著者
東 昇
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.299-322, 2004-01

ここでは近世後期の天草における人と物の移動について分析した。対象とした場所は、天草の西海岸に位置する高浜村である。対象とした資料は、高浜村庄屋上田家文書中の村への人の出入りを改める旅人改帳・往来請負帳である。分析の結果、次の四点が判明した。 1 旅人改制度は、文化一〇年、江戸幕府の直轄支配となり強化された。旅人を改める理由は次の三点である。人口が多く経済状態が悪い、外国の窓口である長崎に近く外国船に接触する機会が多い、村の治安維持のため、である。 2 高浜村への旅人は、年間平均四五件と多数到来する。特に天草周辺の四ヵ国(肥前・筑後・肥後・薩摩)を中心に、全国に分布していた。高浜村は、天草西海岸で有数の港であり、問屋・宿も三軒ある。穀物や生活必需品は、主に柳川と大川の船で搬入された。高浜村は、山海産物や焼物を搬出していた。 3 高浜村から旅に出た者は、商売や漁を目的とする場合が中心で、病気の養生や巡礼のためにも頻繁に村を出ている。目的地は天草の北に位置する肥前、天草の南・西に位置する薩摩や五島へと時代を経るに従い変化していく。その理由は、漁稼ぎの増加など産業構造の変化である。上田家など商人的性格を持つ家では、廻船の定期運行を行い、焼物を瀬戸内や大阪で販売した。 4 庄屋上田家の政治的地位の上昇、流行病への科学的な対処、港などの社会資本の整備により、高浜村の活発な人の移動、経済活動が可能となった。天草は船という主段で他地域と交流し、農産物を他地域からの買い入れに依存し、山海産物を他地域に売る経済構造であった。
著者
フランク ベルナール 仏蘭久 淳子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.18, pp.217-227, 1998-09-30

一九八九年、久しく失われていた法隆寺金堂西の間阿弥陀三尊の脇侍、勢至菩薩がパリの国立東洋美術館(ギメ美術館)で発見された。金堂内には七世紀、すでに中壇、東壇と並んで立派な壇と天蓋が西方仏のために造られていた。ところがそこは空席で何世紀かを経て、鎌倉初期(一二三一年)に仏師康勝によって、中・東壇に匹敵する大きさの阿弥陀三尊が造られた。なぜこの時代にこのような事業が行われたか?明治以後擬古形式としてあまり顧みられなかったこの阿弥陀三尊は、実は造立当時の革新的な思想を表していた。浄土教と太子信仰の盛り上り、真言宗とのかかわり、本地垂迹思想などがその背景にあり、阿弥陀三尊は金堂内で重要な位置を占めていたのである。
著者
笹生 美貴子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.50, pp.41-59, 2014-09-30

『源氏物語』「須磨」「明石」巻では、源氏・明石一族の運命を切り拓いてゆく複数の夢が描かれる。とりわけ、源氏と明石入道・源氏と朱雀帝といった重なり合う二つの「夢」が軸となり物語を展開させている。
著者
朴 雪梅
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.56, pp.121-147, 2017-10

1907年2月、東京の中国人女子留学生たちによって『中国新女界雑誌』(中文)が創刊された。本稿は、主にこの雑誌の発刊意図とそこに掲載された翻訳記事を中心に分析し、同誌の中国人女子留学生たちが求めた理想的女性のモデルが同時Iの日本人女性ではなく、女性解放の先頭に立って活躍する欧米人女性であったことを論証した。 編輯兼発行人である燕斌をはじめ、当時の中国人女子留学生たちがこの雑誌を創刊した目的は、中国人女性たちを「女国民」へと育成することであった。そのため彼女たちは、政治上においてまだ独立した人格を持たず、女性解放の萌芽的段階にあった日本の女子教育/女性論をモデルとせず、西欧諸国の最新の女子教育/女性論を選び、中国の女性たちに紹介したのである。さらに、清朝政府の女子教育開始に対応して、日本の女子教育に関する数多くの教科科目を翻訳する際にも、彼女たちはその中に顕著であった「女は内」という性役割分業思想、家庭内での奉仕を通じて間接的に国家に貢献する「良妻賢母」思想についての記事をすべて削除した。また、欧米女性の立身伝を翻訳するに当たり、日本の翻訳書から数名を選んで重訳したが、その選択基準も、一定の識字教育を施せば当時の中国でも登場し得るような現実に即したモデルが多かった。

