1 0 0 0 春画と衣装

著者
鈴木 堅弘
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.137-178, 2010-03

いうまでもなく春画は男女の性の営みを表現している。にもかかわらず、日本の春画には華麗な衣装を身につけた男女が数多く描かれている。そこで本稿では、春画に衣装が描かれた理由を考察し、この問題を次の三点の視座から解き明かしている。 一点目は、江戸時代の春画と「風流」の関係に着目し、春画に衣装を描かせた理由のひとつに「風流」を母体とした「かざり」の意識があったことを明らかにしている。 二点目は、春画と雛形本に描かれた衣装模様を比較するなかで双方の類似デザインを取り上げ、江戸時代の春画にも雛形本と同じようなファッション誌としての機能があったことを論じている。また春画に描かれた衣装模様を年代別に統計分析することで、春画が庶民の服飾文化の実態をありのままに描いてきたことを示している。 三点目は、春画に描かれた衣装の「見立て」に注目し、絵の中に描かれた模様には画趣や歳事などの意味が含まれているとして、ここではそうした「見立て」の意図を探り出している。 なお、この三つの視座に共通していることは、色事を彩る「かざり」の意識である。そこで本考察では「江戸時代の春画」と「日本のかざり文化」を重ね合わせ、そのような文化論の観点から春画に衣装が描かれた理由を解き明かす。
著者
鈴木 堅弘
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.17-75, 2011-10

本論は、浮世絵春画の借用表現に着目し、おもに<粉本主義の伝統>、<模倣の「趣向」化>、<出版元の依頼>の視座から、そのような表現が用いられた理由を解明する。 またこの問題を考察するにあたって、浮世絵春画の図柄だけを取り上げるのではなく、<唐本の挿絵>、<草子本の挿絵>、<浮世絵>との比較検証を積極的におこなった。なかでもとくに重視したのが<春画>と<浮世草子の挿絵>の関係である。従来の春画研究では双方の比較はほとんど試みられておらず、本論ではおもに西鶴浮世草子と八文字屋浮世草子を取り上げ、その挿絵と春画の類似画の関係性を考察する。またその際に、単に図柄が似ているという指摘に留まらず、むしろ双方の差異に注目し、春画が同時代の文芸表現に影響を受けつつも、その変奏表現を描くという創作の実態を明らかにする。
著者
西原 大輔
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.26, pp.185-220, 2002-12
被引用文献数
1

一八六七年の高橋由一による上海渡航以来、近代日本の画家たちは、アジアを描き続けてきた。本稿は、エドワード・W・サイードのオリエンタリズム論を利用して、近代日本絵画におけるアジア表象を分析したものである。 『オリエンタリズム』でサイードは、一九世紀フランスにおけるオリエンタリズム絵画の流行については、ほとんど論じていない。しかしサイードの議論を引き継いだリンダ・ノックリンは、そこに西欧中心主義が見られると主張している。では、アジアの植民地を描いた近代日本絵画にも、サイード的意味でのオリエンタリズムは存在するのだろうか。 画家藤島武二は、一九一三年に朝鮮半島を旅行したが、その紀行文のなかでフランスのオリエンタリズム絵画に言及している。藤島は、フランス絵画に植民地アルジェリアをテーマとした作品が多いと述べた上で、日本人画家も新植民地朝鮮を美術の題材として積極的に開拓すべきであると言う。また、アジア女性を描いた近代日本の肖像画には、フランス絵画のオダリスクの主題から影響を受けたと考えられる作品もある。さらに梅原龍三郎は、アジアの植民地にこそ鮮やかな色彩があり、日本にはそのようなものはないと語っている。これらは、日本絵画がオリエンタリズムの影響を受けたことを物語っている。 しかし、アジアを描いた近代日本絵画を、サイードのオリエンタリズム論で説明しつくすことはできない。和田三造らによる多数の作品が、日本とアジアの共通性を強調している。児島虎次郎の絵にみられるように、非西洋である日本は、「自己オリエンタリズム」によって、「東洋人」としてのアイデンティティを形成してきた。従って、宗主国日本もアジアの植民地も同じ「東洋」と見なされる。大日本帝国は、植民地も日本も等しく「東洋」であるという言説によって、支配の正当性を確保しようとしてきた。アジアを描いた近代日本美術にも、同質性の強調という特徴を見出すことが可能である。
著者
堀 まどか
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.38, pp.187-219, 2008-09-30

