みているから、これを漱石の実験の工房と呼ぶこともできよう。 本稿ではそのなかから「印象」と題された一篇のみをとりあげて、これにエクスプリカシオン・ド・テクスト(文章腑分け)を試みる。ここには明治三十三年(一九〇〇)十月二十八日夜の漱石のロンドン到着と、その翌日、ボーア戦争からの帰還兵歓迎の大群衆に巻き込まれて市内をさまよった経験とが喚起されていることは、確かである。だが作者はそれらの過去の事実を故意に一切伏せて、日時も季節もロンドンとかトラファルガー・スクエアとかの地名さえも示さない。ただあるのは、この初めての異国の「不思議な町」で、道に迷うまいと重ね重ね注意しているうちに、いつのまにか顔のない、声のない、「背の高い」大群衆の一方向にひた押しに進む波のなかに「溺れ」てしまったことの、不安と恐怖と自己喪失の感覚のみである。自分が昨夜泊った宿も、ただ「暗い中に暗く立つてゐた」と想起されるだけで、その「家」の方角さえも不明になったとき、話者は「人の海」のなかにあって「云ふべからざる孤独」の深さを自覚する。 イギリス留学時代の英文学者漱石の孤独がいかに落莫として痛切なものであったかをうかがい知ることができる。そしてそれを伝えながらも、この商品は来るべきカフカや阿部公房の小説をすら予感させるものであったとも言えるのではなかろうか。
著者
小泉 友則
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.53, pp.153-188, 2016-06

現代日本において、子どもの性をよりよい方向に導くために、子どもに「正しい」性知識を教えなければならない・もしくはその他の教育的導きがなされねばならないとする"性教育"論は、なじみ深い存在となっている。そして、このような"性教育論"の起源がどこにあるのかを探求する試みは、すでに多くの研究者が着手しているものでもある。しかしながら、先行研究の歴史記述は浅いものが多く、日本において"性教育"論が誕生したことがいかなる文化的現象だったのかは多くの部分が不明瞭なままである。そこで、本稿では先行研究の視点を引き継ぎつつも"性教育"論の歴史の再構成を試みる。 具体的には、現状最も優れた先行研究である茂木輝順の論稿の批判検討を通じて、歴史記述を行う。取り扱う時期を近世後期~明治後期に設定し、"性教育"論の源流の存在と誕生を追っていく。 日本においては、近世後期にすでに"性教育"論の源流とも言える教育論は存在し、ただ、それはその後の時代の"性教育"論と比すると、不完全なものであった。近代西洋の知の流入は、そうした日本の"性教育"論の源流の知に様々な新規な知識を付け加えていく。そのような過程のなかで、"性教育"論は明確なかたちで誕生していくわけであるが、その誕生の過程では、舶来物の知識と従来の日本における文化との摩擦もあり、その摩擦を解消するためには"性教育"論を学術的なものだと見做す力が必要だった。 その摩擦をひとまず解消し、"性教育"論が日本において確立するのは、明治期が終わりを迎えるころであった。その時期には、「性教育」という名称が出現し、"性教育論"の要素を占める主要な教育論も出そろい、社会的な認知や承認も十分に備わっていた。
著者
板倉 則衣
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.42, pp.123-167, 2010-09-30

伊勢神宮は、天皇の即位ごとに天皇の皇女(内親王)または女王が選ばれ、伊勢神宮に奉仕した。こうした斎宮制度は、天武天皇の大来皇女がはじまりとされ、中断される時期はあるが、後醍醐天皇の祥子内親王までの六六一年間続けられた。
著者
村井 康彦
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.1, pp.p65-95, 1989-05

古代社会に成立した日本的王権=天皇制が、長期にわたって存続した歴史的背景を明らかにすることは、天皇制それ自体にとどまらず、日本の社会や文化の特質を知るためにも不可欠の研究課題である。天皇制を存続させた最大の理由は、王権における権威と権力が分化し、天皇が権威だけをもつ存在になったことにあるが、その権威と権力の分化をもたらしたのは、天皇の即位年齢の低下と、それによる天皇の政治的主体性の弱体化にある。そのきっかけをなしたのが、天智天皇が大友皇子(二三歳)の即位を実現するために発した詔を「不改常典」(天智が定めた、永遠に変更されることのない法)と称し、これを拠として、持統女帝と元明女帝がそれぞれ孫の皇子(一五歳・二三歳)の即位を実現したことにある。この過程で生れた、王権の継受に関する新しい制度が皇太子制度であり、これが持統女帝にはじまる譲位の慣例化とあいまって、年少天皇の即位、不執政天皇の出現をもたらすこととなった。日本的王権=天皇制の成立といってよい。それは平安初期のことである。
著者
小泉 友則
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.53, pp.153-188, 2016-06-30