1 0 0 0 IR 露伴初期

著者
井波 律子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.16, pp.169-185, 1997-09

幸田露伴は一八六七年(慶応三年)、幕臣の家に生まれた。このため、明治維新を境に生家は没落、露伴は中学を中退して漢学塾に通った。この後、電信修技学校に入り、一八八五年(明治十八年)、電信技師として北海道の余市に赴任したが、二年足らずで東京にもどり、まもなく「露団々」で文壇にデビュー、職業作家となる。これを機に、放浪癖のある露伴は、原稿料が入ると旅に出かけるようになる。一種の異界志向が露伴を旅に駆り立て、その旅が次々に作品を生んだといえよう。 一八八九年(明治二十二年)の「風流仏」「対髑髏」から、「一口剣」「艶魔伝」を経て、一八九一年(明治二十四年)の「いさなとり」まで、露伴の初期作品群の鍵となるイメージは、「裏切る女」である。執拗に裏切る女を描きつづけた露伴は、「いさなとり」で、とうとう裏切る女を殺害する惨劇を描ききった。これ以後、露伴の作品の世界に、裏切る女はめったに登場しなくなる。その意味で、「いさなとり」は露伴の文学にエポックを劃する重要な作品にほかならない。本稿は、以上、旅のなかから生まれた露伴初期の作品世界の様相を、裏切る女のイメージを軸として、探ったものである。
著者
吉田 孝次郎
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.9, pp.p69-103, 1993-09

祇園会の山鉾に使用する工芸品は、質、量、品種に於いて世界の至宝といっても過言でないものを現在も使用しているが、特に懸装染織品は、近世染色美術史を痛感し得る内容をそなえ、中国大陸文化圏をはじめ、印度、中近東、大航海時代以降の欧州の染織品を数多く有している。 山鉾風流は南北朝期に出現(応仁の乱で焼失後、明応九年(一五〇〇)に復興)して以来、今日まで六五〇年の歴史をもつ伝統行事であり、今日では、国の重要有形民俗文化財、重要無形文化財の指定を受けている。 本稿では、祇園社の本来的神格を明らかにしつつ、室町時代―江戸時代前期に描かれた、「月次祭礼図」(東京国立博物館蔵)、「祇園、山王祭礼図」(サントリー美術館蔵)、町田家・上杉家本「洛中洛外図」、勝興寺本「洛中洛外図」、八幡山本「祇園祭礼図」などの絵画資料と、山鉾町に現存する懸装染織品の同定を基本とし、中世末期から近世初期における渡来懸装染色の実態を考察するものである。稿末に「品種別渡来染織品一覧表」を付した。
著者
全 美星
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.205-219, 2011-10

広津柳浪『七騎落』(「文芸倶楽部」明治三〇年九月)の主人公平野三千三は、日清戦争に従軍し「七騎落の勇士」として故郷の野州松山に華々しく凱旋する。彼を熱烈に歓迎する村民の姿は、日清戦争によって「戦功」というものが新しい価値として明治社会に台頭してきたことを意味する。「金鵄勲章」によって「戦功」がさらに確定されるとき、地方の農民であってもその出自や身分に関係なく社会に認められ、立身出世できる可能性が開かれると考えられたのである。だからこそ、金鵄勲章受章を期待される平野三千三に、戦前にはあり得なかった富裕な村長の娘との結婚話がもたらされたのだ。 結局、三千三は論功行賞にもれてしまい、縁談は流れ、村人達に爪弾きされる悲惨な結末を迎えるが、実は、受勲を果たせなかったことに三千三の悲劇の根本的な原因があるのではない。それは、金鵄勲章受章者発表の前に、既に三千三が荒れすさみ、村民との葛藤が高じていた様子から窺える。両者の葛藤からは、次の二つの点を指摘できる。まず、出征・戦場経験・凱旋を通して、国家の誉れ高い「軍人」という自己認識を抱く三千三が、今や村人たちのような「農民」ではないと考えていること、ところが、村人は彼のそのような自己認識を認めない点をまず挙げられる。次に、村人にとって「戦功」は、いくら粗暴であろうとも凱旋勇士なので受け入れざるを得ないと覚悟するほどの、確固たる価値にはなっていなかった点である。 つまり柳狼が描いているのは、論功行賞の不公平さ等による悲劇というよりは、「名誉の軍人」という確固たる自己認識を有し、「戦功」という新しい価値を社会に通用するものとして確信したことによる悲劇だ。一時は「勇士」と呼ばれた元兵士たちの受け皿が、戦後の明治社会には存在しなかったのである。柳浪の明治に入って新しく移入された思想や理念や価値観に対する深い不信感が「七騎落」にも示されている。
著者
大形 徹
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.18, pp.151-175, 1998-09