野口米次郎が「戦争詩」を書いた事実は、野口自身や彼の日本語詩歌に対する否定的評価を決定づけてきた。「戦争詩」に、犯罪性や「声の暴力性」の所在、政治プロパガンダの有効性をみる方法は、長く頻繁に行われてきたことである。「戦争詩」が量産された時代は、戦争の時代と重なり、ラジオ普及の時代と重なっている。確かに新メディアと戦時期詩歌の相関関係といった視点から考えれば、「声の暴力性」や政治性が濃厚に表出し、決まり切った語句の羅列に過ぎない「屑詩」しか拾えないのは事実だが、それらがその時代の、その詩人の表現の、総体ではない。現在使われている「戦争詩」という用語には、当時「愛国詩」「国民詩」「戦争詩」と使い分けられていたものを一括している問題があり、また、当時の詩人たちが戦時期詩歌に担わせようとしていたいくつかの役割やその諸議論、そして検閲の表現規制の中で「抵抗」を示そうとした詩人たちの姿を無視してきた事実がある。
著者
上垣外 憲一
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.1, pp.p189-203, 1989-05

雨森芳州(一六六八~一七五五)は長いこと対馬藩にあって、朝鮮関係の外交を担当していた。彼はまた朝鮮語、中国語に堪能だったことでも知られている。 当時の日本の儒学者たちは中国文明を中華と見なすかどうかをめぐって議論を繰り広げたのだった。荻生徂徠は、中国文化、それも古代の中国こそが最もすぐれているとした。言語においても中国語は日本語よりも優れ、その中国でも古代の言語が最高であるとした。なぜなら聖人は、日本でもなく西域でもなくまさに中国古代にのみ生まれたからである。 芳州はこのような中国文明の崇拝、中国中心主義を否定した。中国と周辺の「夷狄」の国々は貿易を通じて相互依存の関係にある。また言語についても芳州は中国語と日本語が、コミュニケーションの手段としては、等しい価値を持つと考えていた。ある国、ある民族の価値は、「君子と小人」の数の多い、少ないによってきまる、と芳州はいう。一民族の価値は歴史の中でその道徳水準、教育水準によって可変なのである。 このような相対主義的な思考法は、同じ十八世紀のヨーロッパにも見て取れる。ヴォルテールはその「寛容論」(一七六三)の中で一つの決まった宗教の優越を否定した。ドイツの劇作家レッシングは「賢人ナータン」の中でキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の平等を主張している。宗教は人間性の基準によって評価されるのである。このようなヨーロッパの人道思想と興味深い類似点を持つ芳州の著作は、一人の徳川知識人がいかに相互依存的で平等主義的な世界像を形成していったかを、われわれに示してくれる。
著者
新井 菜穂子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.35, pp.95-126, 2007-05-21

日本の近代化は、西洋科学技術の受容とその発展によって成し遂げられたと言われる。それは、それまでには存在しなかった技術の到来、新しい概念の輸入、それに対する「ことば」をつくるといった作業を必要とするものであった。漢字文化圏にある日本では、中国の看護を借用し、あるいは和製漢語を用いて西洋のことばを翻訳した。
著者
アブドゥエルマクスード オーラビ ムハマド ワーイル
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.43, pp.71-99, 2011-03-31

近代日本文学の研究では、横光利一『上海』を様々な視点から取り上げている論文が多くある。本論では、横光利一の上海「体験」を簡単にまとめ、作中人物たちの『上海』体験を考察する。『上海』においてもその空間は横光が体験した上海と同じく様々な場が見られ、またそこに描かれている人間も実に多様である。その中で、作中人物が何を考え、人や空間、そして様々なモノとどのようにかかわっているのかを細かく分析し、作品全体の構造を深く考察した。
著者
羽生 清
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
pp.p125-133, 1994-09

かつて、わが国の衣裳において、現代デザインでは見られなくなった文脈が生きていた。 衣裳は、身体に着せられたばかりではない。古代には、普段の風景とは異なった桜柳や紅葉など美しい自然の情景が、神の衣裳にたとえられた。(みたて) 近世になると、「源氏ひながた」に見られるように、町人が古代の世界を模倣し、自分を物語のヒロインに想定して楽しんでいる。(もどき) 「友禅ひいながた」では、豪華な素材にはない軽さを大切にして、折りや刺繍とは異なる染め衣裳が流行する。そこに、それまでの価値観を否定した新しい美意識が誕生した。(やつし) 華やかな友禅が粋な小紋に変わって行くと、山東京伝の「小紋雅話」のなかに、中国伝来の有職文様を解体しながら遊ぶ批評精神が窺える。(くずし) 崇高な神の衣裳から下世話な庶民の衣服へと、衣を通して時代の生活意識を見ることができる。
著者
坪内 玲子
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.111-129, 2000-10