現代日本において、子どもの性をよりよい方向に導くために、子どもに「正しい」性知識を教えなければならない・もしくはその他の教育的導きがなされねばならないとする“性教育”論は、なじみ深い存在となっている。そして、このような“性教育論”の起源がどこにあるのかを探求する試みは、すでに多くの研究者が着手しているものでもある。しかしながら、先行研究の歴史記述は浅いものが多く、日本において“性教育”論が誕生したことがいかなる文化的現象だったのかは多くの部分が不明瞭なままである。そこで、本稿では先行研究の視点を引き継ぎつつも“性教育”論の歴史の再構成を試みる。
著者
大塚 英志 本多 マークアンソニー 山本 忠宏 中島 千晴 尹 性喆 泉 政文 菅野 博之 杉本 真理子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2011-04-28

近代を通じて雑誌など紙のメディアで発達して来たまんが表現がインターネット上に移動したとき、コマの配列やつながり方を中心とする「まんがの文法」は、いかに新しい環境下で変化すべきか、その新しい国際標準のあり方を仮説と実作の反復によって検証し、いわゆる「リミテッドアニメ」に近い形式が相応しい、と結論した。「リミテッドアニメ」とは、静止画をレイヤーとして重ねたカットをモンタージュして行く手法でまんがにおける映画的手法と一体であり、Webコミックの将来形は「リミテッドアニメ」であるという結論を得た。また、調査過程で文化間のまんが文法をふまえたまんが創作教育の教授法についても成果が出た。
著者
鈴木 貞美
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.42, pp.187-214, 2010-09-30

日本の一九二〇年代、三〇年代における(狭義の)モダニズム文藝のヴィジュアリティー(視覚性)は、絵画、写真、また演劇等の映像だけではなく、映画の動く映像技法と密接に関係する。江戸川乱歩の探偵小説は、視覚像の喚起力に富むこと、また視覚像のトリックを意識的に用いるなど視覚とのかかわりが強いことでも知られる。それゆえ、ここでは、江戸川乱歩の小説作品群のヴィジュアリティー、特に映画の表現技法との関係を考察するが、乱歩が探偵小説を書きはじめる時期に強く影響をうけた谷崎潤一郎の小説群には、映画的表現技法の導入が明確であり、それと比較することで、江戸川乱歩におけるヴィジュアリティーの特質を明らかにしたい。それによって、日本の文藝における「モダニズム」概念と「ヴィジュアリティー」概念、そして、その関係の再検討を試みたい。
著者
木場 貴俊
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.31-52, 2013-03

本論は、林羅山の『多識編』という本草学の書物に見られるかみの和名から、彼の思想的営為とその変遷について考察したものである。この書物で用いられているかみは、従来林羅山の神道思想として取り上げられてきた理当心地神道には見られないもので、「怪異」に関する名物である。 羅山は「怪異」を世俗の領域にある、仏教と関わりがあるものとし、教化の対象とした。そこには慶長年間、徳川幕府に仕えた羅山が思想的挫折を経験し、「従俗の論理」を得たことが大きく作用している。つまり『多識論』の「怪異」の名物を考えることは、神道思想や本草学だけに留まらず、儒学を含む羅山の思想的営為全体を考えることに他ならない。 『多識編』は、慶長期の草稿本と寛永期の刊本に大きく分けることができ、特に慶長期に付けられたかみの和名が寛永期ではほとんど削除されてしまっている。この変化から、羅山の従俗教化の特徴と変遷を読み取ろうとした。 慶長期の草稿本におけるかみの和名は、『和名類聚抄』という伝統的知識と朱子鬼神論を複合させて名物されたものであった。これは当時の社会の怪異認識と外見上類似するものであったが、内実には大きな差異があった。 しかし、それが寛永期の刊本でかみの和名がほとんど削除されてしまったのは、同時期に体系化された理当心地神道の影響を受けたからである。清浄かつ正常を求める理当心地神道には不正の鬼神である「怪異」が入る余地はなく、理当心地神道の「かみ」と「怪異」に名付けられたかみが同一視されることを回避するために削除されたのである。それは従俗教化の内容に大きな差異が見られた、ということを示している。 『多識編』のかみをめぐる問題から判明したのは、羅山的儒学による日本の知識体系の独自解釈であり、そこに「従俗の論理」があった。