「茅」という漢字は「ちがや・かや」と訓まれる。植物学の分類によれば、カヤ(=ススキ、Micanthus siensis Anderss)とチガヤ(Imperata cylindrical (L.) Beanv)は異なる植物である。しかし古代の日本や中国では、しばしば混同されている。 茅(チガヤ)は典型的な魔除けの植物である。「茅は霊草をいう(『漢書』郊祀志上、顔師古注所引張晏)」と、茅には不思議な力が認められていた。日本では、端午の節句の時期にシメナワに茅と艾(ヨモギ)を結わえ、屋根に飾る風習がある。これは家屋に侵入しようとする悪鬼をしばりあげるためのものであろう。茅(チガヤ)は葉が矛の形に似る。また茅の葉は刃物の様によく切れる。「茅(ち)の輪くぐり」は輪をくぐることによって身についた悪鬼をそぎおとし、「茅(かや)葺き(カヤ=ススキ)」は屋根から侵入しようとする悪鬼をふせぐのだろう。また端午や夏至に食べる粽(チマキ=茅巻)は、茅(チ=チガヤ)で巻いたから、この名があるとされている。祇園祭のかざりチマキは門口にぶら下げられる。本来、正月のシメナワと同様の悪霊除けであったように思われる。
著者
王 小林
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.40, pp.247-275, 2009-11-30 (Released:2015-11-11)

敦煌文献の中には、願文と称せられる一群の漢籍が含まれている。本来は仏前において叶えたい望みを祈禱するために唱える文章を指し、上代日本にもその作成の形跡が認められる。願文の原型なるものがほとんど敦煌文献に散在していたため、調査に一定の難度が伴っていたが、十数年前に中国の学者によって整理され、『敦煌願文集』と題して出版されることで、ある程度利用しやすくなったのである。それ以来、この文集と『萬葉集』との関係をめぐる言及、または研究も徐々に見られるようになったが、研究の方では特に目立った進展が見られないのである。こうした事情を承けて、小稿は山上憶良の作品三点に焦点をしぼり、その術策における敦煌願文の影響について大まかな考察を行った結果、両者の間に想像以上に深い関係があることが認められた。この関係をめぐる全面的な考察は後日に期待せねばならないが、小稿をきっかけに、憶良の人物像のみならず、上代日本における願文の流布、受容そして変容という、上代文学史に関わる新たな問題を提起したいと思う。
著者
光平 有希
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 = NIHON KENKYŪ
巻号頁・発行日
vol.56, pp.95-119, 2017-10-20

精神科医の呉秀三(1865―1932)は、近代精神医療の普及に取り組む中、明治期において既に、自身が医長を勤める東京府巣鴨病院で音楽療法の試行を開始した。呉の音楽療法実践に関しては、巣鴨病院の後身にあたる東京都立松沢病院併設の「日本精神医学資料館」を中心に、当時の状況を窺い知ることのできる資料が現存しているものの、これまでその実態が明らかにされることはなかった。しかしながら、日本の音楽療法史上において、従来の理論紹介に終始することなく、実際に体系的、及び長期的に行った呉の音楽療法は重要な位置を占める。