日本の伝統的な家族制度の下では、長男による家督の継承が原則であり、この原則は武士階級において遵守されていたと考えられている。実際には、人口学的な状況のために、長男による継承は必ず行われたわけではなく、長男早世のため弟が継承する場合があった。さらには、高い死亡率や低い出生率を背景に、婿養子や養子による継承が顕著な場合があった。筆者は、さまざまな藩における藩士の家譜に記載された継承の事例を集めて分析を行ってきたが、ここでは、萩藩における結果を示す。 萩藩藩士に関しては、一七世紀および一八世紀前半における二五三三件を対象として観察した。一七世紀における長男による継承は全継承件数の六三・九パーセント、実子(長男を含む)による継承は七四・三パーセントを占めていたが、一八世紀前半には、それぞれ五〇・八パーセント、五九・一パーセントへと減少した。これに対応し繪、婿養子による継承は、一七世紀の九・五パーセントから一八世紀前半の一六・〇パーセントに増加した。また、養子による継承は一〇・三パーセントから一七・七パーセントに増加した。この変化は、男子数の減少に対応している。他藩の藩士に関して得られた諸事実をも参照すると、武士階級における「家」に関する考え方や実行が、江戸時代の中である種の変遷を遂げたということができる。それは、男系に対する執着、さらには血縁に関するこだわりを緩和する動きであった。 本論文では、この他に、藩士における継承の身分階層差や誰が継承するかについての短期的な変動についても考察した。
著者
クレインス フレデリック
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究
巻号頁・発行日
vol.40, pp.319-356, 2009-11-30

本稿では、幕末の日本に滞在したオランダ軍医ポンペ・ファン・メールデルフォールトの著作『日本滞在見聞記』を取り上げ、その中の日本史に関する記述を注釈を付けて和訳した上で、典拠などと照らし合わせて分析し、ケンペル、ティチング、シーボルトの日本研究の系統を受け継いだポンペの日本史観がいかなる特殊性を有するものかについて論じた。
著者
輪倉 一広
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.31, pp.115-141, 2005-10-31

岩下壮一(一八八九~一九四〇)はカトリック司祭であり、一九三〇年から一九四〇年までの晩年の一〇年間「神山復生病院」の第六代院長として救癩事業に従事した社会事業家であった。また、岩下は昭和戦前期における中心的なカトリック思想家でもあった。
著者
Mostafa Ahamed Mohamed Fathy
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
no.20, pp.339-357, 2000-02

『ハウス・ガード』における「ハウス」というキーワードと『ガラスの靴』における「接収家屋」というキーワードはとても重要なものと思われる。おそらく「ハウス」にしても「接収家屋」にしても、これは戦勝国のアメリカやロシアにおさえられた、そもそも主人公の「僕」と両作品に登場する大和撫子のイメージを仄めかす「メード」の「家」であって、言い換えればその「ハウス」こそが占領下の日本のことであろうし、そしてこれこそが作者安岡章太郎の「被占領者」の意識を、両小説を通して表す一つの重要なキーワードになろう。 「僕」は、その「ハウス」つまり「日本」では、自由に大和撫子たる「チャコちゃん」もしくは「悦子」とも、まともな恋愛関係ができないという皮肉に「屈辱」を覚えてしまうのである。 「僕」はGHQの接収家屋のインスペクターを恐れて、いつも門前にジープの音が聞えると気になってカーテンの陰から覗いてみる習慣が身についた。しかし、「US」ではなく「USSR」というジープに書かれた文字が「僕」の眼につくと、「僕」は安心した。これは、「僕」がある程度ロシア人に対して好意をもっていて時々自分が苦手なアメリカ人やヨーロッパ人と比べたりしたからである。しかし、「僕」がロシア人のモスカリオフに襟元をおさえられて咽をしめあげられてから、「US」も「USSR」も、インスペクターもモスカリオフも、文字や国籍が違っても両方ともに、「占領者」であることに、もはや違いはなくなっていたのである。 『ハウス・ガード』と『ガラスの靴』の二つの作品に認められる「屈辱感」は、安岡章太郎の初期文学活動、特に一九五一年(『ガラスの靴』)から一九六二年(『家族団欒図』)までの一連の作品にみられる同作家のいわゆる「敗戦の後遺症」の一要素として考えられよう。そしてこの要素を含んだ『ハウス・ガード』及び『ガラスの靴』という二作品は、安岡章太郎を戦後派作家として位置づけるのに重要な手掛かりになるのではないかと思われる。
著者
千田 稔
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.18, pp.35-57, 1998-09-30

近年出雲における多数の銅鐸の発見などによって出雲の古代における位置づけが論議されだした。本稿では絵画銅鐸の図像学的な解釈や、銅鐸出土地と『出雲国風土記』及び『播磨国風土記』の地名起源説話などから、銅鐸はオオクニヌシ系の神々を祭祀するための祭器であると想定した。また、『播磨国風土記』にみる、オオクニヌシ系の神々(イワ大神も含む)と新羅の王子の渡来と伝承されるアメノヒボコとの土地争いを倭の大乱を表すものとしてとらえた。通説にいうように、アメノヒボコは西日本の兵主神社にまつられたものとすれば、兵主神社の最も中心的な存在は奈良県桜井市纏向の穴師坐兵神社である。周知のように銅鐸は弥生時代の終末に使用されなくなり、それにとって変わるのが祭器としての鏡であるが、アメノヒボコで象徴される集団は鏡のほかに玉や刀子を日本にもたらしたという。つまり、倭の大乱をおさめ、後の三種の神器の原型をもって、卑弥呼は邪馬台国に君臨することになったと想定できる。したがって、邪馬台国は歴史地理学的に纏向付近に比定でき、これは近年の考古学の年代論から考察される纏向遺跡の状況と矛盾しない。 オオクニヌシからアメノヒボコへの転換は、記紀神話における天孫君臨の司令神がタカミムスヒとアマテラスであるという二重性と、神武天皇と崇神天皇がいずれもハツクニシラススメラミコトとして初代天皇として記紀が叙述する二重性にも理解の手がかりを与える。
著者
劉 春英
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 : 国際日本文化研究センター紀要
巻号頁・発行日
vol.34, pp.273-301, 2007-03-31

中国における二十世紀初めから始まる現代文学と共に発足している外国文学の翻訳は、一九二〇年代から三〇年代と、八〇年代に、二回のピークを迎える。まさに中国の歴史と文化が大きく転換する激動の時期にあたるが、そのようなピークにも、芥川龍之介の紹介は大きく関わっている。一九二一年に、魯迅が芥川龍之介を日本近代の名高い作家として中国に紹介して以来、既に八十年以上が経過した。その間、芥川の作品は中国の読者の間で高い人気を維持している。そのような背景のもと、芥川の人と作品に関する研究論文や著書も数多く残されてきた。本論は、八十年以上の歴史をもつ、中国における芥川の紹介と研究に関する豊かな資料を紹介しようとするものである。そのような本論は、次のような意義をもつと考える。まず第一には、芥川龍之介研究に、中国での受容史という観点を提示することである。そして第二には、芥川龍之介の場合を一つの例として、西洋近代文化の摂取という点で共通する課題をもっていた、中国と日本の近現代文学の間の関わり方について、新たな視角や理解を用意することである。
著者
深井 智朗
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.45, pp.139-154, 2012-03

二〇〇九年三月、一九三三年のナチスの焚書の際に非ドイツ的な思想と判断され、その後発禁処分、断裁処分となったパウル・ティリッヒの『社会主義的決断』の初版の一冊が京都大学文学部長を歴任した神学者有賀鐵太郎の蔵書から発見された。この書物は戦後一九四八年になってリプリント版が出版され、それによって広く知られ、読まれるようになったが、初版は大変貴重なものである。 本論は、(1)この書物に著者ティリッヒ自身や所有者である有賀によって書き込まれたさまざまな情報、また京都大学文書館、ハーヴァード大学アンドーバー神学図書館ティリッヒ文庫、さらには東京の国際文化会館で同時期に発見したティリッヒと有賀との往復書簡、有賀の日記やティリッヒの未出版の諸文書、また『社会主義的決断』の出版元ポツダムのアルフレット・プロッテ出版社についてブランデンブルク州文書館に残されていた諸資料に基づいて、この書物が有賀の手に届いた経緯を解明しようとするものである。また、(2)この書物がティリッヒと有賀とのその後の交流において果たした役割についても解明した。そしてさらに、(3)ドイツで生まれ、ニューヨークで亡命知識人として生きたティリッヒと欧米の神学を日本で最初に本格的に受容した京都の神学者有賀鐵太郎との知的交流を「同時代史」という視点から考察した。